太田(スナック店)古い建物

大田駅の北側は、南側とは異なり風俗店はありません。富士重工業(「スバル」ブラ前ンドの自動車などを製造)の工場の周辺には、古びたスナックがあります。

居酒屋風の古い建物。

駅の北側は、再開発の計画があるらしく、広大な空き地となっていますが、西側の一画は商店街が残っています。

駅の南側の東寄りに、旅館、スナック、美容室が同居する長屋風の建物が残っていました。

太田(駅前の風俗街)商店街の風俗街化

太田駅前の商店街「南一番街」は、近年、シャッター通り化した商店街に風俗店が入居し、商店街が風俗街化するという特殊な現象が起きました。
「南一番街」は、昭和43年(1968年)、もともと田畑だった土地を開発してつくられ、運営には、地元の商店主で構成される「太田商業推進共同組合」が組織されました。昭和52年代に入り、スーパー大手のユニーが、太田駅前に大型店「ベルタウン・ユニー」(現在はドンキホーテ)を作る計画がもちあがり、当初は「太田商業推進共同組合」はこれに反対しましたが、話し合いの結果、半分をユニーが、残りの半分を「太田商業推進共同組合」の商店主達店を構えることで決着しました。ところが、いったん大型店ができてしまうと、商店主は、出資した大型店に意識が集中してしまい、商店主の子供達も大型店で働くようになったため、南一番街からは気持ちが離れ、後継者も居なくなりなりました。こうして「南一番街」が徐々に歯抜け状態になり、あるとき、商店主は、風俗店業者に店舗を貸し始めました。*1*2

風俗店が進出した結果、商店街が風俗街化しました。

派手な看板の風俗店が乱立しています。

駅の南側は、飲食店・風俗店の密集地帯です。

【参考文献】
*1 今泉智裕:ハビタット通信((4)2006)P.28-P.31 「太田ファスト風俗街」
【参考URL】
*2 清水まさよし:太田市長とれたて日記「ユニー、ベルタウン撤退とまちなか活性化

■カテゴリ 太田 繁華街

寒川(てんとう虫ポスト)害虫を食べる益虫

今回は、寒川(神奈川県高座郡)の町並みと風俗を散歩します。寒川駅は、JR東海道線の茅ヶ崎駅から相模線に乗り換えて3つ目の駅です。

駅前に「てんとう虫ポスト」が設置されています。

色は赤なので、白ポストとは呼ばずに「てんとう虫ポスト」と呼ぶようです。動物をアレンジした白ポストとしては、ヤギやひつじがありますが、てんとう虫の箱は珍しいと思います。

てんとう虫は、アブラムシなどを食べる益虫(人間にとって役だつ昆虫)です。

下田(安直楼)お吉が開業した料理屋跡

総領事タウンゼント・ハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがったお吉ですが、維新後は芸妓として流浪の果てに下田へ戻り、料理屋「安直楼」を開業します。

安直楼は、最初は盛況でしたが、次第にお吉の前歴などの風評をまき散らされて、客足が遠のき、2年後に廃業しました。

安直楼の後は、寿司店として営業していました。

現在、資料館としての営業は中止しているようです。

下田(鶴松の墓)お吉の許嫁

下田市街にある稲田寺。

鶴松の墓。

お吉と鶴松は恋仲でしたが、お吉に、アメリカ総領事ハリスの妾になる話が持ち上がり、役人たちは無理やり二人の愛情を引き裂いて、お吉は仕方なくハリスに仕えることを承諾しました。

鶴松の一生を説明した案内板。

下田(唐人お吉記念館)”らしゃめん”お吉

今回は、下田(静岡県下田市)の町並みと風俗を散歩します。
「唐人お吉記念館」は下田の観光スポットです。

お吉は、14歳で芸妓となり、美貌の持ち主だったため、総領事ハリスのもとへ妾として奉公にあがることになりました。

お吉の墓。

”らしゃめん”となったお吉は、世間から罵声と嘲笑を浴び、晩年は貧困の中に身をもちくずし、明治24年、自らの命を絶ちました。

■カテゴリ 下田 伝承

洲崎(洲崎球場跡)遊廓のそばにあった野球場

東陽町の運転免許センター前の通り。

現在は、企業のビルが建ち並ぶ場所ですが、2005年、ここに洲崎球場跡の碑ができました。

プロ野球草創期に、1年間で100試合近くの公式戦が行われた有名な球場ですが、埋立地につくられたため、海水が満ちてきて試合が中止になったなど、強烈なエピソードを持っています。*1

球場のすぐそばには洲崎遊廓がありました。堅物というイメージの強い巨人軍の沢村栄投手もたまに試合後に通っていたそうです。*1

*1 佐野正幸:あの頃こんな球場があった(草思社,2006)P.193-P.199

洲崎(外郭の飲み屋街)「洲崎パラダイス」の舞台

洲崎橋跡の右手(西側)の通り。

こじんまりとした一杯飲み屋が軒をつらねている一画があります。

映画「洲崎パラダイス」の舞台となったと思われる飲み屋街です。*1

飲み屋街の中央には、トイレがあります。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.14-P.17

洲崎(追善供養碑)崎病院の跡地

都営洲崎住宅に隣接する東陽一丁目第二公園。ここに、洲崎遊廓の娼妓の供養碑があります。

ここは、警視庁洲崎病院の跡地です。*1

白菊の花にひまなくおく露は なき人しのぶなみだなりけり
昭和六年十一月九日
信州善光寺大本願大宮尼公台下御親修
洲崎遊廓開始以来先亡者
追善供養執行記念
善光寺より僧を招いて、開業以来廓で亡くなった無数の娼妓の霊をなぐさめるための法要を行った際の供養碑です。*1

洲崎遊廓の建物は、戦災ですべて焼失しましたが、そのような状況の中、戦前の様子を知る唯一の手がかりとなるものです。

【参考文献】
*1 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.276-P.279

洲崎(遊廓跡地)多くの建物が姿を消しました。

数年間のうちに、赤線跡の建物の多くが姿を消しました。

ここには、アパートとして使われていた青いタイルの建物がありましたが、新しい建物に建て替えられました。

洲崎の赤線跡を代表する旧「大賀」の建物も無くなり、現在は更地になっています。

ラーメン屋「来々軒」は、とんかつ屋に変わっています。唯一、背後に見える八百屋の建物は以前のままです。

洲崎(電柱のプレート)「遊園」の名

旧洲崎遊廓の敷地の電柱には、2種類のプレート貼り付けられています。
一つは「南海」、そしてもう一つは「遊園」です。

亀戸の私娼街だった亀戸遊園地(現在は住宅街)の電柱には、「遊園地」と書かれたプレートがありましたが、洲崎の遊園地も亀戸遊園地*1 と同じように、『大人向け遊園地』という意味の名前だったのでしょうか。

手書きの「遊園」のプレート。

「遊園」のプレートがあるのは、戦後復興したと言われる東半分のエリアのみです。西側半分側の電柱のプレートはすべて「仙印」と書かれています。

【参考文献】
*1 風俗散歩(亀戸):「遊園地」と書かれた電柱のプレート

洲崎(南開橋)モクレンの花が満開です。

今回は、洲崎(東京都江東区)の町並みと風俗を散歩します。
旧洲崎遊廓の南端にある南開橋。汐浜運河にかかる橋です。

運河を渡る南開橋は高い位置にあるので、ここから洲崎遊廓があった方向を眺めると、橋からは下り坂になっています。

現在、汐浜運河となっている場所は、昔は海でした。

モクレンの花が満開です。

鹿沼(稲荷神社)新地の昔を知る貴重な資料

遊廓内には、北東にお酉様(大鳥神社)、南東に椿森稲荷神社がありました。

このうち、椿森稲荷神社は、戦後、青木医院の西に再建されました。

ここに、明治43年に建てられた記念碑があります。

碑の裏面の寄付人名簿に、「金二十円 各楼内働一同」とあります。新地の昔を知ることが出来る貴重な資料です。*1

【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.242-P.246