熊本(蓮台寺)白拍子「檜垣」の古いロマンス

二本木遊郭があった場所から徒歩20分ほど南にある蓮台寺。

ここに、白拍子だった「檜垣」の供養塔があります。*1

「年ふればわが黒髪も白河の水はぐむまで老いにけるかな」
檜垣の若い頃の話は、これといって残っていませんが、美しかった黒髪もすっかり白くなった晩年に、白川べりで旧友と交わるという、零落した身の上を詠んだものです。*1

供養塔を囲む玉垣の入口の2本石柱には、二本木遊郭の楼名が刻まれています。白拍子だった「檜垣」の墓に詣でると、下の病気をしないとか、安産をし、母乳の出が良くなるとかで、今も甘酒や餅が供えられているそうです。平安時代の白拍子「檜垣」と二本木遊郭の結びつきを感じます。*1

【参考文献】
*1 猪飼隆明:遅咲きの女たちの遺言(熊本出版文化会館,2006)P.355-P.358

熊本(東雲楼)取り壊し間近

二本木遊廓にあった東雲楼は、廓中第一流の大籬(おおまがき)としてその名を全国に知られた遊廓でした。構内は広く、数棟の巨屋が軒をならべて建ち、広大な庭園を有していました。*1
東雲楼の一部の建物が現在も残っています。*2
残念ながら近日中に取り壊されることが決定されているようです。

1900年(明治33年)、東雲楼の娼妓たちが待遇改善を求めてストライキを決行。東雲楼は、一躍有名になりました。*3

玄関の床のタイル。

当時のままと残されているレンガの塀*2

【参考文献】
*1 津留豊:熊本の遊びどころ(舒文堂河島書店,2006)P.37(明治42年発行の同名の書籍の復刻版)
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.59
*3 佐渡資生:味と歓楽五〇年 くまもと夜話(味と歓楽50年出版委員会,1984)p.171

熊本(川沿いの旅館の建物)バラック風の建物。

今回は、熊本(熊本県熊本市)の町並みと風俗を散歩します。
JR熊本駅前の通り(国道22号線)を東へ行くと、白川と平行して坪井川が流れています。橋から見て南側が二本木遊廓があった方角ですが、川沿いに古い旅館の建物があります。

古い木造の建物が川沿いに建ち並んでいます。

バラック風の建物です。

こちらは、3階建てです。

佐賀(松原親和通り)かつての女性街

佐賀市内の中心部にある松原親和通りは、古くからの繁華街です。
昭和30年刊行の「全国女性街ガイド」*1 の佐賀の項には、「赤線は、下今宿と町端れの新地と呉服町通りの裏に点在しているが、色艶のない里である。それより、松原神社周辺の飲み屋の方がおもしろい遊びができる。」と書かれています。

曲線を描いて路地が続いています。現在は片側が空き地になってしまいましたが、当時は両側に飲み屋さんがずらっと並んでいたのだと思います。

路地の奥まったあたり。

屋根の上に物干し場のある建物。

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.189-P.190

佐賀(室園橋)橋の欄干に妓楼の名前

室園橋は、大正9年に造られた石橋です。

橋の欄干の内側には、三星楼、萬春楼、真松楼、砕月楼、三浦屋などの楼名が刻まれています。いずれも、「全国遊廓案内」*1 に記載されている楼名です。

北側の石橋の欄干にも楼名が刻まれています。風化が進み、かなり読みづらくなっています。

こちらの欄干は、鮮明に楼名が読み取れます。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)p.453-P.154「全国遊廓案内」

佐賀(室園遊廓跡地)室園橋が残ります。

佐賀市の遊廓は、上芦町(現在の高木町)にありましたが、貸座敷が県庁の近くにあることによる風紀上の悪影響を理由に、明治16年、上芦町の貸座敷は廃止され、明治22年に佐賀市今宿町に遊廓が移転・再開されました。*1
1933年(昭和8年)発行の「大佐賀最新市街全図」*2 によると、現在の今宿町のバス停の南側に「室園遊廓」(今宿遊廓の別名?)と書かれた場所があります。

実際にその場所へ行ってみると、小さな石橋があります。

石橋には、室園橋と彫られていています。

室園橋は2つあります。同名のもう一つの室園橋は北側にあります。

【参考文献】
*1 佐賀県女性と生涯学習財団:さがの女性史(佐賀新聞社,2001)p.275
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.108

佐賀(思案橋)長崎街道にあります。

佐賀市内を旧長崎街道が横断しています。

長崎街道を東へ進むと、思案橋があります。

思案橋は、「遊廓へ”行こうか戻ろか”と思案したので名付けられた」という遊郭への門前橋であることが多いのですが、佐賀の思案橋も例外ではなく、ここから南に折れたところに今宿遊廓がありました。

思案橋のたばこやさん。

佐賀(松乃湯)御家族湯

今回は、佐賀(佐賀県佐賀市)の町並みと風俗を散歩します。
古い旅館などが点在する愛敬町の路地。

銭湯の松乃湯があります。前面は、奇抜なデザインの建物です。

銭湯の建物の左脇に、もう一つ別の建物が隣接しています。

「御家族湯」と書かれた看板。家族だけで楽しめる別棟の銭湯ということでしょうか。

諫早(トンネル上のラブホテル)南国のリゾート地

諫早駅から、バスで約20分。「トンネル上」という名前のバス亭で下車します。近くに大村線のトンネルがあるので、この名がついたのだと思います。

トンネルの上の道を登っていくと、ラブホテルの入口があります。

さらに、山道を登ると別のホテルがあります。この一画にはラブホテルが集中しています。

まるで、南国のリゾート地のような風景です。

諫早(元旅館街)遊廓跡?

厚生町に、かつて旅館が建ち並んでいた一画があります。

古い建物も残っています。

現在も営業中の「恵比須屋旅館」。

地元の方に話をお伺いしたところ、昔、このあたりには遊廓があり、遊廓内には小さな川が流れていて、遊客は船に乗って遊廓へ来たそうです。

長崎丸山(出島)女中部屋

出島は、鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。*1
出島の表門には、「傾城(けいせい)之外女入事」(遊女以外の女性は、出島に出入りしてはならない。)と書かれた立札があり、厳重な警備がしかれ、出入りできる者はごくごく限られていました。つまり、女性としては丸山遊女のみが、日常的に外国人と接することができたわけです。丸山遊女の存在により、西洋の近代文明は、いちはやく市中に広まり、同時に、日本という国の具体的な姿が遠い西洋に紹介されました。*2

カピタン部屋は、オランダ商館長(カピタン)の事務所や住居として使用された出島で最も大きな建物です。*1
1809年に渡来したカピタンのブロムホフは、遊女「糸萩」を出島に呼び入れ、糸萩は、1812年に女児を出産しました。*2

カピタン部屋には、女中部屋が再現されています。

女中部屋は、遊女たちが使用する部屋でした。

【参考文献】
*1 長崎さるく:「出島」パンフレット
*2 白石広子:長崎出島の遊女(勉誠出版,2005)P.5,P.20,P.52,P.93

長崎丸山(「三島屋」の建物)寄合町遊廓跡

寄合町の本通り。明治末期の唯一の地図である「長崎丸山町、寄合町全遊廓細見図」*1 によると、当時は、この通りの両側に遊廓がびっしりと建ち並んでいました。

坂の途中に1軒だけ、当時の佇まいを残している建物があります。

「三島屋」という屋号の店だったこの建物は、現在はアパートとして使用されているようです。

玄関付近。

【参考文献】
*1 山口雅生:廓の娘(長崎花月史研究所,1973)

長崎丸山(花街跡の碑)日本三大遊廓の一つでした。

丸山町の東側。料亭杉本家跡(現・料亭青柳)の近くに、長崎丸山花街跡の碑があります。

丸山は、寛永19年(1642)年、幕府の命により、長崎奉行所が長崎市内に散在していた遊女屋を1ヶ所に集め、公認の遊廓をつくったことにはじまります。

丸山は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大遊廓の一つでした。

丸山とは、丸山町と寄合町をあわせた花街の総称です。L字型の町域でした。現在の丸山公園のあたりがL字の角の部分にあたり、ここから丸山町は東に向かって、寄合町は南に向かって傾斜を持って形成されていました。

長崎丸山(見返り柳、思切橋)花街入口のシンボルです。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
見返り柳は、花街からの帰り道、男たちが未練を断ち切れず、振り返る姿から名付けられました。見返り柳は、京都島原の花街入口にある柳がはじまりと言われ、その後、江戸の吉原や長崎丸山に伝わり、いつしか花街入口のシンボルとなりました。*1

見返り柳と思切橋の案内板。

橋銘が刻まれた思切橋の欄干。
思切橋は、山の口を流れていた小さな溝にかかる橋でした。思案橋で行こうか戻ろうかを思案し、ここで思い切って花街へ繰り出す。あるいは、花街からの帰り道、思いを断ち切って家路を急ぐなどど言われるようになり、いつしか思切橋と名付けられました。*1

江戸時代、丸山は現在の丸山町と寄合町の総称でした。長崎人はシンプルに「山」と呼んでいたため、これが丸山の入口を山の口という所以でもあります。*1

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)「長崎游学マップ3」P.13