瀬戸(喜楽)昭和2年に新開地に移転

現在も新開地で営業中の「喜楽」は、元は深川神社の前に店を構え、旦那さんの遊興の場としての他、遠方から陶器の仕入に来た人との商談の場として不可欠な料理屋でした。「喜楽」は、昭和2年に新開地に移転し、黒塀に囲まれたたたずまいを持っていました。*1

現在は、「喜楽梅むら」*2 として、近代的なビルに建て替わっています。

この日は、ランチメニューは無しとのことなので、コース料理(3,500円)を注文。豪華な個室へ案内頂きました。写真は2品目の料理。この後、お刺身の盛り合わせが続きます。

シメのごはんと赤だし。この後、デザートのアイスクリームで終わりです。

【参考文献】
*1 瀬戸市史編纂委員会:瀬戸市史(愛知県瀬戸市,2006)P.415-P.417
【参考URL】
*2 喜楽梅むら:公式ホームページ


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■散歩事典 瀬戸

瀬戸(新開地)陶華園跡

瀬戸の新開地は、昭和初期、旧瀬戸町の西のはずれに新しくできた盛り場です。瀬戸の古くからの盛り場は、深川神社を中心とする一帯で、最盛期は200人ぐらいの芸者がいましたが、芸者置屋も統一して新開地に移転が行われました。*1

敗戦後、新開地は、進駐軍の慰安所となり、元の芸者置屋一帯が特殊飲食店街、いわゆる赤線となりました。赤線の店は一般には「パンパン屋」とか「女郎屋」と呼ばれ、十七、八軒ありました。*1

新開地の赤線は、売春防止法ができた昭和33年に廃止されました。*1

現在は、新開地商店街として、飲食店などが営業中です。

【参考文献】
*1 瀬戸市史編纂委員会:瀬戸市史(愛知県瀬戸市,2006)P.416-P.417

瀬戸(中央館)成人向け?

梁川神社から宮前橋を渡って、左へ行くと末広町です。商店街の入口に休業中の映画館の中央館があります。

「中央劇場」と「ロマン中央」の2軒が隣接しています。「ロマン中央」は、成人向け映画館だったのかもしれません。

映画のポスタが貼られていたと思われる場所。

商店街のアーケード上側の「映画は中央」と書かれた大看板。


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■散歩事典 瀬戸

瀬戸(宮前地下街)深川神社参道沿い

今回は、瀬戸(愛知県瀬戸市)の町並みと風俗を散歩します。
名鉄瀬戸線の終着駅の尾張瀬戸駅から東へ約500m。深川神社(写真左奥)の参道沿いに飲食街があります。

宮前地下街。地上にあるのですが、名前は「地下街」です。

繁盛店の焼きそば屋さん。

隣接する公園を地上とすれば、飲食街は地下街に位置します。

那加(かつての料亭街)新興市街地の歴史

JR那加駅の南側は、かつては、芸妓置屋が散在する繁華街でした。昭和5年の市街図*1 によると、この通り沿いに、「一楽」「末廣」などの芸妓置屋がありました。
昭和15年当時の商業戸数は、第一位が物品販売業で約60%、これに次いで旅人宿・飲食店が約20%、第三位を芸妓場・遊技場等約13%で、第二位・三位を占める割合が他の県内市街地と比較して大きいことは新興市街地那加駅前の当時の特色の一つでした。*2

八百吉商店(現在の「フルーツやおきち」)の東側には、飲食店が連なっています。

昭和5年の市街図*1 によると、岩井酒店(現在の岩井商店)の東側には、「玉川」「美奈本」「〆乃家」「ぽんた」「静乃家」「春本」などの芸妓置屋が散在していました。

昭和20年(1945年)太平洋戦争が終わると、占領軍が各務原基地に進駐して来ます。占領軍将士およびその関係婦女を対象とする風俗営業場が多く出現し、特に昭和24年には、米軍増駐に伴って、那加駅前地区の市街地には米兵を迎え入れようとする横文字の看板が氾濫しました。*2
那加町の西野は、戦後、米軍にさらた岐阜キャンプ(基地)に隣接して形成された地区で、典型的な戦後型の集団売春街でした。*3
現在、那加西野町という地名が残っています。

【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図 岐阜懸第200號(東京交通社,1930)
*2 小林義徳:那加町史(小林義徳,1964)P.501
*3 加藤政洋:敗戦と赤線(光文社,2009)P.136-P.137

那加(駅の白ポスト)スタンド型

今回は、那加(岐阜県各務原市)の町並みと風俗を散歩します。
JR岐阜駅から高山本線で2つ目にJR那加駅があります。

駅のホームに設置されている白ポスト。4本足のスタンドの上に白い箱が設置されているのが特徴です。

角型の「白いポスト」。

大き目の庇がついています。


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府中(ふるさと府中歴史館)進駐軍の展示

大国魂神社の参道の右側に「ふるさと府中歴史館」があります。建物の2階の公文書史料展示室に、「戦後70 年府中と戦争の記録~戦中・戦後の市民のくらし~」の展示があります。

「進駐軍が来た」の展示。

米軍府中基地正面ゲートの写真。1945年9月、連合国軍が陸軍燃料廠(現在は航空自衛隊府中基地)を接収して設置しました。(説明文より)
連合軍のMPは、民間の住宅までも家宅捜査し、靴をはいた土足のままで畳の室を歩きまわりました。*1

当時の府中警察署が各家庭に配布した「家庭ノ皆様ヘ御注意」のビラ。
婦女はモンペまたはズボンを着用すること、婦女の一人歩きや外出はしないこと、婦女は進駐軍兵士や駐屯地には近寄らないこと、などの注意事項が書かれています。

【参考文献】
*1 黒田要:終戦後の府中町と私(黒田要,1972)P.20

府中(称名寺の遊女の墓)水子の悲話

府中市宮西町にある称名寺にある飯盛旅籠の杉嶋屋の墓。

杉嶋屋の墓域内に、店にいた飯盛女の墓が残っています。*1

地蔵尊を浮き彫りにした供養塔には、「法岸童女・文久元年四月五日きぬ」と刻まれています。「童女」ということは、遊女ではなく、遊客相手に遊女は身ごもり、きぬを生んだと考えられます。*2

俗名きぬ。

【参考文献】
*1 府中文化振興財団府中市郷土の森博物館:甲州街道府中宿 府中宿再訪展図録 改訂(府中文化振興財団府中市郷土の森博物館,2008)P.45
*2 樋口豊治:江戸時代の八王子宿(揺籃社,1990)P.173-P.1752016

府中(飯盛旅籠寄進の天水桶)大国魂神社

大国魂神社の拝殿前。

飯盛旅籠だった杉嶋屋が寄進した天水桶が残されています。*1*2

大国魂神社の末社の巽神社。

神灯の右側の一基に、「福本屋内喜以」とあり、田中屋、杉島屋の抱女と連名になっています。寄進者の福本屋源太郎は、安政年間より幕末まで飯盛旅籠をやっていました。*2
福本屋源太郎は、旅籠「福本屋」を開業した八九三(やくざ)でした。府中宿は、大国魂神社の祭礼と飯盛旅籠があったことが、八九三(やくざ)の発生を促進しました。*3

【参考文献】
*1 府中文化振興財団府中市郷土の森博物館:甲州街道府中宿 府中宿再訪展図録 改訂(府中文化振興財団府中市郷土の森博物館,2008)P.45
*2 比留間一郎:府中市立郷土館紀要 第2号 P.20-P.29「府中宿の飯盛旅籠ノート」
*3 比留間一郎:府中史談第10号(府中市史談会,1983)P.34-P.45「府中宿の八九三」

府中(貸座敷跡地)府中宿の飯盛旅籠

府中宿の飯盛旅籠のはじまりは、安永6年(1777年)にできた2軒の飯盛旅籠で、安政6年(1859年)には、東屋、杉島屋、富岡屋、津田屋、金本屋、増田屋、田中屋、冨久本屋の8軒となりました。明治5年の娼妓解放令により、飯盛旅籠は貸座敷に変わり、府中の貸座敷は、飯盛旅籠の面影を残したまま、街道の随所に散在して昭和初期に至りました。*1
甲州街道沿いに、昭和初期まで残っていた貸座敷「新松本楼」の跡地。その後は内田屋家具店となりました。(現在は駐車場になっています。)*2*3

明治末期まで残っていた貸座敷「杉島」があった場所。大正期以降は佐藤医院となりました。*2*3
現在はマンションに建て替わっています。

貸座敷「いろは」跡地。戦前まで残り、その後は東芝の寮になりました。*2*3

貸座敷「田中屋」跡地。戦後は村上医院となり、現在に至っています。*2*3
田中屋の建物は、明治5年に建てられ、昭和47年頃まで現存した堂々たる木造建築でした。*4*5

【参考文献】
*1 比留間一郎:府中市立郷土館紀要 第2号 P.20-P.29「府中宿の飯盛旅籠ノート」
*2 府中市立郷土館:府中市中心部街道ぞい家並変遷図(府中市教育委員会,1983)
*3 府中市史談会,府中市郷土の森:府中の家並地図(府中市教育委員会,1991)P.13-P.15,P.22
*4 府中市企画調整部広報課:むかしの府中(府中市,1980)P.15
*5 府中市史編さん委員会:府中市史 下巻(府中市,1974)P.935-P.936

府中(商店街裏のラブホテル)隠れ家的な雰囲気の路地

宮西国際通り商店街近くの細道。

細道を抜けると、商店街の裏側に出ます。

いっそりと佇むラブホテル。昭和50年の住宅地図*1 によると、この場所には「旅館玉栄」がありました。

隠れ家的な雰囲気の路地です。

【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:府中市(日本住宅地図出版,1975)P.51


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荒木町(お岩稲荷陽運寺)カフェー寄進の玉垣

東京四谷三丁目にある「お岩稲荷陽運寺」。四谷怪談で有名な「お岩さん」 を祀っています。

「新宿二丁目カフェー事業..」寄進の玉垣。隣には、荒木町三業の名前もあります。

新宿二丁目「遊楽」「初夢」。

新二、メリー、うらら、ひとみ..。


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