日本橋(理髪店)昭和5年築の看板建築

日本橋本町四丁目は、かつての町並みや雰囲気が残るエリアです。

中でも「理髪久保田」は、昭和5年築の看板建築です。

モダンなデザインです。

現在も営業中です。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」


■カテゴリ 理美容室 日本橋
■散歩事典 日本橋

日本橋(麻雀クラブ富士)昭和25年頃は「パチンコ富士」でした。

東京駅前はオフィスビルが林立するビジネス街ですが、雀荘が密集しているエリアでもあります。

昭和の雰囲気そのままの「麻雀クラブ富士」。

昭和25年頃は「パチンコ富士」でした。*1

玄関部分。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」


■カテゴリ 商業 日本橋
■散歩事典 日本橋

日本橋(八重洲の飲み屋街)八重洲のあの日

建設中の八重洲一丁目のこの場所に、数年前まで料亭「安芸」*1 がありましたが、取り壊され新しいビルが建設中です。工事用フェンスに「八重洲一丁目飲食街」と書かれている通り、建設中のビルの裏手に飲み屋街があります。

看板が連なる飲み屋街。写真右側は工事用フェンスです。

工事用フェンスには、「八重洲のあの日」と題し、江戸時代から現在に至るまでのこの界隈の変遷が地図で示されています。

1950年頃の火災保険特殊地図。この地図によると、この付近は「中央ホテル別館」や料理屋が建ち並ぶ一画でした。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」


■カテゴリ 飲食街·横丁 日本橋
■散歩事典 日本橋

日本橋(花街跡)横丁や路地に遊興の歴史

今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の八重洲一丁目付近は、江戸時代の市街造成期からの古い町並みです。明治維新後は、新時代を代表するような近代諸会社とこれと全く対照的な下町の商店や芸者屋・待合が奇妙に混在する町でした。*1

東京駅八重洲北口から高島屋日本橋店へ行く通り(さくら通り)の牛丼店があるあたりに、日本橋芸妓屋組合事務所(見番)がありました。花街はこの見番を中心に待合・料亭・芸妓置屋が南北に広がっていました。*2*3

現在でも営業している「嶋村」は、嘉永3年(1850年)創業の老舗です。*2

日本橋の花柳界は、昭和38年に解散していて現在は昔日の姿はありませんが、横丁や路地になにかこうした遊興の歴史を感じます。*1

【参考文献】
*1 白石孝:日本橋街並み繁昌史(慶應義塾大学出版会,2003)P.11,P.27
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.105-P.108
*3 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」

合戦場(鷲宮神社)遊廓の主人や遊女たちが信仰

東武日光線、家中駅から東へ約2.5Kmのところに、鷲宮神社があります。
合戦場遊廓の主人や遊女たちは、商売繁盛を祈ってお酉様を信仰しました。*1*2

この日(11月23日)は例大祭(酉の市)が行われました。

酉の市の日は鶏肉と卵を絶たなければなりません。

神楽(かぐら)も披露されます。

【参考文献】
*1 都賀町史編さん委員会:都賀町史(都賀町,1989)P.275
【参考URL】
*2 鷲宮神社:鷲宮神社ホームページ

合戦場(合戦場遊廓跡地)昭和33年まで遊廓でした。

合戦場の町並みを西に入った東武日光線沿いの一画は、昭和33年まで遊廓だった地です。宿場時代の飯盛女を集めて遊女屋とし、ここにまとめられました。*1

当時の雰囲気が残る建物。

玄関脇に丸窓があります。

道路脇に祠がありました。

【参考文献】
*1 今井金吾:今昔三道中独案内 新装版(JTB出版事業局,2004)P.175,P.178

合戦場(私の家には..のプレート)日立創業者の生家

今回は、合戦場(栃木下都賀郡都賀町)の町並みと風俗を散歩します。
合戦場は、日光例幣使街道の宿場町で、合戦場という地名はその名の通り、戦国時代の大永3年(1533年)、宇都宮忠綱と栃木城主皆川宗成の軍が戦った場所です(川原田合戦)。宿場は500mほど続きますが、宿場時代は、飯盛り女が置かれている旅籠屋もありました。*1
天保10年(1839年)関東取締出役(別名“八州廻り”)の汚職事件にかかわり、合戦場宿の多数の旅籠屋などが検挙されるという事件がおきました。この事件は、もともとは、関東取締出役の内藤賢一郎という人が飯盛女にあてた恋文が露見したことから、合戦場宿福村屋太六が捕らえられたことに端を発したもので、当時評判となった事件でした。取調べにあたったのは、遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)で、処分者は800余人に達し、八州廻りの黒い霧が一掃されました。*2
合戦場宿に、日立製作所創業者の小平浪平(おだいらなみへい)さんの生家があります。

「私の家には酒飲みや酒飲み運転をする人はおりません」と書かれたプレート。

小平浪平さんの生家から約200m南西のところに、合戦場遊廓がありました。遊廓跡地に、廃屋があります。

ここにも、同じプレートが残されていました。

【参考文献】
*1 今井金吾:今昔三道中独案内 新装版(JTB出版事業局,2004)P.175,P.178
*2 本間清利:日光街道繁昌記 補訂版(埼玉新聞社,1980)P.102-P.103

宝町~八丁堀(レトロな商店街)戦前の看板建築がひっそりと残る一画

地下鉄八丁堀駅近く。ビル街の中に戦前の看板建築がひっそりと残る一画があります。写真の一番右側の建物は、旧神田美容院の建物です。*1

路地の入口。

銅板建築の建物。

都会のど真ん中にして、この石畳の路地。自販機の安室奈美恵さんのポスターとのアンバランスが何ともいえません。国旗掲揚塔があります。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」

宝町~八丁堀(京橋柳町遊里)吉原の元祖

都営地下鉄浅草線宝町駅の出口前は、昭和通りと鍛冶橋通りが交差する宝町三丁目交差点です。

江戸時代初期、この交差点の角の秋田銀行が入っているビルと昭和通りを挟んだ向かい側のビルの京橋二丁目東南部の地域に、京橋柳町遊里がありました。12

関が原の合戦(1600年)後、徳川家康が江戸開発に着手してすぐの頃に、麹町八丁目、鎌倉河岸、京橋に遊里ができ、その後、京橋の遊里は、人形町に移転し「よし原町」と呼ばれました。つまり、京橋の遊里と人形町の「よし原町」は、同時に存在しなかったことになりますが、一部は京橋に残って酒肴を出しながら売春をかねる家や、柳の下にたたずんで男に声をかける比丘尼もいました。炭町には、なかなか人形町の吉原へ行きたがらないメンバーが寛永3年(1626年)まで残っていました。*3

京橋川(現在の首都高速環状線)の西寄り(現在の首都高速西銀座JCT付近)には、「比丘尼橋」という名前の橋がかかっていて、この一帯は歓楽街でした。*3

【参考文献】
*1 金山正好,金山るみ:中央区史跡散歩(学生社,1993)P.110
*2 新創社:東京時代map.大江戸編(光村推古書院,2005)P.48,P.50
*3 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.27,P.30

宝町~八丁堀(江戸歌舞伎発祥の地)江戸三座

今回は、宝町~八丁堀(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。

八重洲通りと中央通りの交差点(日本橋と京橋の中間)には、「中橋」がかかっていました。中橋は、江戸歌舞伎発祥の地とされています。これを記念して京橋に「江戸歌舞伎発祥の地」の碑が建てられてあります。*1

寛永元年(1624年)、猿若中村勘三郎がこの地に「中村座」の芝居櫓をあげ、ここが江戸歌舞伎発祥の地となりました。
中橋の歌舞伎は、慶長期(1596年~1615年)は遊女歌舞伎で、派手に売笑していました。*2

その後、猿若座は、江戸城に近いという理由から今の人形町に移転しました。*3

*1 金山正好,金山るみ:中央区史跡散歩(学生社,1993)P.110
*2 石崎芳男:元吉原考(近代文芸社,1994)P.64-P.65
*3 足立直郎:歌舞伎劇場女形風俗細見(展望社,1976)P.32-P.33


■カテゴリ 芸能・音楽 宝町
■散歩事典 宝町

有楽町(進駐軍接収施設跡)米兵の街

地下鉄有楽町駅を地上に出ると、皇居を望む丸の内です。

ここには、第一生命本館、帝国劇場、明治生命ビルなど、昭和の激動期を見つめてきた近代建築物が多く残っています。
明治生命ビルは、昭和9年(1934年)竣工。ギリシヤ・ローマ建築を思わせる建築形式です。敗戦後、マッカーサーが一部会議室として使用しました。*1

マッカーサーがGHQ(連合軍最高司令部)の本部を置いたのは、明治生命ビルの300m南にある第一生命ビル(現DNタワー21)です。マッカーサーの執務室なども保存されています。*1

東京宝塚劇場は、1934年、東京での宝塚歌劇の拠点となる劇場として誕生。その後、立替工事を行い、2001年、リニューアルオープンしました。*3
敗戦後は、アニー・パイル劇場と改名された宝塚劇場は、他の接収施設とは多少事情が異なりました。観客は米軍の将校、兵隊でしたが、舞台上や舞台裏で日本人が活躍し、戦後の日本のエンターテイメントの発祥の地となりました。*2

【参考文献】
*1 小林一郎:目利きの東京建築散歩(朝日新聞出版,2010)
*2 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.149-P.153
【参考URL】
*2 宝塚歌劇団:宝塚歌劇ホームページ劇場案内


■カテゴリ 繁華街 有楽町
■散歩事典 有楽町

有楽町(やきとり横丁)哀歓の漂うトンネル

有楽町駅の南側のガード下は、飲み屋が密集する場所です。
店からあふれた客たち用に、道路に丸イスが並べられています。

ガード下の通路を南側へ進むと「ホッピー」のノボリとおびただしい数の提灯。

トンネル型ガードは、「焼き鳥横丁」と呼ばれ、わずか30,40mのかいわいに10軒ほどの店が並んでいますが、やはりこの一角では漂う煙が主役です。*1
「小松」、「登運とん」、「ふじ」、「金陵本店」は、昭和中頃から現在も続いている店です。

トンネル内には、濃い煙が立ち込めています。

【参考文献】
*1 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.81-P.85

有楽町(遊楽コンコース)ミルクホールの看板

JR線が走る遊楽町のガード下にある“有楽町コンコース”に、昭和の時代をそのままに再現した飲食店があります。

丹下左膳のポスターとミルクホールの看板。
「ミルクホール」は、明治30年(1897年)頃に各地の大学街などに現れました。当初は「新聞・官報縦覧所」と言われ、手頃な価格でミルクを飲みドーナツなどの軽食を食べながら、備え付けられた新聞や雑誌を閲覧することができました。まだ飲み慣れなかった牛乳の乳臭さを消すためにコーヒーが加えられ、一般大衆にコーヒーメニューが受け入れられることにもつながりました。*1

トリスバーの看板と理髪店。

性病科の診療所の看板。

【参考URL】
*1 UCC上島珈琲株式会社:時代を映す愛すべき空間~カフェはじめて物語・日本篇~


■カテゴリ 飲食街·横丁 有楽町
■散歩事典 有楽町

有楽町(ミルクワンタン)すし屋横丁

有楽町で書き落としてならないのは、すし屋横丁(通称:スシ横)です。現在の交通会館と新幹線の間には、「ヤミ市」の名残として、二階建てのすし屋横丁が昭和30年代まで残っていました。「スシ横」は、近隣のサラリーマンの手軽な安息所として人気を集めましたが、建物は年とともに老朽化し、汲み取り式の共同便所は異臭を放っていました。東京オリンピック開催を控えた時期、新幹線を日本の技術の粋として世界に紹介しようということになり、「スシ横」の撤去を断行するため、「東京交通会館」の設立が決定されました。*1
当時、すし屋横丁には、「ミルクワンタン」という店があって、店名にもなっているミルクワンタは、ワンタンの汁が牛乳で、モツの煮込みが入れてあるというものでした。カウンターには、油虫がはってて、床にはニワトリの足だの首だの落ちていましたが、味は最高でした。*2

現在の「ミルクワンタン」は、東海道線ガード下に移転しています。1968年、すし屋横丁の立ち退きの際、民間会社の倉庫だった物件が売りに出されると聞きつけて、主人の藤波さんは、金額よりは有楽町かいわいにあるかないかが問題だと考え、飛びつきました。*2

「ミルクワンタン」と赤い文字で書かれた看板。

ミルクワンタンは、若いころシベリアを放浪した藤波さんが、ボルシチにヒントをえて創作した料理で、和風スタミナ・シチューと考えればよく、胃にもなじみやすく、二日酔いにも効く、と評判をよびました。*2

【参考文献】
*1 木村毅:有楽町今と昔(東京交通会館,1980)P.271-P.272
*2 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.109,P.122-P.126


■カテゴリ 食文化 有楽町
■散歩事典 有楽町

有楽町(有楽町高架下商店街)丸三横丁

JR有楽町京橋口から徒歩0分のところに、「有楽町高架下センター商店会」の入口があります。

夜になると、看板に明かりが灯ります。

高架下を北に1分ほど歩くと、丸三横丁の看板があります。

JT高架を横切るわずか50mのトンネル状の小道に、味わい深い飲み屋群がぎゅ~っと詰まっています。場所は、東京国際フォーラムのすぐ隣。凄いギャップです。*1

【参考文献】
*1 散歩の達人:散歩の達人(1999.11)P.8-P.9

有楽町(銀恋の碑)男女デュエット曲の定番

〽あなたを待てば雨が降る.....
現在もカラオケの人気うたフランク永井さんの「有楽町で逢いましょう」は、1957年にそごうデパートが大阪から攻めのぼった時のイメージアップ・ソングでした。フランク永井さんは、そのとき、朝霞米軍キャンプ*3 などで歌ってきたジャズから流行歌に転向、デビュー2年目の無名歌手でしたが、「有楽町...」でバカ当たりしました。*1

数寄屋橋交差点の歩道脇。ここに、「銀恋の碑」があります。

「銀恋」とは、「銀座の恋の物語」の略で、同名の歌謡曲と映画があります。歌謡曲は、石原裕次郎と歌手の牧村旬子の歌唱でレコード化され、大ヒットし、男女デュエット曲の定番となりました。その功績をたたえるため、1990年、「銀恋の碑」が建立されました。*2

裏側には、この碑の由来が書かれています。

【参考文献】
*1 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.7-P.11
*2 大川渉:東京オブジェ(筑摩書房, 2010)
【参考記事】
*3 風俗散歩(朝霞):南栄通りのキャバレー跡地(2010.7)

有楽町(ガード下)パンパンガール発祥の地

今回は、有楽町(東京都千代田区)の町並みと風俗を散歩します。
有楽町駅の日比谷口を出て、すぐ左手に折れるとガード下です。頭上をJRの電車が走り抜けます。

敗戦直後、このあたりは、パンパンガール(街娼)のかせぎ場でした。*1
東京に進駐した占領軍は、日比谷の第一生命ビルにGHQを設置し、焼け残った建物は次々と接収されました。有楽町から日劇の周辺には、進駐軍将校や靴みがき少年、浮浪児、パンパンガールなどが街にあふれていました。東京におけるパンパンガールの発祥地はこの有楽町で、「ラク町ガール」とも呼ばれました。*2

パンパンガールは、旧日劇前や数寄屋橋交差点を周辺にも分布していました。

有楽町のガード下は、現在でも、昼なお暗い場所です。

【参考文献】
*1 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.12-P.17
*2 桑原稲敏:戦後史の生き証人たち(伝統と現代社,1982)P.12

赤坂(豊川稲荷)石垣には、寄進者の名前が彫られています。

赤坂にある豊川稲荷は、商売繁盛・盗難除けの御利益で有名ですが、芸事も上達すると言われ、赤坂芸者の信仰を集めました。*1

青山通りに面した石垣(大正15年建立)には、寄進者の名前が彫られています。

新吉原「大黒」。

洲崎遊廓の楼主たちは、赤坂の豊川稲荷を信仰していました。荒川楼、高橋楼、花井楼、北川楼などが判読できます。*2

【参考文献】
*1 小林奈津子:散歩の達人(1999.6)P.30-P.31「どこか一線を画す大人の赤坂」
*2 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.286