八日市(石仏)駐車場の片隅に石仏があります。

旧遊廓の北側の駐車場の角に石仏があります。昔の町らしい風景です。

八日市新地遊廓の中には、無縁仏供養の石仏群がありました。今は移転されていますが、大正末期頃までは、遊廓の中にあり、石仏群の裏には、生蓮寺という寺と寺墓がありました。*1
(写真の石仏が旧遊廓内にあったものかどうかは不明です。)

小さな石仏群。

裏側から見たところ。多数の植木が置かれています。

八日市(八日市新地遊廓跡)紅柄格子が美しい町並みです。

旧清里楼。この家の道を挟んだ向かい(写真左側)に、無縁仏石仏と寺墓がありました。現在は、移転しているそうです。*1

旧三玉楼。*1 紅柄格子が美しいお宅です。

旧東楼。*1 こちらのお宅の紅柄格子も立派です。軒下になぜかコンクリートブロックが置かれています。

旧浅常楼。*1 庭木との対比が美しいお宅です。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌13(三一書房,1992)P.383-P.427

八日市(八日市新地遊廓跡)名残の黒塀があります。

八日市には、かつて遊廓がありました。明治30年の記録では、貸座敷業25軒、料理業47軒、飲食店203軒がありました。遊廓への入口には、大門があり、この門をくぐり抜けると招福楼の黒塀(写真右側)がありました。黒塀の中に入ると玉砂利が敷かれてあって、招福楼の正面玄関には、舞子と芸者が招き入れてくれたそうです。*1
現在は黒塀はなく、代わりにコンクリートの塀があります。

招福楼の裏口のあたり。コンクリートの塀で囲まれた敷地は広大です。当時の招福楼がかなり大規模であったことが解ります。

旧大正楼。*1

旧角正楼。*1

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌13(三一書房,1992)P.383-P.427

八日市(白ポスト)マルチメディア対応です。

今回は、八日市(滋賀県)の町並みと風俗を散歩します。
八日市の駅舎は、関西の名駅100選に選ばれました。

駅前に、金属製の洒落たデザインの箱があります。

久しぶりに見る白ポストです。関東で見かけた白ポストとは異なり、近代的なデザインです。水色のラインがアクセントになっています。脚の部分に、プレートが貼られていて、「『青少年に良い環境を』滋賀県青少年育成県民会議」と書かれています。

アダルトビデオが氾濫する今日、白ポストは無意味なものかと思っていましたが、八日市の白ポストは、マルチメディア対応済みです。「子どもに有害な図書やHビデオを入れてください。」と書かれています。「アダルトビデオ」ではなく、「Hビデオ」と解りやすく表現されています。

今里(牛乳箱)あなたにふさわしい牛乳

今里新地で見かけた明治牛乳の牛乳箱。明治の牛乳箱は、先日島原で見かけた藍色のタイプと、ここで見かけた明るい青色の2つのタイプがあるようです。
箱の側面に販売店名が書かれています。

「白バラ牛乳」の牛乳箱。珍しい名前です。箱の中央にバラの絵が配置されています。

今里新地内にある牛乳店。明治牛乳の牛乳箱の側面に書かれていた販売店と同じ名前です。牛乳箱は、この販売店が販売し、取り付けたものでした。

販売店に、「白バラ牛乳」の看板が掲げられています。「白バラ牛乳」はこちらの販売店で販売されているようです。
「白バラ牛乳」は、鳥取県大山乳業農業組合が生産する牛乳で、鳥取県民には、広く浸透しています。白ばらの花言葉は、「わたしはあなたにふさわしい」で、白い牛乳のイメージにぴったりであることから、この名前になったそうです。*1

*1 鳥取県大山乳業農業組合:農林経済(2000.3.30)P.8

今里(日切地蔵尊)人生の春

今里には、地蔵堂がいくつかあります。もともと関西には多く見られるものですが、今里の地蔵堂は、緑に囲まれて町並みに溶け込んでいます。今里新地の東側にあるこちらの地蔵堂は、「日切地蔵尊」と書かれています。

今里新地の西側にある地蔵堂は、町内のコミュニケーションの場になっているらしく、掲示板があります。

正面から見たところ。お堂の中には、賽銭箱があります。

お堂の中の右側の壁に、「人生の春」についての言葉が掲げられています。宮澤賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ...」にも負けない言葉です。

今里(稲荷神社)「小便スルナ」の看板

新今里公園の片隅に、今里稲荷があります。今里稲荷は、新地開設直後の昭和5年、今里土地株式会社が、土地繁栄を祈願するために、伏見より勧請して稲荷さんを祀ったのが起こりです。以後、新地の守護神として崇められています。*1

鳥居には、「今里新地内」と書かれています。

玉垣に、「今里土地株式会社」の名があります。
指定地発表の当時、この辺りは湿地帯で、一帯の土地は、大阪電気軌道株式会社(現在の近鉄)が所有していました。
大阪電気軌道株式会社は、所有地の土地を現物出資して、今里土地株式会社という子会社を設立して、新地建設に乗り出しました。*1

鳥居のすぐ近くの柵に、「小便スルナ」の看板があります。日本人であれば、神社で立小便をする人間はいないだろうとのことから、一般に鳥居のマークが立小便禁止の意味に使われることが多いようですが、どうやら今里稲荷で立小便をする人間がいるようです。

【参考文献】
*1 南博(編):近代庶民生活誌第13巻「今里新地十年史」P.195 P.197

今里(新今里公園)区画整理事業の一環として作られました。

今里新地に隣接し、新今里公園があります。新今里公園は、新地開発の一環として、景観の確保と万一の際の住民の避難所を目的に作られ、近代都市として理想的な新市街を現出しました。*1

公園内には、昭和14年、区画整理完了を顕彰した碑(高さ:5間)が建てられましたが、今は「大阪市片江中川土地区画整理組合竣工記念碑」という刻文と記念碑の写真を掲げた石碑があるのみです。*1

区画整理完了を顕彰した碑は、公園の広場中央のこのあたりにありました。

新地は、区画整理事業として建設されたため、東西南北碁盤の目のように整然と区画され、その中央部分に新今里公園が配置されています。*1

【参考文献】
*1 南博(編):近代庶民生活誌第13巻「今里新地十年史」P.196 P.199

今里(スナック店)韓国パワーを感じます。

今里新地の南北に走るメインの通りには、飲食店が並んでいます。

東西の路地に入ると、古い旅館の佇まいが見られますが、その中にスナックなどの飲食店が混在しています。新地でありながら、ごく普通の町並みに見え、落ち着いて歩けるのは、このためだと思います。
今里新地内には、韓国焼肉店、韓国食料品店など、ハングル文字で書かれた看板を多く見かけ、韓国パワーを感じます。

近代的なビルに入居しているスナックもあります。

「新地ダンスホール」の看板。建物も看板も新しいので、最近の店だと思いますが、「ダンスホール」という呼び名が、昭和の時代を連想させます。

今里(共同組合)新地のお店を管理する組合です。

新地の中心部に「今里花街協同組合」の看板を掲げた事務所があります。この組合の前身(と思われる)「今里新地芸妓組合」は、昭和5年3月26日に設立されました。

「今里花街協同組合」が、お店を管理しているためか、お店の提灯などは、すべて統一されています。

「今里花街協同組合」と書かれた提灯があります。

関西弁で書かれています。

今里(今里新地)落ち着いた旅館の佇まい

今回は、今里(大阪府)の町並みと風俗を散歩します。
近鉄今里駅を下車し、商店街を5分程歩き、右へ曲がったところに今里新地があります。入り口には、「今里新地」とかかれたゲートがあります。夜になると赤いネオンで光ります。

現在でも、数十件の店が現役の風俗店として営業しています。人通りは少なく、落ち着いた料亭の佇まいが続きます。

料亭は、普通の家を改造したのではなく、最初からお茶屋向きに建築されたものばかりです。*1

大阪の他の新地(飛田松島信太山など)と比べると、町そのものが緑化されているので、明るく、ごく普通の町並みといった感じがします。

【参考文献】
*1 南博(編):近代庶民生活誌第13巻「今里新地十年史」P.194

大和郡山(金魚池)心温まる田園風景です。

町の南側には、金魚を養殖する池が広がっています。心温まる田園風景です。
大和郡山の金魚養殖は、奈良盆地の気候条件が養殖に適していることと、溜め池が多いことから、発展しました。
その起源は、宝永年間に佐藤三左衛門という商人が、飼育に精通し、その業を伝えたのが始まりとされ、明治維新後に本格的に名声を勝ち得るようになりました。*1*2

金魚池(正しくは金魚田と呼ぶそうです。)のそばを走る近鉄電車。
郡山市内には、金魚田は、全部で100ha、養殖農家は、約80戸あり、年間8,000万匹の金魚を出荷しているそうです。*3

出荷を待つ金魚(金魚資料館にて)。

金魚池に立つ「ちかん注意看板」。理由は解りませんが、金魚池には、ちかんが出没する模様です。

【参考文献】
*1 柳沢文庫専門委員会:大和郡山市史(大和郡山市,1966)P.831,P.833
*2 三木 理史:総合研究所所報(2006)「大和郡山金魚史料について」P.111
*3 Front(2003.7)「金魚のまち大和郡山を行く」P.7

大和郡山(東岡町)三層楼が密集しています

近鉄郡山駅を線路沿いに南へ5分ほど歩くと、東岡町です。ここにも遊廓がありました。三階建ての木造建築など、20軒ほどが密集しています。

かなり大型の三層楼。どっしりとした感じです。

メインの通り。人通りは、ほとんどありません。

こちらの三層楼は、正面部分のみが洋風にアレンジされています。

大和郡山(洞泉寺町周辺)木造3階建ては迫力があります。

明治25年制定の「貸座敷娼妓営業取締規則」では、大和郡山市の洞泉寺町、東岡の2箇所に貸座敷娼妓営業の区域がありました。*1
洞泉寺の周辺には、木造の建物が残っています。

大信寺というお寺の隣にある木造の建物。木造3階建ての建物は迫力があります。

同じ建物を正面から見たところ。

ハート型の窓。

【参考文献】
*1 奈良県警察史編集委員会編:奈良県警察史. 明治・大正編(奈良県警察本部,1977) P.428

大和郡山(駅周辺)歴史と金魚の町です。

今回は、大和郡山(奈良県)の町並みと風俗を散歩します。
大和郡山への交通は、JR郡山駅か近鉄郡山駅のいずれかで下車します。

JR郡山駅に、「女王卑弥呼コンテスト」のポスターがありました。 「女王卑弥呼コンテスト」は、「邪馬台国は大和郡山市に存在した」との学説*1 にもとづくもので、応募資格は、奈良県内に在住・在勤・在学の18歳以上の女性で、未婚・既婚は問わないそうです。*2 ミスコンではないため、主婦でもOKということです。

JR郡山駅から、近鉄郡山駅へ向かう商店街の途中、軒下に金魚がぶら下がっているお宅があります。大和郡山は、金魚の産地として有名です。

近鉄郡山駅近くの踏み切り。ポイ捨て看板にも金魚の絵がかかれています。まさに、金魚の町です。

【参考文献】
*1 鳥越憲三郎:大いなる邪馬台国(講談社,1975)
【参考UPL】
*2 卑弥呼プロジェクトホームページ

古市(牛乳箱)物を大切にする気持ちが伝わってきます。

古市には、牛乳箱も残されています。
森永牛乳の牛乳箱は、普通は縦長ですが、今回見かけたのは横長です。「森永牛乳の4文字があるだけで、「エンゼルマーク」や「ウルトラプロセス」などのロゴはありません。

牛乳箱、ヤクルト、郵便ポストの3点セット。

地元の牛乳メーカーでしょうか。山村牛乳の牛乳箱。コンセプトは、「濃厚牛乳」のようです。

こちらの牛乳箱は、道具箱として2次利用されています。物を大切にする住人の気持ちが伝わってきます。

古市(備前屋跡)古市三大妓楼のうちの一つでした。

長峯の山を登りきったあたりが、古市遊廓の中心部でした。

備前屋、杉本屋、油屋の三楼は古市三大妓楼と呼ばれていました。備前屋があった場所は、現在は駐車場になっています。

備前屋跡の碑。

備前屋は、牛車楼とも呼ばれました。これは、享保年間に名古屋に出店を持ったとき、さる高貴の者が牛車で来遊したことがあったためといわれています。*1

【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.156

古市(両口屋)坂を上りきったところにあります。

坂をを登っていくと、まるで城郭のような立派な石垣が見えてきます。この石垣は、坂道の斜面に立つ古い大きな家の土台を支えるものです。

この古い大きな家は、元旅館の「両口屋」です。明治30年頃の古市には、遊廓30軒(遊女250人)、料理屋6軒、うなぎ屋4軒、菓子屋5軒、旅館14軒がありましたが、「両口屋」は、そのうちの旅館の1軒でした。*1 かつて、この坂道の両側に広がっていた遊里の賑わいぶりを想像させる建物です。

坂を登り切ったところは、三叉路になっていて、この建物が三叉路の分岐点の目印のような存在になっています。この古い建物の玄関に乗用車が突入しているように見えますが、これは単に駐車しているだけです。玄関前の木が生長しすぎていて、建物の全容が窺いにくくなっているのがちょっと残念です。

建物は、かなり老朽化が進んでいます。

【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971) P.159

古市(小田の橋)古市参宮街道の入口

今回は、古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。
古市には、かつて古市遊廓があり、お伊勢参りの人々で賑わっていました。近鉄線宇治山田駅から勢田川に向かって10分ほど歩いたところに、「古市参宮街道」の案内板があります。これによると、古市遊廓は日本三大遊廓の一つと紹介されています。

小田橋は、伊勢神宮の外宮と内宮を結ぶ参宮街道の入り口にあたり、江戸時代から勢田川にかかっていました。(「小田橋」の案内板より)

橋の欄干。

小田の橋の案内板。
伊勢といえば、誰もが古市遊廓を連想するほど、この色里は天下にその名が高く、年間数十万人と言われる旅客の落とす巨額の金銭のほとんどが、古市遊廓に吸収されたといわれています。*1

----「古市参宮街道」の案内板(抜粋)----
「伊勢に行きたい伊勢路がみたい、せめて一生に一度でも」と道中伊勢音頭にうたわれたように、江戸時代、伊勢参りは庶民の夢でした。全国津々浦々から胸躍らせて伊勢参りに向かう人々、特に、慶安3年(1650年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年(1830年)、慶長3年(1867年)の「おかげ参り」には、全盛期を迎え、多いときには、半年間に約458万人に参詣者があったと記録に残されています。
外宮から内宮へ向かう古市街道は、伊勢参りと共に栄えました。その中でも古市は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊廓で、全盛期には、妓楼70軒、遊女1000人を数えました。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.142

渡鹿野島(犬のフン看板)ユニークな看板が目白押しです。

渡鹿野島では、犬のフン看板などの看板を数多く見かけます。看板には、渡鹿野観光協会と書かれています。観光地であるため、放し飼いやフンの放置に特に注意を払っているのだと思います。

看板の種類は豊富で、ユニークなものが目白押しです。こちらの看板は、犬のフンの持ちかえりの効用を数学的に説明しています。
よく見かける「犬のフンは持ち帰りましょう」ではなく、「つれてかえって『うんちくん』」と親しみやく表現されています。
この看板は、町の標準仕様になっている模様で、町中に数多く貼られています。

森の中にも犬のフン看板。こちらは手作り看板です。

漁業用の浮き球を二次利用した犬のフン看板。他にも「犬のポイ捨て」等たくさんのバリエーションがあります。こちらは、個人の手による作品であると思われます。