築地(天婦ら「おかめ」)昭和初期からある料理屋です。

築地2丁目の通り。現在はビル街ですが、かつては築地の花街の中心部だったあたりです。この付近には、待合の「常盤」、料亭の「国の家」「米田中」がありました。*1

ビル街の中の一軒家。

現在も営業中です。

入口の丸窓。

■カテゴリ 花街·花街跡

■参考文献
*1: 火災保険特殊地図 中央区[11] (,)魚市場方面 1947年 築地方面 1949~55年 明石町方面 1950年

現在の中央区築地2丁目に、 待合の「常盤」、料亭の「国の家」「米田中」の記載。 現在の築地駅北西の通りに、 「 …

築地(料亭「新喜楽」)新橋花街

今回は、築地(東京都中央区)の町並みを散歩します。
築地場外市場のある市場橋交差点の角にある「新喜楽」は、芥川賞や直木賞の選考会場としても有名な築地の料亭です。新橋花街の中では、戦災で被害を受けなかったうちの1軒でした。*1

高い塀が続きます。

表札は、「割烹」となっています。

裏口。

■カテゴリ 花街·花街跡

■参考文献
*1上村敏彦: *東京花街・粋な街 (街と暮らし社,2008)

P.51 戦時中には強制疎開で取り壊されたり、廃業した料亭・待合も多く、戦災で被害を受けなかったのはわずか六軒 …

亀戸(赤線跡)可憐な概観を持つ建物

亀戸の旧銘酒屋街。
「赤線跡を歩く」*1 で紹介されている「可憐な概観を持つ建物」が現在も残っています。

当時は、建物の左上部分に「双葉」と書かれていました。*2

タイルの装飾をコンクリートでくりぬいたような窓のデザインは同時のままです。*2

奥行のあるアパートの建物。

■カテゴリ 亀戸 赤線·私娼跡

■参考文献
*1木村聡: *赤線跡を歩く (自由国民社,1998)消えゆく夢の街を訪ねて

P.27 ・可憐な概観を持つ建物。コンクリートをくり抜いたような窓。 ・何気なくのぞいた倉庫の中にタイル張りの …

*2小沢昭一: *珍奇絶倫小沢大写真館 (筑摩書房,2006)

P.224 亀戸 赤線跡「双葉」の写真。 売春防止法で、一番最初に完全転業した街。外は昔を偲べても内は工場。む …

亀戸(三業地跡)亀戸天神の裏の通り

かつて、亀戸天神裏の通りには、三業地が広がっていました。*1

料亭「寿々代」。
以前は、この建物の東隣の交差点の角にありました。*1*2

旧三業組合の建物※1 の隣にある料亭「七福」。

写真左手には、数年前まで、富久家の建物*1*2※2がありましたが、現在は更地になっています。

 

■カテゴリ 亀戸 花街·花街跡
■用語解説 亀戸花街
■参考文献
*1木村聡: *赤線跡を歩く (自由国民社,1998)消えゆく夢の街を訪ねて

P.27 ・可憐な概観を持つ建物。コンクリートをくり抜いたような窓。 ・何気なくのぞいた倉庫の中にタイル張りの …

亀戸三業組合 料亭「富久家」「七福」「寿々代」 天狗湯 の記載

■参考記事

亀戸(城東三業組合事務所跡)江戸時代から発展

今回は、亀戸の町並みを散歩します。
亀戸天神社裏のこの通りは、かつては、料亭が建ち並ぶ亀戸花街の中心部でした。*1

城東三業組合事務所(見番)があった建物。*2

現在は、亀戸三丁目自治会館として使われています。

この通りの北側が旧亀戸の赤線地帯です。

■カテゴリ 亀戸 花街·花街跡
■用語解説 亀戸花街
■参考文献

この地が花街として発展したのは、寛政年間からであって、各所に散在していたのがいつの頃よりか、今日のような繁昌を …

*2上村敏彦: *花街・色街・艶な街 色街編 (街と暮らし社,2008)

P.100 城東三業組合事務所(見番)があった建物。現在は、亀戸三丁目自治会館として使われている。

■この記事を参照している記事

神田明神下(開化楼跡)高楼がそびえたっていました。

かつて男坂の途中には、料亭「開化楼」の高楼がそびえたっていました。*1

現在、男坂の途中には、オフィスビル「KAIKA」が建っています。

料亭「開化(新開化)」があったたり。

料亭「開化」の前には、神田芸組合の事務所が建っていました。*1
写真奥は、神田川本店がる方角です。※1

■カテゴリ 神田明神下 花街·花街跡
■用語解説 神田花街
■参考文献
*1林順信: *東京路上細見2 (平凡社,1987)日本橋・人形町・銀座・築地・佃島

P.275 外神田二―六―三の表札を見ると、大きな看板の下がった家がある。看板には、「神田芸妓・芸妓置屋組合」 …

■参考記事

神田明神下(神田川本店)かつての花街のころの雰囲気が残っています。

神田明神下の南側の一画にある神田川本店。美しい黒板塀のある老舗料亭です。

創業は文化2年。代々受け継がれている辛口のタレは、江戸幕府の賄い方だった初代が万世橋の際で開いたときからのものだそうです。*1

神田川本店の裏手の路地。このあたりは、かつての花街のころの雰囲気が残っています。

現在は、神田川本店の倉庫となっている一画。

■カテゴリ 神田明神下 花街·花街跡
■用語解説 神田花街
■参考文献
*1交通新聞社: *散歩の達人 No.179 (交通新聞社,2011)

P.23-P.24 創業文化2年 明神下神田川本店(うなぎ) 空間もさることながら、神田さんが一番大事なものと …

■この記事を参照している記事

神田明神下(花街跡)講武所芸者

かつて、神田明神下同明町に花柳界があって、この三業地を俗に講武所、ここの芸者を講武所芸者と言いました(講武所とは、幕末に創設された幕府の武術教育所のこと)。*1
花街のことを「講武所」と呼んだのは、
・講武所の運営費捻出のため、現在の秋葉原駅の万世橋通り付近の土地を町屋に編入して地代を取るようになり、安政期(1854-59年)にこの地に芸者が姿を現したため、講武所芸者と称されるようになった。*2
・旗本、御家人などの二男・三男が武芸鍛錬のため講武所へ行くと言って家を出てここで遊んでいたとか、客に講武所の生徒が多かったため、*1
など諸説あります。
また、明治3年)頃に、芝居茶屋が出現し、同時に草分け芸者が生まれ、花街となった。*3 とする説もあります。
男坂の通りの北側の通りにある料理屋。右側の建物もかつての料理屋です。

料理屋「あら喜」
元料理屋の建物。

「章太郎」は、明神したの艶っぽさを残す名店です。*2

■カテゴリ 神田明神下 花街·花街跡
■用語解説 神田花街
■参考文献
*1北村一夫: *江戸東京地名辞典 (講談社,2008)P.288-P.289

神田明神下同明町に花柳界があった。この三業地を俗に講武所、ここの芸者を講武所芸者といった。 明神下の花街が講武 …

*2: *荷風!vol.23 (日本文芸社,2010.1)

P.39 コラム講武所芸者 講武所とは、江戸幕府が武術修練のために設けた講習所で、もともと築地にあったのが現・ …

花街の創設 芝居茶屋が出現するど同時に草分け芸者として生まれ、翌年(明治3年)頃に二十三、四人の芸者が集まる花 …

四谷大木戸(旅荘)旧花街の近く

四谷四丁目の外苑西通り。旧大木戸花街の東側に、旅荘への入口があります。看板には、旧花街※1 にある2つのホテルの位置も示されていますので、経営が同じなのかもしれません。

現在も「旅荘」という呼び名で営業中です。

北側の入口。

閑静な住宅街(写真右手は、大木戸子ども園)の中にあります。写真の奥の鳥居は、田安稲荷神社。

四谷大木戸(花街跡)

今回は、四谷大木戸(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
四谷大木戸にに花街ができたは大正11年で、当時、東京では一番新しい花街でしたが、関東大震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて、四谷大木戸は膨張し、震災後一時は、百五十人を超す芸妓が登録されていました。*1*2
現在も営業を続けているのは、「多満川」のみで、他はマンションや駐車場になっています。*3

大木戸芸妓組合事務所は現在のホテルがある辺りにありました。*3

全国花街めぐり*1 には、料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)が紹介されています。このうち、自慢本店は、現在の「多満川」から北へ行った突き当りにあるマンション「新宿御苑」の場所にありました。*4
1階部分は料亭の名残を感じさせる石塀に囲まれています。

花街の東側の、崖沿いには「和楽」「清月」など待合が7,8軒ズラリと軒を連ねていました。*3

■カテゴリ 四谷大木戸 大木戸花街 花街·花街跡

■参考文献
*1松川二郎: *全国花街めぐり (誠文堂,1929)

P.80 ここに花街のできたのは大正11年、東京では一番新しい花街であるが、、そこへ丁度彼の大震災で下町の花街 …

*2安本直弘: *四谷散歩 (みくに書房,1989)

P.47 大木戸花街 大正11年頃、大国座裏に三業地が開かれた。場所は以前ここにあった理性寺の墓地跡で、地元の …

*3上村敏彦: *東京花街・粋な街 (街と暮らし社,2008)

P.179 昭和2年の「全国芸妓同盟会総員名簿」によると、大木戸芸妓組合事務所は旧永住町36番地。(現ホテルニ …

*4都市整図社: 新宿区[4] 新宿通方面 1 (都市整図社,1951)火災保険特殊地図(戦後分) [2]

四谷四丁目に、料理屋の「自慢本店」「徳万家」「美よし乃」「布袋家」「胡月」「美津橋」「正月」「重勝」「弥生」「 …

■この記事を参照している記事

秋葉原(ビデオ店)車窓から見える張り紙

今回は、秋葉原(東京都千代田区)の町並みを散歩します。JR秋葉原駅の東側の昭和通り沿いは、裏秋葉原とも言えそうなエリアです。ビデオ店の巨大看板や風俗店の派手な看板が密集しています。

レトロな雰囲気のビデオ店の看板。

ビルを見上げると、はるか上方に張り紙。写真左側は総武線の高架です。

総武線の車窓から。張り紙がよく見えます。

■カテゴリ 売店 秋葉原

神田須田町(メイドカフェ)大人の遊園地

2000年代初め、秋葉原に続々と開店したメイド喫茶は、現在も盛況です。秋葉原から神田川を渡った神田須田町にもメイド喫茶の店舗が進出しています。
写真の店は、1階がバーで、地下1階がアニソン(アニメソングのこと)専門のカラオケ店。

同じく神田須田町のメイド喫茶。

コスチュームの展示・販売。

「大人の遊園地」がコンセプトのメイド喫茶。

神田須田町(ビデオ店跡)大人の夢をかなえる

神田須田町の柳原通り※1 を南側に入った路地。このあたり問屋街だったと思われます。右側の建物には、株式会社西田文庫と書かれていました。

左側の建物は、ビデオ&本。

「大人の夢をかなえる!!」成人向けの店舗だったようです。
店名の「ドリーム」の「ド」の濁点部分には、ハートのマーク♡♡がデザインされています。

建物脇の路地。

釧路(テレホンクラブ)鉄北センター

釧路駅前の飲食街「鉄北センター」※1※2 の東側の棟。

テレホンクラブの看板。

テレホンクラブ「モンロー」。マリリン・モンローにちなんだ店名でしょうか。

現在は休業中のようです。店の前には荷物が山積みにされています。

生田原(カフェー跡)お食事の店

大正3年、生田原に鉄道が開通すると、翌4年には200戸におよぶ集散地市街が形成され、加えて第一次世界大戦の勃発は、空前の好景気をもたらし、上生田原市街では北区を「料理屋街」と称し、料理店や飲食店が軒をつらね、芸妓や酌婦48名をかぞえたそうです。*1

昭和29年発行の「生田原市街地図」*2※1 に記載のあった「カフェー日輪」は、地元の方の話によると、写真の「お食事の店」に改築され、現在は休業中とのことです。

お食事の店。

上生田原市街は大正9年の大火災や大戦景気の反動不況により、一時商店街しましたが、昭和初期にかけて、鉱山が操業し、再び活況を取り戻しました。鉱山が商店をうるおわせたことと符合するものに、サービス業、特に料理飲食店の繁昌がありました。

■カテゴリ 生田原 花街·花街跡

■参考文献
*1生田原町: *生田原町史 (生田原町,1981)

P.524 鉄道開通と林業の勃興 大正3年、鉄道が開通すると、物資の需給は増大の一途をたどり、翌4年には200 …

*2生田原町: *生田原町史 (生田原町,1981)

「カフェー日輪」の記載。 (現在の遠軽町生田原418)

■参考記事 ■この記事を参照している記事

網走(北盛亭跡地)花街の象徴だった豪華な2階建て

明治時代に繁栄した網走遊廓は、昭和に入ると繁栄は影を秘め、それに替わってそば屋と料亭が繁昌し、料亭では北盛亭が網走では一番大きく、当時野付牛(北見市)の梅の家と並んで、道東でも屈指と言われていました。*1
北盛亭は、南3東4交差点付近にありました。*2

北盛亭があった場所には、現在、石碑が建てれています。

石碑には、「2階建ての豪華な造りで、花街の象徴だった。」と書かれています。

近くには、網走川が流れています。

■カテゴリ 網走 花街·花街跡

■参考文献
*1山谷一郎: *網走私史 第3集 (山谷一郎,1995)

P.33 昭和編 昭和2年の頃は、町にまだカフェーと呼ぶものが一つもなかった。遊廓も四軒ほど残っていたが、昔日 …

*2北陽社: 網走市街明細図 (北陽社,1929)

現在の網走市南三条西に、 ・網走遊廓の金松楼、越中楼、北越楼、巴楼など ・割烹の北盛亭 の記載。

名寄(花街跡地)桜木町

明治36年には、名寄には、りっぱな料烹街が名劇(現在のグランドホテル藤花、写真左奥)付近に出現していました。創設者は、その後の割烹「むらさき」の初代村崎久治と名劇先々代の沢井仁十郎で、所有していた旭川の遊廓街を売り払い、遊廓街の建設を目的に名寄に乗り込んできました。*1
割烹「むらさき」は、写真の右手前の道を入ったところにありました。*2

ところが、当時、遊廓街から遊廓街まで二十里以上なければならないという法律があり、遊廓街の建設計画はオジャンになり、料烹街になり、桜木町と命名されました。*1

当時4条通りには、川が流れていて、付近には、カマメシの天豊、料亭の平、北見屋、端、むらさき、清野、丸吉、花菱、丸福、などがありました。*3*4

検番(のちの芦口商店の場所)があったあたり。*2*3

■カテゴリ 名寄 名寄花街 花街·花街跡

■参考文献
*1名寄新聞社: *なよろ百話 (名寄新聞社,1967)

P.31 桜木町は、一夜にしてでき上った…といのはオーバーだが、そんな調子ででき上った私設市街であ …

*2名寄市郷土資料室: *名寄歴史地図史料集 (市立名寄図書館,1990)

・西五条の通りの北側に、「名寄劇場」「名寄横丁」の記載 ・その1本南側の通りに、「芦口商店」の記載。 ・現在の …

*3名寄新聞社: *なよろ百話 (名寄新聞社,1967)

P.37 当時4条通りには、川が流れていた。橋を渡ると桜木町。いまの名劇(現在のグランドホテル藤花)前の道路だ …

*4東京交通社: *大日本職業別明細図 第385號 北海道 (東京交通社,1934)

割烹「かねとら」「福の家」「清野」「花菱」の記載。

帯広(木賊原遊廓跡地)

西7条本通り北四丁目付近は、廓への通りでした。*1

紀の川楼があったあたり。*2 のちに国鉄寮となりました。*1
昭和30年頃と思われる住宅地図*3 には、「鉄輪荘」の記載があります。

日の出楼があったあたり(写真右側)。*2

新盛楼、笹島本店、いろは楼、開盛楼と並んでいた(写真左側)通り。*2

■カテゴリ 帯広 木賊原遊廓 遊廓·遊里跡

■参考文献
*1花垣有介: 月刊十勝ジャーナル 報道解説評論1973.7 (十勝ジャーナル社,1973.7)郷土史秘話(第一回)木賊原遊廓盛衰記

P.46 帯広の開拓当初は、天候にも著しい変化のある土地の労働は、開拓者にとって長続きはせず、ある意味、それら …

*2小野善也: 郷土十勝 通巻第13号 廓ばなしあれこれ (帯広市教育委員会,1978)木賊原遊廓について

P.2 木賊原遊廓は、いまの西5条から西7条にかけての北4丁目にあった。 当時の位置関係は次のようになっていた …

*3松浦澤一: 帯広市大観 (帯広広告社,)

P.20 西五条に、「保健所寮」、西六条に「鉄輪荘」の記載。

帯広(駆梅院跡地)木賊原遊廓

木賊原遊廓は、いまの西5条から西7条にかけての北4丁目にありました。*1

北3丁目線に面して東から西に大正楼、一心楼、日の出楼、と並び、その北側小路を挟んで、新盛楼、笹島本店、いろは楼、開盛楼と東から西に並んでいました。*1

西6条北3丁目の遊園地になっているところには駆梅院がありました。*1

その後帯広保健所寮になっていたが、いまはない。*1

■カテゴリ 帯広 木賊原遊廓 遊廓·遊里跡

■参考文献
*1小野善也: 郷土十勝 通巻第13号 廓ばなしあれこれ (帯広市教育委員会,1978)木賊原遊廓について

P.2 木賊原遊廓は、いまの西5条から西7条にかけての北4丁目にあった。 当時の位置関係は次のようになっていた …