五条会館の近くにある落ち着いた感じの洋風の建物。
側面には、アールデコ調の丸窓がデザインされています。
路地に入ったところにある洋風の旧お茶屋さん。
幾何学的なデザインが施されています。
五条会館の近くにある落ち着いた感じの洋風の建物。
側面には、アールデコ調の丸窓がデザインされています。
路地に入ったところにある洋風の旧お茶屋さん。
幾何学的なデザインが施されています。
国道1号線沿いの五条大橋のたもとから脇道を入ると五条会館(旧五条楽園歌舞練場)があります。
現在は、さまざまな催し物に活用されています。
異空間に迷い込んだような静けさが広がります。
3階建ての壮大な木造建築。
今回は五条(京都市下京区)の町並みと風俗を散歩します。五条の風俗散歩は、2006年5月に引き続き、今回で2回目です。
2010年10月28日と11月18日の二度に渡る京都府警による一斉摘発ですべてのお茶屋(ちょんの間)が休業しました。現在は、五条楽園の看板や案内図が撤去され、再開の目処はたっていません。*1
以前は、このあたりに「五条楽園」と書かれた大きな看板があり、五条楽園の入口であることを示していましたが、その看板が無くなっています。
支柱があった場所には、コンクリートで穴を埋められ痕跡が残されています。
ここにあった「五条楽園」の大アーチも撤去されていました。
上の口橋の脇にある支柱の跡。
【参考記事】
*1 ズバ王(vol.99 2011.4.9)P.264-P.265「京都五条楽園も終焉か」
総武線の高架沿いに、お城のラブホテルがあります。
城郭を模したラブホテルの特徴である「狭間胸壁」(兵士が身体の一部を隠したままで射撃したり戦ったりするための隙間)と「張り出し狭間」(持ち送り支持構造の間に開いた床の開口部から攻撃者に向かって岩石を落とすための穴)がしっかりとデザインされています。*1
城郭を模したラブホテルの3つ目の特徴である「小塔」(狭間胸壁の上に、建物の外周に沿って不規則に配置されている円錐形の屋根を頂く構造物)はありません。
屋上には、「狭間胸壁」がデザインされています。
窓には、像と欄干。
【参考記事】
*1 風俗みちくさ 「中世の城郭を模した風俗建築(その1:ラブホテル建築の場合)
西船橋でよく見かける18歳未満入店お断りの看板。店の名前は書かれていません。
このビルの4階に店があるようです。
駅前の商店街から西へ延びる通り。
別の場所にも同様の看板。デリヘルの紹介所でしょうか。
今回は、西船橋(千葉県船橋市)の町並みと風俗を散歩します。JR西船橋駅前にランドマークのようにそびえている早稲田予備校西船橋校の手前にキャバレービルがあります。
キャバレービルは、駅前のメイン通りにあります。
キャバレーなどが入居する総合レジャービルです。
2Fフィリピン、3Fロシア、4F日本...フロア毎に国が分かれています。5Fは麻雀、6Fはカラオケです。
新世界通りの東側の小路。
「18歳未満の方入店お断りします」にプレート。新旧2枚のプレートが並んでいます。
「酒場戸田村」の看板がいい味出してます。
飲み屋が建ち並んでいるのは小路の片側のみです。
スナックやパブなどが密集する旭町の歓楽街に飲み屋横丁の新世界通りがあります。
50mぐらいの長さの横丁です。
裸電球がぶらさがるアーチ。
昭和の雰囲気が漂います。
元城町の新地跡近くの交差点に共同で使用されていたと思われる流し台があります。最近は、ほとんど見ることがなくなった風景です。
鮮やかな青色のタイルです。
コンクリートブロックを3つ積み上げてその上に流し台を置いたシンプルな造りです。
埃がかぶっていますが、鮮やかなタイルの装飾は健在です。
清水の遊廓は、元は江尻志茂町(現在の清水銀座商店街)にありましたが、都市計画のために大正15年10月、巴川畔(現在の巴川橋際)に移転しました。*1
写真は、巴川橋から遊廓があった方向を見たところ。
昭和11年の市街図*2 には、現在の元城町の巴川橋の近くに「遊廓」と記された場所があり、その場所には、1本だけ幅の広い道路があります。この付近が遊廓のメインの通りだったのかもしれません。
1978年の住宅地図*2 によると、この付近には、八千代旅館、玉泉旅館など、数軒の旅館が建っていました。
電柱には、「廊」と書かれたプレート。遊廓の「廓」であればここが遊廓であったことの状況証拠となりうるのですが...
【参考文献】
*1 郷土出版社:清水いまむかし(郷土出版社,1987)P.29
*2 山田金十:清水市全図並都市計画街路網(山田金十,1936)
*3 日本住宅地図出版:清水市(日本住宅地図出版,1978)P.76
江尻町にある商店街の「清水銀座」。約500m続く大規模な商店街です。商店街の西側に「銀座小路」の入口があります。
居酒屋などが建ち並ぶ路地。
裏側には、「銀座小路」、「A地点」と書かれた看板があります。
店名が並んだ看板。
今回は、清水(静岡県静岡市清水区)の町並みと風俗を散歩します。
静岡県の清水港は全国屈指の遠洋漁業基地です。清水港から陸にあがって清水次郎長の船宿跡を横目に道を歩き、海産物問屋の倉庫のある一画を抜けると普通の住宅街となりますが、そこに「南風プロモーション」という日本で最古級(1976年頃)の自販機エロ本の出版社がありました。自販機本というのは、エロ本自販機専用に開発されたB5版サイズ64ページのエロ本のことで、南風プロモーションはその版元でした。*1
南風プロモーションが制作した自販機本の表紙*2 には、「静岡県清水市水市三光町1-3」と住所が記載されています。実際にその場所へ行ってみると、そこには出版社らしき雰囲気はありません。
南風プロモーションがあったと思われる場所にはマンションが建っていました。
エロ本自販機の発祥は、酒のツマミの自販機にヒントに、「エロ本もオカズなんだから、自販機で売ったらどうだろう」と思いついたのがはじまりでした。*1
清水は珍味の生産が盛んな町なので、「エロ本→オカズ→珍味→自販機→エロ本」という因果の連関が清水において成り立ったわけです。
【参考文献】
*1 川本耕次:ポルノ雑誌の昭和史(筑摩書房,2011)P.74
【参考URL】
*2 南風プロモーション:LOVE YOU(年代不詳) 川本耕次:「B5版64ページの夢」より
環状七号線から脇道を入ったところ。
商店の軒下に名糖牛乳の牛乳箱があります。
名糖ホモビタ牛乳。木製の牛乳箱の朽ち具合が、箱の古さをを物語っています。
牛のマークのロゴ。
西新井では、犬の糞看板をあちこちで見かけます。関原の商店街にある喫茶店の入口。
梅島二丁目。
明美湯にて。
最近は、コンビニのゴミ箱に犬の糞を捨てる人が増えているようです。
梅田四丁目にある銭湯の明美湯。大きな建物です。
入口には、「人工温泉」の看板。
「明美」というと、スナックの店名かママさんの名前を連想してしまいます。ロケットのような形の煙突。
牛乳石鹸の暖簾。
環状7号線から、1本路地を入ったところに、銭湯の「たぐち湯」の建物があります。
堂々とした外観です。
表へ回ってみますが、何か様子が変です。銭湯は廃業してお寺に換わっていました。
もともと銭湯の建物は、お寺とみまごうばかりの重厚な「宮造り」の建築様式を取り入れた建物が多い*1 ので、銭湯の建物がお寺の建物として再利用されるというのは納得のいく話です。
【参考文献】
*1 町田忍:銭湯の謎(扶桑社,2001)P.58
環状7号線の道路沿い。
大人のおもちゃの店があります。
店名は「おしどり」。仲の良い夫婦をイメージしたのでしょうか。
看板の色と同じ黄色のシャッターは閉じられたままです。
今回は、西新井(東京都足立区)の町並みと風俗を散歩します。
環状7号線の交差点近くに自販機コーナーがあります。
隣の空き地に、現在は使われていない成人向け雑誌自動販売機が放置されています。
DVDなどの販売で、最近まで使用されていた自販機のようです。
免許証識別装置が組み込まれています。
大正時代、足尾銅山が全盛だった頃、渡良瀬川の川を渡った向原地区に、遊廓の「斎藤楼」がありました。
江戸・明治の吉原のような籬(まがき)のある遊廓は、足尾では「斎藤楼」1軒だけでした。*1
大正2年(1913年)発行の足尾全体の鳥瞰図「足尾銅山全圖」*2 には、渡良瀬川の崖の上に張り出すように斎藤楼の建物が描かれています。
大正5年(1916年)発行の足尾町商業案内便覽圖*3 に「斎藤楼」の位置が記されています。現在の足尾橋の約100m下流のこのあたりに橋があり、遊廓はこの道を進んで右へ入った高台にありました。
遊廓があった向原地区は、現在は住宅地になっています。
向原地区の全景。
【参考文献】
*1 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.151-P.152
*2 森田淳:足尾銅山全圖(1998,森田淳) 大正2年発行の足尾銅山全圖の復刻版
*3 足尾商業案内便覽圖復刻委員会:足尾町商業案内便覽圖(足尾商業案内便覽圖復刻委員会,1992) 大正5年発行の足尾町商業案内便覽圖の復刻版
足尾銅山全盛時代には30軒からの妓楼がありましたが、大火で全滅し、その後は、芸者とダルマ(私娼)が生まれました。*1
通洞駅前の案内板には、「明治40年発行 栃木県営業便覧」による松原地区の町並みが掲載されていて、地図には、「末広屋 芸者」「大和屋 芸妓」「中橋 芸者屋」などの記述があり、この一帯が花街だったことがわかります。
芸者屋の末広屋があったと思われるあたり。
見番に籍を置く芸妓たちは娼婦ではありませんでしたが、鉱山の町という場所柄だけに芸妓一筋に貫いたという話はあまりなく、お座敷の宴会が終わったあと、懇ろになった芸妓と奥の小座敷にしけこんで、交わりをしました。数年前に火事で焼けてしまいましたが、姿見橋近くの割烹旅館「一丸」の奥の方にも小座敷がいくつもありました。*2
【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂, 1929)P.214-P.215
*2 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.151-P.152
トタンの仕切り板に囲まれて大便用の個室が3つ並んでいます。
青色のトタン板に囲まれた共同便所。
掃除の行き届いた男子用のトイレに、染付古便器が2つ並んでいます。
「染付古便器」は、白地の素地に酸化コバルトで絵付けし焼成したもので、明治中期から昭和初期にかけて瀬戸(愛知県)や信楽(滋賀県)でつくられました。小便器には、①朝顔形(口が手前に向けて開いた小便器)と②向高(向こう側が高くなった置便の底に穴をあけたもの)の2種類があり*1*3 、写真のものは①朝顔形です。*1
鉱夫長屋の便所では、装飾のない小便器が使われることが一般的でしたが、足尾銅山の場合は、花柄の小便器も使われました。*2
現在からみると、実用品というより工芸品の趣があります。*2
【参考文献】
*1 INAXライブミュージアム企画委員会:染付古便器の粋(INAX出版,2007)P.4
*2 本田 正男:鉱山研究(2010.3)P.2 「鉱山便所考 鉱夫の便所・役宅の便所」
【参考URL】
*3 株式会社LIXIL:INAXライブミュージアム 窯のある広場・資料館 染付古便器について
砂利道、石垣、木製電柱などがそのまま残る社宅の風景。
木製消火器箱が社宅の風景に溶け込んでいます。
長屋の棟毎に、1~2か所づつ取り付けられています。
ペンキ塗りたての消火器箱。「消火器」の白い文字が書かれる前の段階です。
今回は、足尾(栃木県日光市足尾町)の町並みと風俗を散歩します。
東京から約3時間半の場所に、銅山の遺構を有する足尾町があります。足尾がもっとも栄えた時期は大正5年で、人口は3万8千人。県内では宇都宮に次ぐ人口規模でした。川沿いの平地や斜面には規則的に並んだ平屋の長屋住宅が現在もいくつかの地区に残されています。*1
渡良瀬地区(足尾駅の北東にある渡良瀬橋を渡った向こう側の地区)は、大正・昭和の風景と町並みが残り、今なお生活が息づいている地域です。*1
足尾銅山では、ひとり者の坑夫は飯場住まいで、結婚して所帯を持つとこの長屋に住むことができました。当時の近郷近在の農家の娘たちは、足尾の坑夫の嫁となり、足尾の長屋の新居で暮らすことが夢でした。長屋が建って間もない頃は、建物も新しいし、新婚にとっては六畳ひと間でも夢のような文化住宅で、家賃のいらない長屋住宅で貯金もできました。しかし、坑夫の仕事が大変に辛いものであり、いずれは珪肺(けいはい)という職業病に侵され、まかり間違えば早く後家になるなどということは、娘の頃は考えも及びませんでした。*2
足尾の長屋のつくりは、江戸の長屋のつくりとほぼ同じで割り長屋(建物の棟方向に壁を造って区分)でした。足尾の場合は一棟五軒が圧倒的に多く、立地条件に合わせて建てられました。*2
長屋には共同の水場もあります。
共同浴場もあります。
【参考文献】
*1 伊東 孝:CE建設業界(通号692,2010)知られざる「100年」プロジェクト 足尾銅山(その2)大正・昭和の風景と街並みが息づく町
*2 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.93,P.95