柴又駅近くの踏み切りの脇にコインランドリーがあります。
一見なんの変哲もないコインランドリーですが、実は、ここは似顔絵ランドリーです。壁と天井に似顔絵がびっしりと貼られています。
たいていは一人1枚ですが、寅さんの似顔絵は数枚あります。
新聞でも紹介されました。
柴又駅近くの踏み切りの脇にコインランドリーがあります。
一見なんの変哲もないコインランドリーですが、実は、ここは似顔絵ランドリーです。壁と天井に似顔絵がびっしりと貼られています。
たいていは一人1枚ですが、寅さんの似顔絵は数枚あります。
新聞でも紹介されました。
柴又駅近くのレトロな看板建築の酒屋さん(現在は自販機)の向こうに、煙突が見えます。
銭湯の北野浴場です。
存在感の煙突。
現在は、コインランドリーとして営業中です。
「男はつらいよ」の撮影にも使われた団子屋の「とらや」に裏手に、数年前までソープランドがありました。音楽家の戸塚省三さんの著書「東京路地裏観光」によると、ここには、「特殊浴場ソープランド『柴又キング』入口」と書かれた看板がありました。*1
ソープランドが普通の住宅の中にポツンと一軒だけ建っていて、田舎の湯治場のような雰囲気の建物でした。*1
「入口を入ると左手に洗濯機が置かれた物置みたいな部屋があって、その脇の通用口のような通路を通り抜けると、昭和三十年代の喫茶店で流行ったようなオレンジ色のアクリル扉が半開きになっていてそこが待合室だった。*1」と戸塚省三さんは当時の様子を語っています。
当時の名残と思われるプレートが残っていました。
【参考文献】
*1 戸塚省三:東京路地裏観光(二玄社,1996)P.235-P.239
今回は、柴又(東京都葛飾区)の町並みと風俗を散歩します。
駅前の広場には、「男はつらいよ」でおなじみの寅さんの銅像があります。
松竹映画「男はつらいよ」シリーズは、山田洋次原作・脚本・監督、渥美清主演で1969年に第1作が公開され、以後1995年までの26年間に全48作品が公開された国民的人気シリーズです。*1
「わたくし、うまれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎。人よんで、フーテンの寅と発します。」という、おなじみの寅さんの口上が思い出されます。
(余談になりますが、わたくし風俗散歩は、姓は風俗、名は散歩。人よんで、フーさんと発します)
銅像の台座には、「寅さんは損ばかりしながら生きている。江戸っ子とはそういうものだと、別に後悔もしていない。(中略)ごめんよさくら、いつかはきっと偉い、兄貴になるからなー。車寅次郎はそう心に念じつつ、故郷柴又の町をふりかえるのである」と山田洋次郎監督の言葉が書かれています。
帝釈天参道の入口は、駅からすぐです。
【参考URL】
*1 松竹株式会社:男はつらいよ 松竹公式サイト「男はつらいよ」とは
松阪市愛宕町に小津安二郎青春館があります。映画監督の小津安二郎さんは、9歳から19歳までの思春期を松阪で過ごしました。
当時、花街として賑わった愛宕町で遊んだ経験は、小津さんの人生に大きな影響を与えました。*1
小津安二郎青春館は、生誕100年を記念して松阪市が開設したものです。
館内には、小津安二郎さんに関する展示があります。
代表作の「東京物語」
【参考資料】
*1 小津安二郎青春館の展示資料
松阪市湊町の商店街。
鮨屋さんに成人映画のポスター。
3本立ての成人映画が上映されています。
映画館の建物の背面。松阪大映のマークが描かれています。
松阪の愛宕町には、大正から昭和にかけて20軒ほどの遊廓がありましたが、現在はバーやキャバレーが建ち並ぶ歓楽街となっています。*1
松阪には、西の廓・東の廓の二ヶ所がありました。西、すなわち松阪の入口を川井町(かわいまち)、出口すなわち東を愛宕町といいました。双方ともに参宮街道(旧伊勢街道)沿いにあったため相当賑わったようです。特に川井町の方が町全体が遊廓で、一丁目から三丁目まで旅籠屋と遊女屋が街道の両側に向かい合わせ並んでいました。明治十年頃の遊女屋は大小合わせると20軒ほどでした。*1
松阪は戦災にあっていないため、川井町は、わずかではありますが昔のよすがを見ることができます。*1
琺瑯(ホーロー)看板のある酒屋さん。
逆方向(北西側)から。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.184-P.187
旧伊勢街道沿いの川井町。
古い町並みが残っています。
民家の前にある木製消火器箱。古い町並みに溶け込んでいます。
木箱の前面に「消火器」と書かれた木札が取り付けられています。
松阪駅の北西にある岡寺山継松寺。*1
北側の通用門の両側に古い商店街があります。
トタン建築の商店街が延々と続きます。
2階建ての長屋の建物。
大衆食堂。
【参考URL】
*1 岡寺山継松寺:公式ホームページ「寺院概要・地図」
駅前の交差点の角に、開発から取り残された一画があります。
飲み屋が建ち並ぶ小路。規模は小さいです。
L字型に曲がって、駅前の大通りに出ます。
閉店の貼紙。昭和27年から営業していた居酒屋さんです。
今回は、松阪(三重県松阪市)の町並みと風俗を散歩します。
JR松阪駅前に白ポストがあります。
箱は、2つ並んでいます。
やぎの箱。悪書を食べてしまいます。紙の本だけでなくビデオやDVDも食べてしまいます。
箱の側面にはやぎのデザイン。
古市遊廓があった古市参宮街道に、資料館があります。
ここには、遊廓関連の資料が展示されています。
古市の娼妓たちの写真。
昭和初期まで存在していた大安旅館の展示。
麻吉(あさきち)旅館は、古市で現在も営業する昔ながらの唯一の旅館です。*1
当時、ここは麻吉料理店といって明治初年において第一級の料亭で、置いている芸者は20人あまりもいました。芸者はみな美人で、ここでの芸者は他の店にはでないほど麻吉は全盛をきわめました。*1
旅館は崖の上にたっていて、石段を下ると旅館の建物の裏側へ降りることができます。
崖下の伊勢自動車道から見た麻吉旅館。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.126,P.134
古市にある大林寺。
今回は古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。古市の風俗散歩は、2006年9月に引き続き、今回で2回目です。
古市遊廓跡の入口にあたるのが「間の山」の坂道です。遊廓が全盛だった大正時代の間の山は、今よりも坂が急でしたが、人力車は威勢よく行き来しました。*1
間の山の坂の途中に、「お杉・お玉の碑」があります。
お杉・お玉というのは、二人の女性が三味線を引きながら演技をしているのに対して、お客がほんのすぐ近くから小銭を投げるのですが、それを女たちがたくみにバチで受け止め、これを避けたりして体にあたらないようにする遊び場で、古市の見世物のひとつでした。*1
間の山は、井原西鶴の「西鶴織留」や中山介山の「大菩薩峠」にも登場します。*1
間の山の近くの「まちづくり実行委員会」の民家に、当時の古市の写真が掲載されています。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.108 -P.110
新宮市春日に新宮出身の小説家の中上健次さんの生家跡の案内板があります。*1*2
中上健二さんの代表作のほとんどは、故郷の新宮を中心に、熊野・紀州の風土を背景としたもので、浮島遊廓や女郎などの題材も頻繁に登場します。
小説「千年の愉楽」に登場する「天地の辻」。*1
写真の建物(新宮市人権教育センター)には、中上健二さんの展示があります。
小説「枯木灘」「奇蹟」、「地の果て 至上の時」で登場する「新地」と呼ばれた歓楽街があったあたり。*1
【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.12,P.74,P.132
*2 上原善広:日本の路地を旅する(文藝春秋,2009)P.12
大王地の旧料亭街には、スナックの建物が混在しています。
十字路の角にあるスナック。
スナックが建ち並ぶあたり。フィリピンの店もあります。
和風の建物ですが、現在はスナックとして営業中です。
江戸時代、新宮は上方と江戸を結ぶ海上の要衝で、木材や薪炭の集散地として栄えました。熊野速玉大社南側に、大王地と呼ばれる旧花街がありますが、新宮が「南国の宝石」と呼ばれたころの殷賑が見てとれます。*1
飲食店やスナックが軒を連ねますが、老舗の建物も多く残されています。
かつて、料亭だったと思われる建物が建ち並びます。
入口にタイルの装飾がある和風の建物。
【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.17-P.18
明治時代中頃まで、群馬県と和歌山県だけには遊廓が設置されていませんでしたが、日露戦争後の軍国主義華やかな時代、兵営誘致のためには遊廓の設置が必要との考えが浮上し、明治39年、日高郡白崎村糸谷、東牟婁郡大島村、東牟婁郡新宮町合筋の3ヶ所に遊廓が設置されました。新宮町合筋に設置された遊廓は通称「三本杉遊廓」と呼ばれましたが、明治45年の大火により消失し、大正2年に浮島に移転し、浮島遊廓として終戦まで続きました。*1
「浮島遊廓造成地図」*2 によると、遊廓があった場所は、現在の浮島の森の北側の公園のあるあたりで、北側の山を切り崩して土地を造成して遊廓が建設されことが確認できます。写真奥の保健センターがある場所にも妓楼が建っていました。
遊廓跡地全景。
北側の遊廓の正面の道路。道幅が途中で広くなっています。
【散歩地図】
【参考文献】
*1 熊野地方史研究会:熊野誌 第22号(新宮市立図書館)「新宮遊郭始末記」P.151-P.163
*2 新宮市立図書館(所蔵):浮島遊廓造成地図
今回は、新宮(和歌山県新宮市)の町並みと風俗を散歩します。
新宮には、熊野三山の一つである熊野速玉大社がありますが、神倉神社は、その摂社(速玉大社の管理下にある小さな神社)です。神倉神社への案内板に「熊野比丘尼」と書かれています。
比丘尼(びくに)とは、尼さんのことですが、この熊野比丘尼が布教や信者獲得を行い、熊野詣でを勧めました。*1
熊野比丘尼は、熊野三山から免許状を与えられる代わりに、布教で得た売上金を熊野三山に上納しました。*2
しかし、江戸時代元禄期以降になると、困窮のため熊野の統制から離脱し、売色行為を行う「売女比丘尼」も現れました。*3
神倉神社の入口の鳥居。自然石を積み重ねたかなり急勾配の参道が続いています。
石段を登りきるとご神体のゴトビキ岩があります。
ゴトビキ岩は性器崇拝の観点から勃起した男根と解釈されています。*4*5
ゴトビキ岩から見た新宮市街。
【参考文献】
*1 光田憲雄:江戸の大道芸人(つくばね舎,2009)P.101
*2 根井浄,山本殖生:熊野比丘尼を絵解く(法藏館,2007)P.460-P.463
*3 曽根ひろみ:娼婦と近世社会(吉川弘文館,2003)P.77-P.83
*4 町田宗鳳:エロスの国・熊野(法蔵館,1996)P.107-P.110
*5 洋泉社編集部:いちどは行ってみたい日本の聖地(洋泉社,2010)P.78-P.79
紀伊大島は、本州最南端の潮岬が太平洋の中に突き出ている半島の東側にあります。
紀伊大島と半島は串本大橋で結ばれています。
串本大橋の紀伊大島側の橋詰広場に串本節の碑があります。串本節は和歌山県を代表する民謡で、全国的にも有名です。
串本節が有名になったのは、大正十三年六月、世界一周を目指していた水上機「ダグラスDWC」取材に集まった新聞記者が、台風で長逗留を余儀なくされ、退屈をまぎらわすために開いた宴会で、地元の芸者衆が串本節を披露したときです。これが好評を博し、全国に広まりました。*1
串本節にでてくる「しょらさん」はハワイ語で恋人の意味で、「おゆき」は遊女の名前、「佐吉」は大島にあった遊廓の名前です。*1
(串本節歌詞)*1
ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ 巡航船
アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ※
潮岬に灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ
(※くりかえし)
わしのしょらさん岬の沖で 波にゆられて鰹釣る
(※くりかえし)
大島水谷 かかりし船は お雪見たさに潮がかり
(※くりかえし)
障子あくれば 大島ひと目 なぜに佐吉は山のかげ
(※くりかえし)
---後略---
【参考文献】
*1 饒村 曜:海の気象.53(3)(2007)「飛行機による初の世界一周と飛行船による初の世界一周–「串本節」を全国的に有名にしたダグラスDWC」P.24-P.25
大島港近くの斜面に、蓮生寺があります。
寺の山門。
大島遊廓の遊女のうち、最も優れた遊女は「お雪」の名を襲名していました。
蓮生寺の境内の墓地には、「お雪之碑」があります。
【参考文献】
*1 桧垣巧:串本町・大島区の調査報告書(高野山大学社会学研究室,1987)P.11
大島港周辺に建ち並んでいる民家の裏の路地。
風情のある建物。
ゆるやかやカーブの路地が続きます。
路地の向こう側は、大島港の海です。
紀伊大島の北西部にある大島港は、(串本大橋が出来る前までは)巡航船やフェリーが発着する港でした。明治時代の高等小学校新地理の教科書の「港」の項には、本州における良港が20港あげられていて、その最後に大島港がのっていました。*1
現在の大島港の岸壁付近はかなり広いコンクリート固めの広場になっていますが、これは明治時代の埋め立てによって造成されたもので、江戸時代の海岸線はもっと深く陸地に後退していて、「数十百」という帆船が停泊できました。*1
江戸時代、風待ちの帆船は、10日またはそれ以上も港に釘付けにされたため、大島商人らは、チョロ(女郎)舟という伝馬船に、食糧品、日用品、それに若い遊女を乗せて、風待ちの帆船の間を商いして回りました。当時の大島には船宿が32軒、旅館が6軒ありました。女郎は1人か2人ずつ民家に身を寄せており、明治の半ばくらいにその数は50~60から80人くらいいたといわれています。和歌山県下で公娼遊廓があったのでは、和歌山、御坊、新宮の3市と大島の4ヶ所でした。*1
現在、港の周辺には、旅館や元船宿と思われる建物が建ち並んでいます。
【参考文献】
*1 桧垣巧:串本町・大島区の調査報告書(高野山大学社会学研究室,1987)P.10-P.11
今回は、紀伊大島(和歌山県東牟婁郡串本町)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊大島は、本州最南端の潮岬がある串本町の沖合いに浮かぶ島です。紀伊大島の東端には樫野埼が大きく突き出していて、その附近には暗礁が散在しています。写真は海金剛(うみこんごう)から見た樫野埼(写真右奥)です。
明治23年(1890年)、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号がこの樫野埼の暗礁に座礁して遭難しました。樫野崎灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑があります。
このとき、島民の献身的な救助により、69名が救助されましたが、580名の尊い命が無くなりました。日本とトルコの友好関係の起点としてこの事件が記憶されている。
引き上げられた遺体は、現在の慰霊碑がある丘(写真右上)に埋葬されました。
トルコと言えば、日本の性風俗業界ではトルコ風呂(現在のソープランド)が有名ですが、1984年にある元トルコ人留学生の抗議運動があり、日本とトルコの友好に亀裂が生じかねない事件に発展しました。その結果、「トルコ風呂」は「ソープランド」と改称され、昨今では、性風俗用語としての「トルコ風呂」の名も忘れ去られつつあります。