大村の繁華街。和風スナックや居酒屋などが建ち並びます。
看板建築のスナック店。
洋風のモダンな建築、
「ナルト」という店だったようです。
大村の繁華街。和風スナックや居酒屋などが建ち並びます。
看板建築のスナック店。
洋風のモダンな建築、
「ナルト」という店だったようです。
大村市街には、コンクリート製のゴミ箱が数多く残されています。ゴミ箱のふたの部分には、店の屋号が記されています。
箱の前面は木製です。
町並みによく溶け込んでいます。
ゴミ集積場にもコンクリート製のゴミ箱。A、B、Cと書かれています。
大村遊廓があったと思われる大村市武部町。現在は数軒の旅館が営業中です。
スナック「FUTABA」。古い住宅地図には、同名の二葉という旅館がありました。
通りに面した旅館「みきや」。
旅館「山陽」。
おおむら温泉ときわ旅館は、田の平にあって、当時大村地方の温泉旅館はここ1軒でした。近くには、遊廓街があったこともあり、町の有力者や軍人の将校などが多く利用し、賑わっていました。*1
おおむら温泉は、遊廓の北側に隣接していました。*2
田の平の名が残る電柱のプレート。
遊廓があったと思われる通り。
古い町並みが残っています。
【参考文献】
*1 郷土出版社:目で見る諌早・大村の100年(郷土出版社,2002)P.33
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)長崎県
大村駅の横に、人一人がようやく通れるほどの低いトンネルがあります。大村線開通の際、近在の篤志家の尽力により、交通の便をはかって作られましたが、武部地区が遊廓街として華やかなりし時は、人目を忍ぶ客の通り道になったともいいます。*1
トンネルの入口。
大人の背の高さでようやく通れるほどのトンネルです。
反対側の出口。
【参考文献】
*1 広報おおむら(1997.5)P.7
今回は、大村(長崎県大村市)の町並みと風俗を散歩します。
駅の入口の曲がり角の部分に白ポストが設置されています。
有害雑誌回収ポスト。
ポストに描かれているロゴ「ココロねっこ運動」は、子どもたちの心のねっこを育てるために、大人のあり方を見直し、みんなで子どもを育てる県民運動です。*1
このポストをこわしたり、いたずらしたりした人は罰せられます。
【参考URL】
*1 長崎県ホームページ ココロねっこ運動
嬉野市塩田町大字大草野長谷。嬉野温泉からは、約4km北側の場所です。
数年前まで、この場所に、嬉野武雄観光秘宝館がありました。
現在は太陽光発電の施設になっています。
嬉野武雄観光秘宝館は、最新のエレクトロニクス技術の粋を集めた大セックスワンダーランドとして開館し、営業中の秘宝館の中では、展示数、内容、スケール、全てにおいてNo.1でした。*1
オープン当初から約10年間は、入館者数は順調に推移しましたが、1990年に高速道路・長崎自動車道の大村ICー武雄北方IC間が開通すると入館者数が次第に減っていきました。*2
【参考文献】
*1 井竜次:I love秘宝館(八画,2009)P.34
*2 妙木忍:秘宝館という文化装置(青弓社,2014)P.112
嬉野温泉の野畠通り。
スナックや喫茶店などが「マンダム」。
スナック「マンダム」。店名に男性化粧品の名が使われているのは、めずらしいです。
チャールズ・ブロンソンがCMをやっていた頃(1970年)のロゴマークが使用されています。丹頂は、このCMのヒットのおかげで、社名まで「マンダム」に変更してしまいました。*1
温泉街のはずれに、かつてのストリップ劇場「関西ショー劇場」の遺構が残っています。
劇場の入口。「十八歳未満の方入店お断りします。」のプレートだけが残っています。
「関西ショー劇場」の看板は、白く塗りつぶされていました。
唯一の遺構は、劇場から200mほど離れた場所に設置されたままになっている「関西ショー劇場」の看板です。隣には、嬉野小学校のスクールゾーンの交通標識があります。
武雄温泉の商店街にあるスナック「ぼんぼり」。
像の顔のような店舗デザイン。
鼻の部分に取り付けられた電球。
建物は3世帯住宅のようになっています。一番左がスナック「ぼんぼり」、真ん中が理容室のような店舗、右側は花屋さんです。
武雄温泉の商店街。子宝相談ののぼり旗のある薬局。
店舗の隅に小便小僧があります。
元気よく放尿。
先っぽには、管が取り付けられています。
「全国遊廓案内」*1 によると、武雄町温泉遊廓は武雄温泉場にあって、貸座敷は、花月、一楽、第三国明楼、第四国明楼、第四国明楼、小桜楼、改盛楼、文明楼などがありました。
昭和3年の市街図*2 によると、貸座敷「花月」は、正法寺へ向かう道の角にあって、現在、同じ場所には、旅館「花月」があります。
道の角に沿って、旅館「花月」の建物が長く連なっています。
裏側から見た旅館「花月」。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌.14(三一書房,1993)P.154-P.155 「全国遊廓案内」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)佐賀県
JR行橋駅から平成筑豊鉄道田川線で3つ目の駅の豊津で下車。そこから徒歩10分の行橋市天生田(あもうだ)に、清地(すがち)神社があります。
参道、一ノ鳥居の前に一対の狛犬が奉納されています。前肢を曲げて玉の上にのせているという容姿のもので、高さは1メートルぐらいです。
向かって左側の吽(うん)像(口を閉じている方)の股間には、20センチ程の男根が刻まれています。*1
向かって右側の阿(あ)像(口を開いている方)。
阿(あ)像の股間には、長さ4センチの陰物が刻まれています。*1
【参考文献】
*1 阿部通良:九州性崇拝資料(私家版,1963)P.241-P.242
今回は、行橋(福岡県行橋市、ゆくはし)の町並みと風俗を散歩します。
行橋は、JR小倉駅からJR日豊本線で約15分のところにあり、JR行橋駅からは、平成筑豊鉄道田川線で田川と結ばれています。
行橋の近・現代においては、筑豊の石炭・炭鉱とのかかわりが大きく、筑豊への農産物や坑木が供給されました。また、筑豊の炭鉱関係者にとっての保養地としての役割もあり、行橋には、かつて券番があり、50名ほどの芸者がいました。客は、地元の商店主や地主ばかりでなく、上客は田川の炭鉱主でした。*1
昭和10年発行の市街図によると、券番は、現在の行橋市大橋3丁目付近にありました。*2
付近には、割烹料亭があります。かつての名残かもしれません。
市街図*1 「芸妓券番」の記載があるのは、この路地の先の角のあたり。
道幅が急に狭くなって、鍵型に曲がっています。
角を回り込んだあたり。裏門のあるお宅。
【参考文献】
*1 山内小二:地方史ふくおか(2007.2.28)P.8-P.9「筑豊の炭鉱と京築 隣接地とのかかわりを見る」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第444号 福岡県
花巻に唯一残っている銭湯の高砂湯。コンクリート造りの建物です。
奥行はかなり大きくで、規模の大きさを感じさせます。
建物脇から見える煙突。
現在は臨時休業中です。
旧裏町の路地。
傍らに、手押しポンプがあります。
特製。川本式。
現在は使われていないようです。
地元では有名な百貨店の「マルカン」。
展望大食堂は、今では珍しくなった食券を買うタイプの食堂です。
マルカンラーメン(570円)と生ビール(580円)を注文。豆板醤入り辛口のあんかけラーメンです。ビールと良く合います。
名物の特大のソフートクリーム(170円)。割りばしで食べるのがマルカン流。
テレビでも紹介されています。カップルならふたりでひとつでもOKだそうです。*1
【参考文献】
*1 「賢治の広場」に設置されている花巻市街の案内図
双葉町の公衆トイレ。付近には、スナックなどの店舗が散在しています。
トイレ内には、多数の貼り紙。
便器の中に用をすませましょう。
下着類など、トイレに入れてはいけません。
花巻の双葉町を中心にスナックや居酒屋が散在しています。
この建物はアパートですが、建物の1階部分がスナックになっています。
「こいこい通り」と名付けられた飲み屋街。
建物の2階部分は居住スペース。1階はスナック街です。
明治18年、貸座敷免許地指定になるまでのの頃の裏町は、ほとんど百姓家ばかりしかなく、鍵町(坂本町)には、前々から小料理屋などがあったので、この方が指定地になりかかったところ、里川口町の有力者の滝川金太郎、八重樫治太郎、他が、県庁に運動した結果、翌19年に裏町が勝利を得て、明治22年には、八重樫治太郎が真っ先に「千歳楼」を開業、その後、続々開業者が出て繁盛しました。*1
遊廓の中心部と思われる十字路。
昭和20年の戦災後は、一軒もなくなって57年間の花柳界は終わりを告げました。*1
稲荷神社の案内板には、このあたりが激しい戦災にみまわれたことが書かれています。
貸座敷事務所があったあたり。*2
【参考文献】
*1 熊谷章一:花巻市上町の歴史 形成と発展(花巻市上町商業協同組合,1972)P.78-P.80
*2 東京交通社:大日本職業別明細図 第204号 岩手県(東京交通社,1937)
豊沢町の東側。裏町の南端に、御旅所跡があります。現在、この場所には、石柱が建っています。
御旅屋は、まつり(花巻祭)の間、神輿(ご神体)が神社を出て宿とする場所で、花巻まつりの際も、露店や見世物が、広場に集まり、賑わいをみせました。宮沢賢治の童話「祭りの晩」に登場する「お旅屋」は、この御旅屋モデルと考えられています(豊沢町の案内より)。
鳥谷崎神社の碑。観音祭を起源とする花巻祭は、鳥谷崎神社の祭礼としてとして行われるようになりました。
お旅所の前には、芝居劇場の「朝日座」がありました。現在は、昭和50年代にオープンした「ホテル花城」が建っています。*1
遊廓があった裏町の通りを南下した突き当たりに御旅所あり、その隣に朝日座がありました。
【参考文献】
*1 鎌田雅夫:花巻・北上・遠野・西和賀の今昔(郷土出版社,2010)P.94
今回は、花巻(岩手県花巻市)の町並みと風俗を散歩します。
豊沢町(旧花巻川口町)は、明治から大正の初期にかけての花巻の商店街の中心で、その次の上町、それから鍛冶町の順でした。かつての豊沢町は、朝早くから活気のある町で、そして、夜は花巻一の歓楽街である裏町への通り道として遅くまで賑わいました。
豊沢町に、宮沢賢治の実家跡があります(写真左奥)。
宮沢賢治と豊沢町のことを説明した案内板。
「大正10年頃の豊沢町絵図」。*1
豊沢町の東側に「裏町」の記述があります。
豊沢町の案内板。花巻史談12号の「豊沢町今昔」*1 からの抜粋と思われます。
【参考文献】
*1 永田圭一:花巻史談(第12号,1987)P.31-P.35 「豊沢町今昔」