高知市帯屋町1丁目の飲み屋小路。落ち着いた感じのスナック店が建ち並びます。
窓に特徴のある「壁」という店。
小路は、L字型になっていて、大通りへ抜けれます。
夜の様子。
月: 2018年5月
堺町の中央緑地沿い。昼間は閑散としています。
大人のおもちゃ屋さん
陳列している商品。
「ピンク堂」の看板。
参考文献
参考記事
高知市与力町(堺町の西側)の交差点の角にあるレトロな「マキ美容室」の建物。
横から見ると、驚くほど狭小な建物であることがわかります。
入口付近。こちらは、「サロンK」という屋号です。
カラフルなタイルの装飾。
参考文献
参考記事
高知市南はりまや町。鏡川の堤防に近いあたり。
あん摩マッサージ屋さん。
インパクトのあるR(アール)あんま乳房マッサージの看板。
こちらが出入り口のようです。
参考文献
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潮江橋から見る鏡川河畔(高知市天神町)は、観光ホテルとラブホテルとが混在し、奇妙な風景をつくりだしてています。*1
派手な色のラブホテルの建物。
古城を模した建物もあります。
夜になると、鏡川におちるネオンの影が美しい夜景を演出します。
高知市南はりまや町にある料亭「得月楼」は、宮尾登美子著の「陽暉楼」の舞台なった料亭です。*1
創業者の松岡寅八は、幼年時代から商売を仕込まれ、明治5年に独力で陽暉楼をはじめ、更に得月楼を創業(明治11年・1878・谷干城命名)。後に本店を稲荷町に移し、中店を浦戸に置いて、数カ所に出店して発展させました。現在の得月は中店です。*2*3
見事な庭園。
昼のランチはリーズナブルな価格で、個室でゆっくりできます。
参考文献
*1参考記事
かつての青線街「掛川町」※1 は、現在の堺町8,9,11,12,13付近と思われ、1983年の住宅地図を見ると、スタンドやスナック、トルコ風呂などが密集しています。*1
写真の左手前の交差点の角(現在は駐車場)には、スタンド朱美、スタンドひとみ、スタンド姿、がありました。
スタンド小吉の建物。
昭和33年の売春防止法施行以降、掛川町の特飲街は、旅館、スタンドなどに転業し、従来通りの賑わいを呈していました。(この建物が青線であったかどかは不明です。)*2
かろうじて「小」の文字が残っています。前回(2014年)、この付近を歩いたときの記憶では、「一品料理 スタンド小吉」と書かれていたと思います。
料亭の建物を思わせる2階部分。
参考文献
*1参考記事
※1高知(掛川町)青線があった地域今回は、高知(高知県高知市)の町並みを散歩します。
高知市の掛川町は、かつて青線(非公認の特飲街)があった場所です。*1
現在はソープランドなどが建ち並ぶ風俗街になっています。
旧町名の掛川町の案内板。案内板によると、「掛川町」は、関ヶ原の合戦後、山之一豊が掛川(現在の静岡県掛川)から入国のとき、職人を移住させたことに由来する地名です。
青線があった時代は、玉水町の赤線※1※2※3と並んで、掛川町の青線と呼ばれていたようです。売春防止法施行により、赤線と青線は解散しましが、掛川町の青線については、半年後街娼がみうけられるようになり、転業した旅館のほとんどが連れ込み宿でした。*1※4
現在の町名は、堺町です。
「掛川」の電柱番号札。
参考文献
*1参考記事
※1高知(風俗街の中のビジネス旅館)堺町※2高知(旧玉水新地の用水路)小さな橋がいくつもかかっています※3高知(玉水新地)スナックの建物※4高知(旧玉水新地の旅館)夜も営業中です。この記事を参照している記事
JR鳴門線撫養駅(鳴門駅の一つ隣)の東側の交差点。
古いスナックの建物があります。
スナック「青い鳥」。
現在は、休業中のようです。
参考文献
参考記事
ボートレース鳴門近くには、昔ながらの大衆食堂が2軒あります。1軒は「うれしや食堂」※1 、そして、もう1軒がこちらの「うずしお食堂」です。
徳島ラーメンが名物のようです。
店内のショーケースには、小皿に取り分けられた料理。
徳島ラーメンを注文。
参考文献
参考記事
前回※1 も散歩した撫養町南浜東浜の飲み屋街。コンクリゴミ箱が設置されています。
隣には、ポリバケツのゴミ箱。新旧のゴミ箱が並んでいます。
保存状態良好です。
きちんと清掃されています。
鳴門駅の北側。住宅街の中にある銭湯の東湯。
鳴門市撫養町小桑島日向谷。看板には、「桑島 東湯」とあります。
現在は、休業中のようです。(貼り紙有り。)
煙突には、「東温泉」と書かれています。
参考文献
参考記事
林崎遊廓の起源は、近世末の商人船の多く出入る湊が賑わっていた頃にさかのぼります。松富楼、玉川楼、改進楼、菊水楼、村上楼、金時楼、喜楽楼、丸山楼、衆景楼、がありました。*1
現在、遊廓地の面影はありませんが、所々に大型の民家が残っています。
「一心」という屋号だった建物。*2
昭和4年の市街図*3によると、遊廓地は、道路を超えた東側にも広がっていたようです。(写真奥は撫養城)
参考文献
*1参考記事
今回は、鳴門(徳島県鳴門市)の町並みを散歩します。
鳴門の撫養(むや)川岸の林崎花街※1 は、芝居小屋の清光座(戦後は映画演劇専門館)を中心にして、料亭、旅館、が建ち並んでいました。*1
高松家(高松席、のちの高松旅館)、みよし野(みよし亭)があったあたり。道を挟んだ反対側(写真左側)に「陣幕支店」「清光座」「八木亭」がありました。*1*2*3
古い建物も残っています。
旅館だったと思われる建物。*2。
元置屋の「陣幕」*1 と思われる「旅館陣幕」があったあたり*2
参考文献
*1参考記事
※1鳴門(花街跡)撫養町林崎小作駅前の飲食店ビル。このビルの1階に無料案内所が入っています。
かつての小作は、奥多摩方面では、数少ない風俗店のある町でした。*1
ビルには空き店舗もあるようです。
無料案内所。
派手な看板が乱立しています。
参考文献
参考記事
今回は、小作(おざく、東京都羽村市)の町並みを散歩します。
JR青梅線小作駅東口周辺には、居酒屋やパブ・クラブが入居する雑居ビルが乱立しています。
西方向にある巨大風俗ビル。
ラーメン屋などの飲食店が入るビル。
大通り沿いの大型ビル。
参考文献
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福生の旧赤線街のメインの通り*1※1 の東隣の通り。道幅の狭い通りにスナックが密集しています。
通りの奥まったところ。
趣のあるの和風スナック。
南端は、メインの通りと繋がっています。
参考文献
*1参考記事
※1福生(旧赤線街)昼間はほとんど人通りがありません。福生のスナック街の東側。古いホテルが建っています。神社が隣にある不思議な空間です。
「ホテル徳川入口」の看板。
神社から逆方向を見たところ。ホテルの裏側は段丘になっていて、建物は連続しています。
丘の上のホテルは、近代的なホテルに生まれ変わっています。
参考文献
参考記事
福生駅から東福生駅へ向かう五差路。
交差点の角には、かつて横田トルコがありました。現在は駐車場になっています。
1970年の住宅地図*1 によると、横田トルコには、「トルコレストラン」が併設されていました。
横田トルコの西隣には、横田ニューゲストホテルがありました。*1
牛浜駅の東側にある「福生アメリカンハウス」は、1958年に建てられたアメリカンハウスを使ったコミュニティスペースです。*1
内装も50年代当時の雰囲気が再現されています。*1
当時の珍しい写真も展示されています。
外人バー街には、空地があり、そこにはいつもアメリカ人の車が駐車していた。(解説文より)
今回は、福生(東京都福生市)の町並みを散歩します。
朝鮮戦争の頃の米国本土からの米軍人家族移住策により、基地内における米軍人家族用の新規居住が困難となったため、1951年、当時の基地の司令官が、米軍人家族用の一戸建て賃家である「ハウス」の建設を福生市に要請しました。これが、アメリカンハウスです。*1
ハウスは、米軍によって規格化された平屋の一軒家で、全室が洋間であることと、平均10畳のリビングと庭があることを特徴としていました。*1
外壁は、水色やピンク色に塗装されています。
最近は、店舗に転用されている事例もあるようです。
参考文献
*1参考記事
江戸東京たてもの園には、展示室があって、「看板建築展」開催中です。
看板建築は、関東大震災後、人々は、自力でバラックを建て始めましたが、このとき、バラック美しくする活動(今和次郎など)や建築家のデザインにりょう仮設商店などが建ち始め、これが後の看板建築につながったそうです。*1
本来、2階建てであるべきところ、少しでも広く使うために屋根裏部屋を設けた事例の模型が展示されています。*1
こちらは、ほぼ完全に3階建ての建物。
中央区月島の旧玩具店の建物に飾られていた、だるまの部分が移設、展示されています。
参考文献
*1参考記事
この記事を参照している記事
江戸東京たてもの園に移築されている居酒屋の「鍵屋」。
鍵屋は、1856年(安政3)に居酒屋として建てられ、その後、明治から大正、昭和初期まで酒の小売り店を営み、戦後の1949年(昭和24)、本格的に居酒屋として営業を始めました。金杉通りと言問通りがぶつかる角近くにあり、地の利に恵まれていました。*1
戦後の「酒はカストリ」の時代から店のメニューはしだいに増え、鰻の子のくりから焼き(=うなぎの串)や煮奴(にやっこ)、味噌田楽などそれぞれの肴が絶品と言われました。主人の清水幸太郎氏は無口で黙々と仕事をし、この店では女性だけの客、飲みすぎの客は断られました。
木製の熱燗機。
カブトビールのポスター。
カブトビールは、明治時代に、既存4大ビールメーカーに挑戦した愛知県半田市のビールです。*2
参考文献
*1参考記事
この記事を参照している記事
江戸東京たてもの園、丸二商店の建物。
銅板で装飾された看板建築の建物です。*1
建物脇の路地も当時の情景が再現されています。
防火用水とゴミ箱。
木製ゴミ箱。コンクリ製ゴミ箱と形状は同じです。
参考文献
*1参考記事
JR中央線武蔵小金井駅北口からバスで5分。小金井公園の敷地の中に、江戸東京たてもの園があります。
江戸東京たてもの園は、1993年、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目的に開園しました。*1
商店などの建物が建ち並ぶ東ゾーンの奥にある銭湯の子宝湯。1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられました。*2
格天井(ごうてんじょう)など、脱衣場は日本の伝統建築の空間。浴室はタイル張りなど、洋風の雰囲気が強い、いわゆる「東京型銭湯」の特徴*2 を持ち合わせています。
ガラス戸を介した縁側。*2
参考文献
*1参考記事
東京学芸大の東側。道路沿いを進むとまるで軍艦のような外観の煙突を持つ建物が現れます。
鉄筋コンクリート3階建てです。
建物は、工事用事務所も兼ねているようです。
雑然とした感じの銭湯の入口。
参考文献
参考記事
今回は、武蔵小金井(東京都小金井市)の町並みを散歩します。
JR中央線武蔵小金井駅北口を出て約300m。けいやき通りに映画館の名画座がありました。*1
名画座は、ふとん店の東隣の敷地にありました。
1970年代は、主にポルノ映画が上映されていました。
1977年の雑誌「ぴあ」を見ると《田中絹代さんを偲んで》と題し「サンダカン八番娼館・望郷」が上映されている他、《日活ロマンポルノ決定版》では、宮下順子さんや谷ナオミさんの作品が上映されています。*2
現在は、駐車場になっています。