吉祥寺東町1丁目。繁華街からはずれた住宅地にある「まるけん」。遠くからでも「まるけん」の看板を確認できます。
大衆食堂「まるけん」。
こじんまりした店内は、地元の人たちで満員です。
かつ丼とビールを注文。
吉祥寺東町1丁目。繁華街からはずれた住宅地にある「まるけん」。遠くからでも「まるけん」の看板を確認できます。
大衆食堂「まるけん」。
こじんまりした店内は、地元の人たちで満員です。
かつ丼とビールを注文。
東急百貨店の西側。商店やブティックもまばらになり、住宅街になるあたり。吉祥寺では、よろづ湯※1 と並ぶレトロ銭湯の弁天湯があります。
弁天湯の煙突。
脱衣場の窓には、裸婦が磨りガラスで描かれています。
レトロなかさ入れ。
今回は、吉祥寺(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。
吉祥寺駅北東側の繁華街の狭い通り。「ニューヨーク」と書かれたラブホテルの看板が確認できます。
交差点の角に面した大きな建物です。
JR中央線の高架を挟んだ南側。ギリシャのコリント式オーダー(建築様式)の円柱を持つ建物が現れます。
以前は、駐車場でしたが、ホテルが出来たことにより、通り抜けできなくなっています。
西荻窪駅前の呑み屋街※1 の南側にある純喫茶。
レンガ造りのノスタルジックな喫茶店です。
店内もは木とレンガ。クラッシク(バロック音楽)が流れ、まるで名曲喫茶のようです。
クロックムッシュ(ホットサンド)とカフェオレを注文。
今回は、西荻窪(東京都杉並区)の町並みを散歩します。
JR西荻窪駅南口を下車し、すぐ西側。ディープな呑み屋街があります。
南側の通り。2階建ての木造家屋が連なっています。
北側の通りへ抜ける通路。
北側の通り。
現在の津島市天王通り三丁目あたりを苧之座または小之座と呼びました。
このまちは苧(イラクサ科の植物。丈夫な繊維として利用できる)を取り扱う商人たち(座)のまちであったことから名づけられたと考えられます(看板の説明書き)。
「苧」という文字を見ると、「口之津に「苧扱川(おこんご)」という地名があり、そこにあった遊廓は「おこんご遊廓」と呼ばれていた。」ことを思い出します。※1※2
「苧扱川」の地名も苧麻を栽培していたことに由来します。*1
苧麻は、17世紀前半に木綿が庶民の日常衣料としての地位を確立するまでは、庶民にとっての代表的な繊維原料でした。*2
津島の天王通り沿いにある朝日寿司。津島料理業組合の名簿*1 にも掲載されている老舗です。
「江戸前立喰寿司」の看板。今回は、左側にある正面の入口から入ります。
テーブル席と座敷。
ちらし寿司を注文。
まのや旅館の前の道を南下すると、料理屋の建物に行き当たります。
御料理「太田屋」跡。*1*2
紅色の壁が際立っています。
「料理店」のプレート
津島の天王川公園の近く、秋葉神社の裏側に料亭松葉の建物が残っています。*1*2
「松葉引込」と書かれた電柱番号札。
1本北側の通り。居酒屋があります。
反対側から見たところ。
池須町の北東方向。割烹「一力」の西側に、昔の佇まいが残る一画があります。
「ゑびす旅館」。地図によると現在は「ゑびす寮」となっています。
美しい黒板壁。
旧「桔梗屋」。*1
ゑびす旅館に隣接しています。
津島映画劇場があった一画※1 の北側の一画。
この通りの南側に料理「玉船」の建物が残っています。*1*2
玄関。
当時の電話番号。津島料理業組合の名簿*2 に記載の電話番号に一致しています。
今回は、津島(愛知県津島市)の町並みを散歩します。
津島は、江戸時代から「芸どころ津島」と評判だった花街で、昭和初期、津島町には池須を中心として24軒の芸妓置屋がありました。*1
当時、池須には蓮田と呼ばれる沼地がありましたが、都市計画において、埋め立てが必要との機運が高まり、大正8年に埋め立てが着手されました。埋め立て後、この地に、市場・カフエ・食堂・芸妓置屋・映画館などが次々に建設され、大正末からは津島の一大歓楽街に発展し、戦後も長く繁栄を続けました。*2
現在の「天王通1」交差点にあるマンション付近には、津島映画劇場がありました。*3
旅館紀乃昭、料理持高屋があったあたり。*3*4
この付近には、旅館二葉がありました。*3*4
この道の北側には、旅館竹廻家、料理明月がありました。*3*4
また、終戦後の池須町には、カフェー(いわゆる特殊飲食店)が散在的に営業し、「新天地」と呼ばれていました。*5
大垣駅近くにある「エビス食堂」は、昭和の雰囲気が残るとんかつ店です。
レトロ食堂に必ずあるショーウインドウ。とんかつを中心としたメニュー。
落ち着いた店内。
とんかつ定食とビールを注文。
大垣駅近くにある銭湯の都湯。洋風の建物です。
手書きで書かれた屋号。
木製の棚。白く塗られています。
脱衣場には、なぜか小便小僧。
大垣城近くにある割烹旅館「菊水」。地元の方の話によると戦前は料亭を営んでいたそうです。
鉄筋コンクリート造りでありながら、みごとな和風の佇まいです。
夜の様子。
部屋はとにかく広いです。
大垣市郭町にある大垣城。名実ともに城下町大垣のシンボルです。
その大垣城の前にビリヤード場のエグロ会館があります。
1階には、ビリヤードエグロの看板。
「玉突」。
大垣駅北口から約200m。林町2丁目にある鶴丸食堂。雰囲気のある建物です。
うどん、丼物が中心のメニューです。
創業明治17年。創業当時からのうどんの値段の移り変わりが掲示されています。幕末は18文、終戦直後は15円です。
てんぷらうどんを注文。
お城街※1 のある城南アパートの西側。ひち屋の看板が見えます。
ひち屋の入口。
入口の看板に、「金融品 貸流品 廉売」と書かれています。
別の金融の店。
今回は、大垣(岐阜県大垣市)の町並みを散歩します。
大垣城の東側。城南アパートの建物。
1階に、レトロな呑み屋街があります。入口右側には、喫茶「古城」。
看板の右側の「街」の文字が隠れて見えづらくなっていますが、「お城街」と読み取れます。
和風の飲み屋が連なります。
美濃太田駅前の広場。
坪内逍遥の銅像が鎮座しています。
坪内逍遥は、日本最初の近代的文学論『小説真髄』(1885~1886)とその実践となる小説『当世書生気質』(1885~1886)を著し、文壇の中心的存在となりました。
逍遥は、大学時代の同級生に誘われて、根津遊廓の大八幡楼(おおやわたろう)にあがり、ここで出逢った遊女の花紫と明治十九年十月二十二日に結婚しました。*1
しかし、逍遥自身はこれが原因となって、鬱憂になったといわれています。*2
美濃太田駅から高山本線で一つ隣の駅、古井駅で下車し、北東へ500mほど行くと古い道標があります。右へ行くと、八百津、木曽路、左へ行くと飛騨高山です。
この付近(古井地区の森山)は、かつての加茂郡の中心で、群役所・警察署などの官庁があったことも関係して、明治時代から料亭や芸者置屋がありました。「大正年代森山元町ノ街並」によると、青柳橋近くに、「料理」「満寿や」の記述があります。
イサバや角周の隣には末広座があり*1、この付近が歓楽街であったことが想像できます。
「平井酒や」の近くに「置屋昭月」がありました。*1
中山道、大田本町一丁目交差点近くに、銭湯の煙突が見えます。
一見、駄菓子屋か何かの商店かと思える緑色のビニールのテントですが、銭湯の音羽浴場です。
煙突。
夜の様子。
美濃太田駅の南側、太田町に、小規模ですが、居酒屋やスナックが集まる呑み屋街があります。
雪椿、えん、けい、あさこ、つむぎ、年輪、さっちゃん、等、和風の名前が多いです。
四つ角のあたり。
夜の様子。
今回は、美濃太田(岐阜県美濃加茂市)の町並みを散歩します。
JR高山本線美濃太田駅前から南東方向にまっすぐな道が伸びています。
大楽通り。歓楽街を思わせるような通り名です。
旅館「いろは」。
少し先に別の旅館。