西浅草に、東京遺産ともいえそうなホテルがあります。
あちこちに庭石が配置されている和風のホテルです。
料金は、1席、2席、...と時間帯や宿泊・休憩に関係ない、コマ数単位の料金体系となっています。
残念ながら、昨年閉店しました。
西浅草に、東京遺産ともいえそうなホテルがあります。
あちこちに庭石が配置されている和風のホテルです。
料金は、1席、2席、...と時間帯や宿泊・休憩に関係ない、コマ数単位の料金体系となっています。
残念ながら、昨年閉店しました。
西浅草(国際通りの西側)は、ラブホテルが散在する一画です。
競馬中継が楽しめるホテルもあります。
ホテルと同じ屋号のカラオケボックスが道路を挟んで並びます。
国際通りに面したカラオケボックス。
浅草寺の西側に、「モボモガ御用達」と書かれた看板があります。
路地を進んだ先に古物商店の入口。
大正ロマンを切り口にした骨董店です。*1
店内は写真撮影OKとのことです。
地下の売り場にある白黒テレビ。
【参考文献】
*1 東京蛍堂ホームページ
ひさご通りの西側。喫茶ブラザー脇の細い路地を進むと、路地の奥には、焼肉屋や居酒屋が散在しています。
路地が交差するあたり。焼肉店が密集しています。
ビートたけしさんなどの有名人も訪れた店です。
ひさご通りへ通じる路地。ここにも焼肉店が建ち並びます。
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
ひさご通り商店街は、昭和30年に、当時都内で第一号のアーケードを造った商店街でした。平成2年に解体工事が行われ、「現代に生きる江戸の街」をテーマに生まれ変わりました。*1
ひだご通りで、異彩を放っているのが、かつら屋(帽子屋)さんです。
多数のかつら、帽子、おめん、が陳列されています。
ヘアーの色もさまざまです。
【参考文献】
*1 浅草観光連盟創立五十周年記念誌編集委員会:浅草繁栄の道 -浅草観光連盟半世紀の軌跡-(浅草観光連盟,1997)P.193
中原街道の丸子橋近くに大きなラブホテルの看板があります。
Y字路を右に入るとホテルの入口です。
道路に面して、菓子卸の企業の建物があり、ホテルは、その向こう側に建っています。
裏側の入口から。付近は閑静な住宅街です。
この場所には、料亭「丸子園」がありました。「丸子園」は、多摩川を利用した川遊び(たから船)の料亭として、大正13年に開店しました。約三千坪の敷地を持つ「丸子園」の開業は、新丸子三業地のきっかけを作りました。百畳敷の大広間と大浴場があり、広々とした庭には、離れが点々と建っていて、それぞれ風呂がついていて「へちま風呂」という名前で呼ばれていました。しかし、戦争のため、昭和16年に日本電気に買収され「丸子園」は姿を消しました。*1
その後は、日本電気の女子寮「千草寮」として使われました。*2
料亭→女子寮→ラブホテルという変遷をたどったこの土地は、女性に縁の深い土地と言えそうです。
【参考文献】
*1 羽田猛:写真で見る中原街道(羽田猛,2000)P.36-P.39
*2 経済地図社:中原区明細地図(経済地図社,1973)P.76,P.79
東急線の高架近く。
ラブホテルの立地の原則通りとでも言えそうな、線路沿いの場所のラブホテルです。
このあたりも、新丸子三業地の一画で、この場所は、旅館「こまどり」があった場所です。*1
ホテルの東側を回り込んだ路地の両側には、旅館「くるみ荘」や料亭「丸子荘」などがありましたが、現在は面影はありません。
【参考文献】
*1 経済地図社:中原区明細地図(経済地図社,1973)P.76,P.79
今回は、新丸子(神奈川県川崎市中原区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の新丸子東と上丸子八幡町の町界あたる通りは、かつては、新丸子三業として栄えていた「料亭通り」でした。この付近には、「新丸子料亭組合」と書かれたアーチがあり、丸子荘、吉田家、よね家、一直、繁の井、錦水、伏見などの料亭の名が掲げられていました。*1
割烹「錦水」があったあたり。
「花本」の名が刻まれた電柱の標識。
昭和20年4月、5月の大空襲により新丸子三業地一帯は、4~5軒を残すのみで全焼しました。戦後、一時営業を中止していましたが、「花本」は、昭和20年12月に開店しました。許可不明のまま喫茶店として、温泉マークを付けて営業を始めましたが、昭和23年に許可がおり、昭和36年頃まで繁栄しました。しかし、昭和51年(1976年)頃には、「一直」、「丸子荘」、「伏見」等3軒となり、芸妓も10名ほどとなり、次第にさびれ、姿を消していきました。*1丸子芸妓組合の事務所があった場所のあたり。*2
【参考文献】
*1 羽田猛:写真で見る中原街道(羽田猛,2000)P.36-P.39
*2 経済地図社:中原区明細地図(経済地図社,1973)P.76,P.79
謎のパラダイスの入口を入ると、いきなり強烈な展示があります。写真撮影OKとのことです。
謎のバラダイスは、淡路島の観光名所水仙郷の一角にある秘宝館です。*1*2
道路から急な坂道を下ったところのくぼ地が、秘宝館の敷地です。
チンチン音頭発祥の地。*3
テレビで有名になった経緯が書かれています。
入口には、「おしべとめしべのことをまなぶところ」と書かれています。
【参考文献】
*1 酒井竜次:I love秘宝館(八画,2009)P.186-P187
*2 都築響一:珍日本紀行西日本編(筑摩書房,2000)P.816-P.819
*3 宝島社:VOW王国ニッポンお笑い世界遺産(宝島社,2004)P.48-P.49
内通町4丁目商店街の新開地入口の東側(居酒屋「若竹」の奥)に、瓢箪(ひょうたん)横丁があります。戦後、元大黒屋旅館を含む一画で、故高平氏がキャバレー・ハリウッドを経緯していたが、現在は改造されて9軒のスナックが入居する「箪笥横丁」になっています。細い路地の奥は新開地に通じています。*1
階上(2階)は、「文化住宅」のスペースになっています。
「文化住宅」の廊下。
レトロな「瓢箪横丁」のネオン看板。都美人は、淡路島の地酒です。
【参考文献】
*1 コモード56商店街の資料館の資料
弁天横丁は、戦前、弁天座の南隣にあった大きなカフェー「灘政」を一族の故高平正一氏が譲り受け、戦後の一時期ダンスホールにしていたが、旅館「光陽荘」に衣替え、のち改造して2、3階をマンションに、1階をスナック街にして「弁天横丁」と名付けられました。*1
おでん屋とエステ
1階のスナック街。
「弁天」は旧字で「辨天」と書きます。
【参考文献】
*1 コモード56商店街の資料館の資料
コモード56商店街に洲本の歴史を展示している資料館があります。
昭和の茶の間を再現と町並みの資料の展示されています。
弁天さん界隈の昭和の新旧の町並みが比較されています。
花魁道中が行われたこともあったようです。
今回は洲本(兵庫県洲本市)の町並みを風俗を散歩します。
本町4丁目の厳島神社近くの弁天銀座は、洲本の中心街です。
弁天銀座から東側へ入った幅3メートルほどの小路は、新開地と呼ばれています。
スナック、寿司屋、料理屋、風俗店がひしめく夜の街です。
「カフエー」のプレート。
鷹匠町1丁目の歓楽街。「小唄横丁」と名付けられた小さな横丁があります。
1階に居酒屋が風俗店。2階は居住空間になっています。
裏口からも入店OK。
横丁の奥は、風俗紹介所の裏口につながっていて、そのまま向こう側へ通り抜けできます。
徳島県徳島市鷹匠町3丁目の交差点。ラブホテルへの入口を示す看板があります。
通りを進むと住宅街に混じってラブホテルの建物があります。
隣の民家の塀にあった「18歳未満の者の出入を固く禁じます」と書かれた看板。何かの店舗なのでしょうか。
ホテルの前は公園です。
徳島市栄町5~6丁目は、かつて旅館が散在していたエリアです。
栄町6丁目(5丁目の南側)にも、旅館風の建物があります。
交差点に近いあたり。
栄町5丁目北側の民家。
今回は、徳島(徳島県徳島市)の町並みと風俗を散歩します。
徳島市の二軒屋町駅近くには秋田町遊廓がありました。昭和11年発行の市街図には、現在の秋田町6丁目付近に「遊廓」の文字が記されています。*1
秋田町遊廓は戦後は赤線に移行して、「南新地」と呼ばれるようになりました。*2
1953年の住宅地図*3 には、この付近に「南新地」の記述があります。
高松市城東町の吉野湯。
歩道にせり出した吉野湯の看板がいい雰囲気です。
大きめでカラフルな暖簾。「男」「女」と大きく書かれています。
コインランドリーが併設されています。
瓦町駅近くのフェリー通りから、西へ入ったところに、昔ながらの旅館「おしどり」があります。
1階の左右に出入口があります。
西側から。
夜の様子。