軒下に、明治の牛乳箱があります。
紅殻格子(べんがらごうし)*1 には、明治の藍色の木製牛乳箱がよく似合います。
木製消火器箱と木製牛乳箱。木製箱同士はお似合いです。
明治牛乳の牛乳箱は、縦書きと横書きがあります。上の写真の牛乳箱は、明治牛乳の文字が縦書き、下の写真の牛乳箱は横書きです。
手作り郵便受けと木製牛乳箱。こういうコラボレーションも面白いと思います。
【参考URL】
*1 京都市中京区社会福祉協議会:「ちょっと物知り帳」紅殻格子(べんがらごうし)
軒下に、明治の牛乳箱があります。
紅殻格子(べんがらごうし)*1 には、明治の藍色の木製牛乳箱がよく似合います。
木製消火器箱と木製牛乳箱。木製箱同士はお似合いです。
明治牛乳の牛乳箱は、縦書きと横書きがあります。上の写真の牛乳箱は、明治牛乳の文字が縦書き、下の写真の牛乳箱は横書きです。
手作り郵便受けと木製牛乳箱。こういうコラボレーションも面白いと思います。
【参考URL】
*1 京都市中京区社会福祉協議会:「ちょっと物知り帳」紅殻格子(べんがらごうし)
遊廓中央部を東西に貫くメインの通りは、「胴筋(どうすじ)」と呼ばれていました。胴筋の両側には、置屋、揚屋、茶屋などの遊廓特有の建築の他に、「素人屋」と呼ばれる一般市民生活に必要な物品の業者も入居していました。*1
胴筋を逆方向から見たところ。奥に見えるのは大門です。
洋風の建物もあります。
「きんせ」という名前の観光旅館。島原には、このような旅館が数軒あります。
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣,2002)P.26
今回は、嶋原(京都府)の町並みと風俗を散歩します。
嶋原は、江戸時代に公認されていた花街で、寛永17年(1640年)に、嶋原の前身である六条三筋町から現在の地に移されました。その混乱の状況が九州で起きた島原の乱(寛永14~15年)を思わせたことから、新遊廓は嶋原と呼ばれるようになりました。*1
遊廓の入口には大門があります。
大門は木造で、堅固な屋根をつけています。門の左右の通路(袖門)は、門が閉まった後の急用通路として使われました。*2
時代劇でよく見かけるものと同じものがあります。
大門は、京都市登録有形文化財に指定されています。
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣,2002)P.25
*2 小野武雄:吉原と島原(講談社,2002)P.81
富士吉田は、唯一、富士山を一合目から上れる登山道の登山口です。まずは、遊歩道を歩いて、一合目を目指します。
三合目まで来ました。案内板によると、ここには、江戸時代から茶屋(山小屋)が2軒あり、ここからの見晴らしが良かったので、多くの登山者がここで休憩したそうです。現在は、2軒の廃屋があります。
廃屋に「ルミナコ治明」...ではなく、「明治コナミルク」(右から読みます)と書かれた木製ベンチが放置されていました。
明治コナミルクは、1923年に開発された歴史のある乳製品です。*1
五合目にから見る富士吉田市街。市街を南北に貫く本通り(写真中央)が見えます。
【参考URL】
*1 明治乳業(株):明治コナミルクの歴史
本通りの坂道を南へどんどん登っていくと、国道139号線(横町バイパス)へ出て、やがて富士浅間(せんげん)神社へ着きます。富士浅間神社の杉の巨木が神秘的です。
歩道に、償却炉があります。個人のお宅のものと思われます。左側のコンクリートブロック製の償却炉の脇にタイルでできたもう一つの償却炉?が置かれています。
全面タイル貼りで、懐かしい感じがします。
側面には、穴が二つあいています。おそらく、かつて浴槽として使われていたものを捨てずに何かの目的で使っているのだと思います。
下吉田の西裏通りで、武田牛乳の牛乳箱を見つけました。白色の牛乳箱に赤色の象のマークが印刷されています。
武田牛乳は、戦国大名の武田信虎(武田信玄の親)の末裔が、明治5年(1872年)にしょうゆ醸造業(テンヨ武田)を創業したのが、始まりで、 その後、テンヨ武田の姉妹会社の武田食品株式会社が昭和23年より市乳部門を設置し、象のマークの武田牛乳として販売しています。*1
牛乳箱の側面には、「ミネビタ牛乳」、「ホモゲ牛乳」と書かれています。「ミネビタ」は、ミネラル+ビタミンだと思われます。「ホモゲ」は、ホモジナイズのことだと思います。
牛乳箱の朽ち具合が絶妙です。
富士吉田は、町全体が斜面です。町を南北に縦断する本通りの坂道を登り、金鳥居を過ぎて、上吉田に入ります。
武田牛乳の販売店がありました。下吉田で見かけた牛乳箱の側面に書いてあった販売店です。建物に象のマークがあります。
牛乳の小売も行っています。もちろん、象のマークの武田牛乳も販売されています。「牛のマークの牛乳石鹸」というのがありますが、象のマークの牛乳は、象乳とでも呼んだらよいのでしょうか。
【参考URL】
テンヨ武田:「テンヨ武田の商標」
富士吉田には、制服専門店、ユニフォームショップ等の店舗が多数あります。
下吉田にある制服専門店。店の側面に、「制服専門」と大きく書かれた看板があります。制服を着たマネキンがずらりと並んでいますが、なぜか男子のマネキンはひとつもありません。
同じく下吉田にある別の制服専門店。高校名も書かれているので非常に判りやすい展示です。吉田高校の女子制服は、奇抜なデザインです。
富士吉田駅前の通りにあるユニフォームショップ。高校の制服だけでなく、業務用の制服も品揃えされています。看板の「女子事務服」だけが赤字で示されています。
女子事務服の品揃えが充実しています。
神田堀川の東隣にある西裏通りは、懐かしくもモダンな建物が残されています。貴重な財産ともいえるこの町並みを、富士吉田の人たちは、新たな顔として蘇らせることを計画しているそうです。 *1
西裏通りから路地を一本入ったところにある元旅館。レトロな文字で、「日昇旅館」と書かれており、まるで、赤線跡の建物のようにモダンな建築です。現在1階部分は飲食店となっています。
その隣にある「アポロ」という名前の飲食店の建物。こちらも人目をひくデザインです。
「新世界通り」と書かれたゲートを入ったところにあるスナック街。狭い曲がりくねった路地が続きます。
*1 富士吉田市観光協会:富士吉田市街案内ガイド「富士吉田今昔の旅」
今回は、富士吉田(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。
JR中央線大月駅で、富士急行に乗り換え、富士吉田駅の一つ手前の月江寺(げっこうじ)駅で下車します。駅前の商店街の緩やかな坂道を下っていくと、左手にスナックが立ち並ぶ通りがあります。通りの名前は、リバーサイド通りと言います。
リバーサイド通りの裏手には、神田堀川の水路が流れています。建物と木々の緑が美しい風景です。
富士吉田は、昭和30年代、織物産業が盛んで、県内外から業者たちが集まりました。月江寺駅周辺の下吉田には、歓楽街の面影が、色濃く残っています。*1
神田堀川の東側に「ミリオン通り」と書かれたゲートがあります。
「ミリオン通り」には、レトロな雰囲気のスナックが残っています。
*1 富士吉田市観光協会:富士吉田市街案内ガイド「富士吉田今昔の旅」
大正12年の関東大震災では、弁天池(花園池)に多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起りました。*1
弁天祠の築山に立つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため、大正15年に創立されたものです。*1
観音様。
関東大震災80周年の碑。
【参考文献】
*1 風俗散歩(吉原):弁天池の案内板(2006.7)
吉原弁財天には、弁天池(花園池)が残されています。池にネットが被せられています。
池にネットが被せられているネットは、おそらく、池に泳いでいる金魚が盗まれるのを防止するためのもののようです。
金魚だけでなく、小さな緋鯉も泳いでいます。
日本橋の吉原遊廓(元吉原)が当時湿地だったこの地に移転(新吉原)しましたが、その際、湿地の一部を埋め立てた際、池の一部が残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめました。現在は浅草七福神の一社として毎年正月に多くの参拝者が訪れています。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなりました。(案内板より)
吉原弁財天へ立ち寄りました。入口には大門のレプリカが立っています。
右の石柱に「春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)」、これは仲之町通りに一夜で植えられた数千本の見事な桜樹を描写しています。*1
左の石柱には「秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)」とあり、享保11年(1726年)の春に急逝した、角町中万字屋(なかまんじや)の玉菊という花魁の追善供養のための盆灯篭が連なるさまを詠んでいます。*1 この燈篭は、俗に「玉菊燈篭」と呼ばれ、吉原の年中行事とされ、仲之町の桜、俄(にわか)とともに、吉原三大景容のひとつと数えられました。*2
石柱に彫られている詩は、これら「吉原三大景物」の一つづつを詠み込んだ福地桜痴の詩の復刻です。*1
*1 岡崎柾男:江戸東京伝説散歩(青蛙房,2005)P.143
*2 西山松之助:遊女(東京堂出版,1994)P.187
入谷を散歩した後は、吉原方面へ向かいます。国際通りを越え、鷲神社の裏手の通りに入りました。
T字路に、「散歩の達人」の特集「街に赤線があった頃」*1 に掲載された扇型の窓を持つお宅があります。雑誌掲載当時は、1階が「三好」という中華食堂でしたが、今は普通の住宅です。
「面白い造りの店だと言われて、映画の撮影に使われたこともあった。」そうです。*1
特徴のある扇型の窓は今でもの健在です。
【参考文献】
*1 大竹誠:散歩の達人(1996.11)P.21
カラオケパセラのある交差点近くに取り壊し直前の古い建物があります。1階にカラオケパブ、2階に旅行会社の事務所が入っています。
「トリスバー 夜の貴婦人」と書かれた看板が残っています。トリスバーは、昭和30年(1955年)前後に生まれた庶民的なバーで、トリスウイスキーをソーダで割ったハイボールが主力製品でした。トリスのハイボールは大阪では「トリハイ」、東京では「Tハイ」という愛称で呼ばれました。*1
残念ながら、この建物は、今月中に取り壊され、跡地には9階建てのビルが来年9月に完成するそうです。(「建築計画のお知らせ」の看板より)
もう1軒、取り壊し予定の建物がありました。昭和30年代に建築されたスナックです。立入禁止を示す黄色のテープが貼られています。
張り紙に書かれている内容によると、この建物は、昭和30年代に建築されたものだそうですが、老朽化が進んでいるため、取り壊しが検討されているそうです。
【参考URL】
*1 サントリー(株):お酒・飲料大事典「トリスバー」
池袋駅北口の文化通り。
大人のおもちゃの店。
池袋二丁目の田中ビル付近にあるランジェリー・コスチューム店
看板と木製ゴミ箱。
今回は、池袋の町並みと風俗を散歩します。
池袋北口を出て徒歩5分ほどのときわ通り周辺の繁華街には、無料案内所が密集しています。派手な看板が目立ちます。こちらの店舗は、「夜の王様」というのがお店の屋号のようです。
どの店舗も「無料案内所」という呼び方は一致しているようです。店舗の名前「男の楽園」は小さく表示されています。
VIP。
「アパマン」との併設店。
中村には、銭湯が沢山有ります。そのうちの一つの寿湯。
横に回ってみると、立派な煙突を見ることができます。
入口は、アーチ型のモダンなデザインになっています。
津村順天堂の「中将湯温泉」の広告看板。
旧中村遊廓の中心部。大門近くにスパーのユニーがありますが、ユニーの向かい側(写真右側)にはソープランドが並んでいます。
ユニーの屋上の駐車場から見た南側の風景。写真左手前から、ソープランドの「インペリアル福岡」、ビジネス旅館の「牛わか」、洋風の建物、ソープランドの「ファースト」、「ニュー令女」と並んでいます。改装前は、瓦屋根の日本建築だったことがわかります。
ユニーの裏手(北側)にある「およし」の屋号を持つ建物。瓦屋根の建物は、中央部に中庭がある構造になっています。
北側の風景。写真右手前に旧屋号「およし」の建物。遠くに、デイサービスセンター松岡、料亭の稲本等、旧遊郭の建物が見渡せます。
大門の近く(スーパーのユニーの裏手)にある以前遊郭だったと思われる建物。現在は、民家になっているようです。
建物の右側の側面はトタン板のようなもので補強されています。
玄関のところに、「およし」という屋号が確認できます。
建物の下部の緑色のタイルの装飾が鮮やかです。ラーメンのどんぶりの渦巻き模様に似たデザインがあります。
今回は中村(愛知県名古屋市)の町並みと風俗を散歩します。
中村日赤駅から徒歩10ほどのところにある大門通り。この一角には、かつて中村遊廓がありました。中村遊郭は、それまで大須観音近くにあった旭廓が一斉移転して造られた花街で、大正12年(1923年)に一挙にできあがりました。*1
金属でできた「OMON」と書かれた新しいタイプのゲートもあります。近くには、昔、遊郭であったと思われる古い建物(「長寿庵」)があります。
町の中心部にスーパーマーケットのユニーがあり、全体的には普通の町と変わりません。しかし、よく見ると、ユニーの前にソープランドがあったりと一味違った雰囲気を感じさせます。
歩道にあった装飾。大門の絵が描かれています。
【参考文献】
*1 若山滋:遊蕩の空間(INAX出版,1993)P.13