すべてのジャンル > 娯楽・レジャー > 行楽・観光 浅草公園 1フランス座 2ロック座 3仲見世 4凌雲閣 5初音小路 6古物商店 7浅草世界館 8浅草寺の公衆トイレ 9浅草観音温泉 10浅草観音温泉 11花やしき
0.0036930000000055 大分類: 中分類:枝分類tokyo50 folder:tokyo50/00 ラスタ地図1:新吉原てすとpng ラスタ地図2:浅草公園之圖png 43789ベクタ地図1:江戸切絵図 43495ベクタ地図2:浅草公園区割り図

銘酒屋の誕生

銘酒屋の誕生は、十二階の開場よりも以前に遡る。明治18年(1885年)に奥山の見世物小屋や料理屋が六区へ移されたとき、奥山に8軒の銘酒屋が出現した。この銘酒屋は明治24、5年頃には発展の翼を東京市中へ広げていき、音羽の護国寺、谷中の寺町、深川、本所、本郷の丸山福山町、などに撒き散らされた。これら東京市中に散在していた銘酒屋は、明治30年ごろには浅草へ集められ、浅草の銘酒屋は70数件に増えた。そのあと、明治34年から40年頃にかけて銘酒屋普及時代で、100軒以下だったものが、わずか5、6年のうちに一躍数百件の多きに達した。東町の両側までのほとんどが私娼の巣窟で満たされるにいたり、さらに明治末から大正6年、7年の好況時代にかけて、魔窟の拡大はよりわら遊廓を圧倒する勢いを示した。最盛期の大正5年には、「浅草公園には870何軒かの淫売屋が密集し、1700人の私娼群が北東京の一Ⅰ中心を作って、五区の観音裏、六区の活動裏、十二階下の千束町一帯の、陰惨な路地の両側には、世を忍ぶ新聞縦覧所、和洋銘酒の軒灯が、トンネルのようにずらりと並んでいた。」(浜本浩二「浅草の灯」)。この最盛期には、「浅草区役所の収入の大部分が、彼女達の納むる税金で持っていた。」(夢野久作「東京人の墜落時代」)ともいう。十二階下の銘酒屋は、「六区といえば銘酒屋」といわれたくらい、日本全国津々浦々まで知れ渡っていた。

公園制度の誕生

1873年(明治6年)、政府(太政官)から出された布告(「府県は公園に見合う土地を選定して申し出よ」という通達)が公園制度の発祥である。これに従って、東京府は太政官に対して、浅草寺(浅草公園)、寛永寺(上野公園)、増上寺(芝公園)、富岡八幡宮(深川公園)、飛鳥山(飛鳥山公園)の5カ所を公園として伺い出、同様に各府県からも伺いが出された。その公園とは、開国にともない、横浜や神戸などの居留地に外国人が設置を求めた公園(野外レクレーションの場)やいくつかの使節団が見聞した海外の情報から得られた西欧の公園がモデルになったとみられている。しかし、布告の本質的なねらいは、明治6年7月から始まる地租改正にともなう官民の土地所有の峻別化(土地所有者が不明確であった社寺境内地に公園という土地種目を設定することにより、官有ながら社寺の経営を認め、土地を貸して借地料・地方税をとることにできる地目とすること)にあった。たとえば、「浅草公園」では、仲見世などから得た借地料が、東京市の重要な財源となった。

凌雲閣(十二階)開場

凌雲閣(十二階)は,明治22年(1889年)10月に建設計画が発表され、十二階は、明治23年の4月から7月にかけて上野公園で開催された第三回内国勧業博覧会の遊覧客をあてこんで同年の1月に建設が始められていたが、予定より大幅に遅れて、博覧会が終わってから4か月後の同年11月に、ようやく開場に漕ぎつけた。そのかわり、遅れた分、十二階の内部デザインには博覧会のレトリックが大幅に取り入れられることになった。十二階は、上野の「博覧会の祝祭的な部分だけをきりはなして常設化した巨大なあアソビの空間」(前田愛「塔の思想」)であったのだ。

「公園出稼仮条例」布達

(戊辰戦争時の)上野の戦争で山下(上野山の東側の麓一帯)を追われた諸興行場が奥山にながれこみ、浅草公園の奥山の出店・小屋掛けの総数は250を超えていた。(やむなく、現状を認めるかたちで、)明治11年10月12日に「公園出稼仮条例」が布達され、従来の奥山の門限(午後6時)の延長(午後12時)が規定されたが、これは、楊弓場(ようきゆうば)や水茶屋などの”今日でいう風俗営業”に属する者には口実を与えたことになり、深夜営業のその結果は、後年の浅草公園が背負う暗影の一因となった。

浅草(浅草寺の公衆トイレ)夜間専用。美しい石に放尿。

浅草寺の公衆トイレ。利用時間は、6:00~20:00。夜間は利用できません。

公衆トイレの建屋の脇に設置されている夜間専用トイレ。

箱庭のような美しさです。

立小便専用の男子トイレで、庭石のように美しい石に向かって気持ちよく放尿できます。

浅草(花やしき)日本最古の遊園地。150年以上前に植物園として誕生。

浅草五区にある遊園地の「花やしき」。
花やしき(花屋敷)は、150年以上も前に、楽しむための植物園として誕生したものでした。*1

「Beeタワー」「ヘリコプター」「スカイシップ」など、レトロな雰囲気を味わえる遊園地として存続しています。

花屋敷は、嘉永6年(1853年)に向島百花園の例にならって開園し、園内には「新登亭」という料理屋もありました。広重もこの花屋敷を画材としてとりあげています。*2

明治時代、花屋敷の新たな経営者となった山本金蔵は、明治20年、本所の材木商が所有する木造瓦葺き五階屋を一棟買収し、花やしきへ移築、「奥山閣」として公開し、凌雲閣(浅草十二階)*4 と人気を二分する浅草の新名所となりました。*1
明治30年刊行の「新撰東京名所図会」*3 によれば、「室内には、唐草模様を染めなせし紅の毛氈 (もうせん)一面に敷詰め、左右紫壇の床柱には、巖に瀧、松に雲を彫刻...」とあり、外観だけでなく内部も壮麗だったようです。

【参考文献】
*1 小沢詠美子:江戸ッ子と浅草花屋敷(小学館,2006)口絵,P.170-P.173
*2 内山正雄,蓑茂寿太郎:東京の遊園地(郷学舎,1981)P.3-P.5
*3 宮尾しげを:新撰東京名所図会 浅草公園・新吉原之部(睦書房,1968)P.83
【参考記事】
*4 風俗散歩(浅草):凌雲閣(浅草十二階)

浅草(フランス座)浅草六区。元ストリップ劇場。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
浅草六区の交差点の角に「浅草東洋館」と「浅草演芸ホール」が併設された建物(写真左側)が建ちます。

渥美清やビートたけしなど、数多くの役者や芸人を輩出した「浅草フランス座」が平成12年より「浅草東洋館」として生まれ変わりました。(案内板より)
フランス座は、昭和26年にオープン。昭和34年に東洋劇場として、軽演劇とショーとストリップとなりましたが、昭和39年、寄席とストリップとなりました。*1

浅草フランス座出身の芸人。

昭和23年以来、浅草ロック座の楽屋へ通い続けた永井荷風は、昭和28年にフランス座の楽屋を初めて訪れています。*2

【参考文献】
*1 佐藤洋一:あの日の浅草(武揚堂,2007)附図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.232

浅草(古物商店)モガモボ御用達。大正ロマン。

浅草寺の西側に、「モボモガ御用達」と書かれた看板があります。

路地を進んだ先に古物商店の入口。

大正ロマンを切り口にした骨董店です。*1
店内は写真撮影OKとのことです。

地下の売り場にある白黒テレビ。

【参考文献】
*1 東京蛍堂ホームページ

浅草(ロック座)昭和22年にオープン。初代座長は伴淳三郎。

ロック座は、昭和22年にオープンし、23年よりストリップを開始し、昭和58年に休館となりますが、その後復活しました。*1

経営母体を替えながら、今でも同じ場所場所で営業を続けているストリップ劇場です。*1
昭和20年代に次々と造られた浅草のストリップ劇場は、浅草座や美人座などストリップ専門の小屋もありましたが、ロック座は、ストリップショー1時間半に軽演劇1時間という時間割を定めて演劇に力を入れていました。ロック座の初代軽演劇部門の初代座長は伴淳三郎でした。*2

女性は、割引です。

懐かしいアイスキャンディー売りの自転車がとまっていました。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.37,付録地図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.207

浅草(浅草世界館)顔ハメ看板。本日オールナイト。

浅草の六区ブロードウエイ商店街にあるアダルト映画館の浅草世界館。

入口には、映画のポスタが並べられています。

ちょうど、アダルト映画のポスタがバックに入るアングルに、記念撮影用の顔ハメ看板が設置されています。

「本日オールナイト」の看板。

浅草(初音小路)藤棚は瓢箪池の名残。長屋の飲み屋街。

凌雲閣(浅草十二階)があった時代、塔に登ると南東方向にはひょうたん池が見えました。現在のJAウィンズのあたりがひょうたんの頭で、六区交番あたりがひょうたんの胴にあたりました。頭と胴のあいだはくびれていて、そこに紐をかけるようにぎざぎざと橋が渡され、結び目のような浮島につながっていました。浮島には茶屋があって、島に渡された橋には藤棚がありました。*1

現在、ひょうたん池のあった場所は、初音小路と呼ばれる飲み屋街になっていています。

長屋に飲み屋が建ち並んでいます。

現在の初音小路の藤棚は、ひょうたん池があった頃の藤棚の名残です。*2

【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.38-P.40
*2 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.34

浅草(凌雲閣)別名「浅草十二階」。銅版の碑。

浅草の六区ブロードウエイ商店街。

現在のウィンズ浅草のあるあたりから西側は、昭和の初期までは、浅草公園があった場所で、ひょうたん池と呼ばれる大きな池があり、ブロードウエイ商店街のつきあたり(現在、パチンコ店がある場所)には、明治・大正時代、凌雲閣(りょううんかく)がありました。

最近になって、パチンコ店の前に凌雲閣の銅版の碑が設置されました。

東京タワー、東京スカイツリーと並んで、東京三大ツリーと呼ばれているそうです。

凌雲閣、またの名を(十二階建てだったので)「浅草十二階」は、高さ52mの高塔で、東京タワー(333m)のわずか6分の1以下の高さですが、明治一の高塔で、東京のランドマークでした。現在のタワーから比較すれば、低い塔である凌雲閣からの眺めは近景を見たときに人の形がはっきり分かる程度で、つまり、その展望台は、「人をみるという感覚」「人に見られるという感覚」を感じることのできる「適切な低さ」を持っていました。石川啄木の明治41年8月21日の日記には、浅草十二階から望遠鏡で下を見下ろしたとき、細い小路で男が淫売婦に捉るところが見える」という話が書かれています。1
「路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、”チョイト” ”様子の良い方” ”チョイト、チョイト、学生さん” ”寄ってらっしゃいな”」
当時、東京の私娼窟の中心は、浅草十二階下界隈でした。私娼4,000人(吉原の登録娼妓数2,409名の約1.7倍)、銘酒屋、新聞縦覧所(取締の目を逃れるため密淫売業者が編み出した業態カムフラージュの一つ)、小料理店の名目で、私娼を抱える店は700店に及んでいました。
2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.8-P.11,P.236
*2 竹村民郎:廃娼運動(中央公論社,1982)P.63

浅草(浅草観音温泉)バンビさんは動きません。

浅草観音温泉に入ってみます。
銭湯は、男湯と女湯の入口が分かれているのが普通ですが、ここの銭湯の入口は一つです。ロッカーがたくさん並ぶ廊下を過ぎるとその先で、男湯と女湯の入口があります。

バンビの乗り物があります。しかし、横には、「バンビさんは動きません。」の貼紙。

脱衣所にある「マナーのお願い」の貼紙。

コンクリート造りで、天井が高いのが印象的です。天井は緑色、柱は赤色に塗られています。中央に円形のタイル張りの湯船があり、タイルで人魚の姿が描かれています。

浅草(浅草観音温泉)蔦の絡まる銭湯。男は黙ってサッポロビール。

浅草寺本堂の前を西へ向かうと浅草観音温泉の建物が見えてきます。建物の屋上には、「浅草観音温泉」と書かれた大看板があります。
左に、浅草ビューホテル、右に花やしきのタワーが見えます。

蔦の絡まる銭湯。

「男は黙ってサッポロビール」の看板。三船敏郎のCMが懐かしいです。

入口の横に、「極端に不潔な方、入場お断り」の貼紙があります。

浅草(仲見世)水茶屋は、江戸時代の流行の発信基地でした。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、明暦の大火により元吉原の遊廓が現在浅草寺の後方に移されたことによって、浅草寺界隈は人手で賑わうこととなりました。

仲見世の風景。

さまざまな店が並び、賑わいを見せています。

仁王門近くに、江戸時代に水茶屋が建ち並び賑わっていたことを示す案内板があります。
表参道が吉原通いの主要通路であったことが、境内の繁栄につながり、参道に沿って水茶店が出現し、水茶屋女が評判となるようになりました。
当時の水茶屋女の容姿の代表的なものとして、衣装には贅を尽くし、特に前掛けに工夫をこらし、江戸の流行の原動力となりました。

【参考文献】
*1 上坂倉次:あさくさ仲見世史話 門前町繁昌記(浅草観光連盟,1985)P.27-P.38