滑川の櫟原神社の隣にある銭湯の塩湯。
脱衣場では、「写真で見る銭湯の歴史展」開催中です。
油田型の煙突。
脱衣場には、田村隆一の詩「銭湯すたれば、人情もすたる・・・」が掲げられていました。
滑川の櫟原神社の隣にある銭湯の塩湯。
脱衣場では、「写真で見る銭湯の歴史展」開催中です。
油田型の煙突。
脱衣場には、田村隆一の詩「銭湯すたれば、人情もすたる・・・」が掲げられていました。
JR滑川駅からすぐのところに、銭湯の清水鉱泉の看板が見えます。
公娼制度が社会の批判をあび、廃止の世論が高まると昭和9年、滑川検番組合は大改革を断行して純粋な町芸妓形式の営業に代え、貸座敷営業は順次廃業するに至りました。*1
現在の常盤町の町並みに、料亭街の名残があります。
「滑川町鳥瞰図絵」*1 によると、かつての常盤遊廓があった場所(真證寺の北側)に隣接して、稲荷神社がありました。
現在、その場所には稲荷神社があったことを示す石柱が建っています。
石柱には、「寄進 廊内青年会」と刻まれています。
明治36年頃から大正11年頃までの十数年の遊廓運営において、会計上の不正行為が発覚するなどしたため、「廓内青年会」のメンバーを中心に改革が進められ、衛生的設備の完備や守護神としての稲荷神社の建立が行われました。*2
石柱が建てられたのは大正12年。「廓内青年会」のメンバーを中心に改革が進められた時期にあたります。写真奥は真證寺です。
「廊」と刻まれていますが、おそらく「廓」が正しいと思われます。
【参考文献】
*1 滑川市総務部:近代百年のあゆみ 眼でみる滑川市(滑川市,1978)鳥瞰図
*2 滑川市:滑川市誌資料 第6 商工業(滑川市,年代不明)P.24-P.25
今回は、滑川(富山県滑川市)の町並みと風俗を散歩します。
滑川駅北口を出て、交差点を左へ進むと、「厚生連滑川病院」の大きな建物が見えてきます。
この場所には、当時滑川で唯一の料亭兼鉱泉であった料亭「清水花壇」がありました。*1
料亭「清水花壇」の前身は、天保14年(1843年)に、綿屋五郎兵衛と九三郎が開業した「孝徳泉」という湯小屋でした。「孝徳泉」は、多くの浴客が集まり賑わったので、弘化年間(1844年~)に、瀬羽町の仙良という者が浴客を相手に女郎屋をはじめ、これが滑川の遊廓「常盤遊廓」の始まりとなりました。妓楼は、北陸街道の町はずれに建てられ、一帯を「新屋敷」と称するようになりました。*2
今は、かつのて面影はありませんが、ときわ町の町名は現在に至っています。*2
明治33年、県は貸座敷の免許区域を県内14ヶ所に指定し、そのうちの1ヶ所が滑川町常盤町でした。従来、北陸道沿い(新屋敷)に散在していた業者は、順次免許地内に移り、常盤遊廓が形成されました。*2
常盤遊廓は、「厚生連滑川病院」の近く、真證寺の北側(写真中央のあたりを左折したあたり)にありました。*1
【参考文献】
*1 郷土出版社:目で見る滑川・新川・婦負の100年(郷土出版社,1993)P.48,鳥瞰図
*2 金子忠雄:近代史研究 第17号(富山近代史研究会,1994.3)P.39,P.41「滑川町常盤遊郭の起こりと変遷」
福光の知源寺の東隣にある銭湯の米田湯。現在は休業しているようです。
銭湯脇の路地。
モダンな意匠が目を引きます。
南側の路地。奥に煙突が見えます。
福光は、理容室、美容室が多い町です。写真の一画には、3軒が建ち並んでいます。
角の理容室。
モダンな雰囲気の玄関。
エレガントな半円形の窓。
福光公園の東側にある春乃家食堂。
大正12年創業で、建物は、前田藩の米蔵を改造したものです。*1
大正12年からペンキを塗り替えていないそうです。*1
昭和テイストな店内。
おでんとビールを注文。おでんダネの大きさには圧倒されます(写真のたまごと比べるとその大きさが実感できると思います)。おでんは人気メニューで、近所の人たちが、鍋を持って買いにくるほどです。
【参考文献】
*1 北村森:サンデー毎日(2013.11.17)P.44 「一生逸品30 食堂の名は春乃色」
福光の旧遊廓街の近くにある銭湯の「小林浴場」。「サウナ」の大きな文字がビルの壁面に書かれています。
1階の入口。
2階、サウナ。
銭湯脇の路地。
福光の旧遊廓街には、スナック店が散在しています。
遊廓建築と思われる建物の1階が改装されています。
モダンな色彩のスナックの建物。
スナック「花月」脇の通りからの景観。
旧遊廓の「丹保家」があった場所*1 に建っている居酒屋「いなほ」。
奥行のある敷地に続く木塀。
裏門。
屋根の上の鯱。
【参考文献】
*1 福光町:福光町史(福光町,1971)P.830
日清戦争後の戦勝気分にのって、料理営業はますます繁盛するようになり、福光町は、明治32年(1899年)、富山県知事から貸座敷営業免許地の指定をうけました。さっそく、明石家、山本家、弥六、一つ松、神田家、桐藤家、松風楼、川原、丹保家、旭楼がこの免許地における草分けとして明治33年(1900年)に営業を始め、末広町と呼ばれました。*1*2
現在は、旅館やスナックが建ち並ぶ一画となっており、当時の雰囲気が残されています。
まるで参道のように、建物の前には、石灯籠が規則正しく並んでいます。*3
現在も多くの旅館やスナックが営業中です。
【参考文献】
*1 福光町:福光町史(福光町,1971)P.829-P.830
*2 福光自治振興会:いつついし(福光自治振興会,1992)P.63-P.64
*3 加藤政洋:現代風俗2002 20世紀の遺跡,「消えゆく花街の景観、廓建築の痕跡」P.47
今回は、福光(富山県南砺市福光町)の町並みと風俗を散歩します。
JR城端線の高岡駅から約40分で福光駅に到着します。
駅前に白ポストが設置されています。
富山県の花「チュリーップ」は、富山県の白ポストに見られる特徴です。
上部には、「有害図」「書追放」と書かれた青色の矢印
輪島の朝市通りにある銭湯の白山湯。交差点の角にある木造建築です。
入口の南側は、最近改装されて綺麗になっています。
昭和の銭湯らしい佇まいです。
シンプルな脱衣場。
朝市通りにある永井豪記念館。永井豪は輪島市出身の漫画家です。
永井豪に関する資料や漫画の原画などが展示されています。
永井豪の代表作「ハレンチ学園」。
当時、「ハレンチ学園」の影響で小学生の間でスカートめくりが流行しました。
輪島の朝市通り。
旧遊廓街の西側にある和風の佇まいの居酒屋「梅乃家」。
地元の方の話によると、かつては「さんしょうろう」という遊廓だったそうです。
昭和初期の市街図*1 を見ると、「三昌」という記述がありますので、「三昌楼」だったのだと思います。
店舗の1階の中央部の中庭。遊廓のような雰囲気です。
輪島の地酒「純米酒 おれの酒」を注文。この後、刺身の盛り合わせと天ぷらそばを頂きました。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第二五七號 石川懸
かつての輪島町遊廓の一画には、スナックが点在しています。
和風の建物の前面がスナック向けに改装されています。
年代を感じさせる木造モルタルのスナック店。
見事な看板建築。
今回は、輪島(石川県輪島市)の町並みと風俗を散歩します。
輪島町遊廓は、重蔵神社の東隣にありました。*1*2
現在、この界隈には、料理屋のような建物建ち並んでいます。茶屋街のような雰囲気が残されています。
三味線通りと呼ばれたメインストリートの奥まったあたりにある建物。
茶屋街のような雰囲気です。
玄関付近。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第二五七號 石川懸
*2 輪島男兒尋常高等小學校:輪島大火記録(輪島男兒尋常高等小學校,1910)「火災後の輪島河井町」
青林寺の北東側の旧検番があったと思われるあたりは、道路が曲がりくねっていて、情緒ある町並みです。
美容室脇の路地は、スナック街「湯の町センター」に通じています。
美容室の建物は、隣の3階建ての建物とつながっていて、さらに旅館「おくだや」の建物とつながっています。
旅館「おくだや」の通り、ゆるやかなカーブを描いて温泉街につながっています。
温泉街には、かつての歓楽街の名残が見られます。
スナック街「湯の町センター」の建物。建物脇の路地を抜けて通りの反対側へ通じています。
有楽街。
飲食店のアーケードです。
今回は、和倉温泉(石川県七尾市和倉町)の町並みと風俗を散歩します。
温泉街の道路から南へ入った駐車場脇に「和倉検番跡」の碑と案内看板が建てられています。
この場所に(有)和倉検番があったようです。
和倉芸妓の歴史など詳細の説明があります。
温泉街の当時の地図。旧検番は、この場所ではなく、青林寺の北東側にありました。
八木山の割烹の並びにある銭湯の「八木山鉱泉」。
県の名水の指定を受けているそうです。*1
宿泊施設も併設されています。
道路側からの遠望。
【参考URL】
*1 富山県公衆浴場業生活衛生同業組合ホームページ 八木山鉱泉
「八木山の滝」の入口の右側のもう1軒、料理旅館の重厚な建物が残っています。
昭和10年代から続く割烹の「重家」。*1
売春防止法実施後は、「池田家」「吾妻家」「重家」の3軒が老舗として八木山の伝統を守り、営業を続けていました。*1
「八木山の滝」からの遠望。
【参考文献】
*1 八木山郷土史編集委員会:八木山郷土史(八木山郷土史編集委員会,1993))P.119-P.125
「八木山の滝」の入口の両側に、かつての料理旅館の建物が残っています。*1
八木山の花街は、明治の初期、「八木山の滝」の水を用いて温浴旅館を開業し、大正3の頃、二業組合が設置されたのが始まりでした。昭和の頃は全盛となり「八木山遊郭」と呼ばれるようになりました。*2
大正14年から続く割烹の「吾妻屋」。*2
建物の側面。写真右側は「八木山の滝」です。
趣のある入口。
【参考文献】
*1 加藤政洋:現代風俗2002 20世紀の遺跡,「消えゆく花街の景観、廓建築の痕跡」P.44-P.45
*2 八木山郷土史編集委員会:八木山郷土史(八木山郷土史編集委員会,1993)P.119-P.125
今回は、八木山(富山県富山市八木山)の町並みと風俗を散歩します。
八木山(やきやま)は、高山本線笹津駅から越中東街道(国道41号線)を2kmほど北上したとこにあります。
「八木山の滝」と呼ばれる公園があり、昭和戦前期には、県下を代表する理想的な避暑地として三本の指に入るほど有名なところでした。*1
「八木山の滝」は、明治初期に開発された人造の「瀧」を中心とする公園で、大正期に料理屋を兼ねた旅館の組合が組織され、花街の役割を果たしていました。*1
八木山の瀧の由来の案内板。
案内板がある場所の上部に、落差の大きな人造の滝があります。
【参考文献】
*1 加藤政洋:現代風俗2002 20世紀の遺跡,「消えゆく花街の景観、廓建築の痕跡」P.44-P.45