現在は住宅街となっている通り。
古いバーの建物があります。
ニューボン。
入口には、ピンクのタイルの装飾があります。
現在は住宅街となっている通り。
古いバーの建物があります。
ニューボン。
入口には、ピンクのタイルの装飾があります。
洲崎遊廓跡地に、当時のままの姿で現存する赤線跡の建物があります。
建物には、屋号が外壁に残っています。
現在は、共産党の事務所として使用されています。
タイルで装飾された大型の丸い円柱。
弁天町商店街の交差点の角にある八百屋。建物は、以前、遊郭であったと言われています。
通りに入って横から見たところ。
青いタイルが綺麗です。
この通りを少し進んだところにある「かにや」という屋号のお店。
洲崎橋の入り口にあたる交差点の角のそば屋の「花村」は、昔からあるそば屋だそうです。ショーウィンドウには当時の洲崎の写真が掲げられています。
ショーウィンドウ
昔の洲崎の写真。(上の写真の拡大)
現在の写真です。
今回は、洲崎(東京都江東区)の町並みと風俗を散歩します。
木場駅からすぐのところに洲崎神社があります。
弁天池
洲崎神社に隣接する児童公園に書かれていた絵。当時の洲崎を伝える絵です。
洲崎神社の隣の区民会館のところにある掲示板。江戸時代は洲崎神社は海岸に面していたそうです。
洲崎という地名はほとんど残っていません。洲崎神社、洲崎郵便局、そしてこの洲崎緑道公園です。洲崎緑道公園は、洲崎に遊廓があったころの堀(洲崎川)を埋め立てて公園としたものです。
大門通りと公園が交差するあたり。
「洲崎パラダイス」のアーチがあった旧洲崎橋は大門通りと洲崎緑道公園が交差するあたりです。
この場所に「洲崎橋跡地」の碑があります。
洲崎緑道公園は堀を埋めたたて出来た公園であるため、細長い形をしています。歩行者用の道と自転車用の道が分かれているのが特徴です。
かつての歓楽街「田んぼ」があった通り(南西側から)。
古い建物が残っています。
駐車場側から。
別の棟。立ち入り禁止のテープが貼られています。
町田の通称「田んぼ」と言われるちょんの間地帯が壊滅状態と聞き、立ち寄ってみました。 ここがちょんの間のある通りです。
ちょんの間のあったプレハブの建物は、入口に黄色のテープとベニア板が張られ、閉鎖されています。
もう1軒あったプレハブの建物。こちらはつい数年前な営業していた記憶がありますが、閉鎖されています。建物の内部には窓ガラスが散乱していました。すでに廃墟と化しています。
この建物は、反対側の通り沿いのコンビニのあたりからも駐車場を隔てて見ることができます。
今回は、町田(東京都町田市)の町並みを散歩します。
町田駅の南西側。境川を渡ったすぐの場所(神奈川県上鶴間本町)には、かつて「田んぼ」と呼ばれた歓楽街がありました。
最近、この付近は浄化され、警察署の出張所もできています。
かつての名残の建物も残っています(写真左奥)。
付近には「貸ルーム」と呼ばれる店舗もあります。
吉原弁財天のすぐ近くに吉原神社があります。
境内には、「吉原今昔図」が掲示されています。
明治時代から現在に至るまでの、妓楼の配置が描かれています。
吉原遊廓の写真や地図、解説もあります。
吉原弁財天の中に愛護地蔵尊と呼ばれる吉原で働いていた女性の水子地蔵があります。
「生まれるべく体内に宿りし水子も母なる生命保護のため人工妊娠中絶によって無明の境に失われていく悲憐なる幼い霊を供養する」と石碑に記されています。
愛護地蔵尊の正面の右側の玉垣には角海老の名前が刻まれています。
周りの玉垣。「新吉原カフェー」と記されています。その横の名前はカフェーの店の名前のようです。
途中、吉原弁財天へ立ち寄りました。ここには数多くの見所があります。
「花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)」は、吉原が、江戸唯一の幕府公認の遊郭であり、昭和33年の売春防止法が施行されるまで続いていたことを名残惜しむ碑です。
花吉原名残碑の隣には、幕府の許可を得て元吉原を開業した庄司甚右衛門の碑があります。
案内板があるので、これを読むと吉原の歴史を知ることができます。
----花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)----
吉原は、江戸における唯一の公許の遊廓で、元和三年(1617年)、葺屋町東隣(ふきやちょうひがしどなり、現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭(よし)の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良いう文字に改めたことによるという。
明暦三年(1657年)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され、同年8月、浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び、移転前の遊廓を「元吉原」という。
新吉原は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「買春防止法」の成立によって廃止された。
(後略)
国際通りを横切るとせんわ通りに入ります。ここからは柳並木が現れます。
交差点を左に曲がると吉原の一角にさしかかってきます。
花園公園のあたり。道がS字型にカーブしています。このあたりは水道尻(すいどじり)と呼ばれているそうです。
水道尻を抜けると吉原のソープ街まで一直線です。
今回は、入谷~吉原の町並みと風俗を散歩します。地下鉄日比谷線の入谷駅を出ると、まず目につくのが大手家具小売のハヤミズ家具センターのビルです。不況の影響受けて経営破綻しましたが、店舗兼本社ビルは、そのままです。
入谷から金美館通りを経由して吉原へ向かいます。吉原へ歩いて行く道としてはもっともオーソドックスな道順です。昔、金美館という名前の映画館があった(写真の東京菓子会館のあたり)ことが、金美館通りの名前の由来だそうです。なんとなく妖しい響きのする名前です。
金美館通りの歩道を歩くと、「これから吉原へ行くんだ」という気分になってきます。
「第一食品」や「入谷市場」という名前のスーパーがあるあたりは下町風情が残っています。
渡鹿野園地から市街地の方へ向かいます。途中、アパート等の建物が点在しています。
市街地を北側に奥に入り、坂道を少し登ってみます。昼間はとても静かです。
島の市街地を見渡すと旅館のある市街地の中心部とその周りの居住地が見渡せます。
島の住民の住居と思われるアパートがあちこちにあります。
港から北東部へ伸びる防波堤を進むと「渡鹿野園地」と呼ばれる公園の入口である急な上り坂があります。
島の北東部は標高が高くなっており、海との境界は切り立った崖になっています。渡鹿野園地はこの崖の上にあり、北東方面の眺望が楽しめます。
ソテツが植えられており、南国の島に来たようなムードが漂います。公園というよりは、展望台と言った方がよいかもしれません。
渡鹿野は的矢湾の中央部に浮かんでいる島ですが、ここからみる眺望は湾の出口方向です。右側は安乗岬方面です。
今回は、渡鹿野島(三重県志摩市)の風俗を散歩します。渡鹿野島は数百年の秘密を守る島と聞きます。風俗雑誌等でもここだけは「W島」とか伏字にして語ることが多いようです。
近鉄線鵜方駅で下車し、安乗行きのバスに乗ります。
「スカイランドいこま」生駒山頂上にある遊園地です。以前は「生駒山上遊園地」という名前だったそうです。山頂には電波用の鉄塔が数多くあります。
旅館が立ち並ぶ石段を登り、宝山寺へ参詣することにします。鳥居までは、ゆるやかな石段が続き、幻想的な気持ちになります。とても静かです。
日頃の運動不足がたたり、石段の登りは足腰にこたえます。なんとか本堂に到着。
森の中に寺院が散在しています。生駒市街が見渡せます。
斜面の深い森に吸い込まれるように多宝塔が見えます。
ケーブルカーの宝山寺駅を下車するとカーブした道が続いています。ここから生駒新地に突入と思うと気持ちが高ぶってきます。
「観光生駒(聖天通り)」のアーケードがあります。観光地らしい雰囲気です。
観光案内図があります。もともと生駒新地は、宝山寺に参詣するために時間をかけて生駒山に登る必要があったことから、付近に旅館が発達したものです。宝山寺は「商売繁盛の聖天さん」として全国に知られる由緒正しいお寺です。
「観光生駒、旅館ご案内」の案内板。14の旅館があります。
生駒ケーブルは、日本最古(大正7年開業)のケーブルカーです。また、長さにおいても日本最長です。鳥居前駅から宝山寺駅までを宝山寺線、 宝山寺駅から生駒山上駅までを山上線と呼びます。
鳥居前1号踏切から宝山寺方面を見上げたところ。ケーブルカーとは想えない壮観な眺めです。複線のケーブルカーなので、迫力があります。
宝山寺線を走る車両は「ブル」と「ミケ」の2種類があります。写真は「ブル」です。生駒山の頂上に遊園地(スカイランドいこま)があるので、このような可愛い車両になっているのだと思います。
宝山寺駅に到着です。ケーブルカーの線路の斜面と生駒市街の展望に、しばらく見とれてしまいました。
今回は、宝山寺の風俗を散歩します。宝山寺(生駒)はマニアックな裏風俗として雑誌などで紹介されています。
近鉄生駒駅で下車すると、目の前に生駒山が望めます。よく見ると山の斜面にケーブルカーの線路が延びており、中腹あたりが目指す宝山寺であることがわかります。