渋谷(道頓堀劇場)大看板は圧巻です。

道玄坂の坂の中腹に百軒店(ひゃっけんだな)への坂の登り坂があります。ここは渋谷駅側から来た場合の円山町への入口でもあります。

この場所のシンボルと言えば、坂道の途中にあるストリップの老舗「道頓堀劇場」です。1970年に開業しました。

入口にある大看板は、圧巻です。
「キャバレー日の丸」も同じような配色の看板であったことを思い出しました。*1

入口付近。

【参考記事】
*1 池袋(日の丸)

■カテゴリ 劇場 渋谷

渋谷(円山町)花街の面影が残っています。

かつて花街だった円山町には、昔の面影が残る建物がわずかに残っています。

おでんやの「ひで」は、奥座敷があり、現在でも芸者を呼べる店として知られています。*1

お好み焼き屋「すずめの御宿」は、かつての料亭の趣を残した建物です。戦後すぐに建てられた芸妓屋置屋を改装したと言われています。*1

レトロな造りが時代を感じさせます。

【参考文献】
*1 鈴木健司:渋谷の考現学(2007,NHK出版)P.51,P.55

渋谷(円山町のピンクビラ)支柱があばた状態になっています。

円山町のラブホテル街。若いカップルやデリヘルに利用されているようです。

現在も少量ながら、電柱にピンクビラが貼り付けられています。

電柱や街路灯の支柱は、ピンクビラが貼られては剥がされを繰り返したためか、塗装が剥げてあばた状態になっています。

通学路の電柱に貼られたピンクビラ。

渋谷(道玄坂地蔵)泰子地蔵とも呼ばれています。

円山町は、お洒落なラブホテルと花街の面影が残る料亭の建物が混在します。

十字路の近くに道玄坂地蔵があります。
東電OL殺人事件でで殺害された泰子さんは、昼間は東京電力に勤務し、夜はこの道玄坂地蔵の前で1日4人のノルマを自らに課し、客を引いていました。*1

ゴビンダ容疑者は、道玄坂地蔵のことを「お寺」と呼んでいました。彫られている「卍」のマークを記憶に留めていたのかもしれません。*2

事件直後、泰子さんに感応する同年代の女性たちのこの地蔵の参詣が絶えませんでした。彼女たちは「ヤスラー」と呼ばれ、地蔵も「泰子地蔵」と呼ばれました。*1
地蔵の唇は赤く塗られていますが、これはヤスラーの誰かが塗ったものではと言われています。*3

【参考文献】
*1 佐野眞一:東電OL症候群(新潮社,2003)P.103
*2 佐野眞一:東電OL殺人事件(新潮社,2003)P.416
*3 真樹龍彦:東電OL殺人事件行 迷宮のヒロイン(沖積舎,2005)P.55

■カテゴリ ホテル 渋谷

渋谷(木造モルタルアパート)東電OL殺人事件の現場

1997年3月19日、円山町の木造モルタルアパート喜寿荘101号室で東電OLの渡辺泰子さんの絞殺死体が発見されました。*1*2

警察は、容疑者としてネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリを逮捕しました。ゴビンダに容疑がかけられたのは、泰子さんが殺されていた喜寿荘101号室の鍵を持っていたことと泰子さんとともに喜寿荘に入っていったのをも目撃したとする証言でした。*1

ゴビンダ容疑者は、殺害現場の喜寿荘の隣接する粕谷ビル401号室に他のネパール人とともに住んでいました。*1

喜寿荘と粕谷ビルがあるあたりは、円山町から坂を下った、渋谷の底のような地形になっています。

1997年10月、東京地裁は「被告が犯人と推認できるように思われる」としながらも「疑わしきは被告人の利益に」という法の原則に立って無罪を言い渡した。
その後、2000年8月の控訴審では逆転有罪判決(無期懲役)が言い渡され、2003年10月、最高裁も2審判決を支持、無期懲役が確定しました*1
【参考文献】
*1 北野祐史:日本タブー事件史(東電OL殺人事件 「無期懲役」確定のネーパール人は本当に犯人か?根強く残る冤罪説を徹底検証する)(2005,宝島社)P.106-P111
*2 週刊新潮(1997.4.3)P.152-P.155 渋谷円山町で殺された慶大卒「東電」OLの退社後「売春」

■カテゴリ ホテル 渋谷

渋谷(神泉駅)トンネルから出たところにある駅です。

今回は、渋谷(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
京王井の頭線神泉駅は、渋谷の隣の駅で、各駅停車のみがとまる駅です。

江戸期の記録によると、このあたりは神泉谷と呼ばれていました。*1
その名の通り、道玄坂上からくだった谷のような地形になっていて、神泉駅は、トンネルから出たところにあります。

神泉には、弘法湯という名前の湯があり、しだいに、湯のかたわらに休憩所や旅館ができ、芸妓も入るようになりました。明治20年頃から芸妓屋が近辺に開業し、花街となりました。*1
この花街は、後に円山花街となりました。*2
歌手の三善英史さんの「円山・花町・母の町」のヒットにより、円山町が花街であったことは広く知られるようになりました。三善英史さんの実母は芸者さんで、つまり、「円山・花町・母の町」は自叙伝的な曲で、三善英史さんにしか歌えない心にしみいる名曲でした。*3

日本中を驚かせた東電OL殺人事件の現場となった喜寿荘は、神泉駅のすぐ近くにあります。

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の知名由来辞典(2006,東京堂出版)P.203-P.204
*2 渋谷区史
*3 鈴木健司:渋谷の考現学(2007,NHK出版)P.49-P.52

倉賀野(冠稲荷神社)飯盛女たちの信仰を集めていました。

 旧中仙道の南側に冠稲荷神社があります。江戸時代は、旅籠屋や飯盛女の信仰を集めたようで、倉賀野神社に移築された玉垣に、彼らの名前が見えます。*1

明治42年の神社合併で御神体は倉賀野神社に合祀されましたが、神社が元に戻りたいと泣いているという話が広まり、昭和11年にに元の場所に戻されました。*1

冠稲荷神社の近くにある太鼓橋は、飯盛女たちが寄進したものと言われています。正確には、宿場の営業税太鼓橋を造ったのを、間接的に飯盛女が造ったと言われるようになったそうです。*1

太鼓橋の両側は坂で、名前のように太鼓橋は丸かったそうですが、昭和8年に架け替えられ、平らになりました。
現在は、太鼓橋の下の川は暗渠になっています。

【参考文献】
*1 高崎市:倉賀野町の民俗(高崎市,1999)P.105,P.158-P.159,P.225

倉賀野(倉賀野神社)飯盛女が寄進した玉垣が残されています。

旧道から脇道を一本入ったところに倉賀野神社があります。

倉賀野宿の飯盛女は、寛保2年(1742年)に1軒2人づつを旅籠屋に置くことが許可されたのがはじまりで、明治中頃までその営業を続けました。*1
飯盛女が寄進した冠稲荷神社(三光寺稲荷)の石の玉垣に屋号と女の名が刻まれています。現在その玉垣は倉賀野神社の入り口に移されています。*1

「升屋内はな、やす、ふじ」、「金沢屋内里津、ひろ、きん」、「新屋奈美、玉屋内ふじ」などと刻まれた玉垣がそのまま残っています。*1

本社前の常夜灯は、文久3年(1863年)三国屋つねが寄進したものです。*2

【参考文献】
*1 高崎のサービス業と花街P.51-P.52,P.61
*2 倉賀野神社入口にある案内板

倉賀野(倉賀野宿)このあたりに飯盛旅籠がありました。

JR倉賀野駅から5分ほど歩くと、宿場町があった旧道にでます。宿場町には、旅籠とともに飯盛宿がありました。

倉賀野宿には、飯盛宿の女衆が太鼓橋を作るための費用を出した話が伝えられています。寛保2年(1742年)に飯盛女200人の拠金により、石造りの太鼓橋に架け替えられました。
現在は、石造りの太鼓橋はなく、平らな舗装道路があるのみです。

脇本陣跡。

喫茶店に改造された木造住宅。

【参考文献】
*1 高崎市:倉賀野町の民俗(高崎市,1999)P.1-P.2

高崎(本町支店湯)珍しい名前の銭湯です。

柳川町中部地区の北側、ゑびす通りから路地を入ったところに銭湯があります。「本町支店湯」この名前の由来が知りたいところですが、よくわかりません。
建物の形にも特徴があり、謎の多い銭湯です。

酒蔵で見かけるようなタイプの煙突。迫力があります。

脱衣場のロッカーは大きめで使いやすいですが、いまにも壊れそうな鍵がちょっと心配でした。

風呂場の天井は木製で、水色のペンキが塗られています。ペンキ絵はなぜか、南の島の海岸のイメージです。

■カテゴリ 銭湯 高崎

高崎(旧柳川町の芸妓屋街)割烹旅館だった建物

柳川町は、柳通りを境にして東側を東部地区、西側を中部地区と呼んでいます。飲食街として発展したのは東部地区でしたが、昭和の初期に芸妓街として発展したのは中部地区でした。*1
その中部地区には、わずかに古い旅館風の建物が残されています。
ゑびす通りの南側にある路地。

割烹旅館「信田」だった建物が残されています。*2

このあたりの建物は、おおかた芸妓屋でした。*2

建物の表側にまわってみると、美しい板壁が残されていました。

【参考文献】
*1 はせちゅう:柳川町花街物語(文芸社,2002)P.346-P.348
*2 根岸省三:高崎のサービス業と花街史(1967)P.158

高崎(電気館通り)柳川町のシンボル的存在でした。

柳川町東部地区の南側、中央銀座通りと柳川通りを結ぶ通りが電気館通りです。道幅は4mぐらいです。
電気館通りの角の長谷川たばこ店(柳川町33番地)は、地元の作家で「柳川町花街物語」の著者のはせちゅうさんの実家です。*1

電気館通りには、その名の通り映画館の電気館がありますが、残念ながら平成13年から休館中となっています。*1

電気館は、大正2年(1913年)から高崎で初めての映画上映館としてのモダンな建物の日活電気館でした。毎日多くの映画愛好者の人たちで電気館通りは賑わい、電気館は、柳川町花街のシンボル的存在でした。*1

裏口の階段付近。看板が置き去りにされていました。

【参考文献】
*1 はせちゅう:柳川町花街物語(文芸社,2002)P.22-P.25

高崎(中央銀座商店街)旧花街に隣接する商店街です。

今回は、高崎(群馬県高崎市)の町並みと風俗を散歩します。
中央銀座商店街は、高崎駅の北東側、旧柳町花街に隣接する商店街です。

「元気です。中央ぎんざ」と書かれた垂れ幕が連なっています。

八百屋は、買い物客で賑わっています。

商店街のアーケードを横からみたところ。レトロな雰囲気です。

柳橋(石塚稲荷神社)玉垣に料亭の名前が刻まれています。

神田川から通りを一本入ったところに、石塚稲荷神社があります。

正面の石柱。東京柳橋組合の名前があります。

側面の玉垣。両国花火組合、料亭の「いな垣」、「田中屋」の名前が刻まれています。
両国花火は江戸の年中行事になり、主催者である柳橋の名前は全国に知れわたりました。両国花火は、柳橋の広告塔のようなものでした。*1

 

【参考文献】
*1 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.72-P.73

柳橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。

柳橋から、北へ進み、総武線のガードをくぐると、蔵前高校へつづく一本道の途中に、料亭「いな垣」があります。
「いな垣」は、柳橋のみならず東京を代表する格式の料亭でした。*1

昭和20年代から40年代、「いな垣」をはじめとする柳橋の奥座敷で、毎夜、要人たちが日本の将来を話し、戦後の高度経済成長の道筋が決定されました。国賓のお忍びの接待は決まって「いな垣」で、この店の前まで皇族、総理大臣、大使館などの黒塗りの車が並びました。*2

「いな垣」の門前では、人力車から降りる芸者さんの姿を見ることができました。*2

昭和40年頃から柳橋の料亭が次々に廃業しますが、その中で「いな垣」は「お出先」(芸者が入る料亭のこと)を続けました。長いこと横綱審議委員会の会場を努め、平成に入ってからも「いな垣」はテレビの画面に何度も登場しました。*2
しかし、1999年、残念ながら「いな垣」は閉店し、江戸時代から200年間続いた柳橋は事実上廃業しました。柳橋が廃業した理由は、①東京から個人事業者が少なくなったこと、②柳橋が政界との距離を置くようになったこと、などがあげられますが、最大の理由は、③隅田川の汚染、でした。*2

江戸時代、「柳橋新誌」の著者の成島柳北が説いた芸者のあるべき姿とは、「気前好く振るい舞い、自尊の気概を見せ、その場その場に相応しい身の置きかたをしながら、当意即応の応対が出来る」という侠女と才女の理想を合わせたようなもので、惚れた男に尽くし、加えて美貌であることでした。*1
昭和の後期の元「いな垣」の女将で柳橋芸妓組合の組合長を務めた西川春喜久(はるぎく)さんの証言によると、お客様同士(接待する側とされる側)の心が通じあうのを助けるのが芸者の役割で、話の相槌が打てて、必要なときに必要な受け答えができるのが名妓の資格だそうです。*1
時代とともに名妓の資格は、若干の変化があったようですが、成島柳北が示したが精神は、柳橋の場合は平成の時代まで受け継がれていたようです。
【参考文献】
*1 岩下尚史:名妓の資格(雄山閣,2007)P.244-P.245,P.258-P.268
*2 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.70-P.74

柳橋(料亭)花街時代の料亭が今でも健在です。

現在の柳橋は、昔の花街の面影はほとんど感じられてないほど、町並みの雰囲気は変わってしまいました。数は少ないですが、現在も営業中の料亭が残っています。
亀清楼は、柳橋を渡った角の目印の場所にある由緒ある看板の店です。

黒板壁が美しい料亭「伝丸」。

昼間は、ランチが楽しめます。

とんかつ百万石。

安政6年(1856年)に刊行された成島柳北の「柳橋新誌」は、柳北がこの地に遊び、金と嘘とが支配する中にこそ思わぬ真実と純愛もあることを放蕩を通して知った体験に基づいたもので、刊行当時、大評判となり、明治以降も影響力を持ちました。*1
「柳橋新誌」には、「柳橋の妓は、芸を売る者なり。女郎にあらざるなり。而して往々色を売る者あり。何ぞや。深川の遺風あるを以って然るか。而して深川は即ち公に売り、此は即ち私に売る。」と書かれています。*2
江戸時代、深川には、色と芸をかねる「女郎芸者」がいましたが、柳橋は芸を売る芸者で、女郎ではありませんでした。しかし時々、深川の真似をして色を売る者もいました。*3
深川では芸者の売春が公然化していましたが、柳橋では売春しないという建前が一応あったわけです。*2
【参考文献】
*1 岩下尚史:芸者論(雄山閣,2006)P.96-P.100
*2 佐竹昭広:新日本古典文学大系100(岩波書店,1989)P.350-P.351,注釈8
*3 田中優子:芸者と遊び-日本的サロン文化の盛衰(学習研究社,2007)P.77

柳橋(船宿)猪牙舟は、この船宿から出ました。

柳橋から見る船宿と神田川の眺め。

柳橋に住む芸者の実態を描いた「柳橋新誌」*1 に「皆ここを過ぎる者なく、五街(吉原のこと)の娼しに遊び、三場(歌舞伎三座のこと)の演劇を観、・・・皆水路を此に取る。故に船宿の戸、舟子(せんどう)の口(人数)、星羅雲屯(ほしのごとくつらなりくものごとくたむろし)、・・・」と書かれているように、この当時の江戸の重要な交通手段であった猪牙(ちょき)と呼ばれた小舟は、この柳橋の船宿から出ました。*2

神田川沿いに、船宿が並びます。

昭和の初期は、この道沿いに料亭があり、芸者さんが歩く風景が見られました。*3

【参考文献】
*1 佐竹昭広:新日本古典文学大系100(岩波書店,1989)P.339
*2 佐藤悟:國文学(1990.08)「柳橋 成島柳北「柳橋新誌」P.93
*3 日本文芸社:荷風(2007.6)P.32

柳橋(柳橋)墨田川や吉原への好適な足場でした。

今回は、柳橋(東京都墨田区)の町並みと風俗を散歩します。
柳橋は、神田川の出口に位置し、両国橋という大きな橋を近くに控えた江戸時代からの水陸の交通の要衝でした。また、墨田川の船遊びや吉原や深川に遊びに行く人たちにとっては好適な足場でもありました。*1

柳橋の名は、柳原堤(やなぎはらどて)の末端に架設されたことが由来とされています。柳原堤は、江戸城の凶位(きょうい)にあたるため、陰気を防ぐために陽木とされる柳が植えられていました。*2

現在は、鉄橋の橋が架かっています。

花街らしく、橋の欄干にはかんざしがデザインされています。

【参考文献】
*1互笑会:柳橋界隈(互笑会,1953)P.96
*2 加藤藤吉:柳橋沿革史(柳橋開橋祝賀会事務所,1929)P.10