錦糸町駅の南側。錦糸堀公園裏から首都高速7号線にかけて、錦糸町のラブホテル街が広がっています。中でも竪川第一公園沿いの通りは、高級感のある建物が建ち並びます。
北側の通り。ホテル街のメインの通りです。
錦糸町には、珍しい和風の店。
夜の様子。
錦糸町駅の南側。錦糸堀公園裏から首都高速7号線にかけて、錦糸町のラブホテル街が広がっています。中でも竪川第一公園沿いの通りは、高級感のある建物が建ち並びます。
北側の通り。ホテル街のメインの通りです。
錦糸町には、珍しい和風の店。
夜の様子。
錦糸町駅南側の国道14号線沿い。花壇街と書かれた緑色の看板があります。
飲食店街の「花壇街」です。
1階が花壇街となっている高層マンション。(錦糸堀公園からの遠望)
居酒屋がスナックが営業中です。
今回は、錦糸町(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
錦糸町駅の北口の駅前ロータりーから道を1本入ったところ、繁華街の中に旅館の建物があります。建物の屋上には、旅館「草分け」のネオン看板。
1階に焼き鳥やが入る交差点の角の建物の西側の建物が、旅館「草分」けだったのでしょうか。
旅館草分。
1階の焼き鳥屋は、現在も営業中です。
烏森神社前の通りから南側へ一本入った通りんには、わずかに花街だった頃の雰囲気が残っています。
写真の「たきもと」は、戦後の火災保険地図*1 では「多㐂本」と記されています。
創業明治27年の「古今亭」。*2
夜の烏森神社前の横丁。
この付近(写真中央の「すしざんまい」があるあたり)には、新橋芸妓組合がありました。*1
新橋駅ガード脇に、屋号の表示の無い謎のビルがあります。
18禁マークがずらりと貼られています。
入口。店の屋号の表記はありません。2階が入口です。
近くにもう一つ、18禁マークだけの看板。こちらは地下1階です。
今回は、新橋(東京都港区)の町並みを散歩します。
新橋南地花街は、明治5年の銀座の大火で、金春付近にあった芸妓置屋が汐留川より南の烏森方面に引っ越したのが始まりです。*1
写真左手前にある「末源」は、明治42年創業の老舗です。*2*3
新橋南地花街(烏森花街)は、元は、同じ花街で、新橋駅を境に、煉瓦地芸者(京橋)と南地芸者(新橋)と芸者街が二つに分かれていたものが、大正11年に分離して「烏森」あるいは「新橋南地」となったものです。*4
烏森神社前の参道。平成13年頃までは、両側理に飲食店が建ちならんでいましたが、現在、左側は整備されて飲食店はありません。*1
参道右側に、わずかに残る飲食店。
月島西仲通り商店街※1 の北側に位置する佃島は、関東大震災にも第二次世界大戦にも被害を免れた。昔ながらの下町の面影を残す地域です。*1
佃小橋から大きな煙突付きマンションが見えます。
近くには「つり船」の店。
ビルの1階が銭湯です。
大栄マンションの東側は堀(佃川支川)です。
月島三丁目。もんじゃストリートから通りを入ったところ。
和風の建物。
沢の鶴の看板。和風スナックなので、日本酒でしょうか。
月島の商業の発展*1 とともに、歓楽街的な要素も出現したのだと思われます。
西仲通り商店街(もんじゃストリート*2)は、日露戦争後の人口に伴い、自然発生的にできたもので、道の真ん中に露店が出ていたのが特徴でした。*1
西仲通り商店街には、2階部分に昔ながらの屋号が残っている「看板建築」商店が残っています。*2※1
一歩路地に入ると、昔ながらの生活空間の雰囲気が残っています。
渡り廊下のある路地。
最近は、開発が進み、周辺は高層マンションが林立しています。
築地7丁目のアパホテルのある通り。
純和風の旅館があります。
周囲は、高層ビルが建ちち並びます。
丸い竹に書かれた「旅館大宗」
築地市場の東側。築地6丁目、7丁目付近には、看板建築が多く残っています。
こちらの商店だったと思われる建物は、正面から見ると2階建てです。
背面から見ると、屋根裏部屋部分*1 は、3階建て部分であることがわかります。
こちらも正面は2階建て、横から見ると3階建てです。
三角屋根部分が3階部分になっている食品会社の建物。
築地場外市場。豊洲移転後も賑わっています。
古い建物が建ち並びます。
築地場外市場の中にある円正寺。寺院の建物と市場の建物がつながっているように見えます。
最近、火災で焼失した付近。マンサード屋根を持つ3階建ての建物です。
築地2丁目の通り。現在はビル街ですが、かつては築地の花街の中心部だったあたりです。この付近には、待合の「常盤」、料亭の「国の家」「米田中」がありました。*1
ビル街の中の一軒家。
現在も営業中です。
入口の丸窓。
今回は、築地(東京都中央区)の町並みを散歩します。
築地場外市場のある市場橋交差点の角にある「新喜楽」は、芥川賞や直木賞の選考会場としても有名な築地の料亭です。新橋花街の中では、戦災で被害を受けなかったうちの1軒でした。*1
高い塀が続きます。
表札は、「割烹」となっています。
裏口。
江東区亀戸7丁目にある亀七通り。インパクトのある大看板。
看板の派手さに比べると、通りは殺風景です。
飲食店の他、商店が建ち並びます。
反対側(国道14号線沿い)のゲート。
亀戸天神裏。ビルの間の生活用の通路。
人目につきずらい幅の狭い通路です。
犬の糞禁止の張り紙。
反対側にも同じ張り紙が貼られています。
亀戸の旧赤線区域。特殊喫茶店「大福」があった場所に建つ蕎麦屋の建物。
3階建てだと思いますが、4階建てにも見えます。
1階は、蕎麦屋さん。
ざる蕎麦を注文しました。
亀戸の旧銘酒屋街。
「赤線跡を歩く」*1 で紹介されている「可憐な概観を持つ建物」が現在も残っています。
当時は、建物の左上部分に「双葉」と書かれていました。*2
タイルの装飾をコンクリートでくりぬいたような窓のデザインは同時のままです。*2
奥行のあるアパートの建物。
かつて、亀戸天神裏の通りには、三業地が広がっていました。*1
料亭「寿々代」。
以前は、この建物の東隣の交差点の角にありました。*1*2
旧三業組合の建物※1 の隣にある料亭「七福」。
写真左手には、数年前まで、富久家の建物*1*2※2がありましたが、現在は更地になっています。
今回は、亀戸の町並みを散歩します。
亀戸天神社裏のこの通りは、かつては、料亭が建ち並ぶ亀戸花街の中心部でした。*1
城東三業組合事務所(見番)があった建物。*2
現在は、亀戸三丁目自治会館として使われています。
この通りの北側が旧亀戸の赤線地帯です。
かつて男坂の途中には、料亭「開化楼」の高楼がそびえたっていました。*1
現在、男坂の途中には、オフィスビル「KAIKA」が建っています。
料亭「開化(新開化)」があったたり。
料亭「開化」の前には、神田芸組合の事務所が建っていました。*1
写真奥は、神田川本店がる方角です。※1
神田明神下の南側の一画にある神田川本店。美しい黒板塀のある老舗料亭です。
創業は文化2年。代々受け継がれている辛口のタレは、江戸幕府の賄い方だった初代が万世橋の際で開いたときからのものだそうです。*1
神田川本店の裏手の路地。このあたりは、かつての花街のころの雰囲気が残っています。
現在は、神田川本店の倉庫となっている一画。
かつて、神田明神下同明町に花柳界があって、この三業地を俗に講武所、ここの芸者を講武所芸者と言いました(講武所とは、幕末に創設された幕府の武術教育所のこと)。*1
花街のことを「講武所」と呼んだのは、
・講武所の運営費捻出のため、現在の秋葉原駅の万世橋通り付近の土地を町屋に編入して地代を取るようになり、安政期(1854-59年)にこの地に芸者が姿を現したため、講武所芸者と称されるようになった。*2
・旗本、御家人などの二男・三男が武芸鍛錬のため講武所へ行くと言って家を出てここで遊んでいたとか、客に講武所の生徒が多かったため、*1
など諸説あります。
また、明治3年)頃に、芝居茶屋が出現し、同時に草分け芸者が生まれ、花街となった。*3 とする説もあります。
男坂の通りの北側の通りにある料理屋。右側の建物もかつての料理屋です。
料理屋「あら喜」
元料理屋の建物。
「章太郎」は、明神したの艶っぽさを残す名店です。*2
JR御茶ノ水駅の北側の外堀通り。神田川沿いに建ち並ぶ4階建ての建物※1 の裏側にあたります。
「玉台家具製作所」の木製の文字看板。昔は、ビリヤード台のことを「玉台」呼んでいたようです。
創業50年の老舗ビリヤード場です。*1
カラフルな看板。
今回は、神田明神下(東京都千代田区)の町並みを散歩します。
JR御茶ノ水駅の東側。神田川に架かる聖橋からみたJR総武線、JR中央線、地下鉄丸の内線が立体交差します。ずっと眺めていても飽きない景観です。
昌平橋から聖橋方面の遠望。
川沿いに4階建ての建物が建ちならんでいます(JR御茶ノ水駅より)。
ビリヤードの建物。