小坂(康楽館)昭和62年修復

小坂町は明治時代すでに水力発電、鉄道、電話、上下水道が揃っていて、当時の最先端をいく町でした。その技術と誇りをかけて建てられたのが康楽館です。*1
戦後のテレビの普及に伴い、昭和45年頃に、康楽館での一般興行は中止されます。老朽化が進み、取り壊しが懸念された康楽館の保存と活用を強く訴えたのが、芸能史研究で著名な俳優・小沢昭一氏でした。昭和62年の修復後は、歌舞伎や大衆演劇が上演されています。*2

二階は吹き抜けとなっていて、舞台を客席がコの字に囲んでいます。*2

楽屋には、役者たちの無数の落書きが残されています。*2

由美かおるさんの落書き。修復以降の2008年6月のもので、水戸黄門のキャラクター”疾風のお娟”のイラスト付きです。*2

【参考文献】
*1 沢美也子:にほん全国芝居小屋巡り(阪急コミュニケーションズ,2005)P.54
*2 康楽館:公式ガイドブック(秋田文化出版,2010)P.7,P.10,P.14-P.15,P.22-P.23


■カテゴリ 芸能・音楽 小坂
■散歩事典 小坂

小坂(花園館)映画館

小坂町の中島橋近くにある花園館。
「小坂町史」*1 によると、大正4年頃には開業していました。

現在は休業中のようです。

建物の側面。

モダンな造りです。

【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560


■カテゴリ 娯楽文化 小坂
■散歩事典 小坂

小坂(永楽町)裏通り

永楽町の東端。裏通りの入口です。

ゆるやかな曲線を描いて通りが続きます。

昭和元年の市街図*1 を見ると、裏通りに面して、料理屋の「二夕五家」「穂月」があります。

飲食店の建物の裏側。

【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)第230號 秋田懸


■カテゴリ 花街·花街跡 小坂
■散歩事典 小坂

小坂(永楽町)鉱山町の花街

小坂の永楽町は、明治16年頃から商家が建ち始め、明治40年代には、料理屋・劇場などがあって、鉱山に稼働する人たちの歓楽街として賑わいを見せ、明治42年刊の「小坂鉱山案内記」*1 によると、11軒の料理屋が「小坂料理屋組合」を作って営業していました。*2
写真手前は、廃線となった小坂鉄道の線路(線路の向こう側が永楽町)です。*3

大正6年刊の「秋田県鹿角郡小坂鉱山明細地図」*4 には、料理屋の「吉本倶楽部」「大亀館」「喜楽」の位置が示されており、「喜楽」は、酌婦の数30名を超え、春夏秋冬を問わず三味線の音が響きました。*2
昭和元年の市街図*5 には、料理屋の「吉本倶楽部」「恵比寿屋」「小原軒」「喜楽」「二夕五家」「穂月」「新藤家」とともに、芸妓家の「吉本」「泉家」の記載があり、永楽町は花街だったようです。

西側から見た永楽町。

永楽町の西側。「吉本倶楽部」は、この脇道の付近*5 にありました。

【参考文献】
*1 岩間淳:小坂鉱山案内記(彩雲堂出版部,1909)P.48-P.50
*2 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
*3 岩崎清三:大館・鹿角・北秋田の今昔(郷土出版社,2011)P.83
*4 田中吉助:秋田県鹿角郡小坂鉱山明細地図(文洋堂,1917)
*5 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)第230號 秋田懸

小坂(銀山町)小坂鉱山

今回は、小坂(秋田県鹿角郡小坂町)の町並みと風俗を散歩します。
小坂町は、JR奥羽線の大舘駅の東方(バスで約1時間)にあって、小坂鉱山で栄えた町です。
小坂町の商業集落のはじまりは、明治4,5年頃の銀山町(小坂町の北側)で、次いで尾樽部(小坂町の南側)でした。*1

現在の尾樽部の通り。

銀山町には、現在も精錬所が稼働しています。

字名の「銀山町」は、小坂鉱山が銀山として栄えたことを示しています。*2

【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
*2 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.37


■カテゴリ 生業·産業の町 小坂
■散歩事典 小坂

能代(新柳町遊廓跡地)男鹿街道脇

明治45年7月2日、柳町の稲荷小路から出火した大火により、柳町の遊廓は男鹿街道脇に移転することとなりました。*1
大正15年の市街図*2 に、「男鹿街道」の記載があり、その東隣に「新遊廓」の記載があります。
新柳町遊廓の通りの北側には、東側から、一力楼、桜庭徳次郎(商店)、常盤楼、が並び、南側には、竹の家、清好楼、大丸家、第二常盤楼、割烹あたか、若藤家、第四常盤楼と続いていました。*3

遊廓があった頃から続く、桜庭看板店。

通りの奥にある旅館。

ときわ食堂。

【参考文献】
*1 能代市史編纂委員会:能代市史稿.第7輯(能代市,1964)P.142-P.144
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)秋田懸
*3 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992) 能代港町明細案内図

能代(出戸町本町)かつての歓楽街

能代の西通町。*1
旧町名で出戸町本町というこの通りの両側には、料亭、食堂、カフェー、劇場などが建ち並ぶ歓楽街でした。*2

「能代港町明細案内図」*2 に記載されている割烹「宮茂登」が唯一、現存しています。

出戸町本町の南側の通り。

道の両側にスナックが建ち並んでいます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*2 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992) 能代港町明細案内図


■カテゴリ 生業·産業の町 能代
■散歩事典 能代

能代(柳町)かつての花街

今回は、能代(秋田県能代市)の町並みと風俗を散歩します。
能代の遊女は、はじめのころは港に近い清助町や新町にありましたが、元禄のころに柳町に移りました。*1
八幡神社の参道をはさんで二軒の料亭が対峙しています。左には「全国花街めぐり」に代表的料亭として紹介されている「金勇」があります。*2

「金勇」の向かい側の料亭「魚松」。

柳町は、明治以降二回の大変革がありました。一回目は、明治45年7月の柳町大火とそれに続く遊廓の新柳町への移転(その後柳町は花街に変貌)。二回目は、平成元年の都市計画事業に伴うイオン(ジャスコ)の進出による町の変貌です。現在のイオン能代店の北側には、かつては、粋な看板が特徴の料亭の「二葉」、湯の色が赤いのが特徴の「アミダ湯」などがありました。*3

かつての善六小路。善六とは、旧羽後銀行(現在の北都銀行)能代支店の西向かいにあった遊女屋の屋号でした。*3

【参考文献】
*1 北羽新報社:能代港物語(北羽新報社,1974)P.67
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*3 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992)P.91-P.96

横手(馬口労町のスナック街)スナックや居酒屋が密集

馬口労町の南西側に、スナックや居酒屋が密集する居酒屋あがあります。

横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*1 によると、この場所に料亭と思われる「花月」がありました。

通りはカーブを描きながら続きます。

脇道のスナック。

【参考文献】
*1 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖

横手(横手遊廓跡地)馬口労町

横手にいつごろ遊廓ができたのかは不明ですが、明治6年、娼妓の稼業が許可になり、翌7年に娼妓規則が出されました。また、明治40年の「横手案内」に、7軒の貸座敷が載っています。その後、昭和3年に県議会が公娼廃止を決議、貸座敷は廃止、料理屋となりましたが、その料理は娼妓を酌婦としておき、酌婦は酒の酌をするだけで、芸者のような歌ったり踊ったりはできませんでした。これらの料理屋は馬口労町(現在の中央町4~7)にありました。*1

横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*2 によると、「千歳」「水月」「大黒屋」などの料理屋らしき店の屋号が確認できます。

夜の様子。

馬口労町の看板。

【参考文献】
*1 伊沢慶治:横手の歴史(東洋書院,1979)P.190-P.191
*2 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖

横手(きみまち橋)橋を割ると馬口労町

現在は、暗渠となっている二ノ堰川の上流に、「きみまち橋」の遺構が保存されています。場所は、現在の「横手市ふれあいセンターかまくら館」の建物の脇です。

この橋は、昭和30年に旧農業用水路「二ノ堰」に架けられたコンクリート製の橋でした。(案内板より)

当時は、この橋を割ると両側に遊廓・飲食店が建ち並ぶ横手市唯一の歓楽街(馬口労町)だったため、別名親不孝橋とも言われていました。コンクリート製の橋はまだ珍しく、馬口労町にモダンな橋が架かったという話題性、また、市民公募により命名された粋な橋名から、当時を知る人には忘れられないドラマを持ったロマンチックな橋でした。(案内板より)

「きみまち橋」を渡ると馬口労町(写真左奥)です。

横手(二ノ堰川に架かる橋)木製の欄干

今回は、横手(秋田県横手市)の町並みと風俗を散歩します。
馬口労町の近く。現在は暗渠となっている二ノ堰川に橋が残されています。「赤線跡を歩く 完結編」*1 に紹介されている「きみまち橋」から約200mほど下流の橋です。

橋の欄干部分は、木製です。

反対側(下流)は、二ノ堰川の痕跡が残されています。

写真奥に見える茶色の建物は、「横手市ふれあいセンターかまくら館」です。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.71


■カテゴリ 商店街 横手
■散歩事典 馬口労町 横手

角館(藤田ツル寄進の玉垣)神明社

西勝楽町の南側にある神明社は、角館の総鎭守です。

石垣柵全部寄進と彫られた玉垣。

旧遊廓の西勝楽町の中で最も繁盛したのは竹屋で、常光院入口の北隣に建ち、この町で初めての木造三階という高楼でした。竹屋の楼主の藤田ツルは、太っ腹で温情の人でしたが、営業に逆らう行為に対しては厳竣でした。*1

晩年のツルは、因果な商売の罪滅ぼしと考えたのか、神社仏閣その他に多くの寄付を続けています。*1

【参考文献】
*1 小林定静:角館風土記(秋田文化出版社,1986)P.104-P.114


■カテゴリ 信仰・寄進 角館
■散歩事典 角館

角館(角館遊廓跡)西勝楽町

角館の遊廓があった西勝楽町(通称西街)で、その区域は、北は報身寺(写真右手前のあたり)の前、南は、本明寺の前のあたりでした。*1

割烹「登喜和」。

創業の大正時代は遊廓でした。(案内板より)

現在は料亭として営業中です。

【参考文献】
*1 小林定静:角館風土記(秋田文化出版社,1986)P.101-P.102

角館(ママ・ジューサー)商店街の電気屋

商店街に面した電器屋さん。

ショーウィンドウに、ペコちゃん人形。その隣に「ママ・ジューサー」の箱が置かれています。

アサヒ玩具の創業は、戦後の昭和23年。昭和44年に業界初の電源を使用し、実際に料理が出来るという「ママレンジ(3900円)」を発売。玩具の歴史に新しいページを加えました。次いで、昭和49年に、押すだけで水の出る「ママポット」、昭和50年に、コックをひねると本当に水が出る「ママナガシ」、続いて、「ママクッキー」「ママウォッシャー」を発売、ママシリーズを確固たるものとし、業界では”リビングトーイ”という新語が生まれました。*1

「ママ・ジューサー」も、そのシリーズの1点です。
本物のジューサーやミキサーのように、野菜や果物を圧搾・粉砕してジュースを作るのではなく、水を混ぜるだけの遊びです。(箱の説明書きより)

【参考文献】
*1 柳谷省吾:実業の世界(1979.4)P.118-P.120 モスクワ五輪のマスコット玩具で国内独占販売の”金メダル”を獲得


■カテゴリ 娯楽文化 角館
■散歩事典 角館