キラキラ橘商店街にある理容室。
看板がしっかりと残っています。
この日は定休日でした。
美しい赤いタイルの円柱。
キラキラ橘商店街にある理容室。
看板がしっかりと残っています。
この日は定休日でした。
美しい赤いタイルの円柱。
東向島2丁目(曳舟駅近く)にある犬糞看板。美しい楷書体です。
散歩のルール。
鳩の街商店街近くにある「さくらんぼ児童遊園」。
趣きのある手書き文字看板です。
旧赤線街の中心部。
太い円柱を持つ建物があります。
鮮やかな茶色のタイルの壁面。
以前、この場所にあったドアに装飾があった廃屋は、無くなっていました。
今回は、鳩の街(東京都墨田区)の町並みと風俗を散歩します。
旧「桜井旅館」の建物。「赤線跡を歩く」 にも登場する鳩の街を代表する建物です。*1*2
表通りに面した側は美しい黒板壁で覆われています。
玄関横に「解体工事のお知らせ」と書かれたプレートが取り付けられています。近日中に取り壊されることが決まっている模様です。
「桜井旅館」と小さく書かれた楕円形の表札。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.36-P.39
【参考記事】
*2 風俗散歩(鳩の街):鳩の街の赤線建築(2007.9)
遊廓があった長崎出雲町のすぐ近くの高台にグラバー園があります。ここからの長崎港方面の眺めは格別です。
グラバー園は、グラバー邸などの洋風建築がある観光施設ですが、昭和30年代、グラバー邸は、「お蝶夫人ゆかりの地」として紹介されていました。*1
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」は、悲劇の物語です。アメリカ人の海軍士官のピンカートンと長崎港を見下ろす丘の洋館で「蝶々さん」との新婚生活を始めますが、「3年後に必ず戻ってくる」との約束を残し、ピンカートンは帰国してしまいます。その言葉を信じて息子とともに待ち続けた3年後、ピンカートンはアメリカ人の妻をともなって長崎を再訪します。絶望のすえ蝶々さんは自殺してしまうのでした。*1
当時、西洋人たちは条約湾で結婚の一時的代用を求めました。そこで「蝶々遊び」と呼ばれる疑似結婚が長崎で流行しました。日本人の仲人が西洋人を茶屋に案内するとそこにはきれいな女の子が揃っていて、その中から気に入った女性に結婚を申し込みました。結婚は合法的なもので、警察署で署名捺印されましたが、女に飽きてしまうとか子供ができそうだとかで別れることができました。*2
グラバー園には、オペラ「蝶々夫人」の蝶々さんに扮したソプラノ歌手の三浦環さんの像があります。長崎港を指差している蝶々夫人の左側には息子がいます。
三浦環さんの像の隣には、イタリアから寄贈されたプッチーニの像があります。
「蝶々夫人」の演者として、もう1人有名なのが喜波貞子(1902~1983)です。グラバー園に展示コーナーが設けられています。
【参考文献】
*1 ブライアン・バークガフニ:グラバー園への招待(長崎文献社,2010)P.14-P.15,P.26-P.27
*2 金子一也:オペラ蝶々夫人のことが語れる本(明日香出版社共同マーケティング事業部,2004)P.175,P.180
石橋駅から坂道を10分ほど登ると、出雲町遊廓があった場所に出ます。
小松楼があった場所*1 は、現在整備されて綺麗な商店が建っています。
かつての妓楼跡には、マンションが建ち並んでいます。この付近(写真右側)には、萬年楼、三七十楼、松濤楼、山遊楼、清月楼、と並んでいました。*2
坂を登りきったあたりには検番がありました。*2
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.68-P.71
*2 村田 明,居住計画研究会:長崎総合科学大学紀要.23(2)(1982.11)出雲町の洋風遊郭建築
大浦川沿いの長屋の建物に公衆トイレがあります。
古い駅の公衆トイレなどで見られた個別の金かくしが無いタイプ。人の立つ場所が一段高くなって、向かい側の溝に流す形式です。
手洗い場には清掃当番表があります。
大便器。
今回は、長崎出雲(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
明治時代、大浦川の両岸沿いは、外国人居留地の町並みが続いていました。路面電車の終点、石橋駅には、石橋駅に当時(明治30年頃)の様子を示す案内板があります。それによると、当時は、外国人向けの酒場や宿、雑貨や食料品店などが並び、川には木造の小舟が並んでいたそうです。この付近は「松が枝」と名づけられ、現在も「松が枝町」の地名が残っています。
路面電車が走る町並み。
川沿いの木造長屋。
レトロな幾何学模様です。
思案橋の繁華街に閉店となった大衆クラブの建物が残っています。
建物の右側が大衆クラブだったようです。
派手な電飾看板。
朽ち果てた電球。
銅座町と船大工町の間を流れる銅座川。*1
銅座市場は、銅座川の上にできた市場ですが、市場の南西側の橋からは銅座川を眺めることができます。
川沿いには、建て増しを重ねた家屋が連なっています。
逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 下妻みどり:長崎迷宮旅暦(書肆侃侃房,2008)P.132-P.133
思案橋横丁の西端。銅座川が交差します。
銅座川の上に建つ銅座市場。隣には案内所の大看板。
銅座市場の看板。
本日は定休日でした。通り抜けられません。
長崎には、「トルコライス」とう名物があります。
トルコライスは、長崎のレストランに入ると必ずメニューにある、ピラフ、ナポリタン、トンカツの3種類を並べた”大人版お子様ランチ”です。*1
9月16日はトルコライスの日に制定されています。これは1890年9月16日、トルコの軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県沖で遭難*2 した際、地元の人による救助活動が行われ、日本とトルコの友好関係の起点となっているためです。
トルコライスの発祥については、すでに廃業してしまった「レストラン金子」が最も具体的な理由を持っています。先代のマスターが神戸の将校クラブで働いていた時、現在の原型を開発し、今はなき(長崎の)「レストラン丸善」でメジャーデビューさせました。*1
ボルドーさんの店の前には、これと同様の話が書かれています。
トルコライスの発明者は、「レストラン元船」という店の経営者の松原三代治さんで、昭和33年、着物姿の女性の後ろ姿(襟とうなじの白→ピラフ、裾の朱色→スパケッティ、帯の茶色→トンカツ)を眺めていたとき、新メニューがひらめき、その頃トルコ風呂が流行っており、うんと精力をつけて頑張ってほしいから「トルコライス」と命名しました。*1
文筆家の伊丹由宇さん*1 は、トルコライスについて徹底的に調べようと、長崎まで出かけトルコライスの創始者に辿り着き、この命名の由来を知りましたが、取材当時はトルコ政府の強い要請で、出版界は”その名前”は使わない方針であったため、原稿に書けずにいました。現在はもう問題ないだろう思って最近になって書くことにしたそうです。
トルコライスの発祥については、明治時代の小説家・村井弦斎が書いたグルメ小説「食道楽」や「時事新報(明治26年10月21日)」の中に、「土耳古飯(トルコメシ)」が登場することから、この料理の記憶が生き残ったのが「トルコライス」であるという説もあります。*3
【参考文献】
*1 伊丹由宇:にっぽん「食謎」紀行(ワニ・プラス,2010)P.234-P.238
*3 彦坂 徹:Anatolia news.(2009.2)「トルコ・ライス考」P.47-P.50
【参考記事】
*2 風俗散歩(紀伊大島):トルコの軍艦「エルトゥールル号」遭難慰霊碑(2010.8)
思案橋商店街の飲み屋街。前回散歩した公衆トイレの小路*1 をさらに奥に進んだあたりです。
飲み屋の看板が密集しています。
2階建ての長屋の建物が延々と続きます。
昭和の雰囲気が残る飲み屋街です。
【参考記事】
*1 風俗散歩(長崎丸山):商店街裏の路地(2007.9)
今回は長崎(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
長崎の観光名所「思案橋」は、丸山・旧花街の入口にあります。橋の欄干を型どったモニュメントが交差点の周りに設置されています。このモニュメントは市電の線路と平行になっているので、いかにも電車が「思案橋」をわたっているように見えるのですが、ほんとうは川と平行に電車が走っていて橋はこれとほぼ直角にかかっていました。*1
思案橋があった位置は、思案橋商店街の入口前(写真奥)の西寄りの端です。*1
思案橋があった場所から西に100mほど行くと、円山・旧花街へ通じる石段があります。
石段の登り口に思案橋の由来を説明したプレートがあります。
「長崎名勝図会」によれば、ここに橋がかかったのは1592年(文禄元年)で、そのときの名前は川口橋でした。その後、1642年に遊女屋がいまの丸山にうつってきて、色男たちが「行こうか戻ろうか」と思案するので、いつしか思案橋と呼ばれるようになりました。*1
昭和43年、キャバレー十二番舘千属バンドだった高橋勝とコロラティーノの「思案橋ブルース」がミリオンセラーとなり、追って青江三奈が歌う「長崎ブルース」が大ヒットし、昭和40年代は空前の長崎歌ブ-ムでした。*2
【参考文献】
*1 布袋厚:復元!江戸時代の長崎(長崎文献社,2009)P.114-P.115
*2 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.11
都城駅近くにある一見何の変哲もない旅館。
よく見ると、看板には温泉マークが書かれています。
建物脇に、昔の看板が置かれています。
建物は大きく、部屋数はかなり多いです。
牟田町の繁華街のパブの看板。
パブ「おとなの学校」。
繁華街の中の商店に掲げられたホテルの看板。
ホテル「城」。ホテルはこの近くにあります。
都城には、牟田町に小規模ながら活気のある繁華街があります。
スナックなどの店舗が林立します。
十字路の角にある建物。
キャバレー。
西都城駅近くの通り。道路は綺麗に整備されています。
整備された道路に1軒だけ古い建物が残っています。1階にはラーメン屋「まんちゃん」。
奥行のある建物です。
風情のある「まんちゃん」の店構え。
今回は、都城(宮崎県都城市)の町並みと風俗を散歩します。
平田遊廓は、明治42年に許可され、貸座敷は7軒ありました。「都城市全図」*1 には、五角形のに囲まれた区画に「平田遊廓」の記載があります。現在のJR日豊線西都城駅の北側約1kmのあたりです。
上野町のソープラド街に隣接して、昭和の雰囲気の残る食品市場があります。
上野町の一画。このあたりは恵比寿町と呼ばれていたあたりです。スナックがはいる雑居ビルやラブホテルがあります。
スナックが点在しています。
大通りに近いあたり。
逆方向から見たところ。
上野町の宮崎県遺族会館の隣に、休業中のスナック街があります。
長屋の建物の1階にスナックが入っています。
企業の事務所になっている建物もあります。
「ホステスさん募集」の貼り紙が貼られた建物。
宮崎市街の高松町。宮崎医療センター病院の東隣に、昭和を感じさせるスナック街があります。
昭和29年発行の「旅行の手帖No.12」には、「遊びどころは、恵比寿町にある灰の木。以前は墓地だったが、一昨年からこの世の歓楽センターと化した。」とあり、「灰の木」と呼ばれる場所に新興の赤線がありました。*1
スナック街の電柱には「灰の木」と書かれたプレートがありますので、この付近が赤線街だったようです。
現在もスナックは営業中です。
古い建物もあります。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.78-P.79
今回は宮崎(宮崎県宮崎市)の町並みと風俗を散歩します。
宮崎といえば東国原元知事です。
中央通りは、宮崎市街の中心部に位置する繁華街です。昼間は閑散としてますが、夜になると活気を帯びてきます。
派手なネオン看板