鹿児島市内の名山町に木造家屋の飲み屋街がひしめく路地があります。昭和のなつかしさを感じることができる場所です。*1
後方のビルは、市役所新館です。
なつかしさが残る長屋の佇まいです。
飲食店も営業中です。
【参考文献】
*1 深見聡:鹿児島の史と景を歩く(南方新社,2004)P.38-P.40
鹿児島市内の名山町に木造家屋の飲み屋街がひしめく路地があります。昭和のなつかしさを感じることができる場所です。*1
後方のビルは、市役所新館です。
なつかしさが残る長屋の佇まいです。
飲食店も営業中です。
【参考文献】
*1 深見聡:鹿児島の史と景を歩く(南方新社,2004)P.38-P.40
甲突町のメインの通りには、旅館やスナックだったと思われる建物が数軒残っています。
タイルの装飾があるお宅。現在はタクシー会社の建物になっています。
甲突町のメインの通りから、脇道に入るとラブホテルや元旅館だった建物が建ち並びます。この通りを右に曲がるとソープランド街です。
戦後間もない時代に建てられたと思われる民家が残っています。木村聡さんの「消えた赤線放浪記」*1 にも掲載されている建物です。
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.341
今回は、鹿児島(鹿児島県鹿児島市)の町並みと風俗を散歩します。
明治32年、鹿児島市の塩屋村字沖田(現在の甲突町)に沖之村遊廓が設置されました。*1
沖之村遊廓は、甲突川を南の境とし、清滝川を北の境とする場所にありました。その清滝川に、思案橋と呼ばれる橋がかかっています。
思案橋は、ここらでいっぱいやった遊客が、この橋を渡って遊廓へ行こうか、それともこのままおとなしく帰ろうか思い案じる橋で、「思案橋」と名づけられた橋は、江戸の吉原をはじめ、各地の遊里の入口に見られました。*1
思案橋を渡ると、交差点に出ます。交差点の角には、昭和の初期からこの場所にある*2 城南派出所があります。
派出所の脇に「沖之村跡」の碑があります。この碑によると「沖之村」は「おっのむら」と発音するようです。
明治40年の遊廓付近の図*2 によると、この道の両側に妓楼があったはずですが、現在その面影はありません。
【参考文献】
*1 芳即正:かごしま女性解放史(高城書房,2004)P.73,77-P.78,P.84
*2 鹿児島市案内図(白楊舎,1932)折込地図6
旧水茶屋の通りにある質屋の脇の路地。この先に緑色の箱が見えます。
みどり牛乳の牛乳箱。箱の色はもちろん緑色です。
植木鉢で飾られた美しい路地が残っていました。ここにも牛乳箱があります(写真右下)。
牛乳箱も植木鉢で飾られています。
博多における花街は、那珂川沿いの中州、博多、石堂川沿いの水茶屋、相生、4花街がありました。このうちの一つ、水茶屋は、石堂橋から南東にのびる道筋(現在の千代3丁目)にありました。
地図を見ると料理屋や銭湯がありますが、町並みに花街の面影はほとんど残っていません。
「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されていた写真と同じ場所。料理屋の田中屋があった場所は更地になっていました。
花街だったころの名残でしょうか。「水茶屋」という屋号のお店があります。
旧水茶屋の通りを抜けると、福岡県庁がある通りに出ます。通りの出口にある銭湯跡の建物と近代的なビルの対比が印象的です。
柳町では、元文5年(1740年)に選擇寺(せんちゃくじ)が旦那寺となり、遊郭でなくなった遊女のなきがらは、この寺に葬られました。*1
戒名もなく、無縁墓地に葬られる遊女が多い中、唯一、角屋の遊女雪友(二十才)は墓が建てられています。博多における唯一の遊女の墓です。*1
雪友は、他の遊女とは異なり、別格の扱いをされていたようです。
雪友は、文久元年(1861年)6月27日にこの世を去りました。*1
【参考文献】
*1 井上精三:博多風俗史遊里編(積文館書店,1968)P.67
今回は、大浜(福岡市博多区)の町並みと風俗を散歩します。大浜は、旧博多港に近い、現在の下呉服町、大博町付近です。
このあたりには、江戸時代初期から柳町遊郭があり、東京の吉原と同様、元禄期に全盛を迎えました。明治44年に柳町遊廓は廃止となり、代わりに現在の住吉地区に新柳町遊廓が作られ、遊廓廃止後は旧柳町と呼ばれるようになりました。*1
柳町遊郭は、現在の大浜小学校(平成10年、大浜、奈良屋、御供所、冷泉の四つの小学校が統合され、博多小学校が開校*2)があった場所にありました。*1
柳町遊郭は、竪町の北側の下竪町を右に折れ、カギ型にちょっとまわったところに大門がありました。*1
石堂川(現在の御笠川)から見た大浜小学校跡。校舎はそのまま残されています。
石堂川の川べりまでが柳町遊郭でした。*1
柳町遊廓の名残でしょうか。大浜小学校近くの電柱には「柳」と記されています。
【参考文献】
*1 井上精三:博多風俗史遊里編(積文館書店,1968)P.9-P.11,P.193
【参考URL】
*2 博多小学校ホームページ
この巨大看板は、あまりにも強烈な印象でした。
中洲から那珂川沿いの道を南に行った住吉橋の交差点にある薬局です。
中洲の国体通り沿いにある薬局の看板。男性用と女性用が仲良く対になっているのが嬉しいです。
天神にある赤ひげ薬局。とにかく巨大です。
中洲のソープランド街を特徴づけるのは、風俗専門ビルです。MANZOKUビルは清流公園からも見える巨大ビルです。
中州は、全国で唯一、ソープランドの出店が可能な地域だそうです*1 が、これが原因して近代的なビル型ソープランドが誕生したのかもしれません。
楽園ビル。
ビルの1階に入っている高級店の入口。
国体道路沿いにある中州会館。
【参考文献】
*1 週刊スパ(扶桑社,2007.5.22)P.41
今回は、中洲(福岡県福岡市)の町並みと風俗を散歩します。中洲と言えば日本を代表する風俗街です。
ソープランド街としての歴史は古く、1952年に「博多温泉トルコ」が中洲に開業しました。東京の銀座に「東京温泉」が開業した1年後です。*1
博多川から見ると中洲は島のように見えます。
博多川から見る清流公園。
国体道路と博多川で囲まれた場所が中州のソープランド街です。
博多川にかかる南新橋。国体道路側から行くよりも、この橋を渡って行く方が風情があります。
【参考文献】
*1 広岡敬一:トルコロジー(晩声社,1979)があるような気がします。
路地から脇道に入いります。植木鉢が置かれている軒下に牛乳箱がありました。緑色の牛乳箱は、鉢植えとの相性もばっちりです。
シモラク牛乳の「シモラク」は、「下関酪農」の略でしょうか。
タイプの異なる少し大きめの牛乳箱。こちらには、「山口県酪」と書かれています。
緑色の木の格子と米屋の看板がよく調和しています。
新地西町の奥まったところにある路地。理容室や米屋があります。
この路地を進んでいくと、営業中の食堂があります。
路地の雰囲気と調和した風情のある建物です。
コンクリート製の防火水槽でしょうか。凝った装飾がほどこされています。
新地西町には、古い建物がいくつか残っています。中でも交差点の角にあってひときわ目を引くのが「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されているこちらのお宅です。
入口付近。カフェー調の装飾が残っています。
「下関観光社交組合員証」のプレートが残っています。
水色のタイル。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.49
下関駅から国道191号線を北に伸びています。
国道の東側には高杉晋作終焉の地があります。
かつての新地遊廓の入口付近。*1 風情のある旅館があります。
旅館の入口付近。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.48
明治時代、下関には、稲荷町、裏町(2ヶ所)、豊前田、竹崎、今浦、新地の計6ヶ所に遊廓があり、町のほとんどを花街が占めていたと言われるほど、下関は「女郎立国」で、高杉普作ら当時の豪傑先生たちも女郎相手に逸情を弄んだとされます。*1
没落した平家一門の女官たちが色を売って生活を支えたのが遊廓の起こりであるため、それだけに由緒もありました。*1 遊女は年中素足でいるのが一般的でしたが、下関の遊女は格式が高く、足袋をはいていました*2
赤間町の「東京第一ホテル下関」の近くの道路沿いに末廣稲荷神社の鳥居があります。
稲荷町には、この末廣稲荷神社だけが当時を伝えるものとして残されています。
稲荷神社にある案内板。「稲荷町は、日本の廓の発祥の地とも言われております。」と紹介されています。
先帝祭の賑わいから比べると、非常に寂しい感じのする稲荷神社です。
【参考文献】
*1 沢忠宏:先帝祭を支えた「関の廓」盛衰史(沢忠宏,1985)P.26
*2 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.46
今回は、下関(山口県下関市)の町並みと風俗を散歩します。
寿永4年(1185年)、壇ノ浦(関門海峡)で平家は源義経を総大将とする源氏に破れ、わずか8歳だった案徳天皇も入水され、平家は滅亡しました。
下関は、遊女発生の地と言われています。壇ノ浦で敗れた平家の女官たちが、自らの生活のために春をひさぐようになったという伝承です。それでも女官たちは、毎年の案徳天皇の命日には帝の御影堂(みえいどう)に参拝しました。*1
江戸時代になって稲荷町に遊廓ができると、廓の主人がこの伝承を後世まで伝えようとお抱えの遊女たちに参拝を続けさせました。これが先帝祭として現在に伝えられています。*2
先帝祭は、毎年5月3日に赤間神宮で行われます。大入り満員の状況で、警察官立会いにより入場制限が行われるほどでした。
先帝祭は、豪華絢爛な衣装をまとった5人の太夫が市中をパレードし、案徳天皇を祭っている赤間神宮を参拝するもので、神宮内の水天門から本殿へかけられた天橋を渡って参拝する「上臈参拝」でクライマックスを向かえます。*2
「上臈参拝」で外八文字を披露する3番太夫。顔の向きはそのまま、胸を反るようにして片手をさっと突き出して肩を引き、前に進んでいきます。観客から拍手が沸き起こります。
【参考文献】
*1 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.47
*2 しものせき海峡まつり実行委員会:「第22回しものせき海峡まつり」パンフレット
糸川沿いを河口近くまで歩いていきます。このあたりまで来ると、傾斜はほとんどありません。
交差点の角に小さなスナックがあります。
タイルで装飾された円柱があります。ピンク色に塗られています。
側面の壁にもタイルの装飾があります。
糸川から西側に路地を一歩入り込んだところに、度肝を抜くデザインの建物があります。
浮き出た屋号の「千笑」の文字が強烈な印象を与えています。
側面にもあります。
入口には、タイルの装飾があります。
熱海市街を糸川が流れます。
糸川べりの私娼街は、「寝てたべる」というので「牛」とよばれていました。その後、糸川べりにそば屋が多かったことから、「牛」は「ざるそば」という隠語で呼ばれるようになりました。「ちょっとそばを食べにいこう」というのが、女を買いに行くという意味となっていました。*1
現在の糸川べりは、八重桜が植えられ、草花が咲く遊歩道となっています。
娼家は、表向き2階建て、実は3階建てというものが多かったそうです。つまり、屋根裏部屋にあたる隠し3階が存在していました。また、階段も2ヶ所あり、いざというときに逃げ出しやすくなっていました。*2
【参考文献】
*1 熱海市史編纂委員会:熱海市史(熱海市.1968)P.248-P.249
*2 熱海市職員組合連合会:道標62号(1984.7)P.3
今回は、熱海(静岡県熱海市)の町並みと風俗を散歩します。
熱海は、全国でも屈指の芸者街です。現在熱海には、250名余りの芸者が活躍していて、これは全国の芸者の約1割に相当します。*1
熱海市中央町に熱海芸妓組合歌舞練場があります。