石巻(鳥屋神社)旭町

かつて遊廓があった旭町の北側の入口付近。JR石巻線の踏切を渡ったところに、鳥屋神社があります。

鳥屋神社の境内には、古い時代の旭町を想起せしめるものとして、鎌倉期から南北朝時代にかけての造立の板碑がたっています。*1

蛇田町の石柱。

寛文六年(1666年)当時、自分の馬で宿場と宿場間の貨客を運ぶ伝馬役に従事していた石巻村の農民は、所有田畑が僅少で生活が苦しいため、伝馬役の継続は不可能の旨を上申。仙台藩は、彼らに蛇田村の全耕作地の三分の二を与えて伝馬役を継続させ、蛇田村の農民には石巻村続きの蛇田村へ移住させての内を与え、宿場並みの町に整備した。明治二年の地租改正によって石巻村へ編入された蛇田町には、県風紀条例改正に伴い、同じ二十二年石巻の全遊廓が移転。以後旭町と改称された。(案内文より)

【参考文献】
*1 紫桃正隆:大河の四季 石巻地方の史談と遺聞(宝文堂出版販売,1984)P.104-P.110

石巻(石巻遊廓跡地)旭町

石巻市旭町は、江戸時代は蛇田町と呼ばれ、石巻の玄関口として大いに繁盛しました。当時、蛇田町のまわりは濠、土手などで厳重に包み込まれ、町の入口には南北ともに番屋が置かれ、通行人は、きびしくチェックを受けました。一ノ関街道への出入には必ずこの町を通らねばならず、そのねらいは旅人改めに置かれていました。1
大正14年10月28日の「大日本職業別明細図 石巻町」
2 に現在道路となっている(写真の左右)の南側入口あたりには、運河があり、それを渡る橋がかけられていました。

同じ場所を東側(運河があったと思われる場所)から見たところ。(写真の左奥は、久円寺がある方向)

明治の中期になると、蛇田町ならず隣の横町一帯は「花街」として生まれ変わります。蛇田町は酔客で賑わうようになりました。「花街」ともなれば蛇田町では無酔に聞こえるため、旭昇天の繁栄が期待できる「旭町」と改名されました。*1

北側から見た旭町。

【参考文献】
*1 紫桃正隆:大河の四季 石巻地方の史談と遺聞(宝文堂出版販売,1984)P.104-P.110
*2 東京交通社:大日本職業別明細図 宮城県(東京交通社,1925)石巻町

石巻(割烹「滝川」)「縮図」のモデル?

石巻市中央1丁目にある割烹「滝川」。釜めしが名物です。地元の方の話によると、徳田秋声の「縮図」のモデルとなった店だそうです。

「縮図」には、石巻の釜飯屋が登場します。*1
「話がはずんでいるところへ、今日も罐詰屋の野良息子が顔を出し、ちょっとふてぶてしくも見える青年が、壁ぎわの畳敷きにあぐらを組んで葉巻をふかしているのを見て、戸口に躊躇した。彼はなんという目的もなく、ただ銀子が好きで、分寿々廻家へもひょこひょこ遊びに来、飯を食いに銀子を近所の釜飯屋へ連れ出し、にやにやしているくらいがせいぜいであった。」

落ち着いた店内。

「とり釜めし昼膳」を注文。

【参考文献】
*1 徳田秋声:縮図(岩波書店,1971)P.184

石巻(徳田秋声「縮図」の舞台)かつての料亭街

石巻は、自然主義文学の最高峰・徳田秋声「縮図」の舞台となった町です。1
小説の中では、I町として登場します。
2
中瀬の西側は、石巻市街の中心部で、昭和9年の市街図3 には、春潮楼、満壽田、滝川、八幡家、鳥文、ことぶき、ひよし、亀泉、の料亭が記されています。

通りに面した飲食店。

飲食店の建物脇に、「『縮図』のおもかげ」と題する、案内板が建てられています。

案内板。

「縮図」では、当時の石巻の様子が次のように描かれています。
2
「その後間もなく市政の布(し)かれたこの町は、太平洋に突き出た牡鹿半島の咽喉を扼し、仙台湾に注ぐ北上河の河口に臨んだ物資の集散地で、鉄道輸送の開ける前は、海と河との水運により、三十五反帆が頻繁に出入りしたものだったが、今は河口も浅くなり、回船問屋の影も薄くなったとは言え、鰹を主にした漁業は盛んで、住みよい裕かな町ではあった。」
【参考文献】
*1 橋本晶,石垣宏:写真集明治大正昭和石巻(国書刊行会,1980)P.126
*2 徳田秋声:縮図(岩波書店,1971)P.162
*3 東京交通社:大日本職業別明細図 第358号宮城県(東京交通社,1934)

石巻(中瀬)かつては割烹も営業していた観覧場所

今回は、石巻(宮城県石巻市)の町並みと風俗を散歩します。
石巻の中瀬(なかぜ)は、北上川河口にある中州で、石巻全体のイメージを形づくっています。

東内海橋から住吉町方面(北側)の遠望。かつては、このあたりに、川に張り出したテラスを持つ中瀬の割烹「観月」が営業していて、絶好の観覧場所でした。*1

住吉公園付近から見た中瀬。

現在、中洲には、石ノ森萬画館が建設されています。

【参考文献】
*1 邉見清二:石巻・東松島・女川今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.31

立町(紫稲荷大明神)本櫓町丁

戦後の本櫓町丁には、料亭、芸者置屋が六十軒も並び、花柳界の中心町としての面目を保っていましたが、それも徐々に減り、平成不況が廃業に拍車をかけ、面影は薄れました。*1
現在は、隣接する立町のラブホテル街がこの付近にも進出し、新旧が混在した町並みになっています。

本櫓町丁のかつの本材木町側(西側)に、紫稲荷大明神があります。

奉納額。

寄進者のほとんどは、接客業関係です。

【参考文献】
*1 河北新報出版センター:忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター,2005)P.36-P.37

立町(本櫓丁)かつての料亭街

今回は、国分町(仙台市青葉区)の町並みを散歩します。
本櫓丁は、藩政時代は藩士の屋敷町。それが明治維新後に花柳界の街に変わりました。

今も面影は残っていますが、最盛期は昭和40年頃でした。

料理屋だったと思われる建物。

現在も営業する老舗料亭。

【参考文献】
*1 河北新報出版センター:忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター,2005)P.36-P.37

原ノ町(遊廓跡地)しらゆりロード

原ノ町では、明治の半ばころから、酌女(のちの酌婦)が現れ、その後、芸妓や娼妓が集まってきては花柳街をつくりあげていました。大正7年の「相馬原町案内」では、料理店4軒、芸妓屋10軒(松亀楼、栄華楼、他)が紹介されています。1

大正15年の大日本職業別明細図
2 には、松亀楼、栄華楼のおおよその位置が記されています。昭和10年(1935年)の「原町地区商店街地図」と1971年の住宅地図*3 の両方の地図に栄華楼、会津そば屋、小柳屋などが記載されていて、それらの位置関係から、遊廓(松亀楼、栄華楼)は、山家医院があった場所にあったと思われます。現在は、数軒のスナック店や飲食店が建ち並んでいます。(写真の左側が山家医院跡です。)

山家医院は、現在は更地になっています。

この付近の通りは、現在は「しらゆりロード」と呼ばれているようです。

【参考文献】
*1 南相馬市教育委員会博物館市史編さん係:原町市史.第11巻(特別編4)旧町村史(南相馬市,2008)P.150-P.151

原ノ町(朝日座)大正12年、芝居小屋兼常設活動写真小屋として開館

原ノ町市街の中心部。大町1丁目にある映画館の朝日座。2014年に、国登録有形文化財となりました。

レトロな外観。

旭座は、大正12年、芝居小屋兼常設活動写真小屋として「旭座」が開館しました。落成時、坂東勝三郎、中村翫十郎の一座により「旭座舞台開き」が盛大に行われ、娯楽の殿堂としての幕が上がりました。(案内板より)

入口付近。

原ノ町(玉乃湯)旅館併設

今回は、原ノ町(福島県南相馬市)の町並みを散歩します。仙台駅からJR常磐線で1時間20分。原ノ町駅へ到着です。駅前から西側へ続く商店街を200mほど行きくと、1階に真新しいバーが開業しているレトロなビルがあります。

「旅館玉の湯」。旅館が併設されているようです。

「旅館玉の湯」の正面入口は、脇道を入ったところ。

「TAMANOYU」と書かれています。

扇田(洋館の妓楼)第二新開地

現在の上扇田にできた2つ目の遊里「第二新開地」。当時、第一新開地と第二新開地は、東西に対立して客の吸収、美妓の雇い入れにしのぎを削り遊客の流れが第一から第二へ、第二から第一へとハイヤーを利用した往来が激しく、たえず紛糾の種となりました。第二新開地には、末廣家、いろはや、カフェー喜楽、山田屋、白川屋、大正亭、一二三亭、吉乃屋、清水亭、昭和館、アカツキ(喜楽跡)、カフェー暁、モダンカフェー朝日亭(山田屋跡)などがありました。* 1

料理屋だったと思われる建物。

洋館の妓楼「昭和館」。* 3

第二新開地の入口付近にあった料理屋。

【参考文献】
* 1 千葉雄,比内町教育委員会:扇田酒屋物語(比内町教育委員会,1986)P.17-P.18
* 2 東京交通社:大日本職業別明細図.第230号.秋田県(東京交通社,1926)
※扇田酒屋物語* 1 で記載されている「第一新開地」「第二新開地」は、大日本職業別明細図* 2 ではそれぞれ、「第二新開地」と「第一新開地」と記されており、ここでは、大日本職業別明細図の記載を優先させ、扇田酒屋物語の記載を変更して掲載しています。
*3 小松和彦,渡辺豪:秋田県の遊廓跡を歩く(2016,カストリ出版)P.120-P.155

扇田(この付近だけ道路の幅が広くなっています。)第一新開地

明治32年以降、裏通り、新丁他に散在していた料理屋を分教上、風紀上の理由から県の指示で移転させ(第一新開地)、昭和4年に第二料理屋指定地問題が起こり、町議会で審議、道路整備のうえ、二つ目の遊里が誕生し、遊興の里は第一新開地、第二新開地の呼称で東西に分かれ、その盛衰は、第二新開地は、新興地として伸び、反対に第二新開地は、衰微のパターンをたどりました。* 1
第一新開地があった曙町。* 2
この付近だけ道路の幅が広くなっています。

かつての妓楼だったと思われる建物。

第一新開地には、竹廻家、琴富貴亭、瓢家、藤家、永平亭(朝鮮料理屋)、ひさご屋(のちの八郷倶楽部)、松月、スピードカフェー、ことぶき、料亭あけぼの、羽州屋、カフェー八郷、松川亭、カフェー菊水(藤家跡)、クラブ茶月、カフェー鈴蘭、扇の家、三日月亭(旧松月)、清喜亭、アイコクカフェー岩木家、若松屋、田美屋(清喜亭跡)、美吉家(竹の家跡)、などがありました。* 1

他にも、凝った意匠の建物が残っています。

【参考文献】
* 1 千葉雄,比内町教育委員会:扇田酒屋物語(比内町教育委員会,1986)P.17-P.18
* 2 東京交通社:大日本職業別明細図.第230号.秋田県(東京交通社,1926)
※扇田酒屋物語* 1 で記載されている「第一新開地」「第二新開地」は、大日本職業別明細図* 2 ではそれぞれ、「第二新開地」と「第一新開地」と記されており、ここでは、大日本職業別明細図の記載を優先させ、扇田酒屋物語の記載を変更して掲載しています。

扇田(料亭「菅岩」が寄進)新丁の稲荷神社

扇田新丁の通り沿い。

小さな、稲荷神社があります。

鳥居に、寄進者の名前が刻まれています。

「菅岩」は、かつての扇田で最も古く長い歴史を保持した料理屋です。明治44年「菅岩俱楽部」として創業。のち、昭和5年に創業20年を記念して扇田倶楽部と改称しました。

扇田(カフェーだった昭和軒)扇田料理屋街

元禄・宝永(1700年)の頃の扇田は、尾去沢鉱山及び大葛金山等が全盛を極め、両鉱山に往来する人馬等が扇田を通過することにより、商家は概ね富饒(ふじょう)となり、特に、醸造家(造り酒屋)は二十軒以上あり、同時に、料理屋、茶屋などの飲食店が軒を並べました。明治から、大正、昭和(33年頃)の間、扇田にあった料理屋、カフェー、茶屋は、
・第一新開地 :竹廻家、琴富貴亭、瓢家、他
・第二新開地 :末廣家、いろはや、カフェー喜楽、他
・新丁、裏通り:花月亭、菅岩倶楽部、カフェー昭和軒
・茶屋    :永田、佐々木、万田、小松、他
などでした。* 1

新丁バス亭近くに、上記の「カフェー昭和軒」と思われる建物が残っています。

建物の前面は、ラーメン店(現在も営業中)ですが、その後ろ側に、「昭和軒」の看板が残る建物が現存しています。

地元の方の話によると、昭和軒の経営者は数年前に他界されたとのこと。営業中のラーメン店と「昭和軒」は、関連がないそうです。

【参考文献】
* 1 千葉雄,比内町教育委員会:扇田酒屋物語(比内町教育委員会,1986)P.17-P.18
* 2 東京交通社:大日本職業別明細図.第230号.秋田県(東京交通社,1926)
※扇田酒屋物語* 1 で記載されている「第一新開地」「第二新開地」は、大日本職業別明細図* 2 ではそれぞれ、「第二新開地」と「第一新開地」と記されており、ここでは、大日本職業別明細図の記載を優先させ、扇田酒屋物語の記載を変更して掲載しています。

扇田(300年以上の歴史を持つ朝市)扇田市日

今回は、扇田(おうぎた、秋田県大館市)の町並みを散歩します。
扇田市日は、300年以上の歴史を持つ市日です。*1
扇田市日場は、JR花輪線の扇田駅から中心街へ向かって約300mのところにあります。

多くの出店スペースがあり、広々としています。

旬の野菜・果物、魚介類といった食料品、衣類や金物などが販売されています

地方都市の市場で見られるような観光客の姿はありません。
【参考URL】
*1 大館市:扇田市日