国立市街の南東のはずれに、銭湯のはとの湯があります。建物の前は更地になっているので、道路から建物の全景が見えます。
「サウナ」「コインランドリー」と書かれた看板。上から裸電球で照らされるようになっています。
入口付近。
入口の下駄箱。休業日の前日には、「明日は休業」の札がかかります。
国立市街の南東のはずれに、銭湯のはとの湯があります。建物の前は更地になっているので、道路から建物の全景が見えます。
「サウナ」「コインランドリー」と書かれた看板。上から裸電球で照らされるようになっています。
入口付近。
入口の下駄箱。休業日の前日には、「明日は休業」の札がかかります。
駅間のロータリーから南東方向の住宅街に、昭和26年頃、連れ込み旅館が急増しました。また、国立駅付近に稲荷神社をつくって、その門前町に特殊飲食街を建設しようとする計画もありました。*1
下宿屋が学生を追い出して旅館に鞍替えするところも現れ、また、子供が銭湯で性病に感染したことが、これは売春婦からうつされたものだという噂が流れました。*2
昭和26年、この連れ込み旅館を追放しようとする浄化運動が起こりました。避難の主な対象となったのは、付近の国立ホテルと新国立ホテルの2軒でした。安眠妨害になるほどの嬌声やダンス騒ぎ、出入りする自動車の爆音など、旅館の近くに住む主婦たちの訴えから持ち上がったものでした。*1
国立ホテルがあったあたり。*1
新国立ホテルがあったあたり。*1
浄化運動を推進する人々は「文教派」と呼ばれ、町議会で、国立の「文教地区指定」を決議することを目標にしました。一方、「反対派」は、「経済発展のためには文教地区指定は障害になる」「町がさびれ税金が高くなる」「文教派の運動は、反米の政治運動だ」だと非難し、一部の町民を動揺させました。これに対して文教派は、国会やマスコミにも訴え、世論で反対派を包囲することにより、町議会で議決を勝ち取りました。*2
【参考文献】
*1 りべらる(昭和26年9月号)P.86-P.93「学園都市『春の宿』追放騒動記」
*2 「くにたちの歴史」編さん専門委員会:くにたちの歴史(国立市,1995)P.207-P.211
今回は、国立(東京都国立市)の街並みと風俗を散歩します。 国立の学園都市は、神田にあった東京商科大学(現在の一ツ橋大学)の国立への移転を前提に開発が行われました。これに伴い、大正15年(1926年)に国立駅が開業しました。*1 |
国立駅前のロータリーに「国立文教地区」の看板が掲げられています。文教地区とは都条例で指定されるもので、風営法の適用を受ける料亭・キャバレーやホテル・旅館建築、劇場、遊技場や馬券発売所など、風俗を乱す恐れがあるものが規制されます。*1
昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発すると、隣の立川市には米軍基地に多数の米兵が進駐してきました。その影響は国立にも及び、米兵相手の簡易旅館や飲食店などが出現し、いかがわしい商売を始めたため、環境を守ろうとする市民や学生を中心に、浄化運動が始まりました。国立の浄化運動の特徴は、「文教地区指定」をかかげたことでした。昭和25年のに公布された東京都文教地区建築条例に注目して、この指定の実現を運動の柱にすえ、昭和27年(1952年)文教地区の指定を受けました。*1
現在の国立駅前の「大学通り」は、並木道が続く美しい町並みとなっています。
宮古島の市街の北側。
古い飲食店があります。
白い壁に、おにぎり、冷やし物、天ぷら、と書かれています。
ゴールデンウイスキーの看板。
イーザト近くの路地裏。
水色に塗られた古い床屋「なかま理容室」があります。
壁面には木材も使われています。
柱部分にお馴染みの赤と青と白の縞模様のマーク。
宮古島のイーザトの社交街の北側。
水色に塗られた木造2階建てのゲストハウスがあります。
この建物は、元は連れ込み旅館でした。エロ懐かしい雰囲気が漂います。*1
和風の部屋。
【参考文献】
*1 カベルナリア吉田:ひたすら歩いた沖縄みちばた紀行(彩流社,2009)P.218
平良の旧料亭街の南側は、新興のスナック街です。
カラオケ店などが建ち並びます。
赤瓦屋根のスナック。
夜になると、艶っぽい町並みに変貌します。
宮古島には風俗は無いので、娯楽は、昼は野球、夜は酒です。
【参考文献】
*1 吉田直人:金なし、コネなし、沖縄暮らし!(イカロス出版,2006)P.249
宮古島の中心街である平良(ひらら)は、戦前から「寄留商人」と呼ばれる島外からの外来商人で賑わい、それに伴い、料亭街を形成していました。料亭はサカナヤーと呼ばれ、遊廓を兼ねている場合が多かったそうです。*1
現在は、スナック街になっています。
料亭が密集していたあたり。*1
旅館だった建物。
【参考文献】
*1 堂前亮平:沖縄の都市空間(古今書院,1997)P.107-120
日本軍司令部があった野原(現在、航空自衛隊宮古島分屯基地第53警戒隊)の近くには、長屋のかやぶき屋根の慰安所がありました。*1
宮原に、朝鮮人が掘った井戸(伊良部ガー)が今でも残っています。慰安所は、写真の建物がある方向にありました。*1
花切部落の慰安所跡地。*1
写真の建物は、比嘉の保育所ですが、ここから比嘉に入る道沿いに慰安所がありました。*1
【参考文献】
*1 日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団:戦場の宮古島と「慰安所」(なんよう文庫, 2009)P.79,P.128,P.165,P.171
今回は、宮古島(沖縄県宮古島市)の町並みと風俗を散歩します。
1943年、沖縄戦必須の情勢のもと日本軍が宮古島にも移駐してきました。約3万人の将兵が展開し、全島を要塞化しました。1944年10月から翌年8月まで、連日の空襲、艦砲射撃などでほとんどの集落は焦土と化し、輸送路を絶たれて、飢えとマラリアで多くの命が失われました。戦時中、日本軍の基地が置かれた野原(のばる)岳には、現在は航空自衛隊の通信施設(写真奥)があります。*1
自衛隊の正門前の道を西へ行ったところに、日本軍「慰安婦」の碑(アリランの碑)があります。*2
陸軍における慰安所の制度は、1932年(昭和7年)の上海事変の折に、長崎県から「慰安婦団」を招いたのがはじまりですが、その後の中国戦線の拡大に伴い日本軍隊の必需品となりました。はじめは九州の業者から売春婦を連れてきていましたが、性病経験者が多く、年をくいすぎていたので、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮から慰安婦を集めるようになりました。*3
戦場となった沖縄県には、宮古島の11ヶ所を含む130ヶ所に「慰安所」があったことが確認されています。宮古島の慰安所のほとんどは集落近くにあったので、多くの住民が慰安婦と何らかの接触をしていました。特に共同井戸(ツガガー)での洗濯のときなど朝鮮の民謡「アリランの歌」を口ずさむのをたびたび耳にしたことが伝えられています。*4
「女たちへ・平和を愛する人たちへ」の碑は、2008年に建てられました。*4
【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.265-P.275
*2 高教祖教育資料センター:沖縄の戦跡ブック・ガマ(沖縄時事出版,2009)P.137
*3 山谷哲夫:沖縄のハルモニ(晩声社,1979)P.19-P.20
*4 日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団:戦場の宮古島と「慰安所」(なんよう文庫, 2009)P.10-P.14,P.56-P.61
電柱に公衆トイレの看板。
社交業組合の裏手に公衆トイレがあります。
ドアが開いたままになっていました。
手洗い所。
辺野古の社交街には、「Club」、「Bar」と書かれたコンクリートの建物が数多く残っていています。
「バー」と「ホテル」の両方の名前が残る看板。どちらかに転業したのだと思います。
バーの後は、電気店に転業したようです。
派手な色のコンクリート製のバー跡。入口のドアは木製です。
辺野古の社交街には、現在もスナックが営業中です。
アメリカ合衆国の国旗。
曲線のデザイン。
鮮やかな黄色の建物。
今回は、辺野古(沖縄県名護市)の町並みと風俗を散歩します。
普天間飛行場の移転先の候補地として揺れる辺野古ですが、ベトナム戦争当時は、キャンプシュワブ近くのバー街として、賑わいました。*1
現在もスナックが営業中です。
バー街の入口近くに社交業組合の建物があります。
「地域と共に歩むが我らがねがい」と書かれています。
入口の壁の各国の国旗がデザインされています。
*1 高嶺朝一:知られざる沖縄の米兵(高文研,1984)P.185-P.190
うるま市の北側に、海兵隊基地のキャンプコートニーがあります。(写真右側)。
キャンプコートニーは、沖縄戦で戦死し、最高級の栄誉勲章を受けたコートニー少佐の名を基地名にとっています。*1
正門の前にコンクリート製の小さな建物が数軒並んでいます。
店名の「コートニー」の右側にうっすらと「BARBER」と書かれています。米兵向けの理容室だったようです。
現在は物置として使われているようです。
【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.160
勝連半島の県道8号線沿いにバー跡と思われる建物が並ぶ一画があります。
米軍施設「ホワイトビーチ」からは距離が離れていますが、店名は英文字で書かれているので、かつては米人向けの飲食街だったのかもしれません。
「RESTAURAN」の文字。
判読できませんが、店名が英文字で書かれています。
今回はうるま(沖縄県うるま市)の町並みと風俗を散歩します。
琉映前バス停の近くに「石川社交街」と書かれたゲートがあります。
1956年の沖縄タイムスに、石川の盛り場についての次のような紹介記事があります。*1 「市場通りが大衆マーケットで庶民的なのにひきかえ13号線(現在の国道329号線)はいわゆる米人相手の特飲店が集まっている。バー、カフェーが約20軒、具志川村川崎、登川のマリン隊と金武駐屯のGIをねらっているが、コザ方面の盛り場とは趣が違い、一見落ち着いた遊廓である。」
現在、この付近はバーやスナックが立ち並ぶ飲食街となっています。
四つ角にあるスナック。
沖縄らしい穴あきブロックで装飾された建物。
【参考文献】
*1 沖縄タイムス(1956.10.3 夕刊)P.2
嘉数高台は、沖縄戦において最初の激戦地の一角で、20日間にわたって激しい戦闘がありました。*1
青丘之塔は、沖縄戦で軍夫などとして動員されて亡くなった朝鮮人の慰霊碑です。この場所には、朝鮮人女性が慰安婦として働く慰安所がありました。*2
青丘之塔の碑文。
「この塔にねむれる人は とつくにの えにしぞ深き 霊なりけり」と書かれています。
-----青丘之塔の碑文----
銘
嗚呼 ここ沖縄の地に太平洋戦争の末期、かつて日本軍たりし韓民族出身の軍人、軍属386柱が散華(さんげ)し侘(わび)しく眠っておられます ここに思いをいたし日本民主同志会は38度線板門店の小石38ヶを写経と共に碑礎に鎮め、イデオロギーと国境と民族を超越し人道主義を遵奉し、哀(かな)しき歴史を秘めたこれらの御霊(みたま)を慰霊顕彰するために、最も激烈なる戦闘を展開した戦跡嘉数の高地に志を同じくする諸賢、あわせて関係機関並びに地元嘉数地区の御協力を得て、韓民族出身沖縄戦没者慰霊碑「青丘の塔」を建立し永久に英勲を讃えます
昭和46年5月吉日
【参考文献】
*1 高教祖教育資料センター:沖縄の戦跡ブック・ガマ(沖縄時事出版,2009)P.55
*2 福地曠昭:オキナワ戦の女たち(海風社,1992)P.103-P.106
真栄原の高台にある嘉数高台(かかずたかだい)公園に、地球をデザインした展望台があります。沖縄本土が大き目に描かれて強調されています。
展望台からは、普天間基地が見わたせます。普天間航空基地は、第二次大戦の米軍の沖縄占領のとき、日本本土攻撃のためのB29爆撃機専用の滑走路を建設し、終戦後も海兵隊航空基地として整備されました。*1
宜野湾市のど真ん中を普天間基地が占め、周囲の土地に日本人の住宅がひしめいているのがよくわかります。米海軍・海兵隊の航空基地の設置基準に照らすと、「滑走路両端の延長線上4500メートルの範囲には住宅、学校、病院があってはならない。」定まられているので、普天間基地は、米本国ならば使用が禁じられる不適格が軍事施設です。*1
滑走路から飛び立った軍用機が轟音をたてて旋回しながら上昇していきます。
【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.138-P.142
嘉数高台公園へ向かう途中の坂道。
「自動車ホテル」の看板があります。沖縄ではモーテルのことを「自動車ホテル」と呼ぶようです。
人間は常に若若しく 人の心は ひろく まるく 美しく
未成年者は入室禁止です。偽って入室すると補導されます。
真栄原の社交街は、県警と宜野湾市などが取り組んでいる浄化作戦により、現在は休業状態となっています。*1
軍普天間飛行場に隣接する真栄原は戦後、米兵相手の売買春が横行したため、1950年ごろ、当時は集落から離れていた現在の場所に作られました。*1
営業している店は1店舗もありません。
夜になっても営業している様子はありませんでした。
【参考文献】
*1 沖縄タイムス:沖縄タイムスニュース(2010.7.2)「売春根絶 なお課題 真栄原社交街」
真栄原社交街の入口付近。以前はこの道の入口(写真右側)に「真栄原社交街」と書かれた看板*1 がありましたが、現在は撤去されています。
社交街へ向かう道の途中にビデオ店があります。
ビデオ販売の看板
消えかかった「アダルトビデオ」「アダルトグッズ」の文字。
【参考記事】
風俗散歩(真栄原):真栄原社交街(2009.2)
今回は、真栄原(沖縄県宜野湾市)の町並みと風俗を散歩します。
全国各地に「×××発祥の地」というのは数多くありますが、真栄原は、「おもしろ看板発祥の地」です。
おもしろ看板というのは、このような「ダジャレ看板」のことで、防犯や交通安全の標語が書かれています。
こちらは「夜遊びはダメデス」の看板。
「キスに注意」の看板。