岐阜西通りと南本庄一条通りの交差点付近。「ヤマヨ温泉」の看板が見えます。
近代的な2階建てのビル銭湯は、多くの人で賑わっています。
煙突の上部に「ゆ」のマーク。
洗って・絞って・乾燥
月: 2018年2月
古い家並みが残っている旧加納宿。旧中山道が緩やかにカーブして続いています。
民家の前にあるコンクリゴミ箱。堂々とした大型のゴミ箱です。全面部分は赤色。ひび割れ等老朽化している部分がほとんど見られません。
加納宿は、コンクリゴミ箱の宝庫です。
コンクリ部分が白く塗られたお洒落なゴミ箱。形もスリムです。
参考文献
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水野町公園の南側にある秋葉神社。加納宿があった旧中山道沿いです。
「秋葉神社」の石柱の隣にコンクリゴミ箱があります。
頑丈そうな箱です。
上部の蓋には、取っ手がついています。現在も使われているのかもしれません。
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JR岐阜駅の南側は、江戸時代はかつての中山道加納宿があったあたりです。
加納本町9丁目のかつての中山道沿いに、古い民家の建物が残っています。
丸窓などの装飾。料理屋等を営んでいたのかもしれません。
玄関付近。
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長良川の忠節橋から、岐阜駅へ向かう忠節橋通り(国道157号)は、岐阜市の三大通りのひとつですが、この通りの南端は、金津園の入口にあたります。
この通りをさらに、南進させる計画なのでしょうか。金津園の中央を通り抜けるための拡幅工事が行われています。
拡幅工事のために、立ち退いた店舗もあるようです。
写真中央奥の高層ビルは、「岐阜シティ・タワー」*1
完成すれば、ソープランド街の中央を4車線の道路が貫通することになります。
今回は、金津園(岐阜県岐阜市)の町並みを散歩します。岐阜駅前から見える高層マンションの「岐阜シティ・タワー」。
現代の岐阜市を象徴するランドマーク的存在です。*1
最上階の43階スカイラウンジ(地上152メートル)には、無料展望室が設けられています*1
展望室へのエレベータ搭乗口。
展望室から見えるのは、駅北側の岐阜市街や金華山で、南側はレストランになっているため、南側の展望を望むことはできません。が、わずかに金津園の一部を見下ろすことができます。
参考文献
*1参考記事
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大正時代に入ると、小倉公園から「うだつの 上がる町並み」に延びる御嶽新道界隈には、 多くの料亭、小料理屋が軒を並べ、大衆歌舞伎、剣劇等が上演された小倉座や 検番があり、花街が形成され、一時新富町 と呼ばれた時期もありました。*1
俵町の円通寺南には、「八幡屋」が営まれています。*2
「八幡屋」は、明治30 年代に建てられた料理旅館として朝日楼が営業していましたが、昭和8 年(1933)、八幡屋に店主が代わり、今は料亭として営まれ親しまれています。*2
南側には長い塀が続いています。
参考文献
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今回は、美濃(岐阜県美濃市)の町並みを散歩します。
大正年代から昭和初期にかけては、美濃町花街が最も盛んな時で料亭も多く芸妓数も30余名を数えるほどでした。当時、新民謡(昔からの民謡に対し各地で新しい民謡をつくること)が流行し、美濃町も料芸組合によって、美濃町音頭と美濃町ナントショ(小唄)がつくられました。*1
芸妓置屋「文の家」があったあたり。*2
芸妓置屋「喜久乃家」があったあたり。*2
昭和5年の市街図*2 に、料理屋と思われる、「古金家」「山口家」「玉本屋」「八幡屋」の記載のある通り。「八幡屋」は、同じ屋号で営業している料亭が別の場所にあります。
参考文献
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かつての十和田観光電鉄、十和田駅の「駅そば」は、廃線後、十和田市中央バス停前に移転しましたが、そのとき駅そば「とうてつ駅そば」が現在も営業中です。*1
懐かしさ、温かさを感じる地元に愛されるお蕎麦屋さんです。*2
1日5食限定のチキンかつカレーは、売り切れていました。
お勧めの「スぺシャルそば」(天ぷら、山菜、玉子)を注文。
参考文献
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東三番街のスナック街にあるキャバレー花園。
戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業したのが当たって、昭和38年、東三番街に進出。「サロン花園」と「割烹大坂屋」を新築開店しました。*1
菊地正一氏の「クラブこけし」「割烹こけし」、そしてマダム(田鶴子女史)の「湖畔グループ」と併せ、飲み屋街のビックスリーと呼ばれました。*1
花園の看板。外国人芸能人は公演活動しか行わないので、お客様の応対はできません。
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大正初期以降、戦時中を除き昭和三十年代中期まで、花柳街の老舗が繁栄しましたが、昭和40年代になると、キャバレー、スナック、バー等の登場となり、呑み屋街が発達しました。*1
その中で、東三番街は、現在も残る呑み屋街です。写真右側の焼肉の「食堂園」は、1977年の住宅地図*2 にも掲載されている店です。
カラフルなスナックの店舗が建ち並びます。
看板が密集。
反対側の入口。一方通行の出口です。
参考文献
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※1三本木(産馬通り)料亭「一心亭」跡地。町の中心街。三本木町(現在の十和田市)は馬産の町として知られ、に、明治17年(1884)に陸軍省軍馬育成所が設置され、馬せり(馬市)のときは、まるでお祭りのように人が集まり、周辺の旅館・商店は産馬で潤いました。馬主は、料亭に上がり込み、百円の札ビラを切るので料亭の主人は釣り銭に困るほどでした。*1
産場通りは、町の中心街で、代表的なものに、一心亭(産馬通り)、忍亭(五丁目東裏)がありました。*2
当時、本通り現東映付近に料亭「一心亭」がありました。*3
現在、その面影はありません。
「一心亭」は、魚屋の「一心太助」からとって「一心亭」と名付けられました。*4
「産馬通りでサンバを!」というアイディアで、毎年、「十和田サンバカーニバル」が開催されています。
産馬通りから北へ入った通りは、かつての料亭街でした。
参考文献
*1参考記事
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十和田市稲生町の繁華街。道路沿いにレトロなパチンコ店。
同じビルにスナックや飲食店も同居しています。
ビルの2階は、「三十番街」という飲食街になっています。
1951年創業。
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今回は、三本木(青森県十和田市)の町並みを散歩します。
「全国遊廓案内」*1 によると、三本木町遊廓は、三本木町新地(しんち)に、貸座敷が3軒ありました。昭和29年の地形図*2 を見ると、西一番町の理念寺(写真右側)の西側に「新地」の記載があり、昭和9年の警察関連の資料*3 には、三本木町の貸座敷として、金助屋、島田楼、近盛楼の3軒が記載されています。
この付近には、「新地通」と書かれた電柱番号札が広範囲に分布しています。
当時、「新地通り」という通り名が、現在の西十一番町に存在し、そこには島田楼がありました。*4
西十一番町付近。
参考文献
*1参考記事
かつて旭町遊廓があった青森市旭町1丁目。
戦後は、遊廓はカフェーや料理屋となり「赤線」地帯として残存しましたが、昭和33年に売春防止法が施行。遊廓は旅館や居酒屋となりました。今は当時の面影はほとんどありません。*1*2
「旭旅館」の屋号が残る建物。
現在は、企業の事務所として使われているようです。
元旅館「豊川」。*3
腰廻りには、鮮やかな青色の石材。
参考文献
*1参考記事
青森市街を南下する旭町通り。青い森鉄道のガードをくぐって約200m。道路沿いにラーメン店があります。
とにかく大きな文字です。木村屋ラーメン。
外は氷点下ですが、店内はしっかり暖房がきいていてポカポカです。
煮干しのだしがきいたラーメンは350円。大盛りを頼んでも450円です。
参考文献
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中央古川通り沿いの呑み屋横丁※1 の1階の風俗店。看板が密集しています。
サロンタイガー。
女性募集の看板。
路地の電飾看板。
今回は、青森(青森県青森市)の町並みを散歩します。
駅前の商業施設「フェスティバルシティアウガ」の東側の商店街「中央古川通り」沿い。1階に風俗店が入る横丁があります。
建物の右側の路地を進むと、スナックが2軒あります。
左側の通り。
奥まったところにあるスナック。
武雄温泉の温泉街の北東側にスナック街があります。温泉街の中心部からは少し離れた場所です。
静かな住宅街の中のスナック。
フロンティア横丁。
ピンク色の建物。
参考文献
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かつての満州楼の旅館「白さぎ荘」。旅館内部には当時の面影が残っています。
中庭に架かる太鼓橋。遊廓の特徴的な構造を残しています。終戦の1年ほど前、満州楼は海軍の病舎になったときの「兵隊さんがお礼に毎朝、太鼓橋を拭き掃除してくれて、お陰で漆がはげた」という話が旅館に伝わっています。*1
中庭を有しているのも遊廓の特徴的な構造です。ここからも太鼓橋が見えます(写真右下)。
宿泊した部屋。
参考文献
*1参考記事
※1武雄(旅館「白さぎ荘」)満州楼跡今回は、武雄温泉(佐賀県武雄市)の町並みを散歩します。
かつて、武雄温泉場には遊廓がありました。旅館「白さぎ荘」(旅館「花月」※1 の隣)は、かつての満州楼です。*1
地元の方の話によると、改修はしているが建物の基本部分は当時のままだそうです。
レンガ造りの塀。
夜の白さぎ荘。