鳴門(林崎遊廓跡地)近世から続いた遊廓

林崎遊廓の起源は、近世末の商人船の多く出入る湊が賑わっていた頃にさかのぼります。松富楼、玉川楼、改進楼、菊水楼、村上楼、金時楼、喜楽楼、丸山楼、衆景楼、がありました。*1

現在、遊廓地の面影はありませんが、所々に大型の民家が残っています。

「一心」という屋号だった建物。*2

昭和4年の市街図*3によると、遊廓地は、道路を超えた東側にも広がっていたようです。(写真奥は撫養城)

中村(妓楼跡)当時の屋号が残っています。

旧中村遊廓。現在のピアゴ中村店の西側の一画に当時の妓楼と思われる建物が残っています。*1*2

建物の左側は改築されて洋風の店舗になっています。

「福春」の屋号。

「TSURUNOYA」と書かれています。*1

中村(電柱番号札)遊廓北分

中村遊廓の特徴である四隅の廓の中心に向かう斜めの道。*1
現在は風俗店(旧「三角荘」)があります。

四隅のうちの南東部分にあたるこの場所の電柱番号札には、「遊廓北分1」と書かれています。

「遊廓北分1」の電柱番号札を起点に「遊廓北分2」「遊廓北分3」…..と続き、最後は「遊廓北分8」で終わっています。

ちょうど、四隅の北東部分にあたる場所です。写真の空地の部分は、「ホテル太閤」がありました。

《参考文献》
*1 近藤正一:*日本建築学会計画系論文集 通号488 P.203-P.210(日本建築学会,1996.10)中村遊廓における建築計画の類型

P.205
廓の構造は、島原や吉原などと同様、縦1本、横3本の大通りを持った三筋構造を基本とし、さらにその外周を建物で取り囲み、四隅には廓の中心へ向かう斜めの道を配している点が特徴的である。 …read more

中村(妓楼の建物)現在は風俗店

かつての中村遊廓があった大門町。妓楼と思われる重厚な建物が残っています。*1
現在は風俗店として使われているためか、北側は看板建築のような造作となっています。

現存している遊廓時代の建物のうちの一つです。*1

裏入口はこちらです。

風俗店の看板。

三本木(三本木町遊廓跡地)新地通り

今回は、三本木(青森県十和田市)の町並みを散歩します。
「全国遊廓案内」*1 によると、三本木町遊廓は、三本木町新地(しんち)に、貸座敷が3軒ありました。昭和29年の地形図*2 を見ると、西一番町の理念寺(写真右側)の西側に「新地」の記載があり、昭和9年の警察関連の資料*3 には、三本木町の貸座敷として、金助屋、島田楼、近盛楼の3軒が記載されています。

この付近には、「新地通」と書かれた電柱番号札が広範囲に分布しています。

当時、「新地通り」という通り名が、現在の西十一番町に存在し、そこには島田楼がありました。*4

西十一番町付近。

青森(旭町の旅館跡)旭町遊廓跡地

かつて旭町遊廓があった青森市旭町1丁目。
戦後は、遊廓はカフェーや料理屋となり「赤線」地帯として残存しましたが、昭和33年に売春防止法が施行。遊廓は旅館や居酒屋となりました。今は当時の面影もほとんどありません。*1*2「旭旅館」の屋号が残る建物。

現在は、企業の事務所として使われているようです。

元旅館「豊川」。*3

腰廻りには、鮮やかな青色の石材。

武雄(旅館「白さぎ荘」)現在も残る太鼓橋

かつての満州楼の旅館「白さぎ荘」。旅館内部には当時の面影が残っています。

中庭に架かる太鼓橋。遊廓の特徴的な構造を残しています。終戦の1年ほど前、満州楼は海軍の病舎になったときの「兵隊さんがお礼に毎朝、太鼓橋を拭き掃除してくれて、お陰で漆がはげた」という話が旅館に伝わっています。*1

中庭を有しているのも遊廓の特徴的な構造です。ここからも太鼓橋が見えます(写真右下)。

宿泊した部屋。

武雄温泉(旅館「白さぎ荘」)満州楼跡

今回は、武雄温泉(佐賀県武雄市)の町並みを散歩します。
かつて、武雄温泉場には遊廓がありました。旅館「白さぎ荘」(旅館「花月」※1 の隣)は、かつての満州楼です。*1

地元の方の話によると、改修はしているが建物の基本部分は当時のままだそうです。

レンガ造りの塀。

夜の白さぎ荘。

佐世保(花園遊廓跡地)現在は公共施設と道路

日清・日露戦争により、海軍と佐世保市は大きくなり、明治42年頃になると、新たに名切遊廓(花園遊廓ともいった)ができました。*1

現在は、公共施設と道路になり、当時の面影はありません。

名切川の川の流れは現在も残っています。川と道路が交差するあたりには、松月楼、開明楼、本家高砂楼などがありました。*2*3

遊廓の中心部だったと思われる場所には、市民会館の近代的な建物が建っています。

早岐(月見町遊廓跡)田子ノ浦バス停奥

今回は、早岐(はいき、長崎県佐世保市)の町並みを散歩します。
現在の田子ノ浦バス停奥には、月見町遊廓があって、4軒の貸座敷があり、小さいながらも遊廓を形成し、30人ほどの娼妓(酌婦)が抱えられていました。*1

遊廓の入口。*1

入口には門柱が建っていました。(現在は撤去されています。)*1

遊廓の入口からはいると、田子ノ浦バス停奥からの道に合流します。

《参考文献》
*1 山口日都志:女性哀史 佐世保遊里考(芸文堂,2017)

P.160-P.163
早岐と相浦が佐世保の副都心であり、早岐は商業と鉄道の街として重要な役割を果たし、 …read more

《関連記事》

相浦(遊廓跡地)県道佐世保鹿町線

相浦の北松の炭坑が開発されたため、大正末期から、昭和十年頃までは、石炭積み込みのための船が相浦港から佐々浦、臼ノ浦に至るまで待機しない日はなく、この景気で、昭和のはじめから、12、3年頃まで、相浦には料理屋兼芸妓屋が15、6軒あり、芸妓も102、30人くらいました。*1

2006年頃までは、相浦港に通じる県道佐世保鹿町線沿いにはかつての遊廓や料亭、旅館の建物が残っていました。*2

遊廓があった場所*2*3は、現在は駐車場になっています。

煉瓦が残る脇道。

神岡(旧深山楼)昭和7年の大火の後、建設

神岡の花園町(俗に宮下といわれる)には、遊廓がありました。
当時の「遊郭新設請願書」には、「大島ナル従来ノ田圃ヲ今千五百坪ヲ買求メ掘均(なら)シテ以テ宅地ト為シ新タニ一町区画ヲ設ケ花園町ト名称ヲ附シ単ニ花園廓トナス」とあります。*1

地元の方の話によると、この建物は、旧深山楼で、昭和7年の大火の後に建てられたものだそうです。

1階部分には格子。

2階部分の意匠。

井波(遊廓跡)タイル張りの家屋

明治32年、芸娼妓、貸座敷免許地として、現在の堀道が指定され、山見、井波、藤橋、北川に散在していた料理屋、貸座敷がこの地に集まり、以後、免許地遊廓として栄えました。*1

現在の堀道には、廃業したとおぼしきスナックに転用された建物、タイル張りの家屋が残っています。*2

遊廓の近くには、芝居小屋の八乙女座がありましたが、昭和11年に消失。その跡地に井波劇場(現井波郵便局の位置)が新築されました。*3

スナックの建物の隣の和風の建物

鯖江(弁天遊廓跡)現在は住宅地

「当時の遊廓の町並み」*1 によると、河和田街道(国道417号線)沿いの弁天橋の西側が遊廓への入口で、菓子屋、ヘンクツ屋食堂、クリーニング、うどん、そば、金花楼、以上東側(写真右側)、小間物屋、駄菓子屋、以上西側(写真左側)が並び、その奥に、市橋楼、弁天座、泉谷支店、開進楼がありました。

「弁天」の電柱番号札。

写真手前から、市橋楼、弁天座、泉谷支店、開進楼、と並んでいました。*1
現在は住宅地になっていて当時の面影はありません。

市橋楼の東側(写真右側)には、射的場、髪結、斡旋屋が並んでいました。*1
弁天遊廓を取り仕切っていた市橋楼(初代は福井からやってきた人)には、若い衆や女たちが沢山いました。*2

大野(かつての遊廓街)新明町、日吉神社周辺

大野町では、二度続いた大火の後、それまで悪所とし町の裏通りに散在していた家々を一ヵ所に集めることを決定され、その場所として、上寺町の瑞祥寺、岫慶寺、恵光寺、蓮光寺の裏地と、それに神明神社、日吉神社(山王さん)付近の畑地などが選ばれ、大野の新明町は、貸座敷業(遊廓)の繁栄によって賑わいました。明治39年の県税納税者の上位ランクには、面影楼、開運楼、松清楼、永楽楼などの名前がありました。*1

日吉神社付近(写真左奥)は、料亭と貸座敷が林立していたところですが、今は往時の姿はありません。*2

当時、「さんのうへ、行ってこかや。」という短い言葉は、貸座敷での遊びの誘いの意味になっていました。*1

堀の石垣。

石巻(石巻遊廓跡地)旭町

石巻市旭町は、江戸時代は蛇田町と呼ばれ、石巻の玄関口として大いに繁盛しました。*1
大正14年10月28日の「大日本職業別明細図 石巻町」*2 によると、現在道路となっている(写真の左右)の南側入口あたりには、運河があり、それを渡る橋がかけられていました。

同じ場所を東側(運河があったと思われる場所)から見たところ。(写真の左奥は、久円寺がある方向)

明治の中期になると、蛇田町ならず隣の横町一帯は「花街」として生まれ変わります。蛇田町は酔客で賑わうようになりました。「花街」ともなれば蛇田町では無酔に聞こえるため、旭昇天の繁栄が期待できる「旭町」と改名されました。*1

北側から見た旭町。

原ノ町(遊廓跡地)しらゆりロード

原ノ町では、明治の半ばころから、酌女(のちの酌婦)が現れ、その後、芸妓や娼妓が集まってきては花柳街をつくりあげていました。大正7年の「相馬原町案内」では、料理店4軒、芸妓屋10軒(松亀楼、栄華楼、他)が紹介されています。*1

大正15年の大日本職業別明細図*2 には、松亀楼、栄華楼のおおよその位置が記されています。昭和10年(1935年)の「原町地区商店街地図」と1971年の住宅地図*3 の両方の地図に栄華楼、会津そば屋、小柳屋などが記載されていて、それらの位置関係から、遊廓(松亀楼、栄華楼)は、山家医院があった場所にあったと思われます。現在は、数軒のスナック店や飲食店が建ち並んでいます。(写真の左側が山家医院跡です。)

山家医院は、現在は更地になっています。

この付近の通りは、現在は「しらゆりロード」と呼ばれているようです。

松江(旧松江旅館)現在は料理店

今回は、松江(島根県松江市)の町並みを散歩します。
旧松江旅館は、新地遊廓の面影を残す建物で、国の登録有形文化財に指定されています。※1

前回(2017年)の散歩*1 のときはテナント募集中の状況でしたが、現在は料理屋の「巴庵」が入っています。

中庭と廊下。

風情のあるトイレのドア。

湯田中(清風荘)内部に遊廓時代の名残。

旅館の清風荘。改築されていますが、遊廓時代の風情のある建物です。

地元の方の話によると、中庭に湯小屋がある構造は遊廓時代の名残だそうです。

中庭の奥に見える蔵のような建物は、宴会用の座敷です。蔵を改良して座敷にしたのではなく、最初から蔵のような座敷として作られました。

茶室として使われていた部屋。

湯田中(遊廓跡地)この道路の両側に遊廓が建ち並んでいました。

かつての湯田中遊廓の通り。地元の方の話によると、この道路の両側には遊廓がびっしりと建ち並んでいたとのこと。道路は、はじめ私道でしたが、私道だと除雪してくれないので、皆で話し合った結果、町に寄付して公道にしてもらったそうです。湯田中遊廓は、踊りや三味線などの芸を披露する宴席だったそうです。

通りの中でも最大級の旅館。

かつての妓楼の屋号がそのまま残る白雪楼。

現在は、旅館が建ち並んでいます。