湯本(常磐ハワイアンセンター)炭鉱生まれのパラダイス

湯本駅から約3kmの山中に常磐ハワイアンセンター(スパリゾートハワイアンズ)があります。
常磐ハワイアンセンターは、昭和36年、常磐炭鉱の社長だった中村豊さんによって構想されました。この楽園の素は、炭鉱を掘るときに湧いて出る温泉でした。温泉は炭鉱にとっては困りもので、莫大な費用をかけて坑内から汲みだし、川へ捨てていました。*1
昭和30年代、エネルギー革命(石炭から石油へ)が進行し、採炭事業の存続が困難な状況にまで発展しました。その頃、大衆のための娯楽施設として注目を集めていたのが、昭和31年、千葉県船橋市にオープンした船橋ヘルスセンター*3 で、常磐炭礦の関係者を大いに刺激しました。しかし、無名の温泉施設に客を集めるには工夫がいるので、フラダンスやタヒチアンショーを見せることにしました。なぜ、フラダンスを取り入れたのかについて、中村さんは、「昔から温泉宿は酒と女ですが、女は売春防止法にひっかかるから、腰をふらせたらよかろうと思って」と解りやすい理由を述べています。*2

この実話に基づいて制作された映画「フラガール」は、第30回日本アカデミー賞(2007年2月16日発表) を受賞しました。
スパリゾートハワイアンズの中に、映画「フラガール」の大ヒットを記念して作られた展示会場「フラ・ミュージアム」があります。

炭鉱の苦悩から生まれた常磐ハワイアンセンターの紆余曲折が、あますところなく紹介されています。
あっ!裸踊りのネエちゃんだ!
腰振りダンス!?
ヘソを出して踊るなんて!
「やらなければならない。生き抜くために」

13:30開演のトロピカルフラショー。タヒチアンダンスは圧巻です。見所は、やはりココナッツブラでしょう。

【参考文献】
*1 田中聡:ニッポン秘境館の謎(晶文社,1999)P. 53
*2 猪狩勝己:ハワイアンセンター物語(加納活版所,1980)P.6-P.20
【参考記事】
*3 風俗散歩(船橋):船橋ヘルスセンター跡(2008.11)

湯本(温泉街のスナック)かつては、炭鉱景気で賑わいました。

今回は、湯本(福島県いわき市)の町並みと風俗を散歩します。
JR常磐線の湯本駅前から山側に、湯本温泉街が広がっています。戦後、朝鮮動乱は特需ブームをもたらし、常盤炭田地帯は出炭量が増えて、空前の黒ダイヤ景気を呼びました。炭鉱地帯の中心であった湯本温泉は、炭鉱景気で賑わい、湯本の芸者数は急増し、一時は300人を超えました。*1
温泉街には、旅館の他、スナックが点在しています。

花街らしい雰囲気も残っています。

奇抜なデザインの建物。

味わいのある建物が多いです。

【参考文献】
*1郷土出版社:いわき今昔写真帖(郷土出版社,2003)P.98

いわき(五色町遊廓)現在は面影はありません。

今回は、いわき(福島県いわき市)の町並みと風俗を散歩します。
いわき市は、1966年に、平市、磐城市などを合併し誕生しました。その後、1994年に平駅はいわき駅と改名されました。
明治の初期、平の遊廓は、最初、材木町、その他に点在していましたが、明治40年に五色町に移転しました。吉原遊廓をまねて大門を建て、酔客をそこまで見送ることが、浜通りの名物となっていました。*1

鎌田町から見た五色町交差点方面。

平町全図*2 に五色町遊廓の場所が記されていますが、それによると、五色町遊廓は、現在の五色町交差点の南側にあったと思われます。

遊廓の東側に位置する鎌田橋。五色町遊廓は鎌田遊廓とも呼ばれていました。*1

【参考文献】
*1 荒川禎三:磐城百年史(マルトモ書店,1966)p.282-P.285
*2 吉成留三郎:磐城平町案内(関内米三郎,1913)

船橋(ヘルスセンター跡)東京ドーム8個分の面積を持つ巨大娯楽施設跡地

昭和30年から52年まで、船橋ヘルスセンターという娯楽施設がありました。その面積は東京ドーム8個分という巨大なもので、温泉、遊覧飛行場、サーキット場、人口ビーチ、遊園地、ゴルフコース、人工スキー場などがありました。
中でも、高さ25メートル、長さ100メートルの水の滑り台の「大滝すべり」は大ブレークしました。時速50キロメートル滑降スピードのため、途中で海水パンツが脱げてしまうというハプニングも起きました。
現在は、大型ショッピングセンターの「ららぽーと」になっています。

船橋ヘルスセンターの名残と言えそうな碑が、三井ガーデンホテルの駐車場の脇にあります。

碑のプレートに書かれているように、当時、温泉コンクールというのがあったようです。

1993年には、ららぽーとの隣に人工スキー場の「ららぽーとスキードーム・ザウス」がオープンしましたが、2002年に閉鎖。跡地は、大型家具店になっています。

【参考文献】
*1 日本観光雑学研究倶楽部:セピア色の遊園地(創成社,2005)P.76-P.88

船橋(船橋漁港近くのホテル)HOTELU

船橋港の近くにあるビジネスホテルの「市松」。

近代的なビジネスホテルになっていますが、敷地の端に古い建物があります。

建物の側面上部に、ローマ字で「HOTELU ICHIMATS」と書かれています。普通は、「HOTEL ICHIMATSU」だと思うのですが、昔は、こういう書き方をしていたのでしょうか。

モダンなデザインです。

■カテゴリ ホテル 船橋

船橋(山谷澪跡)海から魚を運ぶための運河の跡

国道14号線沿いにあるNTTのビルから少し南へ入ったところに、運河跡の入口があります。

運河跡の脇には遊歩道が続いています。

この運河跡は、澪(みお)と呼ばる川と海を結ぶ流路で、かつては海から魚を運ぶために利用されていました。船橋には、このような澪が数多くありました。*1*2
せり出す母屋がアジアンチックです。*2

裏側の道路側から母屋を見たところ。

【参考文献】
*1 船橋市広報課:悠遊散歩道(船橋市広報課,1996)P.7-P.8
*2 散歩の達人(2001.10)P.12

■カテゴリ 船橋 路地

船橋(ちかん注意看板)旧遊廓の周辺にあります。

今回は、船橋(千葉県船橋市)の町並みと風俗を散歩します。
船橋駅の西側、旧遊廓の近くにある海神稲荷神社。「???にご注意!!」の看板。

経年変化で見えにくくなっていたようです。斜めから見ると、”チカン”の文字が見えました。

遊廓跡地近くの路地。

京成船橋駅前のパチンコ店前。

新発田(新発田遊廓跡地)月に宣し、雪に宣し、女は殊に宣し

「全国遊廓案内」によると、新発田遊廓は、新発田町字三宣(みのり)町(現在の御幸町)にありました。*1
町名の由来は、「月に宣し、雪に宣し、女は殊に宣し」ということで、三宣町に改称されました。現在は昔の妓楼もなく、道路の両側は商店街となっています。*2

昭和33年、公娼制度は廃止され、広い道路を挟んで並んでいた妓楼は無くなりましたが、その頃の名残に今なお盆栽仕立ての松が残っています。*2

松の木が残っているお宅。

逆方向から見たところ。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.94
*2 松田時次:新発田今昔写真帖(郷土出版社,2002)P.66-P.67

新発田(掛蔵)割烹や飲食店が建ち並びます。

今回は、新発田(新潟県新発田市)の町並みと風俗を散歩します。
掛蔵は、古くからの繁華街で、現在は中央町4丁目となっています。*1

現在も割烹や飲食店が建ち並びます。

路地にある古びたスナック。

古いプレートが残っていました。現在は民家になっています。

【参考文献】
*1 松田時次:新発田今昔写真帖(郷土出版社,2002)p.20

鶴岡(宗吾神社)楼主の名前

藩政時代から続いた七日町と八間町の下旅籠は、八間町を北曲輪、七日町を南曲輪とよび、不夜城を誇っていましたが、風教上よろしくないという見地から、小眞木田ん圃(双葉町)に移転することになり、期限は昭和7年3月になっていました。*1
ところが、同2年暮れまでに移転を完了したのは、小松楼、松形楼、矢島楼、中村楼など8軒で、一流どころは移転を渋っていました。その経緯は、まず小松楼という三流どころの楼主金野小治が率先し、まるで軍艦のような妓楼をつくり、そして個人的に信仰し自庭に祀っていた宗吾神社を同遊廓の氏神とするよう寄付しました。これに一流どころの楼主たちが反発したため、移転が遅れることになりました。*1
宗吾神社は、現在も双葉町にあります。

鳥居の脇に寄進者の一覧が書かれた碑がたっています。

宗吾神社の由来。これによると、「金野小治が息子の小三郎を佐倉に使いし、下総佐倉の宗吾霊堂の分霊を受け、所有地に境内を整備し崇拝していたが、これを町の願いにより町の守護神として寄贈譲渡し、以後町が管理している。」と書かれています。

寄進者の名前。一番右に、小松楼楼主の金野小治、右から4番目に息子の金野小三郎の名前があります。6番目の若喜楼は、妓楼の名前でしょうか。

【参考文献】
*1 目で見る鶴岡百年中巻(昭和戦前篇)(エビスヤ書店,1977)P.29

鶴岡(双葉町遊廓跡)転業アパートとして当時の面影が残っています。

鶴岡の「双葉町遊廓」は、大正15年から昭和3年までの間にできました。双葉町は近年の住居表示で正式町名となりましたが、それまでは俗称でした。鶴岡市大字日枝字天池が正しい地名なのに、この一角は「フタバチョウ」で通り、それは遊女の里の代名詞でもありました。*1
現在の双葉町に、極端に道幅が広い通りがあります。どうやらこのあたりが遊廓の中心部であったようです。

昔からある建物は、現在は、アパートや民家になっています。

立派な松の木がある建物。

鮮やかな色のペンキで塗り替えられた建物。

【参考文献】
*1 半田岩雄: 鶴岡の今昔(東北出版企画,1975)P.35

鶴岡(内川)晴れていれば鳥海山が遠望できます。

鶴岡市街を流れる内川とそれに架かる美しい橋は、心なごむ風景です。
鶴園橋から内川を眺めると三雪橋と千歳橋と橋が連なっています。晴れていれば鳥海山が遠望できます。

直木賞作家の藤沢周平は、昭和2年(1927年)、鶴岡市に生まれました。
藤沢周平の作品とゆかりの地の案内板が、市内のあちこちに設置されています。
代表作「蝉しぐれ」の舞台「五間川」のモデルはこの内川で、主人公の少年藩士の文四郎がお福と舟を降りたとされる三雪橋は、赤い欄干が美しい橋です。
文四郎が童貞を失った妓楼の若松屋があった染川町は、七日町の遊廓がモデルであったと思われます。

柳橋。この橋を渡ると、観音堂の前を通りすぎて七日町旧遊廓街へ行くことができます。
この橋は、明治12年朝日楼楼主の安達三蔵が私費を投じて架橋したものと言われています。*1
柳橋という名前は、東京の花柳界を真似たようで、芸者華やかなりし頃を偲ばせています。現在の橋は昭和29年に架け替えられたものです。*2

神楽橋は、藩政当時は七日町橋と呼ばれ、神楽橋と改称されたのは明治9年。*2
明治に入ってからも、神楽橋に遊客をのせた酒田船が通っていました。*3

【参考文献】
*1 花筏健:こぼればな史(庄内日報社,2007)P.44-P.45
*2 目で見る鶴岡百年下巻(昭和戦後篇)(エビスヤ書店,1978)P.161-P.162
*3 大泉散士:私の鶴岡地図(阿部整一,1981)P.4