かつて水晶橋があったと思われる場所に、銭湯の「藤の湯」があります。
営業時間は、午後3時から8時半までです。
油田型の煙突。
銭湯の左側は、材木置き場になっています。
かつて水晶橋があったと思われる場所に、銭湯の「藤の湯」があります。
営業時間は、午後3時から8時半までです。
油田型の煙突。
銭湯の左側は、材木置き場になっています。
二戸には、小規模ながら歓楽街もあります。
趣のあるスナックの建物。「クラブエレクトーン」という店名です。エレクトーンの演奏を楽しめる店でしょうか。この一画には、複数の店舗が軒を連ねています。
スナック店の看板。
夜の観光。
今回は、二戸(岩手県二戸市)の町並みと風俗を散歩します。
現在の二戸市街は、1972年、福岡町が二戸市に合併される以前は、「福岡町」と呼ばれていました。大正9年の「福岡町案内俯瞰図」*1 によると、福岡町遊廓は、水晶川の北側の現在の長嶺にありました。大正14年の市街図*2 には、水晶川の北側に、福田楼、第一よか楼、第二よか楼の3軒の妓楼が記されています。
水晶川があった場所は、現在は暗渠になっています。
5年後の昭和5年の市街図*3 には、金盛楼、よか楼の2軒の妓楼名が水晶川の南側に記されています。
金盛楼があったと思われるあたり。
【参考文献】
*1 二戸市史編さん委員会:二戸市史(二戸市,2001)P.248-P.249,P.628
*2 木谷賀:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)「福岡町」
*3 大日本職業別明細図 第204号 岩手県(東京交通社,1930)「福岡町」
明治40年、工兵第13大隊が設置されることが内定したころ、その受け入れ態勢の一環として、遊廓の開業が「その筋」望まれていて、明治42年に開業しました。小千谷町には、旧幕藩時代以来全国から綿商人等の入り込む殷賑の町として、当然のことながら料亭の女中、飯盛女等が蜜淫売をする風習があり、このような素地の上に遊廓が設置されたのでした。*1
遊廓の敷地は、船岡町と栄町の間あたりにありました。*2
「小千谷町勢一覧」に掲載されている鳥瞰図*3 には、通り入った道が鍵型に左に曲がる場所に遊廓の場所が示されています。
左へ曲がった先。広い道路は行き止まりになっています。
当時、遊廓の業者は、佐藤与市(松川屋)、濁川仁久治(緑屋)、山本金右エ門(住の浦)、佐藤吉二郎(若松)、関嘉吉(松尾楼)の合計5軒が参加申し込みをして許可を得ました。*4
1975年の住宅地図を見ると、この付近に、同姓同名で山本金右エ門、同姓で濁川、佐藤、関、の住宅があります。
【参考文献】
*1 小千谷市史編修委員会:小千谷市史(小千谷市,1967)P.405-P.407
*2 小野坂庄一:小千谷・北魚沼今昔写真帖(郷土出版社,2001)P.11 「小千谷市街地地図」
*3 小杉達太郎:小千谷文化(1994.03)135号 P.12-P.13「昭和六年の回顧 小千谷町勢一覧に見る」
*4 吉村宗松:船岡町九十年の歩み(吉村宗松,2000)P.25-P.26
小千谷市街の中心部にある船岡公園。船岡山の山頂にあります。
今回は、小千谷(新潟県小千谷市)の町並みと風俗を散歩します。
小千谷市街の本町の交差点を南に折れ、坂を下っていくと、料亭の「東忠」があります。
戦前、戦後ともにその最盛期には50名近くいた小千谷の芸妓達は、今やその十分の1の数名になりました。時代の大きな流れに加え、中越震災がその減少を加速させ、数多くあった料亭も「東忠」一軒となりました。*1
入口はこちらからです。
湯殿川と料亭「東忠」
【参考文献】
*1 広井忠男:小千谷文化(2007.03)186・187号 P.74-P.84 「花街の民俗 小千谷花柳界と芸妓」
遊廓の近くにある開運稲荷神社。
願いがかなうとされる「こんこん様」の石像があります。
案内板の説明によると、遊廓の遊女も信仰したそうです。
「こんこん様」の台座に刻まれた「貸座敷一同」。
かつて、新潟の花街といえば、古町、下町、沼垂の3か所がありました。このうち、下町の花街は、十四番町と常磐町の間に挟まれた場所にありました。*1
この路地を入ったところには、「坂井家」「新白根」「姫の家」などがありました。*1
昭和の雰囲気が残る路地。
こちらの酒屋の脇の路地の奥には「西月」がありました。*1
【参考文献】
*1 藤村誠:新潟の花街(新潟日報事業者,2011)192-P.199
「貸座敷家並み図」*1 によると、かつての新潟遊廓の二本柱だった十四番町遊廓と常盤町遊廓は、いずれも横七番町通りに接した場所にあって、本町通十四番町から数えて北東方向へ3本目の通りに常盤町遊廓がありました。
常盤町遊廓は、明治、大正時代は、十四番町遊廓と比べ地の利の悪いこともあって、不況の深刻化した昭和5年当時、妓楼が半減しました。*2
能登屋があった思われる場所。「貸座敷家並み図」*1 によると、大正中期は、北側から、東楼、村上屋、隅田川、第二鷲尾、井坂楼、能登屋、と隙間なく建ち並んでいましたが、昭和5年には、村上屋、隅田川、能登屋、と半減しています。
昭和32年の住宅地図*2 によると、この場所には、銭湯の「ときわ湯」がありました。。「貸座敷家並み図」*1 では「風呂屋」と記述されています。
【参考文献】
*1 藤村誠:新潟の歴史を語る 昭和63年度郷土史講座(1988,新潟市郷土資料館)P.20-P.24 「新潟遊廓の変遷を語る 十四番町と常盤町」
*2 日本地図編集社:新潟市住宅明細地図(日本地図編集社,1957)P.11
明治21年、古町通五番町と西堀通五番町(俗称:脱奔( ダッポン)小路)の貸座敷を全焼する火災が発生しました。以前から、新潟市内無く所に散在している貸座敷を北辺の一郭にまとめようと企図していた県は、この火事を好機として、遊廓統合に着手しました。その後、明治31年までに、横七番町以北の新遊廓指定地への移転が完了し、「新潟遊廓」が誕生しました。ところが、移転直後の明治31年の火事で本町通十四番町の貸座敷はすべて全焼した結果、一部の楼主が隣接の常磐町へ移転し、常盤町遊廓が誕生。新潟遊廓は、十四番町と常盤町の二本柱となりました。*1
上の写真とは逆方向(浄信院を背にして)から見たところ。写真左側の角にあった水田楼は、建物内部はもちろん、店の格子先はで全部朱塗りで統一され、これをまねる妓楼が続出しました。大正期、新潟遊廓の外観は、和風、洋風をとりまぜた家並みでした。*1
新潟遊廓の各妓楼は、競って建物の増改築を行いました。中でも特筆すべきは、十四番町の小林楼(その後「巴屋」、写真右手前の位置)は、大正から昭和初年まで最も繁栄した貸座敷の一つで、店張りをする部屋に大姿見を設備し、25人の娼妓が美しく映ずるように工夫し、さらに洋風の大建築をして、玄関から靴ばきのまま出入りできる部屋を7部屋設けました。*1
かつての常盤楼の跡には、大きなマンションが建っています。*1
【参考文献】
*1 藤村誠:市史にいがた第14号(新潟市,1994)P.4-P.22 「新潟における花街の変遷」
新津屋小路に、約160メートルにわたって長屋が連続する「人情横丁」があります。
西堀前通六番町の飲食店街の真ん中に巨大な弘法大師像が立っています。
人生の悩みを背負った人たちがやむにやまれず仏にすがるための寺ですが、そのルーツはストリップ劇場でした。寺の住職の岡本治峰さんは、当時のストリップ劇場「オリオン」の経営者で、昭和新道でもキャバレーやダンスホールを華々しく経営していました。その岡本さんが180度の大転身を遂げたのは、昭和30年頃、突然病魔に襲われたことがきっかけでした。結核に加えて糖尿病にもなり、死ぬ目に遭ったことが、岡本さんの仏門への入口でした。3年間、四国巡りを続けた結果、病気はうそのように良くなり、そして岡本さんは「寺を建てよう」という信念が固まりました。*1
総費用は、1億2500万円。寄付はいっさいありませんでした。*1
弘法大師像の下には人間国宝松久朋琳作の仁王像が2体安置されています。*2
唐山開基の弘観音は、岡本治峰さん別名「平岡弘観」のことで、戒名に岡本治峰さんの名前の「治峰」が含まれています。*2
【参考文献】
*1 新潟日報社:にいがた街・ひと・物語(新潟日報事業社出版部,1990)P.65-P.68
*2 財界にいがた:財界にいがた(2013.1)「『新潟三越脇の巨大弘法大師像はストリップ劇場跡地に建つ』のウラを取る」 P.50-P.53
今回は、新潟(新潟県新潟市)の町並みと風俗を散歩します。
古町通5番町は、現在では水島新司マンガストリート。(写真右手前のブロンズ像は、「野球狂の詩」の岩田鉄五郎)として知られていますが、このあたりは、江戸時代からの歓楽街でした。
水島新司マンガストリートのブロンズ像に混じって、歌人の會津八一の歌碑があります。
會津八一は明治14年、新潟市の古町にある料亭「會津屋」の次男として生まれました。八一の生家である會津屋は、ほとんどの文献に料亭と書かれていますが、実際のところは明治21年までは、一般に青楼と呼ばれる、遊女屋と料理屋を兼ねた店でした。會津屋は、二代目の會津金太のときに全盛を極め、一軒で5人もの美妓をかかえていました。金太の一人娘の英(えい)は、明治元年に夫を亡くすと、女手一つで會津屋を守った女丈夫でした。しかし、明治21年の大火で會津屋は全焼し、この大火を好機として、県知事は、古町を貸座敷の営業区域から除外しました。英は決断を迫られましたが、店をたたむのではなく、料理屋として再出発する道を選びました。このとき英の娘イクの生んだ次男八一は8歳でした。*1
歌碑に書かれている歌は1945年(昭和20)、東京大空襲で被災し、傷心を抱いて新潟へ帰郷したときに詠んだものです。
[IMAGE|e0073751_2374465.jpg|201411/15/51/|mid|450|300#]
歌碑の向こう側には、現在の歓楽街とも言える昭和新道(ソープランド街)があります。
【参考文献】
*1 工藤美代子:野の人會津八一(新潮社,2000)P.20-P.24
この日は、金沢屋旅館に宿泊です。部屋のあちこちに、日本画や美術品が飾られています。
遊廓だった当時の雰囲気が感じられます。
金色のふすまに日本画。
旅館の内部には、ガラスのはまった飾り棚が1階と2階にあって、レトロな品々が展示してあります。
ロシアの紙幣が額の中に入れられてかけられてあります。およそ90年前、アメリカ船籍の原油船が両津港に入港し、乗組員がこの遊廓で遊び尽したその遊興代をロシア紙幣で支払ったものです。換金不能のロシア紙幣は、ご愛嬌で受け取っておいたのか、あるいはチップ代わりに置いていったものなのか。その真偽はわからないままです。近世において佐渡ヶ島は、外国船もやって来るような変化を遂げていたことを示す資料といえます。*1
【参考文献】
*1 諸島文化・民俗研究会:ニッポン「奇怪島」異聞(宝島社,2009)P.61-P.63
両津の遊廓は、全盛時には、夷町(現在の夷神明町)で20軒、湊街(現在の両津湊)で、10軒でしたが、戦時中に衰運がおとずれ、売春防止法の施行のため消滅した時は、夷町3軒、湊町1軒になっていました。
金沢屋旅館は、唯一、当時の遊廓のままの建物が残されている旅館です。
どっしりとした木造建築は、風格が漂います。
夜の様子。
【参考文献】
*1 両津市立中央公民館:両津町史(両津市立中央公民館,1969)P.127-P.133
相川町の寺町にある法然寺。
山門をくぐると、すぐ左手側に粟島明神の小堂があります。*1
粟島明神は、性病の神様です。堂内に奉納された赤白のミニ腰巻がのぼりばたのようにぶらさがっています。昔、相川の金銀山が栄えた頃、水金町の遊女たちがよくお参りにきたそうです。*1
堂内に奉納された木製の男根。*1
【参考文献】
*1 浜口一夫:佐渡びとの一生(未来社,1993)P.13-P.14
相川の本興寺の墓地。寺の東側のところのかなり広い斜面を利用してつくられています。*1
その台地の上の方に、「情死之墓」と刻んだ墓があります。*1
台石に、「施主水金町宿屋中」と彫られています。*1
風化が激しく、「水金」の部分がかろうじて読み取れます。
安政6年(1856年)の5月2日の午前8時頃、若い男女の心中死体が発見されました。現場検証の結果は、男が短刀でまず女のノドを刺し、返す刀で自分を自分を刺したものと想定されました。男は、虎吉という24歳の青年、女は、水金町の遊女で柳川(やながわ)という20歳の娘で、二人は前日の夜家出し、その夜のうちに果てたのでした。「情死之墓」は心中が行われた場所に建てられたのですが、そこは水金町が一望に見えるところです。水金の歓楽の夜景と三味の音を聞きながら二人はその短い生命を中断したのでした。*1
【参考文献】
*1 磯部欣三:佐渡金山の底辺(文芸懇話会,1961)P.157-P.169
水金遊廓跡地に、案内板と供養塔が設置されています。
大黒屋の当時の写真などが紹介されています。
水金町遊廓は、享保2年(1717年)に11軒の遊女屋ができてから、昭和20年過ぎまで、およそ230年ほど続きました。この間、経営者にかなり変動がありましたが、くるわの数が11軒を超えることはありませんでした。11軒は公儀から限られてきたわけではなく、自主的に増えるのを制限したもので、新規にくるわを営むものは、権利を買い取って交代しました。*1
水金遊女供養塔。平成21年5月に建立されました。
水金遊廓の見取り図。
【参考文献】
*1 磯部欣三:佐渡金山(中央公論社,1992)P.242-P.248
相川最初の遊女町は山先町(現在の相川会津町)にありましたが、享保2年(1717年)、相川町北端の水金町へ移転しました。入口(写真奥)には、吉原風に大門が建ち、通路は本町通りと呼ばれ、大門から入ったところに山手へのびるもう一本の小路(写真左側)があり、その本町の東側の角(写真左手前)に「大黒屋」がありました。*1
大黒屋跡。現在は空地になっています。*2
水金川にかかる橋の名前は忍橋といい、一尺四方の丸木六本を束ねた橋になっていましたが、いまは、三日月形に組み合わせた半円形の石橋が残っています。町割りは水金川をはさんで南北(写真の左右)に区画されました。*1
「たまや」という屋号の看板が残っていました。
【参考文献】
*1 磯部欣三:佐渡金山(中央公論社,1992)P.242-P.248
*2 浦和光:佐渡の風土と被差別民(現代書館,2007)P.58 和賀正樹「遊行する聖性」
相川郷土博物館は、佐渡金銀山の歴史を中心に展示活動を行っています。
博物館の中に遊女に関する展示コーナーがあります。
佐渡において、遊女は、鉱山という巨大なメカニズムを動かすのに欠くことのできない歯車の一つとして、幕府によって保護され、鉱山労働者によって育てられました。日本最大の金銀山の繁栄のもう一つの歴史と言えます。相川郷土博物館では、昭和50年に遊女をテーマに特別展示を行ったところ好評であったため、その後、常設展示となりました。*1
遊女を再現した展示。
相川にあった水金遊廓の大黒屋の部屋札。
【参考文献】
*1 沖浦和光:佐渡の風土と被差別民(現代書館,2007)P.120-P.123 柳平則子「生活伝承のゆくえ」
今回は、佐渡(新潟市佐渡市)の町並みと風俗を散歩します。
佐渡金山の北沢地区は、明治期に入ってからの佐渡鉱山全体の一大拠点でした。
現在も遺構が残されています。
急斜面の物資運搬を行うための斜車道装置
佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」。相川金銀山の開発の発端となった場所です。
武蔵小杉の今井湯。コインランドリーが併設です。
コインランドリーと銭湯の入口がつながっています。
側面にも入口があって、入口の脇にはクリーニング店が併設です。
水色で「今井湯」と書かれた煙突。
近年、急ピッチで開発進む武蔵小杉駅前。高層マンションが林立しています。
奇跡的に1本だけ残っているレトロ電柱。
昭和遺産と言えそうです。
中央部分のへこみは、何かプレートが埋め込まれていたのでしょうか。
今回は、武蔵小杉(神奈川県川崎市中原区)の町並みと風俗を散歩します。
開発が進む武蔵小杉は、昭和の雰囲気が残る飲み屋小路です。
その中でも人目を引くのが、この「超ミニスカスッチー」の看板です。
「コパンビル」と書かれた階段が、「超ミニスカスッチー」の店の入口です。
コパンビルの3階には、バドガールの看板。