焼尻郷土館は、道指定有形文化財の小納家の建物をそっくりそのまま郷土館として解放しているものです。洋風の木造建築です。
トイレも当時のまままです。
有田焼の便器。
大便器の装飾も見事です。
焼尻郷土館は、道指定有形文化財の小納家の建物をそっくりそのまま郷土館として解放しているものです。洋風の木造建築です。
トイレも当時のまままです。
有田焼の便器。
大便器の装飾も見事です。
昭和の初期、焼尻島は、にしん景気で笑いが止まらない時期がありました。昭和8,9年の羽幌町の記録によると、にしんの水揚げが年間1億円を越し、漁民のタンスは札束でぎっしり詰まってしまい、人口3000人のこの小島に料亭や飲み屋が13軒もでき、酌婦の数も40人を越しました。*1
地元の方の話によると、ハート柄の急な坂道(1枚目の写真)を登り 、厳島神社へ向かう坂道の手前を右折した工兵街道記念碑に至るまでの道*2 は、かつての歓楽街で、映画館や遊廓もあったそうです。遊廓は、昭和33年まで続きました。
かつての遊廓跡*3 を偲ぶものは残っていません。
建物の合間からの遠望。
【参考文献】
*1 茂木慎雄,柞木田竜善:島への旅行案内(秋元書房,1962)P.24
*2 羽幌町観光協会:公式ホームページ「天売島・焼尻島手書きまっぷ」
*3 北海道新聞社:「フォト海道」写真データベース「羽幌町 焼尻の遊郭跡」
今回は、焼尻(やぎしり、北海道苫前郡羽幌町焼尻)の町並みを散歩します。
焼尻島へは、羽幌港から「高速船さんらいなぁ2」で35分。焼尻フェーリーターミナルに到着します。
ターミナルは、待合室と管理事務所になっています。
管理事務所の柱には、温度計がかけられています。
温度計に、角海老宝石の名があります。角海老宝石は、ソープランド、ボクシングジムなどを経営する角海老グループの宝石店です。
羽幌町南大通にある理容室の「太田理容院」。
地元の方の話によると、建て替えられていますが、建物のデザインは当時のままだそうです。
手のこんだ意匠。
鮮やかな青色が印象的です。
旧遊廓街は、現在はスナックや居酒屋が密集する歓楽街になっています。
「リップ」という名のスナック。
脇道を入ったところにあるスナック。
夜の様子。
旧遊廓街から脇道を入ったところにある居酒屋「ほろ」。赤線建築のような意匠です。
建物の後ろ側は木造建築です。
建物の脇のタイルの装飾。
隣の道路からの遠望。
南3条の羽幌川沿いの通り。旧遊廓街の1本北側の通りです。
飲み屋横丁の建物。
「その筋の達に依り...」
同じ通りの南東方向にある居酒屋「いこい」。印象的な看板建築です。
今回は、羽幌(北海道苫前郡羽幌町)の町並みと風俗を散歩します。
羽幌は、北海道北部の西海岸にある町で、かつては、道内有数の炭鉱の街でもありました。
明治27年、道庁告示第94号羽幌市街地の羽幌川沿いの南四条、南五条、南六条の地域が貸座敷免許地に規定されました。*1
地元の方の話によると、現在の南三条、南四条にかけてが、遊廓があった場所で、お食事の店「みずほ」の左隣には、つい数年前まで遊廓の建物が残っていたそうです。
料理屋や旅館に混じって、遊廓の建物が残っていたそうです。
いくつかの場所を教えて頂きましたが、現在その面影はありません。
【参考文献】
*1 羽幌町史編纂委員会:羽幌町史(羽幌町,1968)P.570
「北のカナリアパーク」は、2012年制作の映画「北のカナリアたち」を記念した施設です。礼文島の南端に位置し、利尻富士の眺めがすばらしい場所です。
映画ロケのために建てられた校舎ロケセットがそのまま残されています。
校舎内にはロケ時の写真や衣装などが展示されています。
パークから見る利尻富士の絶景。
香深の市街には、名物の「ウニ」や「ホッケのちゃんちゃん焼き」が食べれる飲食店が軒を連ねます。
「海鮮処かふか」に、「礼文町全町明細図(昭和37年)」が掲示されていました。
かつての遊廓があった通りの西側(写真上部)は、この頃は住宅地になっています。
船泊港遊廓があったと思われるあたりは、この頃は、割烹料亭などが散在していたようです。
「礼文島明細地図」に記述のある久種湖畔の「新遊廓(船泊港遊廓)」*1 があったあたり。日本最北(樺太を除く)の遊廓です。
久種湖畔展望台に登ると、船泊市街を遠望できます。
遊廓があったと思われるあたりは、現在は久種湖畔キャンプ場になっています。
周囲は、山と湖に囲まれています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(礼文):礼文町郷土資料館
礼文町の船泊は、稚内の市街よりも、北に位置するので、日本最北の町と言うことができます。
最北の町にある銭湯の「船泊湯」は、日本最北の銭湯です。
営業は、午後4:00からです。
銭湯の裏側。
香深にある「礼文町郷土資料館」。
明細36年に制作された「礼文島明細地図」が展示されています。当時の人口は礼文村5028人、香深村4850人で、計9878人で、両村とも、鰊(にしん)と昆布が主産物でした。(案内板より)
久種湖の近くに、「新遊廓」と記載のある一画があります。遊廓内には、料理屋もあった模様です。
地図の裏面に記載されている実業人名。「新廓内」と記載のある料理屋もあります。
香深の市街にある渡辺旅館。
古い建物が目を引きます。
旅館の1階には、ランプ、そろばん、蓄音機など、当時使われていた道具や器具が展示されていて、まるで博物館のようです。
渡辺旅館の焼印。
今回は、礼文(北海道礼文郡礼文町)の町並みと風俗を散歩します。
香深は、礼文島の東海岸に位置し、香深港は、現在では礼文島唯一の玄関口です。
昭和15年の資料*1 に、香深の貸座敷業「三浦屋」「金盛楼」の記載があります。
礼文島南側の香深の市街地から道道765号線の坂道を登りと、右手に厳島神社の鳥居が見えてきますが、この先が貸座敷があった場所です。*2
北側(写真右側)に、「三浦屋」「金盛楼」、南側(写真左側)に松月楼がありました。*2
松月楼があったと思われるあたり。*2
この坂を上ったところには、劇場がありました。*2
【参考文献】
*1 渡辺利三郎:銃後の香深(渡辺利三郎,1940)広告欄
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第395號
蒲田駅南口の「ホテル末広」は、昭和27年開業で、当時は「温泉旅館」でした。開業時は「玉屋」という旅館でしたが、手相占いに見てもらったところ「末広」が良いというのですぐに名前を、「末広旅館」変えました。当時、隣には「白蘭」というキャバレー(後のキャバレー「モンテカルロ」)があって、バンドの生演奏が旅館にも聞こえ、華やかな雰囲気でした。*1
日帰り温泉(90分1100円)は、銭湯のように黒湯温泉を味わえます。
待合室には、小沢昭一さんが少年だった頃のふるさと蒲田の地図などが展示されています。
待合室では、冷たい麦茶がサービスです。
参考文献】
*1 交通新聞社:散歩の達人(2012.6)P.9 「ホテル末広が語るあの頃の活気と風情」
西蒲田6丁目。通りの向こう側にホテルの看板が見えます。
多摩堤通り。ホテルへの入口を示す多数の看板。
趣のある路地。隠れ家的な雰囲気のラブホテルです。
屋上の看板には、ビジネスホテルと書かれていますが、「ビジネス」の部分が白く塗られて消された跡があります。
西蒲田7丁目の東京蒲田病院の南側に、小規模なスナック街があります。
昭和レトロな店舗が建ち並びます。
建物の角がR形状となっているアパート。
長屋風の建物のつなぎ目の部分の意匠。ウイスキーの瓶のような形状にデザインされています。
蒲田駅東口の繁華街の交差点の角にある建物。
建物の側面には大衆割烹「川和路」。かつては料理屋だったようです。
建物の右側半分は、アパートのような造り。
昔、お風呂場で見かけたようなタイルです。
蒲田東口中央通りにある激安自販機。黄色で目立っています。
自販機の脇には、ラブドールと思われる女性の人形。名前は「みなみ」さんだそうです。
激安の理由は、1日1000本売れているためです。
「1本買って♡」。
蒲田東口中央通りの先にある歓楽街。カラフルな飲食ビルが建ち並びます。
小規模ですが、スナックや居酒屋が密集しています。
さかさ横丁と呼ばれているようです。
「大女優」。映画の町らしい店名です。
現在のアスレチッタ1階のエレベーターホールに「蒲田松竹撮影所跡」の木柱が建てられています。
川崎映画街を作った(株)美須商事(旧チネチッタ)は、昭和25年、この場所に「蒲田東映劇場」をオープンさせました(案内板より)。
アスレチッタの裏口(写真左側手前)。ここから、ニッセイアロマスクエア隣りのビル壁面に描かれている「松竹キネマ蒲田撮影所」の絵が遠望できます(写真右奥)。
蒲田の歴史を物語っています。
今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みと風俗を散歩します。
大正2年(1920年4)、松竹キネマ合名社が設立され、敷地として、蒲田の中村化学研究所跡に蒲田撮影所が整備されました。男女俳優の募集も行われ、その頃の日本映画では女性の役をほとんど”女形”が演じていましたが、松竹では”女は女優”の方針でした。1
撮影所があった敷地に建てられた大田区民ホール「アプリコ」(写真奥)前の植え込みには、撮影所の入口にあった松竹橋が再現されています。2
松竹橋の親柱は、もう一つ、「アプリコ」の1階の入口付近に設置されています。
もはや現存しないものとされていた実際の親柱で、鎌倉在住の方から寄贈の申し出があり、70数年ぶりに、当地への里帰りが実現したものです(案内板より)。
「アプリコ」の地階には、全盛時の蒲田撮影所を再現したジオラマがあります。
正門前を逆川(さかさがわ、六郷用水の支流)が流れ、そこに松竹橋がかかっていました。
【参考文献】
*1 永山武臣:松竹百十年史(松竹,2006)P.364-P.367
*2 大田観光協会:大田区観光ガイド(ハーツ&マインズ,2007)P.74
大正から昭和へと改元された後の数年間、東岩瀬の「裏政治」は、岩瀬港町の「松月楼」が主舞台で、政治・酒・女の、いわば「隠微な場所」でした。*1
今回は、東岩瀬(富山県富山市東岩瀬町)の町並みと風俗を散歩します。
明治初期の東岩瀬の貸座敷は、船の出入りする港の入口に集中していましたが、日露戦争後(明治38年)、御郡所の跡地の松原町へ移りました。*1*2
文政11年(1828年)の市街図*3 には、巒昌寺(岩瀬梅本町)の北側に御郡所が記載されていて、昭和の市街図*4 の同様の場所には、貸座敷の楼名が記載されています。
現在の松原町。
南側の通り。
現在、当時の面影はありません。
【参考文献】
*1 道正弘:近代史研究 第17号(富山近代史研究会,1994.3)P.35「東岩瀬常盤遊郭の盛衰」
*2 東岩瀬郷土史会:東岩瀬郷土史会会報 No.106(郷土史会,2008)P.8-P.11
*3 城川勇:東岩瀬の成り立ちと各町名の由来と変遷(岩瀬自治振興協議会,1997)附図
*4 大日本職業別明細図