芳和荘の1階のお風呂場へ向かう廊下。
月: 2016年8月
旧遊廓の芳和荘。8年前の宿泊しましたが、今回2回目の宿泊です。
参考文献
参考記事
五間町のスナック街。
参考文献
参考記事
今回は、萩(山口県萩市)の町並みと風俗を散歩します。
萩市の繁華街は、東田町と五間町に集中しています。
参考文献
参考記事
340号線から山道に入り、案内に従って奥へ進むと、金勢精神社の境内に到着します。
金勢精神社。
大きな石のコンセイサマ
ご神体のコンセイサマ。高さは、1.5m程あります。
参考文献
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遠野駅から340号線を北東へ7Kmほど行くと、「山崎のコンセイサマ」の入口を示す看板に行きつきます。
しばらく行くと、山崎のコンセイサマの案内板があります。
道の両脇には、陰陽石が置かれています。
山崎金勢茶屋にあった切株。
参考文献
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遠野には、性神を多く見かけます。その一つ、「程洞のコンセイサマ」は、遠野市街の南側の丘陵にあります。
急峻な山腹を延々と昇るとようやく鳥居が見えてきます。さらにこの鳥居をくぐって石段を登った上に、コンセイサマが安置されています。*1
コンセイサマが安置されている祠。
遠野物語の第16話に、「コンセサマを祭れる家も少なからず。(中略)石又は木にて男の物を作りて捧ぐる也。今は追々とその事少なくなれり。」と書かれています。*1
手前に、並べられている男根。
【参考文献】
*1 原左門:遠野のいまと昔(有志舎,2015)P.101-P.102
参考文献
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この日は、旅館福山荘に宿泊。昔ながらのレトロな旅館です。
広くて豪華な部屋。
夕食は、お膳に置きくれないくらいの皿数の多さです。
コップ一杯のどぶろくがサービスでつきます。プチプチと音をたてて泡が出ていました。
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遠野駅前のスナック。木造母屋を改造した看板建築の建物が多く見られます。
ネオン看板の痕跡。
2階建てに見えるスナックの建物。
後ろから見ると1階建てであることが解ります。
参考文献
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遠野駅前の歓楽街。ネオン看板の枠のみが残っています。
壁面に「パチンコ」と書かれた建物。
緩やかにカーブを描いてスナック街が続いています。
飲み屋街の東端。Y字路になっています。
参考文献
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今回は、遠野(岩手県遠野市)の町並みと風俗を散歩します。
遠野の裏町(現在の仲町)に、遊女屋ができたのは、明治11年の滝田火事で裏町が全焼した後です。明治18年、当局者は町の復興のため、裏町を三業の指定地として茶屋(遊女屋)を集めました。当時の遊女屋は、大橋楼、菊一楼、三海楼、寿楼、朝日楼、吾妻楼、福田楼、それに通称三階といった恵比寿楼の8軒で、これに後で紫明館が加わりました。*1
昭和3年の市街図*2 によると遊女屋の紫明館はこのあたりにありました。
現在、仲町と呼ばれているあたりが、「裏町」でした。
遠野物語拾遺二五二に、「青笹村の関口に、毎日毎日遠野の裏町に通って遊ぶ人があった。その遊女屋の名が三光楼であった故に、土地の者はこの人をも三光楼と呼ぶようになったが、しまいにはそれが屋号になって、今でもその家をそういっている。」とあります。*3
しかし、裏町には、三光楼という遊女屋はなく、三階楼をもじって「三光楼」と言ったのだと思われます。*4
「南部ばやし」の案内板。当時の仲町(裏町)では、芸者衆が三味線や笛、太鼓を持って加わりました。
【参考文献】
*1 遠野市史編集委員会:遠野市史 第3巻(万葉堂書店,1976)P.547
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)岩手懸
*3 柳田国男:新版 遠野物語(角川書店,2004)P.196
*4 遠野物語研究所:注釈遠野物語拾遺(遠野物語研究所,2013)P.156-P.157
参考文献
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「しんど」と呼ばれた新穀町通りは、かつては遊廓街(黒沢尻遊廓)でした。遊廓の入口にあたる賑橋の近くには、賛成楼がありました。*1
その向かい側にあった千花楼があった場所は、現在は大きな商業ビルが建っています。*1
遊廓街の西側から見た東方。写真の左手前(旧トップフード付近)に松月楼がありました。*1
商店街の中で、唯一、当時の屋号が残る米店の紙野屋。通りを挟んだ向かい側に、遊女の検査場と花月楼がありました。*1
【参考文献】
*1 街きたかみ編集委員会・みちのく民芸企画:きたかみの今昔(トリョーコム,1980 )P.54-P.55「明治30年代の新穀町の盛り場」
参考文献
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北上(旧黒沢尻町)の遊廓は、新穀町にありました。*1
新穀町は「西裏」と称され、小料理屋と遊廓が集中した新開地で、いわゆる赤線区域でもありました。新穀町の入口には、広瀬川にかかる「賑橋(にぎわいばし)」があって、この橋から西が遊廓の免許地で、馬喰、鉱山関係者などで賑わいました。*2
現在、賑橋はありません。
賑橋があったと思われる場所(駐車場脇)には、小さな水路が流れています。
かつて賑わい橋がかかっていた広瀬川の名残でしょうか。
【参考文献】
*1 全国遊廓案内(日本遊覧社, 1930)P.120-P.121
*2 街きたかみ編集委員会・みちのく民芸企画:きたかみの今昔(トリョーコム,1980 )P.54-P.57「西の玄関口・新穀町」
参考文献
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往時の黒沢尻町(現在の北上市街)の飲食街は「東裏」(花柳界)と「西裏」(遊廓街)に二分されてされていました。「東裏」は、本通りの東側にあたり、東京屋、大安楼、常盤木、観月、喜久乃屋、吉田屋、今野屋等に代表される料亭をを中心とする花柳界でした。*1
本通りの東側の諏訪町2丁目に、当時の屋号「大安楼」を引き継ぐ料理屋が現在も営業中です。
レトロな雰囲気の店内。
刺身定食、北上コロッケ、ビールを注文。
デザートに、トマトのレモン煮を注文。フルーツのように甘くておいしいトマトです。
【参考文献】
*1 街きたかみ編集委員会・みちのく民芸企画:きたかみの今昔(トリョーコム,1980 )P.54-P.57「西の玄関口・新穀町」
参考文献
参考記事
青柳町2丁目の歓楽街。広い通りに長屋風のスナックの路地が交差します。
青色のスナック店。
長屋風のスナックの建物。
両側にスナック店。
参考文献
参考記事
青柳町2丁目の歓楽街。スナックが密集するエリアです。
小料理、おでんの「あいこ」。
レトロな店の入口。
あいこ。
参考文献
参考記事
ゲートの裏側は、破損が少なく、店名が確認できます。
今回は、北上(岩手県北上市)の町並みと風俗を散歩します。
北上の繁華街の青柳町。
楽天小路と名付けられた横丁があります。
両側に居酒屋やスナックが建ち並びます。
ゲートの裏側は、破損が少なく、店名が確認できます。
参考文献
参考記事
釜石駅から南リアス線の隣の駅、平田(へいた)駅で下車し、西へ2Kmほどのところに、「コインランドリー090」がありあす。*1
コインランドリー脇に、ハンバーガー自動販売機が設置されています。
残念ながら、チーズバーガーは売り切れでした。
バス停の形をした看板。遊び心があります。
【参考文献】
*1 越野弘之:昭和レトロ自販機大百科(洋泉社,2015)P.40
参考文献
参考記事
釜石市街になる銭湯の「鶴の湯」。
油田型の煙突。
入口には、アジサイが咲き誇っています。
「鶴女湯」「鶴男湯」と表示されています。
参考文献
参考記事
釜石の遊廓は、現在の釜石市浜町3丁目のあたりにあって、北側から、気晴館、鈴木楼、黄金楼、布袋楼、花月楼、美芳楼、東楼、紺楼、三陸楼、福寿楼、東海楼、幸楼、と建ち並び、釜石貸座敷組合が組織されていました。*1
遊廓街の南端にあった幸楼と同じ屋号の料亭「幸楼」。*1
遊廓の北側。気晴館、鈴木楼、黄金楼があったと思われるあたり。
大正15年の「釜石案内」*2 には、「遠く望めば、さながら、阿房宮(あぼうきゅう、秦の始皇帝が建てた大宮殿)のようであった」と、記されています。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図 岩手県(東京交通社,1925)
*2 伊藤天山:釜石案内(釜石町,1926)P.135
参考文献
参考記事
今回は、釜石(岩手県釜石市)の町並みと風俗を散歩します。釜石市街になるKUNIYA(928)ビル。レトロ自販機が設置されています。
928の店舗は震災時、二階まで津波の被害を受けました。この自販機が設置されたのも震災復興のためです。*1
チーズバーガーを注文。調理中を示す赤ランプが点滅します。
出来上がり。
【参考文献】
*1 越野弘之:昭和レトロ自販機大百科(洋泉社,2015)P.40
参考文献
参考記事
太田の坂道の途中にあるスナック店。「HAMACHIDORI(はまちどり)」と書かれた洋風の建物です。
1階部分がスナック店です。
三日町の七十七銀行へ向かう道の途中にあるスナック。
スナック「ブーケ」。
参考文献
参考記事
王将マーケットの入口。
通路の両側にスナックが並んでいます。
ほとんどの店舗は休業中ですが、営業中のスナックもあるようです。
朽ち果てた看板。横向きに取り付けられていたのだと思います。
通路は、反対側の出口へつながっています。
参考文献
参考記事
太田の坂道を登っていくと、王将マーケットが見えてきます。飲食店が入っている雑居ビルで、映画「自虐の詩」にも登場しています。*1
「自虐の詩」では、主人公の幸江(中谷美紀)の故郷は気仙沼で、「王将マーケット」は、学生時代の新聞配達エリアでした。
看板の側面に「王将飲食街」と書かれています。
建物の上部には、将棋の駒「王将」のモニュメント。
南側の入口。
【参考文献】
*1 横山芳一,菊田清一,今野俊宏:仙台学 vol.9 歩く見る聞く仙台(荒蝦夷,2005)「気仙沼たてもの散歩 大正昭和港町伝説」P.202
参考文献
参考記事
戦前、気仙沼の太田は遊廓街(銘酒街)でした。現在は、飲食店は数えるほどしかありませんが、昭和40年代までは、一大歓楽街で、港に船が着くと船員たちは銭湯に入ってこざっぱりして、一斉に太田に繰り出したものでした。*1
坂道を登ったY字路(現在は、駐車場となっている場所)に、居酒屋風本サロがありました。いわばハイブリッド風俗ともいえるユニークな店でした。*2*3*4
2011年頃までは営業していたようです。*4
「G」というピンサロは、3人の女のコが順々に席に付き、その際に女のコと直接サービスを交渉するというかなり複雑なシステムで、追加料金1万5000円を払うと広い部屋に移動しました。*2
店の入口脇の看板には、「月 バリバリ、火 ギンギン、水 ビンビン、木 ドンドン、金 ガンガン」と書かれていました。*4
【参考文献】
*1 横山芳一,菊田清一,今野俊宏:仙台学 vol.9 歩く見る聞く仙台(荒蝦夷,2005)「気仙沼たてもの散歩 大正昭和港町伝説」P.202
*2 ミリオン出版:俺の旅(2008.8.5)「嗚呼 女体ドックに挿入る!!港町ブルース」P.103
*3 ミリオン出版:俺の旅(2009.9.1)「列島裏風俗夏スペ 18連発みちのく裏旅」P.150
【参考URL】
*4 グーグルマップ:2011年7月のストリートビュー(2016年8月2日時点)
参考文献
参考記事
今回は、気仙沼(宮城県気仙沼市)の町並みと風俗を散歩します。
気仙沼市魚町1丁目の亀乃湯は、震災後、見事に復興を果たしたことで、テレビや雑誌で報道されている銭湯です。
周囲に他の商店は、ほとんど見当たりません。
立派な煙突。