津島(苧之座)苧麻の商人たちの町

現在の津島市天王通り三丁目あたりを苧之座または小之座と呼びました。

このまちは苧(イラクサ科の植物。丈夫な繊維として利用できる)を取り扱う商人たち(座)のまちであったことから名づけられたと考えられます(看板の説明書き)。

「苧」という文字を見ると、「口之津に「苧扱川(おこんご)」という地名があり、そこにあった遊廓は「おこんご遊廓」と呼ばれていた。」ことを思い出します。※1※2
「苧扱川」の地名も苧麻を栽培していたことに由来します。*1

苧麻は、17世紀前半に木綿が庶民の日常衣料としての地位を確立するまでは、庶民にとっての代表的な繊維原料でした。*2

相浦(相浦港)港のスナック

今回は、相浦(あいのうら、長崎県佐世保市)の町並みを散歩します。
相浦は、佐世保駅から松浦鉄道西九州線で約30分。江戸時代からの港町です。

相浦港は、昭和に入ってからは石炭積み出し港として繁栄しました。

港の近くに、飲食店舗が入る共同建物があります。

スナックの看板。

神岡(船津町)神岡の中心地

今回は、神岡(岐阜県飛騨市)の町並みを散歩します。
神岡鉱山近くに立地する船津町は、神岡の中心地として商業が栄え、飲食店・料亭。旅館などが軒を連ねました。*1
南北に(写真の案内板の左右)に3本の通りがあります。

中央の通り。道幅が広いメインストリートです。

西側の通り。昭和5年の市街図*2 に掲載されている「花乃屋」と同じ屋号の「花乃家寿司」が営業中です。

東側の通り。

羽咋(遊廓跡)羽咋大橋の南側。

明治期、羽咋大橋の両側は船着場で、付近には遊廓が軒を並べ賑わいました。*1

松柳医院(羽咋市島出町)のある通りには、古い建物が残っています。

印刷屋だった建物。*2

料理旅館だった2階建ての木造家屋。*2

【参考文献】
*1 羽咋市史編さん委員会:新修羽咋市史(石川県羽咋市,2008)P.258-P.259
*2 日本地政協会:羽咋市・羽咋郡明細区分図(日本地政協会,1974)P.35

木造(馬市で繁栄した松原)かつての飲食店街

木造町松原は、馬市の町として知られ、明治36年、馬市の開設とともに繁栄してきました。陸奥鉄道(現在の五能線の一部)開通前は、弘前から五所川原を経て、馬の尾を手綱でつないで行列を組み、松原入りしました。これに伴い、博労(馬の売買をする人)たちが泊まるマトヤ(馬宿)がたくさんでき、西北畜産農協のそばには、(昭和50年頃まで)マトヤが残っていました。*1


西北畜産農協があったあたり*1 は、現在は更地になっています。


スナックだった建物。

昭和50年頃までは、料飲店や大きな旅館が残っていて、松原というと飲食店街というイメージが残っていました。*1

 

【参考文献】
*1 陸奥新報(1975.2.24)津軽の町内今昔記28

函館(新島襄海外渡航の地碑)売女に変装

元治元年(1864年)、新島襄は、函館から日本を脱出しました。

函館市大町の岸壁に「新島襄海外渡航の地碑」が建てられています。

「新島襄海外渡航の地碑」から約300m離れた場所に、新島襄のブロンズ像があります。

新島襄は、元治元年(1864年)、6月14日夜半に、用意されていた小舟で沖に碇泊していたアメリカ船を潜り込みました。小舟の中での様子をその手記に「あたかも、商船に忍び通う婦人の有様なり」と記していますが、おそらく沖の外国船へ通う売女は結構多かった思われ、黒い着物に手拭をかぶった彼は、売女のごとく変装して監視人の気をはぐらかしました。*1

【参考文献】
*1 須藤隆仙:箱館開港物語(北海道新聞社,2009)P.274-P.276

口之津(歴史民俗資料館)からゆきさんの展示

口之津港近くにある「口之津歴史民俗資料館」。からゆきさんの展示コーナーがあります。からゆきさんは、口之津から始まったとされています。島原ではからゆきさんのことを語ることはタブーとされていますが、口之津だけは例外で、口之津歴史民俗資料館には「からゆきさんコーナー」があり、からゆきさんの遺品などが展示されています。

シンガポールの娼館跡や日本人墓地にあるからゆきさんのお墓など、からゆきさんのことが説明されています。

女衒(ぜげん)、村岡伊平治。村岡伊平治は、明治20年(1887年)、中国の上海へ渡った際、誘拐されて奥地に監禁されていた日本人女性55名を救出しました。これらの女性たちは、士族や商家出身の美人揃いで、年齢は14歳から19歳までした。皆、外国の生活にあこがれ、騙されて連れてこられ、支那人に処女を奪われたのでした。村岡伊平治の行動は、ここまでは良かったのですが、救出した女たちの処置に困り、香港、シンガポール、カルカッタなどの東南アジア各地に女郎として売り飛ばしてしまい、これに味をしめて、村岡伊平治は、女衒家業に乗り出すことになりました。*1
村岡伊平治は、前科者を使って誘拐団を組織し自分はその親分にすわりました。村岡伊平治が扱った女の数は、明治22から27年までの5年間、シンガポールで手がけた数だけでも3,222人にのぼりました。*2

からゆきさんが帰国に際して、着物など身の回りのものを入れてきたブリキ製のトランク。ローマ字と日本語で記名してあります。*3

【参考文献】
*1 河合譲:村岡伊平治自伝(南方社,1960)P.34-P.35
*2 日本残酷物語. 第1部(平凡社,1959)P.364
*3 口之津史談会:口之津の歴史と風土5号(2007)P.129

口之津(口之津港ふ頭)賑わう口之津港

今回は、口之津(くちのつ、長崎県南島原市)の町並みと風俗を散歩します。
島原の南端にある口之津港は、天草の鬼池港とは島鉄フェリーで約30分で結ばれている玄関口です。明治時代、口之津港は、石炭の積み出し港として空前の賑わいを見せていました。

ふ頭の防潮壁に、石炭の積み出しで賑わっていた頃の口之津港の写真が掲載されています。

おこんご(苧扱川)遊廓の記載があります。「税関」があった場所には、現在は口之津資料館が建っています。

おこんご(遊廓)方面の遠望。

小坂(銀山町)小坂鉱山

今回は、小坂(秋田県鹿角郡小坂町)の町並みと風俗を散歩します。
小坂町は、JR奥羽線の大舘駅の東方(バスで約1時間)にあって、小坂鉱山で栄えた町です。
小坂町の商業集落のはじまりは、明治4,5年頃の銀山町(小坂町の北側)で、次いで尾樽部(小坂町の南側)でした。*1

現在の尾樽部の通り。

銀山町には、現在も精錬所が稼働しています。

字名の「銀山町」は、小坂鉱山が銀山として栄えたことを示しています。*2

【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
*2 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.37

能代(出戸町本町)かつての歓楽街

能代の西通町。*1
旧町名で出戸町本町というこの通りの両側には、料亭、食堂、カフェー、劇場などが建ち並ぶ歓楽街でした。*2

「能代港町明細案内図」*2 に記載されている割烹「宮茂登」が唯一、現存しています。

出戸町本町の南側の通り。

道の両側にスナックが建ち並んでいます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*2 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992) 能代港町明細案内図

阿仁(阿仁前田駅)森吉山

秋田内陸線阿仁合駅から北へ3つ目の駅、阿仁前田駅で下車します。

駅前の商店街にある森吉山自然公園のゲート。

森吉山は阿仁マタギが活躍した山で、現在も日本有数の秘境に数えられます。その森吉山の北面にひっそりと隠れている「桃洞の滝」を目指します。

阿仁前田駅から車で約50分で、森吉山野生鳥獣センターへ到着。目指す「桃洞の滝」は、ここから徒歩で約1時間です。

阿仁(郷土文化保存伝承館)からめ節

今回は、阿仁(あに、秋田県北秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
秋田内陸線阿仁合駅近くには、かつて、阿仁鉱山がありました。藩政時代に大規模に開発され、明治維新後は、従業員3000人の多きに達しましたが、その後は鉱量枯渇となり、昭和54年に閉山しました。

銀山下新町の郷土文化保存伝承館があります。

伝承館前に建てられている阿仁鉱山の碑。

伝承館には、鉱山関係資料や当時の風俗が展示されており、当時の民俗芸能の「阿仁からめ節(あにからめぶし) 」の展示もあります。
「阿仁からめ節」の歌詞のなかには江戸吉原の花魁であった高尾小紫(たかおこむらさき)の名がみえて、阿仁鉱山全盛時代ころの若い娘達が手拭いの頬被りと赤い紐のついた前掛け姿で働く様子が再現されています。*2

【参考文献】
*1 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.39-P.42
【参考URL】
*2 国際教養大学地域環境研究センター:秋田民俗芸能アーカイブス「阿仁からめ節

七戸(七戸町市街案内俯瞰図)七戸町観光交流センター

今回は、七戸(青森県上北郡七戸町)の町並みと風俗を散歩します。
JR七戸十和田駅に併設の七戸町観光交流センターには、大正天皇が皇太子時代に同町を訪れた時に使われたとされる「高等官馬車」が展示されています。

他にも、当時の写真や市街の鳥瞰図が展示されています。

七戸町市街案内俯瞰図。大正8年当時の市街の様子が示されています。

町の東側のはずれに、「新地遊廓」の記載があります。

礼文(海鮮処「かふか」)礼文町全町明細図

香深の市街には、名物の「ウニ」や「ホッケのちゃんちゃん焼き」が食べれる飲食店が軒を連ねます。

「海鮮処かふか」に、「礼文町全町明細図(昭和37年)」が掲示されていました。

かつての遊廓があった通りの西側(写真上部)は、この頃は住宅地になっています。

船泊港遊廓があったと思われるあたりは、この頃は、割烹料亭などが散在していたようです。

礼文(礼文町郷土資料館)礼文島明細地図

香深にある「礼文町郷土資料館」。

明細36年に制作された「礼文島明細地図」が展示されています。当時の人口は礼文村5028人、香深村4850人で、計9878人で、両村とも、鰊(にしん)と昆布が主産物でした。(案内板より)

久種湖の近くに、「新遊廓」と記載のある一画があります。遊廓内には、料理屋もあった模様です。

地図の裏面に記載されている実業人名。「新廓内」と記載のある料理屋もあります。

佐渡(佐渡金山跡)現在も遺構が残されています

今回は、佐渡(新潟市佐渡市)の町並みと風俗を散歩します。
佐渡金山の北沢地区は、明治期に入ってからの佐渡鉱山全体の一大拠点でした。

現在も遺構が残されています。

急斜面の物資運搬を行うための斜車道装置

佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」。相川金銀山の開発の発端となった場所です。

利尻(利尻島郷土資料館)鬼脇市街略図に遊廓の記載

鬼脇は、利尻島のフェリーターミナルのある鴛泊(おしどまり)から、バスで約30分の場所にある町です。かつてはニシン漁で繁栄しました。
鬼脇の市街の中心部にある利尻島郷土資料館は、かつて鬼脇村役場だった歴史ある建物を利用した資料館です。

館内に地元の古老が記憶にもとづいて作成した「明治末期 大正初期 鬼脇市街略図」が展示されています。市街の中心部には、料亭が建ち並ぶ通りもあり、かつての繁栄が偲ばれます。

市街図によると、資料館(旧役場)の前の一つ南側の通りを西側へ進んで橋を渡った先に、遊廓があったようです。

遊廓手前の橋の下を流れる川を南へたどったところに、「ヤムナイ橋」の名が記されていますが、現在のヤムナイ橋は、ここから約1kmも離れた場所にある橋なので、この橋は鬼脇橋(鬼脇市街の東端に現存する橋)のことかもしれません。

増毛(千石蔵)昭和5年の市街図

千石蔵は、日本最北の酒蔵として知られる國稀酒造が所有する蔵で、現在は、にしん船やにしんの資料の展示室になっています。

展示室の休憩コーナーに、増毛町市街案内図(昭和5年)*1 のコピーが展示されています。南が上向きで描かれています。

当時の繁華街だった畠中町3~4丁目界隈。交差点の角に遊廓の松嶋楼、その対角に、松島見番。松島見番の向かいに銭湯の増毛湯があります。通りを東側へ進むと、共立見番、金盛楼、石川楼、藤見楼、増毛楼があります。他にも料理屋と思わえる店が建ち並んでいたことがわかります。

もう一つ展示されているが、昭和30年の「増毛町市街明細図」。こちらは、北が上向きで描かれています。銭湯の増毛湯はそのままですが、遊廓は、割烹料理屋などに変わっています。

【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)

川口(鋳物工場跡地)「キューポラのある街」の面影

今回は、川口(埼玉県川口市)の町並みと風俗を散歩します。
近年の川口は、開発が進み、高層マンションが林立する町並みとなっていますが、かつては鋳物工場の街でした。映画「キューポラのある街」では川口でロケが行われ、当時の町並みが映画の中に記録されています。

現在は、鋳物工場があった頃の名残はほとんどありませんが、高層マンション「リビオタワー川口ミドリノ」の敷地には、「こしき」と呼ばれる当時の小型の炉が保存設置されていて、当時を偲ぶことができます。

「鋳物の街」の案内板。

こしき(小型の炉)。