江戸時代、三ノ輪から浅草まで音無川が流れていて、その土手は日本堤と呼ばれていました。現在の浄簡寺の前に三叉路がありますが、そのうちの一番南側の路地が当時の日本堤です。*1

吉原への行き方には、いくつかルートがありましたが、その中の一つが、三ノ輪から日本堤を経由して吉原に至る道で、武士が使用することが多かったルートです。*2

しばらく歩くと公園につきあたり、その向こう側が土手通りです。

現在は道幅の広い平坦な道路となっていて、土手の面影はありませんが、「土手通り」の名前にかつての「吉原土手」の面影を見ることができます。

【参考文献】
*1 吉原健一郎:復元・江戸情報地図 P.65
*2 双葉社:江戸の華吉原遊廓(双葉社,2011)P.73