いわき市街の田町の南側。平和通りにある商店街共同建築。
1階が商店。2階が住居部分です。
建物の半分はリニューアル(手前部分)されています。
裏側のトタン部分が昭和の雰囲気です。
いわき市街の田町の南側。平和通りにある商店街共同建築。
1階が商店。2階が住居部分です。
建物の半分はリニューアル(手前部分)されています。
裏側のトタン部分が昭和の雰囲気です。
今回は、いわき(福島県いわき市)の町並みを風俗を散歩します。
仲田町通り、新田町通り、紅小路の3本通りは、現在も賑わう飲食街ですが、炭鉱が華やか頃は芸者街でした。昭和34年頃、平の町には240人ほどの芸者がいましたが、そのうち炭鉱も斜陽になり、同時に社交クラブ(コンパニオン)もできて、花柳界はめっきり寂しくなりました。*1
新田町通りは、三本通りのど真ん中にあり、かつては、格子づくりの芸者置屋や待合が並んでいました。山形屋、久本、橘家、吉野家、湖月、開花、三島家、仲家、実に風情のある静かな町で、通りを歩くと三味線の音色が聞こえました。*1
当時の名残は、花柳流の舞踏稽古所。かつては、芸者衆が稽古に通っていたが、いまは素人専門で、バーやスナックに埋もれるようにひっそりとあります。*1
夜の新田町通り。
【参考文献】
*1 日々の新聞(2008.3.15)「あのころの田町界隈」P.7-P.9
二本松大原遊廓は、根崎角からすぐのところにあり、妓楼は、新亀楼、吉村楼の2軒でした。*1
大正15年の市街図*2 によると、根崎の交差点の角に、丹波菓子店(写真左)と山口銘酒店(写真右)があり、交差点を南へ進んだ先(写真右奥)の道の東側に「新亀楼」、西側に「吉村屋」の記載があります。
しばらく行くと、道幅が広くなった一画が現れます。
旧大原の石柱。
かつて、この場所に大原遊廓があったことが記されています。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.40 「全国遊廓案内」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)福島懸
二本松の歓楽街にある「若葉通り」。
若葉通りの看板には、「サントリー」「サッポロ」。
ビルの軒下の飲食街です。
反対側の看板には、「キリンビール」「ロバートブラウン」
JR二本松駅前の通り。割烹料理屋などが建ち並ぶ繁華街です。
大正15年の市街図*1 によると、この付近には、「佐藤屋」「田毎料理店」「みのわ家」「村越」「叶家」などの料理屋がありました。
芸者屋の「恵美寿屋」があった通り。*1
当時の名残でしょうか。三業組合の名が残っています。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)福島懸
今回は、二本松(福島県二本松市)の町並みと風俗を散歩します。
JR東北本線の二本松駅の公衆トイレ脇に白ポストが設置されています。
角型の白ポストです。
白ポストは、階段の登り口の目につきやすい場所に設置されています。
箱の上部の投入口部分が傾斜したデザイン。
上信電鉄山名駅。
白ポストが設置されています。
丸型の白ポスト。群馬県で多く見かけられるタイプです。
柱にしっかりと固定されています。
七興山古墳の近くにある「七興(ななこし)ドライブイン」。
昭和51年創業です。*1
麺類の自販機は、ラーメン(写真右側)とうどん(写真中央)の2台。
食堂で何十年も継ぎ足したタレで仕込まれるチャーシューを盛りつけたチャーシューメンは、売り切れ率の高い人気メーニューです。*1
残念ながら、この日も売り切れでした。
麺類自販機の隣に、トーストサンド自販機とハンバーガー自販機が各1台並びます。
天ぷらうどん(300円)とトーストサンド ハムチーズ味(200円)を購入。
【参考文献】
*1 越野弘之:昭和レトロ自販機大百科(洋泉社,2015)P.61
群馬藤岡駅近くにある食堂の「福富士」。
昭和の雰囲気の残る大衆食堂です。やきそば400円、ラーメン450円など、価格は安め。人気の「やきそば」は持ち替えりができ、近所の方が次々と訪れ、買っていきます。
大盛りやきそば(500円)と大瓶ビールを注文。
「福富士」の向かい側(写真右手前)には、明治42年に開設された芝居小屋の「藤盛座」がありました。「藤盛座」は、昭和26年に映画館に改造され、話題作を上映して多くの観客を集めましたが、昭和30年代には、テレビの普及とともに経営が苦しくなり成人映画路線に転換。昭和61年に閉館しました。
【参考文献】
*1 丸山知良:近代芝居小屋考・群馬県(みやま文庫,1994)P.88
鷹匠町の牛乳箱のあるお宅。
荻原牛乳と書かれた黄色の木製牛乳箱です。
普段は見ることができない箱の裏側。
窓枠にぶらさがるようにして取り付けられています。
藤岡の旧鷹匠町の通りに、レトロ電柱があります。
電柱は、きちんと区画されていて大切に保存されています。
「東京新宿 富士コンクリート株式会社」と書かれています。
かつての乙種料理店街に残されているレトロ電柱。
群馬県は、明治10年頃には私娼群を乙種料理店(俗にだるまや)として公認し、酌婦料という税金も徴収するようになりました。その後、群馬県は、明治26年に公娼を廃止としたため、酌婦(私娼)のみが売春の専門職と認められることになりました。*1
藤岡には、鷹匠町の「聚楽館通り」に歓楽街があって、「小松屋」「朝日屋」などの乙種料理店が10軒ぐらいが並んでいました。*2
地元の方の話によると歓楽街の場所は、現在の黒沢精肉店の前の細い道で、当時はものすごく賑わっていて、置屋や遊廓のようなものもあったそうです。
昭和3年の市街図*3 によると、この道の両側には乙種料理店の「大松楼」「福本楼」「勇楽亭」「㐂楽」「小松屋」「壽」がありました。
通りの中ほどにある料理屋のような建物。「竜」の文字だけが残っています。
古い住宅地図*4 によると、「福竜」という屋号だったようです。
「菊水旅館」*4 と思われる建物の窓には、薄っすらと「旅館」の文字が見えます。
【参考文献】
*1 根岸省三:高崎の女性史(根岸省三,1977)P.143-P.144
*2 藤岡市史編さん委員会:藤岡市史 民俗編 下巻(藤岡市,1995)P.58-P.59
*3 東京交通社:大日本職業別明細図 群馬懸(東京交通社,1937)
*4 日興出版社:藤岡市・併.新町(日興出版社,1971)P.10-P.11
今回は、藤岡(群馬県藤岡市)の町並みと風俗を散歩します。
JR高崎駅から、八高線に乗って、3駅(約15分)で群馬藤岡駅に着きます。駅の南西方向が中心街で、仲町の通りには、割烹料理屋が建ち並ぶ一画があります。
割烹「花月」。
向かい側にも料理屋らしき建物が建ち並んでいます。
逆方向から見たところ。
銀座通りから国道(254号線)へ抜ける路地。トンネル横丁と呼ばれていました。
沿道の建物が建て替わる前は、建物の庇が入り組んでおり、まるでトンネルのような路地を形成していました。現在も地元の方の重要な通りとして親しまれています。(案内板より)
横丁の途中にあった質屋の看板。
トンネル横丁を抜けた国道沿いには、木造三階建ての医院の建物。
富岡の西銀座通りの東端にある食堂の「富士屋」。
昭和を感じる食堂です。
富岡製糸場の女工さんたちが愛した中華そばがお勧めです。
中華そばを注文。酒類は置いていません。
二町通りには、昭和の感じさせるスナック街があります。
派手な看板建築のスナック店。
鮮やかな青色です。
道路に面したスナック店。入口がトンネルのような形状になっています。
今回は、富岡(群馬県富岡市)の町並みと風俗を散歩します。
富岡市の西銀座は、銀座通りとともに商店が建ち並ぶ通りで、通りの左端にある割烹「藤屋」の懐かしい佇まいは、通りの特徴的存在です(案内板より)。
写真奥に、富岡製糸場の煙突が見えます。
富岡製糸場は、殖産興業政策により開設された官営模範工場の一つでした。
昭和58年頃まで富岡の町にも花街が存在し、芸者遊びが行われ、最大38名の芸者が置屋に席を置いていました。当時、芸者遊びを行っていた割烹藤屋、和来屋源氏、萬屋料理店は現在も料理屋として営業中です。*1
趣のある建物です。
割烹藤屋から見た西銀座の通り。
富岡製糸場は、工女募集のために娯楽設備を必要とし、明治9年、富岡の街における最初の劇場として西銀座に「中村座」ができ、大正時代になると中村座の周辺に映画館等が建設されました。*1
【参考文献】
*1 中山まりか:富岡市中心市街地における歴史的・文化的価値に関する研究(筑波大学修士論文,2013)
永井荷風は、飯田屋の暖簾をよくくぐりました。夜、芝居がはねてから踊り子たちと来ることもありました。*1
どじょうは、うなぎと比べてビタミンが豊富で精がつきます。*1
ひとりで来店したときの荷風は、ぬたとお銚子一本を注文し、最後は柳川で締めました。*1
まぐろの赤身と独活(ウド)を赤味噌で和えた「ぬた」。くらげが添えられて、異なる食感を楽しめます。*1
【参考文献】
*1 永井永光,水野恵美子,坂本真典:永井荷風ひとり暮らしの贅沢(新潮社,2006)P.68
浅草には、ラブホテルが散在しています。ひさご通りの商店街から脇道に入ると、ピンク色の光を放つラブホテルがあります。
さらに進むと、花やしきの裏手に出ます。ここにもラブホテル。
言問通りからの遠望。
浅草寺の東側にある隠れ家的ラブホテル。
浅草の洋食屋の「アリゾナキッチン」。
永井荷風に愛された洋食屋です。
荷風は、昼の12時頃に来店し、入口に向かってすぐ左横の席に腰をおろし、水がわりにビールを飲みました。*1
店内には荷風先生の写真が飾られています。
荷風先生が好んで食べていたチキンレバークレオール(若鶏とレバーの煮込み)。*1
【参考文献】
*1 永井永光,水野恵美子,坂本真典:永井荷風ひとり暮らしの贅沢(新潮社,2006)P.67
浅草六区の繁華街の中。銭湯の「蛇骨(じゃこつ)湯」の看板があります。
路地の奥まったところにあります。
蛇骨湯の入口。
券売機には、英語、中国語、韓国語の表記があります。外国人観光客の利用も多いようです。
浅草寺の公衆トイレ。利用時間は、6:00~20:00。夜間は利用できません。
公衆トイレの建屋の脇に設置されている夜間専用トイレ。
箱庭のような美しさです。
立小便専用の男子トイレで、庭石のように美しい石に向かって気持ちよく放尿できます。
浅草五区にある遊園地の「花やしき」。
花やしき(花屋敷)は、150年以上も前に、楽しむための植物園として誕生したものでした。*1
「Beeタワー」「ヘリコプター」「スカイシップ」など、レトロな雰囲気を味わえる遊園地として存続しています。
花屋敷は、嘉永6年(1853年)に向島百花園の例にならって開園し、園内には「新登亭」という料理屋もありました。広重もこの花屋敷を画材としてとりあげています。*2
明治時代、花屋敷の新たな経営者となった山本金蔵は、明治20年、本所の材木商が所有する木造瓦葺き五階屋を一棟買収し、花やしきへ移築、「奥山閣」として公開し、凌雲閣(浅草十二階)*4 と人気を二分する浅草の新名所となりました。*1
明治30年刊行の「新撰東京名所図会」*3 によれば、「室内には、唐草模様を染めなせし紅の毛氈 (もうせん)一面に敷詰め、左右紫壇の床柱には、巖に瀧、松に雲を彫刻...」とあり、外観だけでなく内部も壮麗だったようです。
【参考文献】
*1 小沢詠美子:江戸ッ子と浅草花屋敷(小学館,2006)口絵,P.170-P.173
*2 内山正雄,蓑茂寿太郎:東京の遊園地(郷学舎,1981)P.3-P.5
*3 宮尾しげを:新撰東京名所図会 浅草公園・新吉原之部(睦書房,1968)P.83
【参考記事】
*4 風俗散歩(浅草):凌雲閣(浅草十二階)
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
浅草六区の交差点の角に「浅草東洋館」と「浅草演芸ホール」が併設された建物(写真左側)が建ちます。
渥美清やビートたけしなど、数多くの役者や芸人を輩出した「浅草フランス座」が平成12年より「浅草東洋館」として生まれ変わりました。(案内板より)
フランス座は、昭和26年にオープン。昭和34年に東洋劇場として、軽演劇とショーとストリップとなりましたが、昭和39年、寄席とストリップとなりました。*1
浅草フランス座出身の芸人。
昭和23年以来、浅草ロック座の楽屋へ通い続けた永井荷風は、昭和28年にフランス座の楽屋を初めて訪れています。*2
【参考文献】
*1 佐藤洋一:あの日の浅草(武揚堂,2007)附図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.232