立川(ビラ禁止看板)泉体育館駅近く

多摩モノレール泉体育館駅近くの青柳公園へ向かう道の途中。

「青少年に有害なビラ・チラシお断り」の看板があります。

場所は、閑静な住宅街。

かつて、住宅街や商店街に貼られたピンクビラやチラシに反対する運動や禁止看板の設置が行われましたが*1、立川でも類似の運動があったのだと思われます。

《参考文献》
*1 風きよし:*古今東西風俗散歩(トランスワールドジャパン,2012)歩いて知る日本の大衆文化史 ···外部リンク···

著者(風きよし)が独自の目線で書いた散歩本。 …read more

P.120-P.121
ピンクピラとは、繁華街やラブホテルの電柱や標識柱に貼られているデリヘルなどの無店舗型性風俗店の広告用ビラのことですが、最近は見かけなることが少なくなりました。 …read more

立川(米軍用キャバレー跡地)黒人専用

戦後の進駐軍の性処理問題へ対応は、米軍の人種差別のため、白人兵士用の羽衣町特飲街と、富士見町(西立川駅前)の黒人兵士専用のバーに2分されていました。*1
白人用の特飲街と黒人用特飲街が2分されるのは、かつての沖縄でも同様の状況が見られました。※1
立川の場合は、東の方は白人が、西立川寄りは黒人街にと変わりました。そして黒人専用のバーとして西立川駅の入口に「玉川」が誕生しました。*1

1970年の住宅地図*2 を見ると、駅近くに同じ屋号の「ホテル玉川」の記載があります。

「ホテル玉川」があった場所は、現在は、食品スーパーの建物が建っています。

屋上からの遠望。
昭和記念公園(戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川基地跡地)の緑が見えます。

立川(羽衣特飲食街跡)

今回は、立川(東京都立川市)の町並みを散歩します。
立川の赤線は、錦町※1 と羽衣町の2ヶ所にありました。*1*2
戦後は、旧日本陸軍の将校宿舎に立川パラダイスが作られましたが、やがて閉鎖されると、兵隊達は羽衣町の特飲街へと流れ、戦前からの飲食店街までバーへと一変しました。*3
現在も格子状の道路の形状が残っています。

1970年の住宅地図*4 見ると、この付近には、荻原荘、稲生荘、千秋荘などの屋号の記載があります。転業アパートと思われる屋号の記載があります。

錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観でした。*5*6
写真は、旧特飲街の東端。

旧特飲街の南端は、商店街と接しています。

《参考文献》
*1 渡辺寛:*全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)

P.66
中央線立川駅を降りると、黄色を尻目に米パンがバイキンのように泳いでいる。 …read more

*2 上村敏彦:*花街・色街・艶な街 色街編(街と暮らし社,2008)

P.123
昭和23年当時の立川市の地図(観光の日本社発行)。2ヶ所の指定地がわかる。

*3 三田鶴吉:立川飛行場物語(,1987) *4 公共施設地図航空:立川市 1970年度版 (全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳)(公共施設地図航空,1970) *5 木村聡:*赤線跡を歩く(自由国民社,1998)消えゆく夢の街を訪ねて

記録映画「赤線」を見ると、錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観だったようだ。

*6 睦書房:*人情講談 昭和27年9月号(睦書房,1952)

P.162
羽衣町から、国電立川駅へ行く途中の錦町。羽衣町はうっかりすると住宅街と間違える。 …read more

《参考記事》

東伏見(伏見ホテル)広大な庭園

東伏見4丁目交差点の看板※1 に導かれて、青梅街道を西へ進み、東伏見稲荷神社近くが、ホテルへの入口です。

広大な庭園を持つホテル。
かつては、モーテルだったようです。*1

レトロな電飾看板。

「旅荘」と書かれています。

東伏見(ホテル看板)十字路の矢印

都道4号線(青梅街道)と都道7号線(五日市街道)が分岐する東伏見4丁目交差点から、南側の7号線へ入ります。

道路沿いに、伏見ホテルの看板が建っていますが、付近にホテルは見当たりません。

看板に記載された十字のマーク。「この先の十字路を右へ曲がる」ことを示しているようです。

看板の裏側を見ると納得できました。誤って7号線へ入ってしまったドライバー向けの看板のようです。

《関連記事》

東伏見(ちかん看板)北口ロータリー

今回は、東伏見(東京都西東京市)の町並みを散歩します。
西武新宿線東伏見駅北口。この付近は、西東京市が合併する前は、保谷市だった地域です。

ロータリーには、バスが発着します。

ロータリーの向こう側からも見える「ちかん禁止」看板。

重要な部分は、赤文字です。

三鷹(喫茶店「ブルボン」)50年以上の歴史を持つ店

三鷹駅北口の中町新道沿いにある喫茶店の「ブルボン」。昭和39年の住宅地図*1 にも掲載されている店です。

レトロな外観。

非常に落ち着きます。

ナポリタンとビールを注文。ボリューム満点です。

三鷹(八丁稲荷)ビル街の稲荷

八丁通り(武蔵の警察署の前の通り)から三鷹駅北口に至る一画は、スナックや飲食店が集まる八丁商和会*1 のエリアで、かつての特飲街があった場所※1 もこのエリアに含まれます。
周囲は、高層マンションや居酒屋チェーンの本社ビルなどが建ち並びます。

駐車場脇に、ひっそりと佇む八丁稲荷。

八丁の名が残る稲荷神社です。

特飲街の女性たちも信仰したのかもしれません。

三鷹(八丁通りの飲食店跡)腰廻りの石材

八丁特飲食街の北側。この通りを進むと横河電機の工場です。

古いアパートの建物。

ここには、飲食店「バークロンボ」「はしご」「紅鶴」がありました。*1

腰廻りの石材。

三鷹(料亭らしき建物)八丁通り

八丁特飲街※1 があった飲み屋街の東側の交差点。交差点の角に、古い和風の建物が建っています。

八丁通り沿いにあります。

1972年の住宅地図*1 には、屋号と思われる「与名本」の記載があります。

2階部分。料亭らしき佇まいです。

三鷹(八丁特飲街跡)中町一丁目

今回は、三鷹(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。
三鷹駅の北側、現在の横川電機の工場へ向かう途中に、かつて「八丁特飲街」として賑わった飲み屋街があり、「松月」「ぼたん」「ひばり」「花月」「末広」「ふたば」などの店がありました。*1

南側の路地に入ると、現在もその雰囲気が残っています。

昭和39年(1964年)の住宅*2 には、「花月」「ふたば」など、特飲街時代の屋号を引き継いだ店が確認できます。

電柱番号札に残る「八丁」の名。

1956年5月、売春防止法が国会を通過し、全国各地の草の根からの廃娼運動の結果、1957年12月19日、業者側は遂に廃業声明を発表するに至った。*3

中村(名古屋花壇跡)昭和初期の総合レジャーランド

昭和初期、太閤通りの南側の現在のNTT西日本中村ビルと中村郵便局がある場所に、総合レジャーランドの「名古屋花壇」がありました。*1

名古屋花壇(中村温泉パラダイス)は、昭和3年(1928年)に開設された遊園地で、舞台付き大食堂、遊技施設などの大規模建物と、屋外の遊園地、花壇などが設置されていました。*2

昭和4年(1929年)の世界大恐慌の影響で廃園に追い込まれました。*2

跡地は昭和12年(1937年)に中村区の仮庁舎になり、現在は中村郵便局 になっています。*2

中村(妓楼跡)当時の屋号が残っています。

旧中村遊廓。現在のピアゴ中村店の西側の一画に当時の妓楼と思われる建物が残っています。*1*2

建物の左側は改築されて洋風の店舗になっています。

「福春」の屋号。

「TSURUNOYA」と書かれています。*1

中村(電柱番号札)遊廓北分

中村遊廓の特徴である四隅の廓の中心に向かう斜めの道。*1
現在は風俗店(旧「三角荘」)があります。

四隅のうちの南東部分にあたるこの場所の電柱番号札には、「遊廓北分1」と書かれています。

「遊廓北分1」の電柱番号札を起点に「遊廓北分2」「遊廓北分3」…..と続き、最後は「遊廓北分8」で終わっています。

ちょうど、四隅の北東部分にあたる場所です。写真の空地の部分は、「ホテル太閤」がありました。

《参考文献》
*1 近藤正一:*日本建築学会計画系論文集 通号488 P.203-P.210(日本建築学会,1996.10)中村遊廓における建築計画の類型

P.205
廓の構造は、島原や吉原などと同様、縦1本、横3本の大通りを持った三筋構造を基本とし、さらにその外周を建物で取り囲み、四隅には廓の中心へ向かう斜めの道を配している点が特徴的である。 …read more

中村(妓楼の建物)現在は風俗店

かつての中村遊廓があった大門町。妓楼と思われる重厚な建物が残っています。*1
現在は風俗店として使われているためか、北側は看板建築のような造作となっています。

現存している遊廓時代の建物のうちの一つです。*1

裏入口はこちらです。

風俗店の看板。