高砂町細工町の民家。
側面開閉型の牛乳箱だったのでしょう。蓋の部分が無くなっています。
宝梅園牛乳。
全国牛乳処理工場名簿(全国乳業年鑑・昭和37年版)には、宝梅園農場株式会社(宝塚市小林町)の記載があり、宝梅園は現在の宝塚市にあった梅園でした。
側面開閉型の牛乳箱なので上蓋はきっちりと閉じられています。
高砂町細工町の民家。
側面開閉型の牛乳箱だったのでしょう。蓋の部分が無くなっています。
宝梅園牛乳。
全国牛乳処理工場名簿(全国乳業年鑑・昭和37年版)には、宝梅園農場株式会社(宝塚市小林町)の記載があり、宝梅園は現在の宝塚市にあった梅園でした。
側面開閉型の牛乳箱なので上蓋はきっちりと閉じられています。
高砂遊廓は、明治の初年頃に私娼が変化して遊廓になったもので、貸座敷が5軒(初開楼、高砂楼、相生楼、松鶴楼、陽気楼)ありました。*1
大日本職業別明細図*2 に記載されている「相生楼」があったあたり。
高砂センター街の南側。
このあたりに高砂芸妓組合事務所がありました。*2
さらに南側には、高砂町料理組合事務所がありました。*2
高砂貸座敷業組合があったあたり。*2
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.128 「全国遊廓案内」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)兵庫県No.167 高砂町
高砂センター商店街近くの旧次郎助町に稲荷神社があります。
稲荷神社に次郎助町の案内看板があります。次郎助町(じろうすけまち)は、かつては遊廓やお茶屋で賑わい栄えた花街でした。
玉垣には、「高砂芸妓組合事務所」と刻まれています。
「高砂料理組合事務所」の名もあります。
高砂町の中心部に、入口に「高砂センター街」と書かれた看板のあるアーケードがあります。
アーチ部分は、明るい黄色で覆われていて、生鮮食料品店などが営業している活気のある商店街です。
店の上部にはレトロな看板が残されていて、歴史を感じさせます。
反対側のアーケードの入口。「次郎助町センター」と書かれています。江戸時代、次郎助町は、遊廓やお茶屋で賑わった花街でした。
旧国鉄高砂線の線路跡沿いを行くと銭湯の梅ヶ枝湯があります。モルタル造りの銭湯です。
建物の裏側は圧巻です。木造建築でありながら、煙突は重厚なレンガ造りで、増改築を繰り返した結果、3階建ての建物になっています。
夜になると、大きな暖簾が出ます。
木製のロッカー。
高砂駅の駅ビルの裏側の旧国鉄高砂線の跡地が緩やかなカーブを描いて続いています。現在は、駐輪場になっています。
表側から見ると2階建てに見えた建物は3階建ての奥行の狭い建物です。
絵に描いたようなトタンの芸術。
錆びついた階段が、いい味を出しています。
今回は、高砂(兵庫県高砂市)の町並みと風俗を散歩します。
結婚式やめでたいとき謡われる、「たかさごやこの浦舟に帆を上げて・・」ではじまる謡曲「高砂」の発祥の地である高砂市では、昭和63年7月にブライダル都市宣言を行いました。*1
駅ビルは曲線を描いています。このビルの後方(現在は駐輪場)には、かつて国鉄高砂線の線路が曲線を描いて通っていました。
ブライダル都市らしく、駅前の古いビルには、高砂良縁センターの看板があります。
ビルの脇に橋のように見える遺構があります。水路がビルの下を流れていたのか、それとも、ここに何かの洗い場があって、それと道路を隔てるためのものでしょうか。
【参考文献】
*1 高砂市:ホームページ「ブライダル都市」
JR蒲田駅東口の中央通りは、飲食店が建ち並ぶ繁華街です。
「エステ」の大看板。
高級感があります。
隣の通りのアカスリ店。
エステの店舗が密集しています。
柳通りには、多数のラブホテルも立地しています。
53年もの長きの間、営業してきた老舗ホテルも廃業しました。
モダンな曲線のデザインのホテル。表玄関には、「駅前再開発事業施行地区」を示す看板が取り付けられています。
裏玄関。路地の表側と裏側でそれぞれ玄関を持っているのが、柳通りのラブホテルの特徴です。
今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みを散歩します。
京急蒲田駅前の歓楽街「柳通り」。
京急蒲田駅前の一画は再開発計画が進んでいます。
道の両側にスナックが建ち並んでいますが、現在は閉店している店舗が多いようです。
「御自由にどうぞ」と書かれた貼り紙(写真左下)とともに、LPレコードが路上に並べられていました。
吉祥寺の南口から井の頭公園にかけての界隈には、「旅荘」が多くありました。*1
現在は、閑静な住宅街ですが、当時の名残と思われる旅館があります。裏口は塀で囲まれています。
井の頭公園の東側にあるひょうたん橋から坂を上がったあたりにも、旅荘がありました。昭和40代の旅荘は、現在のファッションホテルとは異なり、一見料理屋風の建物でした。写真の左側に旅荘「利根川」、右側に旅荘「安楽」がありました。*1
旅荘「安楽」があった通り。
【参考文献】
*1 土屋恂:吉祥寺消えた街角(河出書房新社,2004)P.103,P.106
吉祥寺駅から井の頭公園へ向かう坂道。
坂を下りきったところに、風情のある旅荘があります。
旅荘の裏側のお客様入口。
昭和初期の雰囲気を伝える佇まいです。
ハモニカ横丁は、右から「仲見世通り商店街」「中央通り商店街」「朝日通り商店街」と続き、最後に通りのサインのない「祥和会」と続きます。ただし、この「祥和会」の一部は、かつては小さな飲み屋が連なっていた横丁だったことから、「のれん小路」と称して、今のそのサインは残されたままです。*1
「のれん小路」の飲み屋連店は、新宿東口の和田組マーケットの建て方を参考にしているように見受けられます。間口一間、奥行1.5間の簡易なバラックは、L字型のカウンターの中におかみさんやご主人が一人入り、客は4~5人程度が座るサイズでした。*1
飲み屋が連なっていた頃の雰囲気が残っています。
「のれん小路」 と中央の通りが交差するあたり。
【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.35-P.36
吉祥寺駅前のハモニカ横丁は、終戦直後の闇市の姿がそのまま残っている横丁です。
漬物屋の清水屋がある通り。
鮮魚店もあります。
ハモニカ横丁の周囲を高いビルが取り囲んでいます。
「近鉄裏」がピンクゾーンというレッテルを貼られるのは、近鉄百貨店ができた1974年頃からで、たった1年間の間にピンクサロンが50軒ほど出現し、呼び込みが道をふさぎました。やがてその存在はl世界中に発信されるようになり、成田から「近鉄裏」に直行する外国人も増え、「近鉄裏」は世界のアンダーワルドの一つに数えられるようになりました*1
このような状況に対処するため、行政側では武蔵野市の土屋市長が先頭に立ち、ピンクゾーンに近接した所に図書館を設ける計画が実行されました。図書館から200メートルの範囲では、風俗営業ができないためです。*1
図書館のある通りには、客引き禁止の看板が建てられいます。
飲食店脇の客引き禁止看板。
【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.91,P.101
近鉄百貨店(現在のヨドバシカメラ)の東側は、いわゆる「近鉄裏」と呼ばれるピンク街でした。
現在、近鉄裏のピンク街があった場所のほとんどは空地となり、銭湯の「よろづ湯」だけがぽつんと1軒営業中です。
昭和の雰囲気を今に伝える銭湯です。
高いビルに囲まれた銭湯の煙突。
吉祥寺の近鉄百貨店(現在のヨドバシカメラ)裏には、1960年代の再開発以前の時期から社交飲食店が集積していました。その姿は、「本町ビル飲食店街」という飲み屋横丁にみることができます。、「本町ビル飲食店街」の看板の下には、ビルの1階部分に通路をとった横丁が続いています。*1
奥行のある飲み屋横丁。
横丁の向こう側には、小路をはさんでさらに次のビルも同じように横丁が続いています。
向こう側のビルから本町ビル飲食店街を見たところ。
建物と建物を貫通してできた20世紀初頭のパリのパサージュ(路地)と仕組みは同じです。*1
【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.82-P.94
忠海村向町(現在の竹原市忠海中町2-4)にあった貸座敷は、忠海港に隣接する海岸脇の川下(かわしも)地区へ移転しました。
元旅館の建物。裏側から見ると大きさが実感できます。
海寄りの長屋の建物。
「川下」の名の残る電柱番号札。
今回は、忠海(広島県竹原市)の町並みと風俗を散歩します。
忠海は、竹原市の東に位置し、瀬戸内海を結ぶ重要な港として発展しました。忠海駅前には、江戸時代の面影を残す商家が残っています。
明治17年示達の貸座敷営業許可地に、忠海村向町(現在の竹原市忠海中町2-4)が指定されましたが、街中であったため、川下地区へ移転となりました。
旅館の建物。
スナックが1軒あります。
明治30年、市街地の北部に後の朝日遊廓に発展する貸座敷の免許地指定されました。朝日遊廓の初期の営業者数は、12軒でしたが、日清・日露戦争後の明治43年には58軒と、十数年で5倍近くに増加しました。*1
写真のこのあたりには、遊廓の表門がありました。*2*3
裏門があったあたり。*2*3
遊廓の中心部。現在は病院が建っています。
遊廓の西側の通り。*2*3
【参考文献】
*1 加藤政洋:(朝日新聞社,2005)P.36-P.42
*2 呉市史編さん室:呉・戦災と復興(呉市,1997)付図「呉市街地復元図(昭和16年当時)」
*3 池田幸重:呉案内記(田島商店,1907)P.104
中通の歓楽街は、れんが通りと直行する数本の細街路で形成されています。麗女通の北東側には「有楽街」と名付けられたエリアがあって、ここにはスナックやキャバレーが密集しています。
今では珍しくなったグランドキャバレー。
夜になると艶めかしい雰囲気になります。
夜の有楽街。
今回は、呉(広島県呉市)の町並みと風俗を散歩します。
呉市は、明治後期を通じて軍港を有する都市としての性格を強めつつ都市化が進みました。「麗女通」と名付けられた通りは、「夜の歓楽郷」と呼ばれた「中通」のなかでも「カフェー喫茶店街」を形づくっていた通りで、作家の菊池寛が遊んだことでも知られています。*1
「麗女通」は「うるめどおり」と読みます。
軍港内にあった麗女(うるめ)島にちなんで名付けられました。1
麗女(うるめ)島は、神話に登場する市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、紫式部(源氏物語の著者)、弁天様(七福神の一つで海辺や水辺にまつられる美しい女神)などのうるわしい女性がかかわり持った島で、このことが、「うるめ島」の地名の由来であるとされています。2
現在は、海上保安大学校の沖合に、大麗女島と小麗女島があります。
現在の麗女通は風俗店や飲食店が密集する歓楽街の中心地になっています。
麗女通はれんが通りと交差し、東側へ続いています。
【参考文献】
*1 加藤政洋:(朝日新聞社,2005)P.36-P.42
*2 久保田利數:川原石ものがたり(呉尚古の会,1972)P.1-P.10