四ツ谷(新宿歴史博物館)文化住宅

JR四ツ谷駅から徒歩10分の場所にある新宿歴史博物館。

館内に入り、まず目を引くのが、「内藤新宿」の模型です。

新宿の赤線街を再現した展示。

文化住宅を再現した展示。大正の末から昭和の初めにかけて流行したサラリーマン住宅で、小規模な和風住宅の玄関脇に、洋風の応接間がついていました(案内板より)。

一身田(三階建て)美しい黒塗りの板壁

かつての遊廓街の通りに、木造三階建ての建物があります。

細い路地を入ると、3階建ての部分が現れます。

美しい黒塗りの板壁。

逆方向から見ると、三階建て部分が天守閣のようにそびえ立っているのが解ります。

荻窪(西郊ロッヂング)モダンなデザインの丸窓

荻窪駅の南東方向にある「西郊ロッヂング(せいこうロッヂング)」。歴史的建造物です。モルタルの外壁の部分に右から書かれた「西郊ロッヂング」の文字が印象的です。

奥の建物は、和風の旅館になっています。

モダンなデザインの丸窓。

国の登録有形文化財に登録されています。

大津(古い民家)遊廓があった柴屋町

貞享5年(1688年)の「日本永代蔵」に「柴屋町より白女よび寄、客の遊興昼夜のかぎりもなく」とあり、大津の柴屋町(現在の長等2、3丁目)は、賑わいのある評判の遊廓でした。町の東西南北には大門があり、廓内に約30軒がありました。

「旅館えびすや」と思われる建物。*2

かつては、妓楼だったのかもしれません。

「料理きくや」と思われる建物。*2

【参考文献】
*1 地名辞典(岐阜県)
*2 善隣出版社:大津市(善隣出版社,1971)P.4

大磯(滄浪閣跡地)千人斬りの伊藤博文

明治時代、大磯には、政財界要人の別邸が多く建てられました。そのうちの一つ、「滄浪閣(そうろうかく)」は、初代総理大臣伊藤博文の別邸でした。
現在、その場所には、滄浪閣があったことを示す石碑が建てられています。
伊藤博文は、極めつけの好色家、というよりは絶倫の助平男で、倒した女は千人と言われ、維新以後は、そのほとんどが芸者でした。伊藤は、プロセスよりも性行為そのものを好み、「たのむ、おれと寝てくれ」、「おれにやらせろ」など、口説きの言葉は素朴そのものでした。*1
伊藤は、しばしば芸者を滄浪閣に、連れて行って泊めました。

滄浪閣は、その後プリンスホテル別館となりました。

滄浪閣裏からの眺望。

滄浪閣跡地の隣は、旧西園寺邸跡地です。

【参考文献】
*1 南原幹雄:にっぽん好色英雄伝(新人物往来社,1983)P.140
*2 祖田浩一:好色家艶聞事典(東京堂出版,1996.9)P.17

岡崎(板屋町の民家)古い建物が残っています。

岡崎の遊廓は、伝馬町と板屋町の2箇所にありました。*1
板屋町には、現在も古い民家の建物が残っています。

通りの両側に木造民家が建ち並んでいます。

2階部分。

通りを曲がったところにももう1軒。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.84

軍艦島(高層アパート)日本で最古の鉄筋アパート

軍艦島には、居住空間の確保の必要性から、高層鉄筋アパートが数多く建設されました。
30号棟は、日本で最古の鉄筋アパートです。この建物が造られたのは大正5年(1916年)で、東京でさえもレンガ造りの建物が主流の時代でした。*1*2

アパートの屋上は唯一のデートの場所で、高い建物の屋上ほど秘密めいていて格好の場所でした。ただ、狭い島なので、「誰かさんと誰かさんが...」という噂は、あっという間に広がるので、隠し事などほとんどできないのも現実でした。*2
島民が最も多かった昭和34年(1959年)に建設された3号棟は、島の岩礁の最上部に建てられました。課長以上の職員や医師など、身分の高い人のためのアパートでした。屋上は全島で一番高い場所に位置していたため、他の建物からの視線に気兼ねすることもなく、若者達の格好なデートスポットとして利用されました。*1

島には坑員と家族が生活するために必要なものは、火葬場とお墓以外は何でも揃っていました。理容院、美容院、パチンコ屋、雀荘、それにビールなども飲める社交場もありました。*2
50号棟は昭和2年に落成開館した「昭和館」という映画館でしたが、建物の大半は平成3年の台風で崩壊してしまいました。*1

北側から見た70号棟(端島小中学校)と65号棟(報国寮)。
端島小中学校(写真左)は、地上7階建てで、1階から4階までが小学校、5階及び7階の一部が中学校、6階に図書室と講堂、7階の一部に化学実験室などの特殊教室があり、給食配膳用のエレベータも設置されていました。*1
報国寮(写真右)は、島内最大戸数を誇った鉱員住宅(屋上に保育園)で、戦中に建設されました。物資が不足していた時代に建設された建物としては国内最大規模の建物で、このことは、炭坑施設が当時国家から手厚い保護を受けていたことを物語っています。*1

【参考文献】
*1 オープロジェクト:軍艦島全景(三才ブックス,2008)P.10,P.30,p.40,P.86
*2 後藤惠之輔,坂本道徳:軍艦島の遺産(長崎新聞社,2005)P.15,P.72-P.73,P.112

和歌山(天王新地近くの長屋)

天王新地の周辺は、静かな住宅街です。

風情のある長屋。共同の井戸があります。

正面に見えるアパートとの対比。アパートの建物が近代建築に見えます。

国道26号線側から見たところ。坂を下ったところに長屋が連なっています。

洲崎(アパート)看板に旧地名が残っています。

洲崎の東側(東陽一丁目)に古いアパートが残っています。

アパートの看板に、旧地名である「洲崎弁天町」の表示が残されています。文字のデザインもレトロです。*1

南開橋近くの民家。

古い住宅地図が残されています。昭和の時代のものと思われますが、現在と比べるとバーやスナック、銭湯などが多かったようです。

【参考文献】
*1 舟橋左斗子、山口スネ夫:散歩の達人(弘済出版社,1996.11)P.27「旧赤線の今を歩く」