盛岡(菊の湯)朝風呂営業中

盛岡の激渋銭湯の「菊の湯」。駅からは少し離れている(茶畑2丁目)ので、バスで行くのが無難です。

珍しい、朝風呂営業中の銭湯です。

裏へ回ると、立派な煙突が見えます。

脱衣場には、主人の趣味でしょうか。動物の人形がたくさん並んでいます。

盛岡(平興酒店)かくうち

盛岡市紺屋町にある「平興酒店」。店の中にテーブルが見えます。

「コップ酒やってます。」の貼り紙。いわゆる「かくうち」です。道路を挟んだ向かい側には、酒蔵の「菊の司」があって、ここでは、菊の司が飲めるようです。

酒屋の店内。菊の司をはじめ、いろいろなお酒があって、「菊の司辛口」210円、「にごり酒」220円、など10種類から選べます。おつまみは、豆腐、おでん、味噌でんがく、せんべい、チーズ、ソーセージ、缶詰類から選べます。お酒以外は持ち込み可だそうです。

「菊の司辛口」を注文。

盛岡(桜山神社前商店街)「じゃじゃ麺」の元祖

桜山神社の門前の桜山神社前商店街(東大通商店街)は、戦後、大陸から引き揚げてきた人たちが、この境内にバラックを建てて住みつき、生計を立てるために店を出したのが始まりと言われ、一時は闇市として賑わいました。*1*2*3

開町当時は、160区画で始まり、盛岡厚生市場協同組合というのを作って団結しました。*1
昭和44年、お城側に並んでいた30数軒の桟橋店舗はすべて移動し、歩道から亀ヶ池やお城の石垣が眺められるようになりました。*2

盛岡の三大麺(わんこそば、盛岡冷麺、盛岡じゃじゃ麺)の一つである「じゃじゃ麺」の元祖の店「白龍(ばいろん、写真右)」は、桜山商店街にあります。*3

建物と建物の間の風景。

【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語9 内丸・大通かいわい(熊谷印刷出版部,1979)P.60-P.64
*2 真山重博:もりおか歴史散歩(東北堂,2009)P.195-P.196
*3 松田十刻:めん都もりおか(もりおか暮らし物語読本刊行委員会,2010)P.116-P.117

盛岡(料亭の「喜の字」)いろは楼で生まれた売れっ子芸妓

八幡町から盛岡劇場へ向かう通りに、料亭の「喜の字」があります。

建物の前に設置されている案内板に、「創業者の盛田キノはいろは楼で生まれた売れっ子芸妓」と説明があります。
「いろは楼」は、「喜の字」の隣にあった遊廓で、いろは楼の主人の盛田六太郎の娘さんが、「喜の字」をやっていました。*1

歴史を感じさせる佇まいです。

ちょうど、人力車が通りかかりました。

【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語第2集 八幡町かいわい(熊谷印刷出版部,1974)P.124

盛岡(八幡宮)遊廓の名前

今回は、盛岡(岩手県盛岡市)の町並みと風俗を散歩します。
現在も繁華街となっている八幡町の始まりは、八幡宮に参詣する人たちに飲み食いさせるためのお茶屋からでした。八幡町が賑わい、町並みが整う頃には、津志田からの遊廓の移転もあり、明治時代になると、八幡は花柳街として繁栄しました。「明治末期の八幡町かいわいの町並み」を見ると、遊廓(貸座敷)と料亭が混在していたことがわかります。料亭と遊廓は、はっきりと区別されていました。*1

八幡宮には、盛岡の納札(千社札)の同好者の集まりの「万札会」が奉納した額が残されています。*1

その額を見ると、八幡町の遊廓の名前がたくさん出ています。*1

八幡宮に設置されている案内板。八幡町が歓楽街がとして繁栄した経緯が書かれています。

【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語第2集 八幡町かいわい(熊谷印刷出版部,1974)P.30-P.31,P.90-P91,P.124,付図「明治末期の八幡町かいわいの町並み」

大沢温泉(自炊部)懐かしい雰囲気の売店

今回は、大沢温泉(岩手県花巻市)の町並みを風俗を散歩します。
JR花巻駅からバスに乗って約30分。大沢温泉に到着します。温泉地の名前そのものが旅館の名前になっている大沢旅館。

玄関を入ったすぐ左側に、懐かしい雰囲気の売店があります。

年代を感じさせる廊下。

古い道具たちに囲まれた帳場待合。売店で買ったものであれば持ち込みOK。お風呂につかった後にのんびり休憩できます。

佐倉(国立歴史民俗博物館)「性」の管理・身体の管理の展示コーナー

「性」の管理・身体の管理の展示コーナー。生理用品の普及や政府の産児制限に関する展示が行われています。

山本宣治著「山峨女史家族制限法批判」。表紙に極秘の文字が見えます。アメリカ人のマーガレット・サンガーは、女性が自分の体と避妊についての知識を獲得し、生む生まないを自分で選べるようになることが、女性の自由と解放のための絶対条件であると考え、「出産調整」の名のもとに避妊知識を広める運動を立ち上げました。「山峨女史家族制限法批判」は、性科学者の山本宣治が、学術研究用の非売品というかたちで出版したもので、5~6年のうちに、5万部以上が全国に出回りました。*1
その右隣に、「フレンド月経帯」の缶が展示されています。「フレンド月経帯」は、松竹の看板美人スター・高杉早苗を宣伝に起用し、「飛んでも跳ねても安全第一」というキャッチフレーズが都会の女性に受け、爆発的にヒットしました。*2

コンドームが普及する以前、産児調節運動の中で推奨されたのは、ペッサリーや避妊ピンでした。その避妊ピンの原理(子宮内に異物があると受精卵が着床しないという原理)をもとに、京都の医師太田典礼が開発したのが「太田リング」です。*1

娼妓稼高及び貸借調帳。

【参考文献】
*1 荻野美穂:「家族計画」への道(岩波書店,2008)P.29,P.43,P.45,P.61-P.62
*2 小野清美:アンネナプキンの社会史(JICC出版局,1992)P.89-P.90

佐倉(国立歴史民俗博物館)佐倉遊廓の凱旋歓迎ハンカチ

佐倉城趾の一角にある国立歴史民俗博物館は、多数の特色のあるコレクションが展示されています。
日清・日露戦争のコーナー。日本が富国強兵を推し進めた時代です。

佐倉遊廓が作成した凱旋歓迎ハンカチ。

佐倉遊廓の名前が書かれています。

戦争と遊廓が密接な関係を持っていたこと示しています。

佐倉(佐倉遊廓跡地)弥勒町

今回は、佐倉(千葉県佐倉市)の町並みと風俗を散歩します。
佐倉市弥勒町の妙経寺の隣には、遊廓がありました。当時の町並みを再現した市街図によると、遊廓があった場所は、と妙経寺の境内の裏手で、三谷屋ふとん店(写真奥)の手前です。

当時は、道路(弥勒通り)から入ったところに、大門がありました。*1

「弥勒新地」と呼ばれた遊廓がいつごろ開かれたかについての詳細は不明ですが、佐倉に歩兵部隊が屯営するようになった頃(明治16年頃)だと伝えられています*1

荒川(若葉)楼、成田楼、志村楼、弥勒楼、日暮楼、東楼がありました。

【参考文献】
*1 新佐倉真佐子を作る会:佐倉お茶の間風土記(新佐倉真佐子を作る会,1979)P.96-P.97,附図

深谷(ちょうちん横丁)かつての芸者家街

深谷駅前の西島町3丁目にある割烹料理屋。この通りは、「ちょうちん横丁」と呼ばれる昔からの繁華街です。

深谷の貸座敷は、大正末期には、公娼制度の廃止と共に、その姿を消してしまいましたが、これに代わる芸者家街が趣向も場所も変えて新しく出現しました。場所は、現在の提灯(ちょうちん)横丁を中心として散在し、梅の家、三津基、蔦の家、末広、春本、月の家、千登世、森本、一梅、悟の家、寿々木、などという芸者家があって、一時は芸者の数が48人いました。*1

現在はスナック、旅館、食堂などの建物が建ち並ぶ繁華街になっています。

北側から見たちょうちん横丁。

【参考文献】
*1 松島英雄:深谷今昔物語(武陽民報社,1960)P.58-P.63

深谷(見返りの松の碑)並木

「見返りの松」は国道17号(写真右側)と旧中山道(写真左側)の交差点(深谷市原郷)に現存しています。江戸時代、深谷宿では「飯盛り女」と呼ばれる遊女が置かれ、宿場のはずれにあるこの松のから宿場の方を振り返り、前の晩の遊女との別れを惜しんだ旅人も多かったことから、「見返りの松」と呼ばれたようです。*1

「見返りの松」の石碑。

石碑の裏側には、青楼華やかな頃の様子が書かれています。

江戸時代、深谷宿のはずれに、松、杉あわせて400本があり、並木道となっていました。

【参考文献】
*1 松島英雄:深谷今昔物語(武陽民報社,1960)P.15-P.22

深谷(遊廓跡地)相生町

今回は、深谷(埼玉県深谷市)の町並みと風俗を散歩します。
今は昔、大正末期まであった深谷の遊廓、「深谷と云えば女郎屋、女郎屋と云えば深谷」と知れわたり、近在は元より、相当遠隔の地からも遥々毎日毎夜多くの人たちが遊びにきました。大正の頃の遊廓は、相生町に9軒、本町に1軒、稲荷町に6軒ありました。*1
明治35年の市街図*2 によると、相生町の安中商店付近には、貸席(貸座敷)の関口楼がありました。

松本楼があったあたり。

酒蔵の田中藤左衛門のあたり、須藤染物店の隣には、芸妓屋と貸席がありました。*2

貸席(貸座敷)があったと思われる場所は、駐車場になっています。

【参考文献】
*1 松島英雄:深谷今昔物語(武陽民報社,1960)P.15-P.22
*2 田口浪三,高柳鶴太郎:埼玉県営業便覧(全国営業便覧発行所)P.49