JR西川口駅の南東方向に、銭湯の富士乃湯があります。
建物の脇へまわってみると、風呂釜が見えました。
粋なデザインの暖簾。
中には、庭園があります。
JR西川口駅の南東方向に、銭湯の富士乃湯があります。
建物の脇へまわってみると、風呂釜が見えました。
粋なデザインの暖簾。
中には、庭園があります。
西川口は、立ち呑み屋さんの多い町です。
立ち呑み屋でも、実際は椅子がある店が多いのですが、西川口の立ち呑み屋さんは、椅子がありません。
駅の西口の五番街の入口にある店。この店は、いつも繁盛しています。
同じ屋号の店が東口にもあります。
ビールとやきとりを注文。
川口商工会議所 街づくり推進課は、仲町中学校と協力し、違法風俗店が出て行って空き家となったビルのシャッターに絵を描いています。*1
庭をテーマとして、梅、月下美人、コスモスなどの絵がシャッターに描かれています。*1
以前は違法風俗店が建ち並んでいたメインの通り。
寂れた街も、花の絵によって徐々に明るさを取り戻そうとしています。
シャッター全面に花の絵が描かれています。
【参考テレビ番組】
*1 NHK総合テレビ ローカルニュース(2008.3.10 20:55)
かつては風俗店が乱立していた西川口ですが、ここ数年の取り締まりの結果、多くの風俗店が撤退を余儀なくされたようです。
町のあちこちには、風俗店が入居していたと思われる空き家のビルが目立ちます。
町全体が寂れてしまったような感じさえあります。
風俗街の中心部にあるビル。
四つ角に立つビル。
西川口の駅から見える風俗ビル。
今回は、西川口(埼玉県)の町並みと風俗を散歩します。
駅前に客待ち禁止区域を説明した看板があります。
なぜか、ソープ嬢の名刺が看板の左下に挟まってます。
ビルの前で見かけた看板。
保土ヶ谷遊廓は、保土ヶ谷橋からすぐの所にあり、貸座敷が7軒あり、娼妓は50人ほどいました。遊廓は、宿場町の時代が残した飯盛女の化身とも言えるものです。*1
保土ヶ谷橋は、現在もあります。
昭和6年の「大日本職業別明細図 保土ヶ谷区」に保土ヶ谷遊廓の位置が記されていますが、それによると遊廓は、保土ヶ谷橋近くの今井川が直角に曲がるあたりの南側にあったようです。遊廓は、西側(八幡神社側)から、「松美楼」、「大松楼」、「松芳楼」、「第一万金楼」、「第二万金楼」、「東家」と並んでいました。
八幡橋から見た今井川。
南側の台地からの眺め。
【参考文献】
*1 南博,林喜代弘編:近代庶民生活誌 第14巻 色街・遊廊2(三一書房,1993)p.35
今回は、保土ヶ谷(神奈川県)の町並みと風俗を散歩します。JR保土ヶ谷駅近くの国道1号線(旧東海道)沿いには、保土ヶ谷宿がありました。
天保(1830年~1843年)末の頃、保土ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣3軒、旅旅籠屋69軒があり、本陣は飯盛女は置いていないが、脇本陣2軒と旅旅籠49軒が飯盛女を置いていました。*1
道路沿いに旧保土ヶ谷宿の様子を説明するプレート(写真、左側)があります。
プレートに描かれている「津の国屋」、「新金子屋」、「沢潟屋」、「つたや」は、飯盛旅籠屋でした。*1
当時の建物が保存されている「金子屋」。「金子屋」は平旅籠でしたが、その隣には、飯盛旅籠屋の「石川屋」、「新玉屋」がありました。*1
現在、ビルが建っているあたりには、飯盛旅籠屋の「村田屋」がありました。*1
【参考文献】
*1 斎藤富一:東海道保土ケ谷宿の飯盛女(近代文芸社,1994)P.37,P.50-P.51
西柳ヶ瀬の表通りには、風俗店や飲食店が入居する雑居ビルが建ち並びます。風俗街のほぼ中央の四つ角にある柳五ビルは、中国エステやスナックなどが入っています。
柳五ビルの2階に、銭湯の柳ヶ瀬浴場があります。
階段を登ると銭湯の入口です。
ビル銭湯でありながら、ロッカーの番号が旧漢字で書かれているなど、内部はレトロ感にあふれています。
西柳ヶ瀬は、ピンサロをはじめとした風俗店が多いためか、客引禁止の看板があります。
ビルが独自に設置している看板もあります。
「何人も...」という変わった言い回しの看板。
夜になると、客引きの人たちが近寄ってきます。看板の効果はあまり無いようです。
西柳ヶ瀬の西側に、まさご座のアーチがあります。まるで商店街の入口のようです。
アーチをくぐると、まさご座の看板のあるビルが見えます。
ストリップ劇場のまさご座です。建物の側面にローマ字で「MASAGOZA」と書かれています。
入口付近。
今回は、柳ヶ瀬(岐阜県岐阜市)の町並みと風俗を散歩します。
岐阜の繁華街と言えば柳ヶ瀬です。 柳ヶ瀬は、美川憲一の柳ヶ瀬ブルースで、全国的に有名になりました。
明治22年刊行の」「岐阜市街新全図」には、金津遊廓の場所が記されています。それによると、金津遊廓は、柳ケ瀬の西側にありました。
現在は、風俗店などが建ち並ぶ商店街として繁栄しています。
この場所には、柳ヶ瀬トルコがありました。
昭和13年刊行の「大岐阜市全図」を見ると、金津遊廓があった場所は、この頃には大門通りと呼ばれていたことがわかります。
大門通りの名残の電柱番号札。
川崎大師駅近くの食品スーパーのある通り。
銭湯の寿恵弘湯があります。
開店前の入口のシャターには、こんな絵が描かれていました。
魚と蛸が描かれたガラス絵。
エリザベス会館の人たちは、かなまら祭りでは人気者です。撮影をせがまれ、それに応じています。
女装している人たちは、何の違和感もなく、かなまら祭に溶け込んでいます。
神輿が戻ってくると、地べた祭りが始まります。エリザベス会館の人たちが中心となって、地べたに座って酒盛りをするという企画です。
地べた祭は、この光景は奇妙なタイムスリップのような感覚を覚えます。かなまら祭の起源は、川崎の娼婦たちが神社の男根を持ち出し、境内で宴会を開いたのがはじまりとされます。祭りの主役が娼婦から女装愛好家に代わり、今、ここで繰り返されているわけです。*1
【参考文献】
*1 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.28-P.29
今回は、川崎大師の町並みと風俗を散歩します。
毎年、4月の第1週の日曜日にかなまら祭が行なわれます。
まずは、紀伊國屋神輿。かなり大型です。
続いてエリザベス神輿。こちらはずいぶんと小振りです。担ぎ手はエリザベス会館*1 の皆さんたちです。
最後にかなまら神輿。神輿を左右に大きく揺さぶるパフォーマンスは見ごたえがあります。
亀戸駅北口を線路沿いに西へ行きます。閑静な住宅街です。
東武亀戸線、JR総武線の電車からも見えるこの場所に、女装者たちが集まるクラブ「エリザベス会館」がありました。*1
エリザベス会館は、エリザベス神輿*2 を寄贈したことでも有名です。
現在は、マンションに建て変わっています。
亀戸の商店街や駅ビルの「エルナード」の人たちは、エリザベス(女装愛好者)のよき理解者でした。たとえば、エリザベスのイベントで寿司大会を催すときに、寿司飯だけ売ってくれるお寿司屋さんやエリザベス割引ということで10%オフしてくれるクリーニング屋さんなどがありました。*1
駅ビルの「エルナード」は、現在は「アトレ亀戸」に代わっています。
【参考文献】
*1 内田かおる:別冊宝島 ウラ東京観光(宝島社,1998)P.66-P.71「亀戸に集まる女装者たち」
*2 風俗散歩(川崎大師):かなまら祭(2007.4)
天祖神社周辺の路地には、たて看板が乱立しています。
痴漢・変質者注意の看板。
この界隈には、変態者が出没するようです。
いろいろな看板があります。
天神裏の西寄りの通り。閑静な住宅街です。
工場か倉庫のような建物。
何気なくのぞいた倉庫の中にタイル張りの円柱が残っています。トタン板でカバーされています。12
上部は白のタイルです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.26-P.27
*2 上村敏彦:花街・色街・艶な街 色街編(街とくらし社,2008)P.102
亀戸天神裏の通り。かつての亀戸花街のメインの通りです。
この付近で残る料亭の建物の中では、最も規模が大きいものです。
北側と東側は、高い塀で囲まれています。
整備された庭。
亀戸天神の裏手は、かつて私娼宿があったとされる目抜き通りです。
手書きの「遊園地」
当時の面影はありませんが、この付近の電柱のプレートには、「遊園地」と書かれています。亀戸遊園地*1 の名残と思われます。
「遊園」。
亀戸天神の裏手に天祖神社があります。
「城東三業組合」の玉垣があります。
亀戸には、私娼宿の組合である「亀戸遊園地組合」がありました。組合の規約として1軒に2人以上の私娼を置かないというのが原則でした。*1
「亀戸遊園地」の玉垣が2本、「亀戸遊園地 総代 吉田金兵衛」の玉垣が1本、全部で3本あります。
「楽天地」、「新天地」という名前はよく聞きますが、「遊園地」というのは初めて耳にする呼び名です。もちろん、この「遊園地」は大人向けの遊園地です。
亀戸3丁目 女性の名前の玉垣。
【参考文献】
*1 道家斉一郎:売春婦論考(史誌出版社, 1928)P.180-P.181
亀戸駅の北側に亀戸七福神の一つである香取神社があります。桜が満開です。
東側の鳥居の柱に「昭和三年十一月 亀戸三業組合」と刻まれています。
亀戸が花街として発展したのは、寛政年間で、水野越前守の大改革により、深川から亀戸に逃げ延びた芸者たちにより形成されたのが始まりで、その後、亀戸天満宮(亀戸天神)に参詣する人たちを相手にするようになり、急激に発展しました。*1
東側の玉垣にも「亀戸三業組合」があります。
「天神裏有志者」の玉垣。亀戸には、明治43年頃から既に私娼宿が出来ていて、大正8、9年頃が全盛で、私娼は1,000人位いたと推測されています。*2
玉垣の「天神裏有志者」とは、私娼宿の有志かもしれません。
【参考文献】
*1 東都芸妓名鑑(南桜社,1930) 「亀戸花街の沿革」
*2 道家斉一郎:売春婦論考(史誌出版社, 1928)P.180-P.181
今回は、亀戸(東京都江東区)の町並みと風俗を散歩します。
天神裏の旧赤線区域にある銭湯。
天神湯。
入口には、「ゆ」と書かれた暖簾。
古びた煙突。「サウナ」と書かれているのですが、ほとんど読み取れません。