かつての吉原遊廓は「おはぐろどぶ」という掘で囲まれていましたが、現在も周辺の道路にその名残をみることができます。
おはぐろどぶがあった場所は、遊廓があった場所よりも低い位置にあったため、その高低差を埋めるための階段があちこちにあります。
階段の脇の石垣の下の石が、かつてのおはぐろどぶの名残です。*1
よく見ると、下の石は黒ずんでいます。
【参考文献】
*1 町田忍:東京ディープ散歩(アスペクト,2008)P.33
かつての吉原遊廓は「おはぐろどぶ」という掘で囲まれていましたが、現在も周辺の道路にその名残をみることができます。
おはぐろどぶがあった場所は、遊廓があった場所よりも低い位置にあったため、その高低差を埋めるための階段があちこちにあります。
階段の脇の石垣の下の石が、かつてのおはぐろどぶの名残です。*1
よく見ると、下の石は黒ずんでいます。
【参考文献】
*1 町田忍:東京ディープ散歩(アスペクト,2008)P.33
吉原の京町一丁目。
明治時代の錦絵には、吉原のシンボルのように大きな時計台のある欧風の「角海老楼」の建物が描かれていますが、戦後の店も凝った高塀を巡らせた立派な建物でした。角海老は、老舗の風格のあった大籬(おおまがき)=大見世で、明治時代から昭和33年の売春防止法施行までの間、京町一丁目の同じ場所(現在の台東区千束4-29)にありました。売春防止法施行後は、サッポロビールの倉庫となり、現在はマンションに建て替わっています。*1*2
昭和27年、「ロビン」は「一晩1万円」で名を売ったデラックス・キャバレーの「ロビン」がオープンしました。「ロビン」は、「角海老」、「大華」などの大見世とは異なる意匠のキンキラキンの戦後派の大店でした。1階がダンスフロアで、千属バンドの演奏にのって100人以上の客とダンサーが踊れる広さで、2階がいわゆる”遊興の部屋”になっていました。*1
昭和33年、吉原にトルコ風呂第一号の「東山」がそして第二号の「山陽」がオープンしました。トルコ風呂の元祖とされる銀座の「東京温泉」は、健全なお風呂でしたが、「東山」や「山陽」では、「オスペ」と呼ばれる特殊マッサージが定着しました。「東山」があった場所は、現在もソープランドが営業中です。*3
【参考文献】
*1 吉村平吉:吉原酔狂ぐらし(筑摩書房,2003)P.17-P.18,P.99-P.100
*2 荒井一鬼:吉原今昔図(葭之葉会,2003)
*3 広岡敬一:戦後性風俗大系(朝日出版社,2000)P.83-P.84,P.146,P.158,P.210
浄閑寺は、安政の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになりました(案内板より)。
新吉原総霊塔。
花又花酔の川柳「生まれては苦界死しては浄閑寺」が彫り込まれています。
遊女の生涯に思いをはせて、永井荷風はしばしば浄閑寺を訪れました。
今回は、三ノ輪~吉原(台東区)の町並みと風俗を散歩します。
三ノ輪の浄閑寺は、かつての吉原遊廓の近くにあって、遊女の遺体の「投げ込み寺」としても知られる寺です。
ここに永井荷風の詩碑があります。
これは「震災」と題した詩ですが、ここで震災というのは、大正12年9月1日の関東大震災のことです。死者9万9千500人、行方不明4万4千300人、母屋全壊12万8千戸、半壊12万6千500戸。そして消失がなんと44万7千100戸。地震の規模はマグニチュード7.9でした。*1
荷風の詩「震災」に、
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
とあるように、関東大震災で立ち上った火はみごとに江戸の都を焼き尽くしてしまいました。吉原は、すでに明治44年の「吉原大火で」江戸伝来の吉原の文化的残照は消滅していましたが、それでもなお、震災までの大正期は、まだわずかに江戸・明治の名残が漂っていましたが、それさえも無残に震災は奪い去りました。*1
その後、吉原は昭和20年の東京大空襲を経て、新しい「廓」として生まれ変わりました。
------永井荷風「震災」------
今の世の若きひとびと
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を
われは明治の児ならずや
その文化 歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
団菊はしおれて櫻癡は散りにき
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の声も亦耐えたりき
圓朝も去れり 紫朝も去れり
わが感激の泉 とくに枯れたり
われは明治の児なりけり
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ
江戸文化の名残烟となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
今の世のわかき人々
われにな語りそ今の世と
また来む次代の芸術を
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何をか見得べき
われは明治の児ならずや
去りし明治の世の児ならずや
【参考文献】
*1 渡辺英綱:新編・新宿ゴールデン街(ふゅーじょんぷろだくと,2003)P.227-P.232
南千住6丁目の路地に、赤、青、白の三色看板の理髪店があります。
理髪店の入口。
美しい三色のタイル。
入口の上部に2本の円柱。こちらも三色です。
ジョイフル三ノ輪(三ノ輪橋商店街)に隣接して、銭湯の弁天湯がありあます。
道路に面した大きな看板。
銭湯の入口。午後1時から営業しています。
脱衣場には、立派な庭園があります。
大正時代、新開地と呼ばれた私娼街があった頃、娼婦たちは、午後3時頃になると新開地にある弁天湯へ出かけるのが日課でした。*1
【参考文献】
*1 三木克彦:北奇譚幻の銘酒屋街(三木克彦,2004)P.4
ジョイフル三ノ輪(三ノ輪橋商店街)*1 を歩いていると、商店街の左右には何本かの路地があることに気が付きます。
商店街の左右に突如として路地が現れます。
このような幅の狭い路地もあって、ごみごみした雰囲気です。
石畳の路地。
大正4~5年頃、新開地(現在のジョイフル三ノ輪)に、銘酒屋街が出現し、数ヶ月後に「花柳界指定地」が取り消され、銘酒屋は突然姿を消しましたが、その後に移ってきた一般の住人は、建物を住居型に改造してして住みました。Aさんの家は、商店街の中程を北へ折れてすぐの幅約3メートルの横丁を入った2階建て6軒長屋の3軒目でした。二間間口の家のガラス戸をあけると、広さ三畳か四畳の土間があり、銘酒屋が使っていたころはここは畳敷きで、抱え娼婦の生活の場であり、表に面した入口から通る客を呼び込んだり稼業の場でもあり、隣室は、抱え主の居住空間で、娼婦接客の場所は2階でした。*2
【参考記事】
*1 風俗散歩(南千住):三ノ輪橋商店街(2011.4)
【参考文献】
*2 三木克彦:北奇譚幻の銘酒屋街(三木克彦,2004)P.5-P.6
ジョイフル三ノ輪(三ノ輪町商店街)の中ほどに、区立瑞光公園があります。
商店街と直行する広い道路のような形状の公園です。公園の片隅に案内板があります。(写真右)
江戸時代、この付近には、伊勢の亀山藩石川家の屋敷がありました。明治政府は、屋敷が取り払われた跡地を鴨取場としましたが、追剥ぎなどの犯罪が頻発する物騒な土地でした。そこで、政府は、大正6年、鴨取場を埋めて、「花柳界指定地」にして銘酒屋の営業を許可しました。銘酒屋とは酒類を売っているように見せかけ、密かに売春をしている店のことで、この銘酒屋街は「新開地」と呼ばれ、約500軒の銘酒屋が建っていました。ところが、この銘酒屋街は、開業数ヶ月後、建物だけを残して1軒残らずどこかへ行ってしまいました。土地の人はこれを「幻の銘酒屋街」と呼びました。*1*2
かつての「新開地通り」は、現在のジョイフル三ノ輪商店街です。*2
【参考文献】
*1 三木克彦:北奇譚幻の銘酒屋街(三木克彦,2004)P.1-P.5
*2 東京都荒川区土木課:荒川区土木誌(荒川区,1955)P.50,「荒川区主要道路一覧図」
今回は、南千住(東京都荒川区)の町並みと風俗を散歩します。
都電荒川線の終点の三ノ輪駅と国道6号線にの間に立つ梅沢写真館(旧王電ビル)に三ノ輪橋商店街(ジョイフル三ノ輪)の入口があります*1
建物の1階部分をトンネル状にくりぬくようにして商店街が続いています。
アーケードの入口。
ジョイフル三ノ輪は、荒川区随一の大商店街で。そのアーケードは、総長465mで、約130軒の商店がひしめきます。*1
【参考文献】
*1 交通新聞社:散歩の達人(2204.2)P.10-P.11
戦後の旅館(旅荘)ブームの中で、雨後のたけのこのように盛んに建てられた旅館の群れ。のちにその多くが、最新のホテルに改築されましたが、東京の下町に、和風の味を残して、いまも営む旅館があります。*1
旅館「夕月」は、昭和26年頃の浅草の火災保険特殊地図*2 にも記載されている当時のままの旅館です。
旅館「石水」。
この付近には、他に昭和28年開業の旅館「成駒屋」(2000年頃まで現存)がありました。*1
落ち着いた佇まいです。
【参考文献】
*1 双葉社:夢空間ファッションホテル名商・巨匠の物語(双葉社,1999)P.26
*2 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)あの日の浅草(火災保険特殊地図)
浅草の六区ブロードウエイ商店街にあるアダルト映画館の浅草世界館。
入口には、映画のポスタが並べられています。
ちょうど、アダルト映画のポスタがバックに入るアングルに、記念撮影用の顔ハメ看板が設置されています。
「本日オールナイト」の看板。
凌雲閣(浅草十二階)があった時代、塔に登ると南東方向にはひょうたん池が見えました。現在のJAウィンズのあたりがひょうたんの頭で、六区交番あたりがひょうたんの胴にあたりました。頭と胴のあいだはくびれていて、そこに紐をかけるようにぎざぎざと橋が渡され、結び目のような浮島につながっていました。浮島には茶屋があって、島に渡された橋には藤棚がありました。*1
現在、ひょうたん池のあった場所は、初音小路と呼ばれる飲み屋街になっていています。
長屋に飲み屋が建ち並んでいます。
現在の初音小路の藤棚は、ひょうたん池があった頃の藤棚の名残です。*2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.38-P.40
*2 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.34
浅草の六区ブロードウエイ商店街。
現在のウィンズ浅草のあるあたりから西側は、昭和の初期までは、浅草公園があった場所で、ひょうたん池と呼ばれる大きな池があり、ブロードウエイ商店街のつきあたり(現在、パチンコ店がある場所)には、明治・大正時代、凌雲閣(りょううんかく)がありました。
最近になって、パチンコ店の前に凌雲閣の銅版の碑が設置されました。
東京タワー、東京スカイツリーと並んで、東京三大ツリーと呼ばれているそうです。
凌雲閣、またの名を(十二階建てだったので)「浅草十二階」は、高さ52mの高塔で、東京タワー(333m)のわずか6分の1以下の高さですが、明治一の高塔で、東京のランドマークでした。現在のタワーから比較すれば、低い塔である凌雲閣からの眺めは近景を見たときに人の形がはっきり分かる程度で、つまり、その展望台は、「人をみるという感覚」「人に見られるという感覚」を感じることのできる「適切な低さ」を持っていました。石川啄木の明治41年8月21日の日記には、浅草十二階から望遠鏡で下を見下ろしたとき、細い小路で男が淫売婦に捉るところが見える」という話が書かれています。1
「路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、”チョイト” ”様子の良い方” ”チョイト、チョイト、学生さん” ”寄ってらっしゃいな”」
当時、東京の私娼窟の中心は、浅草十二階下界隈でした。私娼4,000人(吉原の登録娼妓数2,409名の約1.7倍)、銘酒屋、新聞縦覧所(取締の目を逃れるため密淫売業者が編み出した業態カムフラージュの一つ)、小料理店の名目で、私娼を抱える店は700店に及んでいました。2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.8-P.11,P.236
*2 竹村民郎:廃娼運動(中央公論社,1982)P.63
天保13年(1842年)から明治中期にかけて、歌舞伎(芝居)の町として栄えた浅草猿若町は、江戸文化・風俗発祥の地といわれています。*1
今日でこそ歌舞伎は伝統芸術とか文化遺産とよばれていますが、それは明治以降のことで、江戸時代の歌舞伎の社会的地位は低く、江戸で二悪所といえば、吉原遊廓と歌舞伎芝居街のことをさしていました。歌舞伎は、水野忠邦の天保の改革により、廃絶まで考慮されましたが、北町奉行・遠山景元(遠山の金さん)の進言により、猿若町にのみ許されることになりました。*1
現在の猿若町。
江戸猿若町守田座跡の碑。
【参考文献】
*1 新美武:浅草猿若町(新美商店,1973)P.3,P.22, P.58-P.64
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
台東区浅草1丁目1番1号。浅草の番地の原点とも言える場所に、電気ブランディで知られた神谷バーの建物があります。関東大震災のときも、東京大空襲のときもこのビルは同じ場所にあって、猛火で内部は焼き払われたものの外側だけは焼け残りました。*1
1階の神谷バーは、壁面や調度にクラシックな洋風をとどめ、独得のムードを残しています。2階は洋風レストラン、3階が割烹で、4階に事務所があります。*1
神谷バーの歴史は、そのまま庶民の町である浅草の近代百年の盛衰に深く組み込まれています。特に、商品の電気ブランディは、のちにブランディの「ディ」を略して「電気ブラン」として商標になりました。*1
電気ブラン(360ml)を購入。
【参考文献】
*1 神山圭介:浅草の百年(踏青社,1989)P.9-P.10
貝塚駅の東側の国道26号線沿い。
看板建築のラーメン屋さんがあります。
和風の建物の前面に大きな看板が立てられています。
ネオン管の装飾。
貝塚遊廓跡地近く。木造の家屋が建ち並びます。
格子の美しさが映えます。
新泉牛乳の牛乳箱があります。
新泉牛乳は、貝塚市に本社を持つ昭和18年創業の乳業メーカーの泉南乳業株式会社の商品ブランド名です。*1
木製牛乳箱は、建物の木目とよく似合います。
【参考URL】
*1 泉南乳業株式会社:泉南乳業株式会社ホームページ「泉南乳業のあゆみ」
貝塚遊廓の跡地の一部は、現在は飲み屋街になっています。
メイントの通りが交差する十字路付近にあるお好み焼き屋。
北側にある「スタンド」。
入口は斜めになっています。
【散歩地図】
貝塚遊廓跡地には、当時の建物と思われる洋風のカフェー建築がいくつか残っています。
半円形の窓が特徴的な建物。1972年に住宅地図*1 には、この建物があった場所には、「スタンド平八」「スタンド小政」「スタンドあさひ」と書かれていますので、飲食店として営業していたようです。
奇抜なデザインの建物。「バー風」があったあたり*1 です。
建物の入口は赤いタイルで装飾されています。
【参考文献】
*1 吉田地図:貝塚市(吉田地図,1972)P.12
江戸時代に宿場としてにぎわった貝塚寺内町には、北の二軒町と南の旅籠町等に遊廓がありましたが、大正に入って現在の近木(南海鉄道貝塚駅の西側)に移転し、新地と呼ばれました。*1
遊廓は、昭和33年3月、売春防止法の施行によって廃止され、新地の建物の大部分は建て替えられるか、取り壊されるか、あるいは改装されてしまいました。*1
当時の名残と思われる建物が残っています。
1階部分は改装されて洋風に、2階部分は和風の造りです。
【参考文献】
*1 伊藤伸史,川口義正,南川孝司:岸和田・貝塚今昔写真帖(郷土出版社,2008)P.40
水間鉄道の終点の水間観音駅から、さらに南へ4Kmのところに遊女の墓があります。
トンネルから脇道を入った道路沿いにあります。
文化年間(1804年~1818年)この地で非業の死を遂げた遊女、千代の墓と伝えられています。伝説によれば、貝塚の遊女であった千代が、病気にかかって郷里の紀州へ帰る途中、この地で川面に写る自分の哀れな姿に落胆し、断食の末、命果てたといわれています。これを哀れんだ村人たちが墓をたて供養しました。
案内板に貝塚遊廓の写真が掲載されています。
【散歩地図】
今回は、貝塚(大阪府貝塚市)の町並みと風俗を散歩します。
貝塚は、バレーボールの町として有名です。
写真の道路の左側にユニチカ株式会社(旧大日本紡績株式会社、ニチボー株式会社)の貝塚工場がありました。工場の前(写真右側)には商店街があって、ユニチカの従業員で賑わっていましたが、徐々に従業員の減少で賑わいを失っていきました。*1
ユニチカ工場の表門から事務所までの一画の土地と建物は市に寄贈され、貝塚歴史展示館として活用されています。*1
貝塚歴史展示館には、女子バレーボールチームの「ニチボー貝塚」が使用していたときの体育館の床板が保存展示されています。この体育館から回転レシーブが生まれ、1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチームは、「東洋の魔女」と呼ばれました。
【参考文献】
*1 伊藤伸史,川口義正,南川孝司:岸和田・貝塚今昔写真帖(郷土出版社,2008)P.36
遊廓があった新町は、1945年(昭和20年)の空襲により壊滅。終戦後、お茶屋さんが建ち新町は復興しましたが、次第にすたれていきました。現在はビル街になっています。*1
新町の遊女にまつわる浄瑠璃などで有名な吉田屋の夕霧太夫ですが、舞台となった吉田屋は17代続きましたが、昭和34年にやめられました。吉田屋の跡の3分の1は、フーセンウサギ本社ビル(新町2丁目2-2)となりました。*2
最後まで残っていたお茶屋の「しづ家」も昭和62年に閉店となり、現在はマンションに建て替わっています(写真右側)。*2
「しづ家」の跡地の近くに、花街だった頃の雰囲気の残る石畳の路地があります。
【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.84-P.85
*2 鈴木金子:私の見てきた新町(鈴木金子,2000)P.24,P.50,P.63
江戸時代、幕府から公認された遊廓は、大阪「新町」、京都「島原」、江戸「吉原」の3か所でした。その中でも大阪の新町が最も古いと言われています。単なる遊廓として利用されるだけでなく、武士や商人たちの社交場や商談場という使われ方もしました。*1
新町遊廓は、郊外に置かれたため、遊廓の揚屋の庭園はかなり広い面積を占めていました。庭園をつくって四季の変化を味わえるようにしていた点は、江戸時代らしい余裕でした。また、新町では、客寄せに桜が植えられていました。桜の咲く時分に、太夫と天神が町の中を着飾って練り歩いたので、見物人がそれを見ようと押し寄せました。*2
近松門左衛門の人形浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」は、ここを舞台にした名作で、ここに植えられた桜並木は「九軒桜堤」と呼ばれました。「新町九軒桜堤の跡」という碑が新町北公園の隅に建てられています。*1
近松門左衛門の人形浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」は、新町の遊廓を舞台にした名作で、美しい遊女の「夕霧」に惚れて通いつめてスッテンテンになり、親に勘当されていた伊左衛門の物語です。
新町北公園のすぐ近くに、歌舞伎役者の中村鴈治郎(初代)の碑があります。中村鴈治郎は、新町遊廓の妓楼扇屋に生まれました。
【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.84-P.85
*2 飛田範夫:グリーン・エージ(2003.9)P.42-P.45「都市における植物文化–江戸時代の大阪(5)新町遊郭の庭園 」
今回は、堀江(大阪市西区)の町並みと風俗を散歩します。
堀江の地は、かつては、東を西横堀川(埋立。阪神高速1号環状線北行き)、西を木津川、南を道頓堀川(西道頓堀川)、北を長堀川(埋立。長堀通)に囲まれた島の地域で、中央を東西に堀江川(埋立)が流れていて、「堀江」の地名の通り「水都大阪」を象徴する町でした。
北堀江に和光寺があります。
和光寺は、元禄11年(1698年)、堀江新地が開発されるときに建立されました。
堀江新地には遊廓があって、和光寺には、芸妓がお参りに訪れました。*1
当時、浄光寺にあったた銀杏の木の影が振袖姿の高島田(芸妓や遊女が好んで結った髪型)の髪型をした美女が手を合わせている様に見えたので、「娘銀杏」と呼ばれていました。1843年(天保14年)頃より、その影はあみだ池の方向を拝み、目は堀江の遊廓を見ているようだと人々は騒ぎ始めました。これに対し奉行所が銀杏の上半分を切り落として影が見えないようにしてしまいましたが、そんな頃、和光寺境内にあった銀杏の樹が花魁の頭のように茂ってきたので、「切り落とされた娘銀杏が花魁となって現れた。」と人々は驚き、以来、「花魁銀杏」と呼ばれるようになりました。*1
現在、名物の銀杏は幹を残すのみとなっています。
【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.108