熊本(二本木神社)寄進者名が右から書かれています。

熊本市街の南側に位置する二本木町に二本木神社があります。ここに、明治時代にできた二本木遊廓の名残をみることができます。

本殿への石畳参道を中に一対の狛犬が相対しています。

台座に、「二本木娼妓有志者中」と寄進者名が右から書かれています。*1

寄進年月は、明治三十九年十月です。
終戦当時、陸軍中尉だった二本木遊廓を知るTさんは、「召集令状がくると皆二本木へ行きよりましたなぁ。あの頃の客は兵隊がほとんどで、それも明日は戦地へ向かうという時は行きましたな。戦後になると米軍が行きよりましたな。太とか黒人兵が意気揚々と歩きよりました。」と当時の様子を振り返っています。*1

【参考文献】
*1 猪飼隆明:遅咲きの女たちの遺言(熊本出版文化会館,2006)P.359-P.360

天草(崎津の町並み)夜這いの拠点である青年宿が公民館に移されて、夜這いは衰退しました。

崎津の町並みは、落ち着いた雰囲気です。

崎津は、売春をする漁業集落でもありました。
天草の観光・秘境イメージを意図した天草小唄に、
出湯、白鷺、ドライブ疲れ、あした牛深、今宵は崎津村
熱い情けの一夜をあかし、出船わかれの涙雨
と歌われていますが、これは観光売春がそれとなく暗示されているものです。*1

町の中心部にある仲町区公民館。
天草では、昭和30年頃までは夜這い的な雰囲気が残っていました。しかし、夜這いの拠点である青年宿が、次第に公民館に移されて集まることができなくなり、この時代になると、男たちは買春に関心を持つようになり、夜這いは衰退しました。*1

下町区公民館。
天草における夜這いは、天草五橋が開通(1965年)した頃以後は、昔話としてのみ語られました。また、天草五橋をバイク3時間かけて熊本のトルコ風呂まで行ったものの帰り道の侘びしかったことという体験談が語られるようになりました。かくして、「田舎には何も楽しかことのなか」状況になり、過疎化が始まることになりました。*1

【参考文献】
*1 森栗茂一:夜這いと近代買春(明石書店,1995)P.124,P142,P.155-P.158

天草(崎津天主堂)美しい風景です。

本渡からバスで約1時間ほど南に行ったところにある崎津。小さな港があります。

港に面して、天主堂があります。海には山が迫っていて、山の上には、チャペルの鐘展望公園のオブジェが見えます。

崎津出身のからゆきさんの聞き書「サンダカン八番娼館」の著者の山崎朋子さんは、「崎津天主堂で、一心に祈り続ける老夫婦の姿に接し、心を打たれ、からゆきさん研究への決意を新たにかき立てられた。」と書いています。*1

山の上の教会(チャペルの鐘展望公園)からの眺め。美しくて静かな風景です。
「サンダカン八番娼館」は、イギリス領北ボルネオの港市サンダカンの娼家で青春を送ったおサキさんの聞き書です。おサキさんは、「崎津の天主堂の下からこまんか(小さい)舟に乗って、高浜まで行ったんじゃわ。」と語っています。その後、おサキさんは、高浜から長崎へ行き、長崎から約3ヶ月かけてボルネオに渡りました。*1

【参考文献】
*1 山崎朋子:サンダカン八番娼館(筑摩書房,1972)P.6,P.79

天草(峠のラブホテル)看板に導かれて山道を登ります。

本渡市街から北西方向に約3Kmほど離れた場所に、「軽井沢」と書かれた看板があります。

看板に導かれてさらに進むと、また看板があります。道はどんどん登っていきます。

山道が峠にさしかかったあたりに、ラブホテルの入口の坂道がありました。秘境のラブホテルです。

坂を登りきると、ガレージ型のホテルがあります。

■カテゴリ ホテル 天草

天草(本渡)和洋折衷の建物

スナックが散在する通り。近くに旅館もあるようです。

瓦屋根の家屋の1階部分を改造したスナック。

こちらも瓦屋根の家屋ですが、1階部分は派手なデザインに改装されています。ピンク色の壁の中央に白い川のようなものが流れています。人の顔のようにも見えます。

入口の側面には、丸い窓があります。往時はどのようなお店だったのでしょうか。

天草(本渡)スナックが点在しています。

今回は、天草(熊本県)の町並みと風俗を散歩します。
天草最大の都市、本渡(ほんど)の飲み屋街は、天銀街のアーケードを抜けたあたりに散在しています。

「全国女性街ガイド」*1 によると、本渡の赤線の様子を「市内に散在する飲み屋の女の大半はねる。」と紹介していますが、現在、その飲み屋がどのあたりにあったのかは不明です。

スナックが点在する通り。

壁が斜めに傾いたデザインの店。

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.193

島原(深江町の牛乳箱)ご当地牛乳です。

雲仙岳の山麓を歩きます。火山らしい赤茶けた急勾配の斜面が印象的な美しい風景です。

途中、大勢の牛くんたちに遭遇。ホルスタイン種と思われます。このあたり一帯は、田舎の匂い(牛の糞の匂い)がいっぱいです。

深江駅近く。島原牛乳の牛乳箱があります。駅周辺だけでも10箇所近くあり、他のブランドの牛乳箱は一つもありませんでした。さきほど遭遇した牛くんたちの乳から搾られた牛乳でしょうか。名実共に、ご当地牛乳です。

こちらは、別のタイプの牛乳箱です。

■カテゴリ 島原 牛乳箱

島原(高原のラブホ跡)ガレージ方式のアパート

島原市街から、雲仙温泉方面へ道路が延びています。島原市の隣町である深江町は、1990年の雲仙普賢岳の噴火のとき被災しましたが、現在は復興しています。

雲仙岳の五合目に相当するこの場所にアパートがあります。

月の家賃が¥20,000.-とは格安です。背景に「宿泊」と書かれた白い文字が見えます。以前は、ラブホテルだったようです。

ガレージ方式のアパートです。

■カテゴリ ホテル 島原

島原(天如塔の周囲の玉垣)からゆきさん出身の成功者の名

大師堂の天如塔の周囲の玉垣のうち、入口の階段の所の玉垣が最も大きな玉垣です。
この玉垣の正面側に名が刻まれている阿南トンキン(ベトナム)の和田氏は、当地域における日本娼楼の先駆者でした。また、「高谷マサ」は、数多いからゆきさんの中でも飛びぬけた成功者でした。*1

バンコクから寄進の玉垣。
「富士ホテル」、「旭ホテル」は、いずれも「ホテル」と名乗ってはいますが、実態は日本人が経営する女郎屋でした。*1

シンガポールからの寄進による玉垣に名を刻む米井虎一郎は、侠客の一人であったと伝えられ、日本人共同墓地を管理・運営するために組織された共済会の有力メンバーでした。*1

同じく、シンガポールからの寄進の東境セイ(玉垣では東京セイ)は、からゆきさん出身でしたが、女郎屋の経営者となりそこで貯えた資金をいち早くゴム栽培事業に投資して大儲けをしました。本田シツはマバラー街54番、原ロツタは、スプリング街21番で娼家を経営していました。*1

シンガポールでは、女郎屋の経営者は女性に限られるという当局の方針があり、「からゆきさん」出身の女性が富を貯え社会的に上昇していくきっかけを与えていましたが、多くの場合、男(チンタあるいはピンプ(=嬪夫)と呼ばれた)の側が実権を持っていました。この中で東境セイだけが、実験を持った女郎屋の女経営者でした。*1
【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号42)(1993)「島原市の大師堂への寄進者の初歩的調査–「からゆきさん」研究の基礎史料」P.5-P.6,P.10-P.11,P.20-P.25

島原(からゆきさん寄進の玉垣)東南アジアの都市の名と共に刻まれています。

大師堂の天如塔(からゆきさんの塔)の周囲には、たくさんの玉垣があります。天如塔の底面は正八角形になっていて、角の部分には大きめの玉垣が配置され、ここには寄進した額の大きなからゆきさん関係者の名前が刻まれています。
玉垣(120人)と周囲の石柱(12人)のに刻まれた外国在住者を分類すると、マレーシア(34人)、ベトナム(26人)、シンガポール(25人)、インドネシア(14人)、ビルマ(14人)、中国(8人)、タイ(4人)、韓国(3人)、ロシア(2人)となります。*1

アンナンは、ベトナムの総称で、漢字では、通常「安南」ですが、ここでは「阿南」と書かれています。トンキンは、ベトナム北部を指す呼称です。*1

写真の玉垣は、マレーシアの地名が刻まれています。*1
コウラカンサ(クアラ・カンサー Kuala Kangsar)
トロノ(Tronoh)
スポテノ
タパン(タパ Tapah)

同じく、マレーシアからの寄進の玉垣。
カラン(Karang)
カラシコワラ
マラッカ(Malacca)
スレンバン(Serenban)
の地名が確認できます。*1

【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号40)(1991)「からゆきさんの遺跡–島原の大師堂」P.30-P.33

島原(理性院大師堂)からゆきさんの遺跡である天如塔があります。

島原市内の南側の大師通りに、理性院大師堂があります。

本堂の横を行くと、灯台のような形をした奇妙な塔が現われます。
この塔は、「天如塔」、別名を「からゆきさんの塔」と言います。*1
「からゆきさん」とは、「唐人行(からひとゆき)」または、「唐ん国行(からんくにゆき)」という言葉が縮まったもので、幕末から明治期を経て第一対戦の終わる大正中期までの間、主に東南アジア方面にまで出かけて行って、外国人に肉体をひさいだ海外売春婦のことです。*2
玉垣には、寄進者のからゆきさんとその関係者の名前が刻まれています。

天如塔と玉垣は島原市の有形文化財に指定されています。

天如塔を建立したのは、島原で活動していた僧の広田言証師です。広田言証師は、1906年末から2年半、インドへ巡礼したとき、東南アジアの各地でからゆきさんと出会い、不幸にして異境の地で果てた娘たちのために供養を行いました。これが娘たちの帰依を呼び、からゆきさんたちの心ののよりどころとなり、多額の寄進を得、そのお金を日本に持ち帰り、天如塔を建立しました。*1

【参考文献】
*1 倉橋正直:島原のからゆきさん(共栄書房,1993)P.94-p.100,P.159-P.170
*2 山崎朋子:サンダカン八番娼館(筑摩書房,1972)P.7

島原(駅前の白ポスト)島原城をデザインした駅舎

今回は、島原(長崎県)の町並みと風俗を散歩します。京都-長崎を結ぶ寝台特急あかつき号に乗り、諫早(いさはや)駅に朝8時に到着。島原鉄道に乗り換えて約70分。島原駅で下車します。
駅前から島原城の天守閣が望めます。

島原城をデザインした駅舎

駅舎の前に、白ポストがあります。

鉄製の頑丈なポストを壊す人はいないだろうと思いますが、このような注意書きがポストの上部に書かれています。

福知山(広小路)明治時代は、貸座敷や芝居小屋がある歓楽街でした。

福知山市街の北東部にある広小路。レトロな商店街です。

広小路の由来を説明する看板があります。
江戸時代から、広小路は有力商人が軒を並べる城下町の顔でした。
明治10年頃、下柳町川沿いを中心に貸座敷12軒ほどが公認され、芝居小屋もできて、広小路は歓楽街の要素も加わりました。大正時代になると、芝居小屋は近代映画館に変わり、西洋料理店やカフエが進出し、歓楽街、商店街として繁栄し現在に至っています。

貸座敷があった下柳町近くの路地。古い旅館があります。

現在の下柳町は、車の通行量の多い道になっています。

福知山(新地裏の荒廃した神社)猪崎新地の名前が彫られています。

旧猪崎新地(福知山遊廓)の奥まったところに、城山へ続く石段があります。

石段を登っていくと、荒廃した神社があります。

燈篭に、「明治四十四年十二月吉日 猪崎新地 芸妓中...」と書かれています。遊廓の関係者が寄進したものと思われます。

神社から、旧猪崎新地方面を見たところ。遠くに音無瀬橋が見えます。

福知山(福知山遊廓跡)旅館風の建物が残っています。

城山公園の麓の猪崎には、猪崎新地(福知山遊廓)がありました。
大正4年刊行の「福知山市街略図」*1 に福知山遊廓の見取り図が記載されていますが、これによると、この写真の通りが遊廓のメインの通りで、10軒の妓楼のうちの5軒が、この通り沿いにありました。

遊廓の中心部であったと思われるあたり。

旅館風の大型の建物が残っています。

別の通りにもう1軒。

【参考文献】
*1 藤本薫:歩兵第二十聯隊と福知山案内 (福知山三丹新報社,1915)「福知山市街略図」

福知山(浮世小路)帰るときは脱いでます。

中ノ町飲食街の中ほどに、直角に交わる形で浮世小路があります。

小路への入口の看板。花魁の絵が描かれています。

居酒屋やスナックの店舗が並んでいます。

入口の看板を内側から見たところ。花魁が服を脱いでいます。浮世小路から帰るときは、脱いだ花魁が見送ってくれるという趣向のようです。

吉原(吉原神社)初詣は浅草名所七福神

仲之町を裏門に向かって進むと、吉原神社*1 に行き着きます。

普段は人影まばらな吉原神社ですが、浅草名所七福神の一つであるため、初詣の人たちで賑わっています。

料亭松葉屋の取り壊しに伴い、松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑が、吉原神社に移されました。*2
久保田万太郎は、浅草田原町の生まれの文人で、浅草の雷門の近くにも句碑があります。おそらく料亭の松葉屋に頻繁に遊びにきていたのでしょう。

「この里におぼろふたたび濃きならむ」と刻まれています。普段は見えず、水をかけると白く細い文字が黒い石肌に浮かびあがる「白粉彫り」という技法で彫られています。*1
この日は、すでに水がかけられていたのでしょうか。最初から白い文字がくっきりと現れていました。右下に小さく、「万」の一字があります。

【参考記事】
*1 風俗散歩:入谷~吉原(2005.9)吉原神社
【参考文献】
*2 石井妙子,渡辺憲司:東京人(都市出版,2007.3)P.46 「遊女の残り香を探して」

吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。

今回は、吉原(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
昨年(2007年)は、新吉原が誕生(元吉原から移転)してから、ちょうど350年にあたります。これを記念し、2007年11月に、遊廓の入口である大門を再現した街路灯が設置されました。江戸風情を復活させようと町会の働きかけによって実現したものです。”江戸の華”とうたわれた遊廓の歴史は現実の荒波にもまれながら受け継がれています。*1

かつての吉原遊廓の大門があったあたりに設置された「大門(おおもん)」と書かれた街路灯。他に、「角町」、「京町」、「揚屋町」などと書かれた街路灯も各通りに設置されています。

この場所には、花魁(おいらん)ショーで有名な料亭の松葉屋がありましたが、現在は1階に交番が入るマンションになっています。
吉原今昔図*2 によると、松葉屋は昭和20年代には引き手茶屋として営業していました。
花魁ショーは、平成の初め頃まで、月・木・金を除く15時からと毎日19時から、所要時間25分で上演され、「はとバスツアー」にも組み込まれていました。*3

大門があったあたりから大門交差点方面を見ると道路がS字形に曲がっています。ここは、五十軒道と呼ばれていました。

【参考文献】
*1 丹治早智子:東京新聞(2007.11.9 夕刊)P.10 「吉原大門」街路灯で再現
*2 新井一鬼:吉原今昔図(葭之葉会,1993)
*3 散歩の達人(1996.11)P.8-P.9