これまで浅草寺領の西側は、火除け地としてあけておかれ、「浅草田圃」と呼ばれ、農民が浅草寺から借り受けて耕作していましたが、東京府は、「府下公園経営のための財源地としての浅草公園拡張の施作」により、まず、この「浅草田圃」を埋め立てて、そこに新たな大池(のちの瓢箪池)を造り、その周辺に樹木を植えました。明治17年、この新しい造成地へ、奥山一帯にひしめき合っていた見世物小屋や店舗を造成地(浅草六区)へ強制的に移動させました。*1
これまで浅草寺領の西側は、火除け地としてあけておかれ、「浅草田圃」と呼ばれ、農民が浅草寺から借り受けて耕作していましたが、東京府は、「府下公園経営のための財源地としての浅草公園拡張の施作」により、まず、この「浅草田圃」を埋め立てて、そこに新たな大池(のちの瓢箪池)を造り、その周辺に樹木を植えました。明治17年、この新しい造成地へ、奥山一帯にひしめき合っていた見世物小屋や店舗を造成地(浅草六区)へ強制的に移動させました。*1