浅草橋(花柳街跡地)墨田川沿い。現在はビル街に。

かつての柳橋の花街は、墨田川沿いにありました。
「昭和37年の柳橋マップ」*1 によると、この通りの東側(写真左側)に、「料亭深川亭」「料亭子安」「料亭卯の木」「料亭はやし」「料亭津久松」「料亭柳水」がありました。

佃煮屋の「小松屋」のマーク

反対側(南側)から。

墨田川からの遠望。現在はビルが建ち並んでいます。

参考文献

*1 西本頑司 柳橋 花柳界盛衰譚 日本文芸社 荷風!vol.12
P.34 昭和37年の柳橋マップ 墨田川沿いに、北から「料亭深川亭」「料亭子安」「料亭卯の木」「料亭は…

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芸妓屋・料亭・カフェー 柳橋1丁目

関連記事(「歓楽」「台東区」)

浅草橋(花柳街跡地)墨田川沿い。現在はビル街に。
浅草(料亭都鳥)花街の名残。新しいビルに建て替わっています。
浅草(料理店「一直」)明治十一年の創業の老舗。
浅草(浅草三業会館)銅メダル獲得記念樹。
浅草橋(柳橋の花街跡)現在はビル街。当時の料亭と思われる建物。
浅草(芸妓屋街)昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画。
浅草(かつての私娼街)「猿之助横町」の碑。
吉原(浅草ホテル跡)1993年頃まで営業。
吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差。
根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。
吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷。
吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石。
吉原(大文字楼跡地)吊橋があった場所。現在は吉原公園。
吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。
吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。
吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。
浅草橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。
浅草橋(料亭)花街時代の料亭が今でも健在です。
吉原(伏見通り)旧金よしは、さら地になっていました。
吉原(旅館)売春防止法施行後の転業旅館。
吉原(京町二丁目と角町の間の通り)昔の建物が残っています。
吉原(旧「金よし」)転業アパートが軒を連ねます。
吉原(赤線跡)装飾が美しい建物です。軒下にランプ。
吉原(坂井旅館)吉原観光旅館組合員のプレート。
吉原(マスミ)屋号が大きく書かれています。伏見通り。

関内(料亭「富貴楼」跡地)現在は中小企業センター。

関内駅の南側の国道16号線沿のオフィス街。

神奈川中小企業センターのビルがある場所には、明治時代、新宿の遊女だったお倉が明治時代に開業した料亭「富貴楼」がありました。

お倉の才覚により、伊藤博文などの明治の元勲たちが集まり、富貴楼は、政治と経済の中心となりました。*3

桜木駅方向から。屋上が丸くなっているビルが、神奈川中小企業センターのビルです。

【参考文献】
*1 鳥居民:横浜富貴楼お倉(草思社,1997)P.9

日立(旭町花街跡地)三業組合がありました。

旭町が花柳界として賑わい始めたのは、大正4年頃からで、助川駅(現在の日立駅)の周辺には、旅館、料理店、芸妓置屋が出来、この辺一帯は、海水浴場と共に、日鉱・日製社員等の憩いの場所となりました。三業組合ができて本格的な三業地として世に知られるようになったのは昭和4年頃から7年にかけてでした。*1
日立三業組合があったあたり(写真右奥)は、現在は駐車場になっています。

明治時代からあった旅館「天地閣」は、現在はホテル「天地閣」になっています。

天地閣の北側(写真手前)には、割烹旅館「うめかわ」がありました。

天地閣脇の路地。

参考文献

*1 日立市老人クラブあさひ睦会 旭町の今昔 終戦時まで 1987
P.40 旭町花柳界(その一) 旭町が花柳界として賑わい始めたのは、大正4年頃からである。大正3年8月…

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芸妓屋・料亭・カフェー 旭町二丁目

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日立(旭町花街跡地)三業組合がありました。

下館(稲荷町の花街跡)崖の上からの遠望。

下館の羽黒神社※1 の東側に位置する稲荷町は、かつては繁華街でした。*1

この付近に大きな料亭の建物*2 がありました(写真右側)が、現在は取り壊されています。

崖の上からの遠望。

反対方向(南側)から。

参考文献

*1 下館市史編纂委員会 下館市史 下巻 大和学芸図書 1982
P.363 下館の接客業 料理・待合 大正のはじめごろ(1913)羽黒神社を中心として十軒町、大町、薬師町に…
*2 花街倶楽部 名残の花街 写真集 北関東編 花街文庫 もう一つの花街を訪ねて : 写真集 北関東編 2019
下館花街 料亭の写真(住吉本店)。 木綿や紬などを扱う商業の町・花街も自ずと栄えた。時代の流れか名…

参考記事

※1 下館(羽黒神社の燈篭)洲崎遊廓の楼主が寄進。2019-12-21

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芸妓屋・料亭・カフェー

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下館(稲荷町の花街跡)崖の上からの遠望。

八王子(八王子三業組合)敷地には三業稲荷。

花街があった中町の西隣の南町。

八王子三業組合の建物があります。

提灯。

三業会館の奥にある「三業稲荷」。

八王子(置屋「ゆき乃恵」)風情のある柳の木。

料理屋「すゞ香」*1 の北側。

黒塀に囲まれた置屋の「ゆき乃恵」。

建物脇の柳の木。

近くには、昭和30年代の花街の地図が掲示されています。

八王子(八王子花街)現役の花街。織物業で栄えた町。

今回は、八王子(東京都八王子市)の町並みを散歩します。
かつて、織物業で栄えた八王子には、明治時代から花街がありました。現在も現役の花街として、中町には、料理屋が営業中です。

近年、黒塀が整備されるなどして、花街の風情が復活しました。

「すゞ香」は、当時の芸者衆の待合だった建物を改築したもので、今でも当時の面影が残っています(「すゞ香」の張り紙より)。

「八王子花街・黒塀通り」の説明書き。

大宮(高級料亭「萬松楼」跡)現在は動物園・遊園地。

大宮公園の園内にある動物園・遊園地。

遊園地(児童スポーツランド)。

動物園が隣接しています。

現在の動物園から遊園地にかけての一帯は、高級料亭「萬松楼」があった場所です(案内板より)。
萬松楼は、敷地内に鉱泉を掘り当てたことから明治二十一年に開業した料亭・旅館です。明治二十四年十月には正岡子規と夏目漱石が滞在しました。*1

参考文献

*1 沼田尚道 「青年」に描かれた大宮公園 森鴎外記念会 鴎外(97) 2015.7
六 萬松楼と八重垣
P.59 萬松楼は、敷地内に鉱泉を掘り当てたことから明治二十一年に開業した料亭・旅館で、大宮公園内に在…

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芸妓屋・料亭・カフェー 高鼻町四丁目

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大宮(高級料亭「萬松楼」跡)現在は動物園・遊園地。
大宮(「含翠楼」跡)建築は、機密費により賄われました。

大宮(「含翠楼」跡)建築は、機密費により賄われました。

「大宮公園」は大宮駅の東北、約1.5kmに位置しています。明治6年の太政官布達を受け、明治18年に氷川公園の名称で誕生しました。*1

木々に囲まれた美しい公園です。

「ブラタモリ」でも放映された料亭跡の庭石。
明治四十三年に、大宮公園に三業組合が組織されました。*2

「含翠楼(がんすいろう)」は、氷川公園開設当初(明治18年)に建設されました。
含翠楼の建築費は、吉田県令の機密費(本庄、深谷の遊廓から徴収された税金)により賄われました(案内板より)。

参考文献

*1 大宮公園 大宮公園 公式ホームページ リンク
施設概要 「大宮公園」は大宮駅の東北、約1.5kmに位置しています。明治6年の太政官布達を受け、明治18年…
*2 沼田尚道 「青年」に描かれた大宮公園 森鴎外記念会 鴎外(97) 2015.7
七 含翠楼からする三味線の音
P.61 「青年」が「昴」に連載開始された明治四十三年は、大宮公園に三業組合を組織された年でもある。時…

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芸妓屋・料亭・カフェー 高鼻町四丁目

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大宮(「含翠楼」跡)建築は、機密費により賄われました。

白山(花街跡)染物屋「伊勢屋」は現在も営業中。

今回は、白山(東京都文京区)の町並みを散歩します。
旧白山花街の中心部の通り。花街時代からあった染物屋「伊勢屋」は現在も営業中です。

「伊勢屋」の脇の石畳の路地。

料亭だったと思われる木造家屋。

この付近には、料亭が密集していました。*1

厚木(花街跡)料理屋と思わわれる屋号が残るお宅。

厚木の芸妓の存在は、江戸末期にはあったとされ、江戸時代中期以降の大山参りの隆盛に伴い、遊興の地となりました。戦後、昭和29年には、「厚木三業組合」が結成されました。*1
厚木花街のあった寿町一丁目。北側の通りは飲食街になっています。

寿司屋や居酒屋が建ち並びます。

道がカーブしている場所。

料理屋と思わわれる屋号が残るお宅。

1970年代、厚木の料亭街には、芸者が150人ほどいました。*2

参考文献

*1 厚木市教育委員会 厚木市史 民俗編 2 厚木市
P.190 芸妓 厚木の芸妓の存在は、江戸末期にはあったとされ、江戸時代中期以降の大山参りの隆盛に伴い、…
*2 小学館 ますます凄くなった東名好色ハイウエイ 週刊ポスト 7月10日号 1970.7.10
P.134 いよいよ狙い時の厚木の街 6月1日の鮎漁解禁以来、相模川には、キレイどころを乗せた船が浮かん…

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芸妓屋・料亭・カフェー 寿町一丁目

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厚木(花街跡)料理屋と思わわれる屋号が残るお宅。

浅草(料亭都鳥)花街の名残。新しいビルに建て替わっています。

浅草寺病院の北側。浅草3丁目5−7のあたり。この付近には、料理屋が建ち並んでいました。

現在の浅草一文別館のあたり。

料亭「都鳥」。

新しいビルに建て替わっています。

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芸妓屋・料亭・カフェー 浅草三丁目

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根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。
吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷。
吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石。
吉原(大文字楼跡地)吊橋があった場所。現在は吉原公園。
吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。
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吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。
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吉原(旅館)売春防止法施行後の転業旅館。
吉原(京町二丁目と角町の間の通り)昔の建物が残っています。
吉原(旧「金よし」)転業アパートが軒を連ねます。
吉原(赤線跡)装飾が美しい建物です。軒下にランプ。
吉原(坂井旅館)吉原観光旅館組合員のプレート。
吉原(マスミ)屋号が大きく書かれています。伏見通り。

浅草(料理店「一直」)明治十一年の創業の老舗。

浅草花街の風情が残る通り。
明治十一年の創業の老舗料理店の一直(写真左手前)*1 は、「全国花街めぐり」*2 にも登場する老舗です。

道を挟んだ反対側にある料亭の「桜の家」。

風情のある玄関。

木々に囲まれています。

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芸妓屋・料亭・カフェー 浅草三丁目

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浅草(芸妓屋街)昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画。
浅草(かつての私娼街)「猿之助横町」の碑。
吉原(浅草ホテル跡)1993年頃まで営業。
吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差。
根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。
吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷。
吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石。
吉原(大文字楼跡地)吊橋があった場所。現在は吉原公園。
吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。
吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。
吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。
浅草橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。
浅草橋(料亭)花街時代の料亭が今でも健在です。
吉原(伏見通り)旧金よしは、さら地になっていました。
吉原(旅館)売春防止法施行後の転業旅館。
吉原(京町二丁目と角町の間の通り)昔の建物が残っています。
吉原(旧「金よし」)転業アパートが軒を連ねます。
吉原(赤線跡)装飾が美しい建物です。軒下にランプ。
吉原(坂井旅館)吉原観光旅館組合員のプレート。
吉原(マスミ)屋号が大きく書かれています。伏見通り。

浅草(浅草三業会館)銅メダル獲得記念樹。

浅草花街の歴史は古く、参詣客を集めた浅草観音の門前の茶屋に由来し、その時代は、明暦年間(1655~1657)にさかのぼります。*1

浅草花街の中心部に浅草三業会館の建物があります。

提灯。

レスリングの浜口京子選手の銅メダル獲得記念樹。会館の前に植えられています。

参考文献

*1 浅草見番 浅草見番 公式ホームページ リンク
浅草見番の歴史 浅草寺の北に広がる浅草花街は、伝統と格式を誇る東京屈指の花柳界のひとつです。 古…

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芸妓屋・料亭・カフェー 浅草三丁目

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浅草(芸妓屋街)昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画。
浅草(かつての私娼街)「猿之助横町」の碑。
吉原(浅草ホテル跡)1993年頃まで営業。
吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差。
根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。
吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷。
吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石。
吉原(大文字楼跡地)吊橋があった場所。現在は吉原公園。
吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。
吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。
吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。
浅草橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。
浅草橋(料亭)花街時代の料亭が今でも健在です。
吉原(伏見通り)旧金よしは、さら地になっていました。
吉原(旅館)売春防止法施行後の転業旅館。
吉原(京町二丁目と角町の間の通り)昔の建物が残っています。
吉原(旧「金よし」)転業アパートが軒を連ねます。
吉原(赤線跡)装飾が美しい建物です。軒下にランプ。
吉原(坂井旅館)吉原観光旅館組合員のプレート。
吉原(マスミ)屋号が大きく書かれています。伏見通り。

佐原(料理屋「寿茂登」裏の小路)旧花街。周回する小路。

料理屋「寿茂登」※1 の裏側は、地元の方の話によると、かつての花街の中心地だったそうです。
小路の両側には、現在も料理屋が建ち並んでいます。

営業中の飲食店。

風情のある料理屋。

小路は、ぐるりと1周していて、元の大通りへ出ます。

佐原(花街だった通り)割烹料理屋が散在。

今回は、佐原(千葉県香取市)の町並みを散歩します。
佐原信用金庫のある通りは、かつては、置屋や料理屋などが建ち並ぶ通りでした(地元の方の話)。

現在も割烹料理屋が散在し、当時の名残を感じます。

料理屋らしき建物。

上野写真の料理屋の脇の路地。

佐原(小川路地)軒下に掲げられている屋号。かつての歓楽街。

小川路地の北側の入口。

飲食店街を抜けると空地に出ます。

飲食店だったと思われる建物。

軒下に掲げられている屋号。

佐原(旧二業組合跡地)鳥瞰図に記載のある小川路地。

「昭和はじめの佐原の町並み」鳥瞰図と案内板※1 に記載の旧二業見番があったあたり。馬場本店酒造の東側の路地です。案内板に記載では、ここは小川路地と呼ばれていたそうです。鳥瞰図に記載のある、この路地の出口にある小川薬局(現存)が路地の名前の由来と思われます。

長く続く板壁を持ったお宅。

古い建物のようです。

逆方向(北側)から見たところ。

佐原(鳥瞰図の掲示)昭和初めの佐原の町並み。

今回は、佐原(千葉県佐原市)の町並みを散歩します。
JR成田線、佐原駅前に「昭和初めの佐原の町並み」地図が掲示されています。隣に現在の地図も同じ方角で掲示されているので、解りやすいです。

当時の町並みが鳥瞰図で表されています。

馬場本店酒造の東側に「二業組合」と記されています。

隣の現代版の地図にも、「旧二業組合」の記載

浅草橋(柳橋の花街跡)現在はビル街。当時の料亭と思われる建物。

柳橋の花街跡。現在はビル街になっていて面影はありません。

当時の料亭と思われる建物。

当時の住宅地図には、料亭「宮城」と記されています。

旧料亭の建物は、次々とビルに建て替わっていく中、当時の建物が残っているのは、貴重と言えます。

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芸妓屋・料亭・カフェー 柳橋1丁目

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浅草(浅草三業会館)銅メダル獲得記念樹。
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浅草(芸妓屋街)昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画。
浅草(かつての私娼街)「猿之助横町」の碑。
吉原(浅草ホテル跡)1993年頃まで営業。
吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差。
根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。
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吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石。
吉原(大文字楼跡地)吊橋があった場所。現在は吉原公園。
吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。
吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。
吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。
浅草橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。
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吉原(伏見通り)旧金よしは、さら地になっていました。
吉原(旅館)売春防止法施行後の転業旅館。
吉原(京町二丁目と角町の間の通り)昔の建物が残っています。
吉原(旧「金よし」)転業アパートが軒を連ねます。
吉原(赤線跡)装飾が美しい建物です。軒下にランプ。
吉原(坂井旅館)吉原観光旅館組合員のプレート。
吉原(マスミ)屋号が大きく書かれています。伏見通り。

日本橋(花街跡)横丁や路地に遊興の歴史。

今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の八重洲一丁目付近は、江戸時代の市街造成期からの古い町並みです。明治維新後は、新時代を代表するような近代諸会社とこれと全く対照的な下町の商店や芸者屋・待合が奇妙に混在する町でした。*1

検番があったあたり。*2

旧花街の南端。「浮舟」は、昭和の初めからある老舗です。*3

日本橋芸者の起源は、安永6年(1777年)、平松町(現高島屋辺り)に芸者がいたことが、「妓者呼子鳥(げいしゃよぶこどり)」に書かれています。*2

参考文献

*1 白石孝 日本橋街並み繁昌史 慶應義塾大学出版会 P.11,P.27 2003
P.11 日本橋の南詰から中央通りを高島屋・丸善の方向にむかった町々は、江戸市街造成期からの古い町であ…
*2 上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008
丸善の裏手にあった日本橋花柳界
P.105 日本橋芸者の起源は古い。「女芸者の時代」によれば、「妓者呼子鳥(げいしゃよぶこどり)」に、常…
*3 武揚堂編集部 あの日の日本橋 武揚堂 昭和25年から30年代の思い出と出会う : 地図と写真でたどる (地図物語) 2007
付録地図(火災保険地図)に昭和初期の町並みの記載。 ・料理店「浮舟」

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芸妓屋・料亭・カフェー 八重洲一丁目

関連記事(「歓楽」「中央区」)

日本橋(花街跡)横丁や路地に遊興の歴史。
人形町(浜田家)芳町唯一の料亭
人形町(㐂寿司)かつての花街の記憶が残る建物。
人形町(よし梅本店)戦火を免れて残った店。
築地(料亭「新喜楽」)芥川賞や直木賞の選考会場。
新川(料理屋「増田や」跡)現在は居酒屋チェーンの店舗。
新富町(花街跡)新富座の開業とともに芸妓、置屋が増加。
新富町(新島原遊廓跡地)外国人のための遊廓。
京橋(京橋柳町遊里跡地)吉原の元祖。関が原の合戦後。
銀座(カフェー跡)文士たちが遊んだキャバレーのルーツ。
人形町(元吉原)明暦の大火で焼失後移転。大門通り。

高田馬場(料理屋「海の家」跡地)特飲街が計画されたこの一画。

高田馬場駅前のJR山の手線と西部線に囲まれた飲食街(旧柳小路)※1。
1960年代の頃、この一画の一番奥まったところには、アングラ芝居のバラック小屋がありましたが、その後、浅草千束をおもわせる料亭とバーの街に変身しました。*1

地元の方の話によると、この場所には料理屋の「海の家」*2があって、女性の接客のある店だったそうです。
現在は、1階に「DVD鑑賞」店が入っています。

夜になると、看板に灯りが灯ります。

神田川からみた飲み屋街方面。川と線路に囲まれた一画であることが解ります。
1950年代に特飲街が計画されたこの一画*3※1 は、高田馬場の歴史が凝縮された場所と言えそうです。

参考文献

*1 富田英三 新東京百景 スポーツニッポン新聞社出版局 1975
*2 ゼンリン 新宿区 1976 ゼンリンの住宅地図 1976
P.15 現在の高田馬場2丁目19−8に料理「海の家」の記載。
*3 朝日新聞社 高田馬場に“湯の街”・地元や早大は大反対 朝日新聞 1950.10.4
国電高田馬場駅付近に、“湯の街”を作る計画が向島“ハトの街”の経営者らによって進められ、地元の向上や学…

参考記事

※1 高田馬場(“湯の街”計画跡地)昭和25年、特飲街騒動。2019-04-18

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芸妓屋・料亭・カフェー 高田馬場二丁目

関連記事(「歓楽」「新宿区」)

高田馬場(料理屋「海の家」跡地)特飲街が計画されたこの一画。
高田馬場(“湯の街”計画跡地)昭和25年、特飲街騒動。
四谷大木戸(新宿遊廓跡地)街道の両脇には妓楼が建ち並んでいました。
四谷大木戸(花街跡)大正11年にできた花街。
荒木町(石畳の通り)花街らしい雰囲気が残されています。
荒木町(旧料亭「雪むら」)奥行のある大きな建物。
荒木町(津の守弁財天)「荒木町三業地」に発展。
四ツ谷(「せきとめ神」の祠)鮫が橋地名発祥の地。
神楽坂(兵庫横丁)「男はつらいよ」シリーズのシナリオ執筆場所。
神楽坂(見番横丁)昭和24年に東京神楽坂組合に統合。
神楽坂(寺内公園)神楽坂花街発祥の地。
新宿(大宗寺)新宿遊廓の楼名の玉垣。内藤新宿の遺構。
新宿(成覚寺の旭地蔵)男女の戒名が刻まれています。
大久保(ラブホテル街)かつては、外国人娼婦がたむろす場所でした。
大久保(西大久保公園)憩いの場です。禁止看板。
西新宿(十二社花街跡)階段の下までが弁天池。

向島(待合の建物)当時の意匠が残っています。

向嶋墨堤組合*1 の南側。

待合の建物が当時のままで残っています。

待合らしい細工が施されています。

塀の腰廻り部分に木材を配しています。

参考記事

※1 向島(向嶋墨堤組合)料亭の伝統芸能が脈々と継承されています。2019-04-01

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芸妓屋・料亭・カフェー 向島2丁目

関連記事(「歓楽」「墨田区」)

鳩の街(赤線跡)1階から2階へ突き抜ける円柱。
鳩の街(赤線跡)黄緑色を基調とした窓の廻りの装飾。
向島(待合の建物)当時の意匠が残っています。
向島(交差点の木造家屋)待合だった頃の名残。
向島(老舗料亭)伝統を受け継いでいます。
向島(向嶋墨堤組合)料亭の伝統芸能が脈々と継承されています。
鳩の街(茶色の円柱の建物)旧赤線街の中心部。
鳩の街~京島(旧桜井旅館)近日中に解体予定。
東向島(赤線建物)独特の意匠。2階にバルコニー。
東向島(戦前の玉の井)永井荷風の「墨東綺譚」の舞台となりました。
東向島(窓枠に装飾のある建物)隣は空き地になっていました。
東向島(目抜き通りに面したお宅)赤と緑の木造住宅。
鳩の街(商店街の路地に残る廃屋)色街らしい建物です。
鳩の街(鳩の街の赤線建築)OFFLIMITTS(米軍立入禁止)。
東向島(赤い壁の建物)路地を抜けるといろは通りに出ます。
東向島(赤線時代の建物)当時のままの原型を留めています。
東向島(色街だった頃のメインストリート)車ぬけられません。
曳舟~鳩の街(商店街裏の路地)水色の円柱のお宅。
鳩の街(赤線跡)美しい黄緑色のタイル。黄緑、水色、赤(ピンク)。

向島(交差点の木造家屋)待合だった頃の名残。

向島見番の前の通り。
交差点の角にある古い木造家屋は菓子の「いりむら」です。*1

その隣。料亭「波むら」との間に、待合「桝の家」の建物が残っています。(写真左側)

玄関。

待合だった頃の風情が残っています。

参考文献

*1 墨田区[8] 向島方面 1952
・向島芸妓組合の付近に、待合「桝の家」の記載。 ・現在の向島2丁目17−3、待合の記載。 ・現在の向…

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芸妓屋・料亭・カフェー 向島2丁目

関連記事(「歓楽」「墨田区」)

鳩の街(赤線跡)1階から2階へ突き抜ける円柱。
鳩の街(赤線跡)黄緑色を基調とした窓の廻りの装飾。
向島(待合の建物)当時の意匠が残っています。
向島(交差点の木造家屋)待合だった頃の名残。
向島(老舗料亭)伝統を受け継いでいます。
向島(向嶋墨堤組合)料亭の伝統芸能が脈々と継承されています。
鳩の街(茶色の円柱の建物)旧赤線街の中心部。
鳩の街~京島(旧桜井旅館)近日中に解体予定。
東向島(赤線建物)独特の意匠。2階にバルコニー。
東向島(戦前の玉の井)永井荷風の「墨東綺譚」の舞台となりました。
東向島(窓枠に装飾のある建物)隣は空き地になっていました。
東向島(目抜き通りに面したお宅)赤と緑の木造住宅。
鳩の街(商店街の路地に残る廃屋)色街らしい建物です。
鳩の街(鳩の街の赤線建築)OFFLIMITTS(米軍立入禁止)。
東向島(赤い壁の建物)路地を抜けるといろは通りに出ます。
東向島(赤線時代の建物)当時のままの原型を留めています。
東向島(色街だった頃のメインストリート)車ぬけられません。
曳舟~鳩の街(商店街裏の路地)水色の円柱のお宅。
鳩の街(赤線跡)美しい黄緑色のタイル。黄緑、水色、赤(ピンク)。

向島(老舗料亭)伝統を受け継いでいます。

向島を代表する老舗料亭の「入舟」。
昭和20年創業。建物は50年前に建てられたものです。*1

通用口。

料亭きよし。
昭和24年開業の老舗料亭です。*2

老舗料亭です。

参考文献

*1 料亭入舟 入舟 ホームページ リンク
昭和20年創業。終戦後の荒廃のなかで初代女将が日本再興に懸命に尽くす企業の方々にたいして一時の憩いの…
*2 料亭きよし 料亭きよし ホームページ リンク
先代、小林たつは大正7年に、玉の井の洋食屋「改進亭」の長女として生まれました。そこは荷風散人ゆかりの…

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芸妓屋・料亭・カフェー 向島5丁目

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鳩の街(赤線跡)1階から2階へ突き抜ける円柱。
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東向島(戦前の玉の井)永井荷風の「墨東綺譚」の舞台となりました。
東向島(窓枠に装飾のある建物)隣は空き地になっていました。
東向島(目抜き通りに面したお宅)赤と緑の木造住宅。
鳩の街(商店街の路地に残る廃屋)色街らしい建物です。
鳩の街(鳩の街の赤線建築)OFFLIMITTS(米軍立入禁止)。
東向島(赤い壁の建物)路地を抜けるといろは通りに出ます。
東向島(赤線時代の建物)当時のままの原型を留めています。
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曳舟~鳩の街(商店街裏の路地)水色の円柱のお宅。
鳩の街(赤線跡)美しい黄緑色のタイル。黄緑、水色、赤(ピンク)。

向島(向嶋墨堤組合)料亭の伝統芸能が脈々と継承されています。

今回は、向島(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
墨田区向島2丁目にある向嶋墨堤組合。

前の通りは、「見番通り」と呼ばれています。

向島は、江戸の時代から「花街」(料亭街)として栄えた街です。*1
東京から遠出で遊びにくる客の座敷に招ばれ、向島芸妓は生まれました。*2

今なお料亭の伝統芸能が脈々と継承されています。

参考文献

*1 向嶋墨堤組合 向嶋墨堤組合 ホームページ リンク
概要 向島…浅草からみて向こうにある島は、いつか行ってみたい雅な街で「向島」と呼ばれ、江戸の時代から…
*2 松川二郎 全国花街めぐり 誠文堂 1929
向島
P.106 向島という土地は、元来東京から遠出で遊びに行くところで、向島芸妓はその遠出の客の座敷に招ばれ…

この記事を参照している記事

向島(待合の建物)当時の意匠が残っています。

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芸妓屋・料亭・カフェー 向島2丁目

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鳩の街(赤線跡)1階から2階へ突き抜ける円柱。
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向島(老舗料亭)伝統を受け継いでいます。
向島(向嶋墨堤組合)料亭の伝統芸能が脈々と継承されています。
鳩の街(茶色の円柱の建物)旧赤線街の中心部。
鳩の街~京島(旧桜井旅館)近日中に解体予定。
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東向島(戦前の玉の井)永井荷風の「墨東綺譚」の舞台となりました。
東向島(窓枠に装飾のある建物)隣は空き地になっていました。
東向島(目抜き通りに面したお宅)赤と緑の木造住宅。
鳩の街(商店街の路地に残る廃屋)色街らしい建物です。
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東向島(色街だった頃のメインストリート)車ぬけられません。
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鳩の街(赤線跡)美しい黄緑色のタイル。黄緑、水色、赤(ピンク)。

北千住(芸者新道)見番跡地。千住宿の史跡。

千住宿の史跡、市郎兵衛本陣跡近く。

本陣跡の近くに、千住見番がありました。
見番の玄関には「千住芸妓組合千住支部」「全国芸妓組合千住支部」といった看板が掲げられていました。*1

明治時代、千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれ、花街が千住柳町に移転した大正8年以降も昭和18まで営業していました。この通りを見番横丁といっていました(説明文)。

見番があったあたり。

参考文献

*1 佐々木勝 日光街道千住宿民俗誌 名著出版 宿場町の近代生活 1985
(2)見番
P.210 見番横丁 見番は、佃屋という屋号で、石坂家が昭和18年まで代々やっていた。玄関には「千住芸妓…

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芸妓屋・料亭・カフェー 千住3丁目

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北千住(芸者新道)見番跡地。千住宿の史跡。
北千住(千住柳町赤線跡)わずかに残る昔の建物。

浅草(芸妓屋街)昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画。

猿之助横町は、昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画でした。*1

料理屋らしき建物。

国際通り近くにある和風の建物。

ヘルストロンの路地※1 の1本隣り(西側)の風情のある路地。

参考文献

*1 佐藤洋一 あの日の浅草 武揚堂 昭和26年から30年代の思い出と出会う : 地図と写真でたどる (地図物語) 2007
あの日の浅草(昭和26年 火災保険地図)
・現在の浅草3丁目30−5に「浅草ニュートルコ」の記載。 ・現在の浅草3丁目40−12。ヘルストロン…

参考記事

※1 浅草(猿之助横町の路地)麻雀喫茶。テレビゲーム。2019-03-18

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芸妓屋・料亭・カフェー 浅草三丁目

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浅草橋(花柳街跡地)墨田川沿い。現在はビル街に。
浅草(料亭都鳥)花街の名残。新しいビルに建て替わっています。
浅草(料理店「一直」)明治十一年の創業の老舗。
浅草(浅草三業会館)銅メダル獲得記念樹。
浅草橋(柳橋の花街跡)現在はビル街。当時の料亭と思われる建物。
浅草(芸妓屋街)昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画。
浅草(かつての私娼街)「猿之助横町」の碑。
吉原(浅草ホテル跡)1993年頃まで営業。
吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差。
根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。
吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷。
吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石。
吉原(大文字楼跡地)吊橋があった場所。現在は吉原公園。
吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。
吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。
吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。
浅草橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。
浅草橋(料亭)花街時代の料亭が今でも健在です。
吉原(伏見通り)旧金よしは、さら地になっていました。
吉原(旅館)売春防止法施行後の転業旅館。
吉原(京町二丁目と角町の間の通り)昔の建物が残っています。
吉原(旧「金よし」)転業アパートが軒を連ねます。
吉原(赤線跡)装飾が美しい建物です。軒下にランプ。
吉原(坂井旅館)吉原観光旅館組合員のプレート。
吉原(マスミ)屋号が大きく書かれています。伏見通り。

五反田(海喜館)建物の周囲はシートで囲われています。

最近、事件で報道された「海喜館」。
五反田三業の面影を唯一残す旅館の建物です。10年前は、入口も開放されていて、「海喜館」の看板もありました※1 が、現在、入口は閉鎖され、看板も取り外されました。

建物は、老朽化が進んでいます。


建物の周囲はシートで囲われています。

目黒川の対岸から。

五反田(花街跡地)待合が密集していた通り。

五反田花柳界は、三業組合と呼ばれていたた当時までは、盛んであったが、戦後は売春防止法の制定によって、「待合い」に於ける売春の取り締まりと共に、「待合い制度」が廃止され、二業組合に衰退の一途をたどりました。*1

待合が密集していた通り。

現在は、マンションが建ち並ぶ町並みとなっており、花街の名残はありません。

一本南側の通り。この通りにも両側に待合が建ち並んでいました。

目黒(花街跡地)現在の商店街に見番がありました。

目黒不動の門前には、関東大震災直後、隣接町村の目覚ましい発展に伴い、花街ができました。主な料理屋は、「角伊勢」と「大国家」で、その他は、待合形式の家がありました。*1
現在の商店街に見番がありました。*2

見番脇の路地を下ったところ。「ちとせ」「一力」がありました。*1

大国家があったあたり。*2

目黒園があったあたり。*2

参考文献

*1 都市整図社 目黒区 下(火災保険特殊地図旧35区 No.33-2) 1935
目黒不動尊周辺に、見番と料亭らしき屋号「大国家」「角伊勢」「目黒園」「ちとせ」「松田家」「一力」の…

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芸妓屋・料亭・カフェー 下目黒3丁目

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目黒(花街跡地)現在の商店街に見番がありました。

西小山(花街跡)西小山花柳界の全盛は昭和10年前後。

今回は、西小山(東京都品川区)の町並みを散歩します。
西小山花柳界の全盛は昭和10年前後で、芸妓は120人がいましがた、太平洋戦争が始まると戦時体制が強化のため、料亭・待合は営業停止となり、戦後再出発しましたが、戦前の勢いは失われていました。*1

料亭「寿づき」があったあたり。

その奥にも料亭がありました。

料亭「小港」「川よし」があったあたり。

中野新橋(料亭「亀太川」)最後まで残った料亭の建物。

神田川の北側(本町3-9)。

最後まで残った料亭「亀太川」の建物があります。*1


玄関付近。


花街らしい雰囲気が塀に残っています。

参考文献

*1 上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008
神田川沿いの新花街・中野新橋
P.184-P.186 以前は神田川沿いに紅灯が並び、三味線の音が聞こえていた風情も失われ、現在営業している料…

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芸妓屋・料亭・カフェー 本町3丁目

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中野新橋(料亭「亀太川」)最後まで残った料亭の建物。
中野新橋(三業会館跡地)橋の四隅に立派な擬宝珠。
中野(新井薬師の花街)門前に栄えた新井三業地跡。

中野新橋(三業会館跡地)橋の四隅に立派な擬宝珠。

今回は、中野新橋(東京都中野区)の町並みを散歩します。
神田川に架かる中野新橋は、中野新橋の名前の由来となった橋です。この橋の北側には、三業会館の建物がありました。*1


立派な擬宝珠が橋の四隅にあります。

橋の北側に当時の青銅製の擬宝珠が残されています。案内板によると、擬宝珠は、地下鉄丸の内線が開業した1961年に橋が架けれたときのもので、2011年まで、親橋の頂部に取り付けられていたそうです。

神田川。

参考文献

*1 朝日新聞社会部 神田川 未来社 1982
中野新橋 料亭がマンションに
神田川は中野区の南はずれを横切っている。優雅な名前の橋がいくつも架かる、花見橋、その上流は、桜橋、…

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芸妓屋・料亭・カフェー 本町5丁目

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王子(王子花街)俗称「王子新地」。駅前にも料亭が散在。

王子の豊島に指定地(芸妓屋待合)が公許されたのは昭和四年で、「王子新地」の俗称で呼ばれました。しかし、料理屋は、指定地内の他、駅前の代表的料亭「扇屋」、音無橋畔、御殿下に「養老館」、王子稲荷などに散在していました。*1
写真は、料理屋の「君の家」があった場所*2 に建つ食堂。

芸妓屋の浪の家があったあたり。*2

塀横の意匠。

逆方向から。

参考文献

*1 松川二郎 三都花街めぐり 誠文堂 1932
王子 リンク
指定地として芸妓屋待合の公許されたのは極く新しいことで、漸く昭和四年の四月から、王子町大字豊島の俗…
*2 北区 火災保険特殊地図 1953
豊島一丁目に、料亭「若の家」「秋よし」「新よし」「ひら松」「浦島」「お志津」「富久出」「永好」、置…

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芸妓屋・料亭・カフェー 豊島1丁目

関連記事(「歓楽」「北区」)

王子(王子花街)俗称「王子新地」。駅前にも料亭が散在。
王子(扇屋)江戸時代から続く茶屋は、現在は売店になっています。

品川(三業地跡)電柱に三業の名残。現在は住宅地。

かつての品川三業地。※1
写真の通りが三業地の中心部で、芸妓屋の清河、菊の家、冨久家、金吉田、福よし、宇田、由多か、米原、料理屋の菊の家、がありました。*1
現在は住宅地となっていて名残はありません。

唯一、電柱に「三業支」と書かれたプレートを確認することができます。

西側の通り。芸妓屋の梅家、春本、田中、新春本、一富士、料理屋のみかど、根岸、新福がありました。*1

写真奥には、品川の高層ビル。

品川(三業地跡)交差点の角に建つ料亭「文の家」の遺構。

今回は、品川(東京都品川区)の町並みを散歩します。
品川三業地は、昭和7年に、街道沿いから現在の東品川1丁目の一画に移転し、品川海岸三業株式会社を設立しました。*1

三業地の北側の交差点の角に建つ料亭「文の家」の遺構。*2

当時の雰囲気が残っています。

2階部分。

人形町(浜田家)芳町唯一の料亭

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
浜町・芳町は明治の始め頃から賑わったいわゆる三業(待合、置屋、料理屋)地でした。*1

現在、一軒のみ営業する料亭「玄治店(げんやだな)濱田家」。

建物の東側。

夜の様子。

蒲田(「二業」の電柱標識)「二葉」と誤記も。

蒲田の二業地跡の電柱標識。当時の名残を示す「二業」の名前が確認できます。

手書きの「二業」。

かつての待合が集中していた一画。問題の電柱標識はここにありました。

この一画はすべて「二業」と書かれていますが、1本だけ「二葉」がありました。。おそらく、何かの都合で取り換えたときに誤記が発生したのでしょう。
電柱標識プレートには、遊廓の「廓」を廊下の「廊」と誤記した事例などを見かけることがあります。※1※2

蒲田(二業地跡地)かつての待合の雰囲気が残る建物。

かつての蒲田二業地は、現在は、住宅地となっていて、当時の名残はありません。

唯一、旅館だったと思われる建物が残っています。

石の塀。

かつての待合の雰囲気が残る建物。*1

蒲田(二業地見番跡)現在も残る旧見番の建物。

今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みを散歩します。
蒲田の二業地は、京急蒲田駅から南へ500mほど離れた場所(現在の南蒲田四丁目20-24番地)に昭和2年に開設の許可が出されました。*1

現在も旧見番の建物が残っています。*2

かなり大きな2階建ての建物です。

花街の雰囲気が残っています。

根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。

今回は、根岸(東京都台東区)の町並みを散歩します。
台東区根岸の根岸柳通り周辺には、かつて花街がありました。

往時の面影を残す「浜本」という料亭だったお宅。*1

根岸の花街は、通人の隠れ家遊び場所として流行った花街で、客筋は根岸、金杉、坂本など近隣の旦那衆が多く、人力車で遊びに来る者もいました。*1

2階部分に花街だった頃の風情が残っています。

参考文献

*1 上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008
呉竹の根岸の里に咲いた花街
P.135 根岸の三業地が許可されたのは大正10(1922)年のことで、地元の矢野弦吉、伊木勝太郎ら数人が尽力…

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芸妓屋・料亭・カフェー 根岸四丁目

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浅草橋(花柳街跡地)墨田川沿い。現在はビル街に。
浅草(料亭都鳥)花街の名残。新しいビルに建て替わっています。
浅草(料理店「一直」)明治十一年の創業の老舗。
浅草(浅草三業会館)銅メダル獲得記念樹。
浅草橋(柳橋の花街跡)現在はビル街。当時の料亭と思われる建物。
浅草(芸妓屋街)昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画。
浅草(かつての私娼街)「猿之助横町」の碑。
吉原(浅草ホテル跡)1993年頃まで営業。
吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差。
根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。
吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷。
吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石。
吉原(大文字楼跡地)吊橋があった場所。現在は吉原公園。
吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。
吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。
吉原(大門)通りの名を示す門柱が建てられました。
浅草橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。
浅草橋(料亭)花街時代の料亭が今でも健在です。
吉原(伏見通り)旧金よしは、さら地になっていました。
吉原(旅館)売春防止法施行後の転業旅館。
吉原(京町二丁目と角町の間の通り)昔の建物が残っています。
吉原(旧「金よし」)転業アパートが軒を連ねます。
吉原(赤線跡)装飾が美しい建物です。軒下にランプ。
吉原(坂井旅館)吉原観光旅館組合員のプレート。
吉原(マスミ)屋号が大きく書かれています。伏見通り。

人形町(㐂寿司)かつての花街の記憶が残る建物。

人形町2丁目。かつての花街だったエリアです。喜寿司(㐂寿司)は、花街の面影が残る建物です。

たくさんの大きな看板。

隣の歯科医として使われていた建物は、もとは「待合(芸妓と遊ぶ場所)」でした。*1

物干し台。

人形町(よし梅本店)戦火を免れて残った店。

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
大観音寺脇の路地※1 にひっそりと佇む「よし梅本店」。戦火を免れて残った店の風情は江戸の粋が薫る人形町ならではです。*1

入口が路地になっていています。

かすれて、かろうじて「よし梅」と判読できる門標。

反対側の通りから。

大塚(料亭「和可月」「まきしま」)三業通り沿い。

三業通り沿いにある老舗料亭の「和可月」。

落ち着いた佇まいです。

三業通りから一本路地を入ったところにある料理屋の「まきしま」。

漢字では「巻島」。

大塚(料亭「浅元」)花街らしい雰囲気。青色の板塀。

大塚三業通りには、花街らしい雰囲気が見られます。

割烹。

老舗料亭の浅元。

青色の板塀。

新橋(烏森花街跡)花街の雰囲気が残る通り。

烏森神社前の通りから南側へ一本入った通りんには、わずかに花街だった頃の雰囲気が残っています。

写真の「たきもと」は、戦後の火災保険地図*1 では「多㐂本」と記されています。

創業明治27年の「古今亭」。*2
夜の烏森神社前の横丁。

この付近(写真中央の「すしざんまい」があるあたり)には、新橋芸妓組合がありました。*1

新橋(南地花街跡)烏森神社付近

今回は、新橋(東京都港区)の町並みを散歩します。
新橋南地花街は、明治5年の銀座の大火で、金春付近にあった芸妓置屋が汐留川より南の烏森方面に引っ越したのが始まりです。*1
写真左手前にある「末源」は、明治42年創業の老舗です。*2*3

新橋南地花街(烏森花街)は、元は、同じ花街で、新橋駅を境に、煉瓦地芸者(京橋)と南地芸者(新橋)と芸者街が二つに分かれていたものが、大正11年に分離して「烏森」あるいは「新橋南地」となったものです。*4

烏森神社前の参道。平成13年頃までは、両側理に飲食店が建ちならんでいましたが、現在、左側は整備されて飲食店はありません。*1

参道右側に、わずかに残る飲食店。

参考文献

*1 上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008
伝統の芸を誇る新橋花柳界
新橋南地の烏森花柳界(一)
P.36 銀座の明治5年の大火は、金春付近にあった芸妓置屋も焼き尽くした。そこで、芸妓屋や芸妓は、一部…
*2 都市整図社 港区 新橋方面 [1948-1953] (火災保険特殊地図(戦後分) )
古今亭、末源、新橋芸妓組合、等の記載。
*3 新橋料理業組合 新橋 末げん リンク
三島由紀夫が最後の晩餐にした明治42年創業の老舗、「新橋末げん」。ほかにも原敬、六代目菊五郎などの…
*4 松川二郎 全国花街めぐり 誠文堂 1929
新橋
P.17 新橋の花街は元は烏森と一つの花街で、京橋と芝の区界である「新橋」を真ん中に、煉瓦地芸者・南地…

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芸妓屋・料亭・カフェー 新橋二丁目

関連記事(「歓楽」「港区」)

新橋(烏森花街跡)花街の雰囲気が残る通り。
新橋(南地花街跡)烏森神社付近
麻布(花街跡地)昭和12~13頃が最も賑わいました。
浜松町(芝神明花街跡)芝大神宮の近くの料亭街の。
浜松町(芝神明花街跡)神明三業組合があったあたり。
赤坂(割烹)街の中に料亭が混在しています。
赤坂(料亭跡)日本の中枢部の人々の社交場として発展。
芝浦(協働会館)戦前の和風建築が残っています。

築地(料亭「新喜楽」)芥川賞や直木賞の選考会場。

今回は、築地(東京都中央区)の町並みを散歩します。
築地場外市場のある市場橋交差点の角にある「新喜楽」は、芥川賞や直木賞の選考会場としても有名な築地の料亭です。新橋花街の中では、戦災で被害を受けなかったうちの1軒でした。*1

高い塀が続きます。

表札は、「割烹」となっています。

裏口。

白山花街

亀戸(料亭「寿々代」「七福」)三業地跡。亀戸天神の裏の通り。

かつて、亀戸天神裏の通りには、三業地が広がっていました。*1

料亭「寿々代」。
以前は、この建物の東隣の交差点の角にありました。*1*2

旧三業組合の建物※1 の隣にある料亭「七福」。

写真左手には、数年前まで、富久家の建物*1*2※2がありましたが、現在は更地になっています。

参考文献

*1 木村聡 赤線跡を歩く 自由国民社 消えゆく夢の街を訪ねて 1998
亀戸
P.27 ・可憐な概観を持つ建物。コンクリートをくり抜いたような窓。 ・何気なくのぞいた倉庫の中にタイ…
*2 都市整図社 火災保険特殊地図(戦後分)江東区[25] 亀戸天神方面 [1953-1959年] 2002
亀戸三業組合 料亭「富久家」「七福」「寿々代」 天狗湯 の記載

参考記事

※1 亀戸(城東三業組合事務所跡)江戸時代から発展。2018-10-07
※2 亀戸(料亭「富久家」)亀戸花街。天神裏の通り。2008-04-05

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芸妓屋・料亭・カフェー 亀戸三丁目

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亀戸(赤線跡)可憐な概観を持つ建物。奥行のあるアパートの建物。
亀戸(料亭「寿々代」「七福」)三業地跡。亀戸天神の裏の通り。
亀戸(城東三業組合事務所跡)江戸時代から発展。
亀戸(天神裏)倉庫の中のタイル張りの円柱。
亀戸(料亭「富久家」)亀戸花街。天神裏の通り。
亀戸(遊園地跡)電柱に遊園地のプレ-ト。
亀戸(天祖神社)私娼宿の組合の名が刻まれた玉垣。
亀戸(香取神社)鳥居の柱に亀戸三業組合。
門前仲町(飲食街)かつての料亭街。深川芸者。
門前仲町(岡場所跡)深川七場所
洲崎(旧赤線建物)現在はアパートとして活躍中。
洲崎(旧「大賀」)赤線建物の遺構。当時のままの姿で現存。
洲崎(赤線跡)青いタイルの八百屋の建物。かにや。

亀戸(城東三業組合事務所跡)江戸時代から発展。

今回は、亀戸の町並みを散歩します。
亀戸天神社裏のこの通りは、かつては、料亭が建ち並ぶ亀戸花街の中心部でした。*1

城東三業組合事務所(見番)があった建物。*2

現在は、亀戸三丁目自治会館として使われています。

この通りの北側が旧亀戸の赤線地帯です。

参考文献

*1 南桜社 東都芸妓名鑑 1930 リンク
亀戸花街の沿革 リンク
この地が花街として発展したのは、寛政年間からであって、各所に散在していたのがいつの頃よりか、今日の…
*2 上村敏彦 花街・色街・艶な街 色街編 街と暮らし社 2008
亀戸天神裏の花街と赤線跡
P.100 城東三業組合事務所(見番)があった建物。現在は、亀戸三丁目自治会館として使われている。

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亀戸(料亭「寿々代」「七福」)三業地跡。亀戸天神の裏の通り。

タクソノミー(分類)

芸妓屋・料亭・カフェー 亀戸三丁目

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亀戸(赤線跡)可憐な概観を持つ建物。奥行のあるアパートの建物。
亀戸(料亭「寿々代」「七福」)三業地跡。亀戸天神の裏の通り。
亀戸(城東三業組合事務所跡)江戸時代から発展。
亀戸(天神裏)倉庫の中のタイル張りの円柱。
亀戸(料亭「富久家」)亀戸花街。天神裏の通り。
亀戸(遊園地跡)電柱に遊園地のプレ-ト。
亀戸(天祖神社)私娼宿の組合の名が刻まれた玉垣。
亀戸(香取神社)鳥居の柱に亀戸三業組合。
門前仲町(飲食街)かつての料亭街。深川芸者。
門前仲町(岡場所跡)深川七場所
洲崎(旧赤線建物)現在はアパートとして活躍中。
洲崎(旧「大賀」)赤線建物の遺構。当時のままの姿で現存。
洲崎(赤線跡)青いタイルの八百屋の建物。かにや。

神田明神下(開化楼跡)高楼がそびえたっていました。

かつて男坂の途中には、料亭「開化楼」の高楼がそびえたっていました。*1

現在、男坂の途中には、オフィスビル「KAIKA」が建っています。

料亭「開化(新開化)」があったたり。

料亭「開化」の前には、神田芸組合の事務所が建っていました。*1
写真奥は、神田川本店がる方角です。※1

神田明神下(花街跡)安政期に芸者が出現。講武所芸者。

かつて、神田明神下同明町に花柳界があって、この三業地を俗に講武所、ここの芸者を講武所芸者と言いました(講武所とは、幕末に創設された幕府の武術教育所のこと)。*1
花街のことを「講武所」と呼んだのは、
・講武所の運営費捻出のため、現在の秋葉原駅の万世橋通り付近の土地を町屋に編入して地代を取るようになり、安政期(1854-59年)にこの地に芸者が姿を現したため、講武所芸者と称されるようになった。*2
・旗本、御家人などの二男・三男が武芸鍛錬のため講武所へ行くと言って家を出てここで遊んでいたとか、客に講武所の生徒が多かったため、*1
など諸説あります。
また、明治3年)頃に、芝居茶屋が出現し、同時に草分け芸者が生まれ、花街となった。*3 とする説もあります。
男坂の通りの北側の通りにある料理屋。右側の建物もかつての料理屋です。

料理屋「あら喜」

元料理屋の建物。

「章太郎」は、明神したの艶っぽさを残す名店です。*2

参考文献

*1 北村一夫 江戸東京地名辞典 講談社 2008
講武所
神田明神下同明町に花柳界があった。この三業地を俗に講武所、ここの芸者を講武所芸者といった。 明神下…
*2 日本文芸社 荷風!vol.23 2010.1
荷風の神田を往く
P.39 コラム講武所芸者 講武所とは、江戸幕府が武術修練のために設けた講習所で、もともと築地にあった…
*3 南桜社 東都芸妓名鑑 1930 リンク
神田花街の沿革 リンク
花街の創設 芝居茶屋が出現するど同時に草分け芸者として生まれ、翌年(明治3年)頃に二十三、四人の芸…

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芸妓屋・料亭・カフェー 外神田二丁目

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神田明神下(開化楼跡)高楼がそびえたっていました。
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四ツ谷(元吉原以前の傾城屋跡地)「異本洞房語園」の記述。
九段(花街跡地)かつての花街を思わせる建物。
九段(花街跡地)料亭などが集まって発展した町。
有楽町(ガード下)パンパンガール発祥の地。

四谷大木戸(花街跡)大正11年にできた花街。

今回は、四谷大木戸(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
四谷大木戸にに花街ができたは大正11年で、当時、東京では一番新しい花街でしたが、関東大震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて、四谷大木戸は膨張し、震災後一時は、百五十人を超す芸妓が登録されていました。*1*2
現在も営業を続けているのは、「多満川」のみで、他はマンションや駐車場になっています。

*3大木戸芸妓組合事務所は現在のホテルがある辺りにありました。*3

全国花街めぐり*1 には、料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)が紹介されています。このうち、自慢本店は、現在の「多満川」から北へ行った突き当りにあるマンション「新宿御苑」の場所にありました。*4
1階部分は料亭の名残を感じさせる石塀に囲まれています。

花街の東側の、崖沿いには「和楽」「清月」など待合が7,8軒ズラリと軒を連ねていました。*3

参考文献

*1 松川二郎 全国花街めぐり 誠文堂 1929
四谷大木戸
P.80 ここに花街のできたのは大正11年、東京では一番新しい花街であるが、、そこへ丁度彼の大震災で下町…
*2 安本直弘 四谷散歩 みくに書房 1989
大木戸かいわい
P.47 大木戸花街 大正11年頃、大国座裏に三業地が開かれた。場所は以前ここにあった理性寺の墓地跡で、…
*3 上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008
四谷大木戸の花街
P.179 昭和2年の「全国芸妓同盟会総員名簿」によると、大木戸芸妓組合事務所は旧永住町36番地。(現ホテ…
*4 都市整図社 新宿区[4] 新宿通方面 1 火災保険特殊地図(戦後分) [2] 1951
四谷四丁目に、料理屋の「自慢本店」「徳万家」「美よし乃」「布袋家」「胡月」「美津橋」「正月」「重勝…

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四谷大木戸(旅荘)旅荘への入口看板。旧大木戸花街の東側。

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芸妓屋・料亭・カフェー 四谷四丁目

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高田馬場(料理屋「海の家」跡地)特飲街が計画されたこの一画。
高田馬場(“湯の街”計画跡地)昭和25年、特飲街騒動。
四谷大木戸(新宿遊廓跡地)街道の両脇には妓楼が建ち並んでいました。
四谷大木戸(花街跡)大正11年にできた花街。
荒木町(石畳の通り)花街らしい雰囲気が残されています。
荒木町(旧料亭「雪むら」)奥行のある大きな建物。
荒木町(津の守弁財天)「荒木町三業地」に発展。
四ツ谷(「せきとめ神」の祠)鮫が橋地名発祥の地。
神楽坂(兵庫横丁)「男はつらいよ」シリーズのシナリオ執筆場所。
神楽坂(見番横丁)昭和24年に東京神楽坂組合に統合。
神楽坂(寺内公園)神楽坂花街発祥の地。
新宿(大宗寺)新宿遊廓の楼名の玉垣。内藤新宿の遺構。
新宿(成覚寺の旭地蔵)男女の戒名が刻まれています。
大久保(ラブホテル街)かつては、外国人娼婦がたむろす場所でした。
大久保(西大久保公園)憩いの場です。禁止看板。
西新宿(十二社花街跡)階段の下までが弁天池。

三鷹(料亭らしき建物)八丁通り。交差点の角の、古い和風の建物。

八丁特飲街※1 があった飲み屋街の東側の交差点。交差点の角に、古い和風の建物が建っています。

八丁通り沿いにあります。

1972年の住宅地図*1 には、屋号と思われる「与名本」の記載があります。

2階部分。料亭らしき佇まいです。

井土ヶ谷(見番周辺)かつての花街の雰囲気。

旧見番のある通りに、かつての花街の雰囲気を感じさせる建物が残っています。

奥行のある立派な建築です。

旧見番近くの住宅街。

貸席「ゆたか」の建物。*1

井土ヶ谷(見番跡)現在は町内会館

今回は、井土ヶ谷(神奈川県横浜市南区)の町並みを散歩します。
「横浜市史稿(風俗編)」*1 によると、井土ヶ谷町には、芸妓屋組合事務所(見番)がありました。

現在は、閑静な住宅街となっている場所に、かつての見番の建物が残されています。*2

1937年建築の木造2階建て。見番の建物は、横浜市の歴史的建造物に登録されています。*2

現在は、井土ヶ谷上町第一町内会館になっています。

蒔田(旅館「松島」)永真遊廓の妓楼「松島」が戦時中に疎開。

蒔田の花街の中心だった榎田町の南側(蒔田町)にある旅館「松島」。

旅館の隣には、「料理処・松風苑」が併設されています。

現在も営業中の「松島」は、永真遊廓の妓楼「松島」が戦時中に疎開したものです。*1

旅館脇の庭園。

蒔田(花街跡)料亭「平作」は、戦後も長い間営業。

今回は、蒔田(まいた、神奈川県横浜市南区)の町並みを散歩します。
「横浜市史稿(風俗編)」*1 によると、蒔田の花街は、中区(昭和18年より南区)榎町二丁目にありました。この付近にあった料亭「平作」は、この地区最大の料亭で、戦後も長い間営業していました。*2*3
現在は、マンションになっています。

蒔田見番があった場所。*3

料亭「万二菊」があったあたり。*3

寿司店。

参考文献

*1 横浜市 横浜市史稿 風俗編 臨川書店 1985
P.545-P546 横浜の芸妓組合事務所の所在地
芸妓屋組合事務所 所在地
*2 葛城峻 横浜花街史稿 制作のための準備資料集 2013
芸妓屋組合の一覧
蒔田 この地区最大の料亭「平作」は戦後も長期間営業していた。現在営業中の「松島」は永真遊廓の妓楼「…
*3 葛城峻 横浜花街史稿 制作のための準備資料集 2013
蒔田花街
蒔田見番、料亭「万二菊」、料亭「平作」、料亭「光楽」、料亭「富久本」、等の記載。

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芸妓屋・料亭・カフェー 共進町3丁目

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井土ヶ谷(見番跡)現在は町内会館
蒔田(旅館「松島」)永真遊廓の妓楼「松島」が戦時中に疎開。
蒔田(花街跡)料亭「平作」は、戦後も長い間営業。
吉野町(三業組合跡)隣に料亭「鈴本」。
吉野町(日本橋花街跡地)アーチがあった場所
真金町・永楽町(旧カフェー街跡地)当時の建物はほとんど残っていません。

上大岡(花街跡)昭和10年頃が全盛。終戦後は米兵も出入り。

今回は、上大岡(奈川県横浜市港南区)の町並みと風俗を散歩します。 大正の終わり頃から戦後の昭和33年まで、上大岡駅から大岡川を挟んだ大久保(旧久保村)の地に花街がありました。その発端の記録は、大正11年に久保地区から神奈川県に真金町遊廓の移転先として提出された請願書で、その後、正式に「三業地」として指定され、昭和10年頃には芸妓屋、待合、料理屋が30数件もできて大いに賑わいました。花街は、戦局の悪化に伴って営業停止となりましたが、終戦後は米兵も出入りし再び賑わいを取り戻しました。大久保の花街は、昭和33年の売春防止法により、街の灯が消えました。*1


現在、花街があった大久保地区は、スナックが散在する住宅街になっています。


料亭「君の星」があったあたりは、現在は駐車場になっています。*1


料亭「竹の家」があったあたり(現在の佐藤歯科)。*1

【参考文献】
*1 港南歴史協議会:こうなんの歴史アルバム(港南歴史協議会,2010)P.30-P.31

磯子(花街跡地)旧芦名川河口近く。

磯子の花街は、今のバス停「浜」から磯子区役所の南まで海浜に沿って料亭が並び、独自な風情がありました。旧芦名川河口(現在の芦名橋公園)近く。16線から東へ入ったあたり。現在のマンション「ナイスアーバン磯子」のあたりに磯子検番がありました。*1

料理屋「磯川」があったあたり。*1

この付近には、料亭「竹みどり」「浜の家」がありました。

料亭「中志満」があったあたり。

【参考文献】
*1 葛城峻:やぶにらみ磯子郷土誌(2014,磯子区郷土研究ネットワーク)P.113-P.117

磯子(八幡神社の石碑)磯子二業組合の名。

今回は、磯子(神奈川県磯子区)の町並みと風俗を散歩します。 JR根岸駅から東へ約500m。八幡橋近くにある八幡神社。


境内にある大きな石碑。上部に鉄球が載っている奇妙な形のです。


磯子「二業組合」「芸妓組合」の名が刻まれています。


磯子二業組合の組合長の葦名金之助などの名前が刻まれています。

新川(料理屋「増田や」跡)現在は居酒屋チェーンの店舗。

今回は、新川(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新川の花街は、昭和10年頃が最も活気がありました。日本橋川に架かる湊橋を霊岸橋の間の河岸沿い(新川1-1,1-2)に料理屋の「大和屋」と待合「大国屋」「おつね」など14軒が、永代通り南側の新川1-3には「増田ヤ」と待合1軒がありました。*1
写真は、霊岸橋から亀島川を南西方向(下流)に見たところで、この写真の左側が、新川1-3のあたりです。

川沿いに面した和を感じる1軒屋。1953年の住宅地図*2 によると、この場所には、料理屋の「増田や」がありました。

和風の佇まい。

現在は、居酒屋チェーンの店舗になっています。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.118
*2 都市製図社:火災保険特殊地図 中央区越前堀方面(1953年, 都市製図社)

丸の内(料亭「河文」)葵の紋。魚ノ棚通り。

長者町のレストラン「ザ・カワブン・ナゴヤ」の南側を東西に魚ノ棚通りが交差しています。
魚ノ棚通りを東側に入ったところに老舗料亭の「河文」が昔の佇まいそのままの姿で建っています。

登録有形文化財に指定されている建物。

建物の壁面に、「魚ノ棚通り」の説明が書かれています。江戸時代(元禄年間)は、料亭がありました。

玄関の奥には、葵の紋。
当時は、お昼から三味線の稽古の音がして、このあたりは大変賑やかでした。夜は芸妓さんを呼んで、本当に線香を立てていたそうです。「花代(線香代)」は、一本十二銭でした。*1

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127

青梅(旧料亭の「魚久」)現在はレストラン。

旧青梅街道から北へ続く北山公園通り。
この通りの左先にかつての見番がありました。*1

青梅線の線路を渡ったあたり。

旧料亭の「魚久」。現在はレストランになっています。*1

和洋折衷の建物の料亭「和田市」。右手に和風木造建築が続きます。*1

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.242-P.243

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芸妓屋・料亭・カフェー 本町

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青梅(旧料亭の「魚久」)現在はレストラン。

荒木町(石畳の通り)花街らしい雰囲気が残されています。

荒木町は、石畳の通りが保存されています。

花街らしい雰囲気が残されています。

料理屋が建ち並ぶ通り。

下り坂。

荒木町(旧料亭「雪むら」)奥行のある大きな建物。

策の池近くにある旧料亭の「雪むら」。

奥行のある大きな建物です。

「雪むら」の屋号が残る店の入口。

逆方向(南側)から。

荒木町(津の守弁財天)「荒木町三業地」に発展。

荒木公園から坂を下ったところにある津の守弁財天。

弁財天の祠の脇には、策(むち)の池があります。

津の守とは、江戸時代、このあたり一帯に松平摂津守(美濃高須三万石)の屋敷があり、邸内に滝があったことから、摂津守の一字を略して「津の守の滝」と呼びました。また、この池の付近に「策(むち)の井」と呼ばれる井戸があり、滝壺の池を「策の池」と呼びました。*1

明治になってこの庭園が庶民に公開されると、天然の滝があることが評判になり、池の周辺に茶屋が開店し、明治6年、この滝の上に「桐座」という芝居小屋ができたのをきっかけに、料理店が次々と開店し、これが後年の「荒木町三業地」に発展しました。このようにして周辺地が市街地化されたためか、滝の水量が減り、池の周辺は急速に寂れていきました。*1

【参考文献】
*1 安本直弘:四谷散歩(みくに書房,1989)P.32-P.33

大森(かつての料亭街)現在はラブホテル街。

大森海岸駅(写真右奥)の南西側の一画(大森北2丁目14~17)は、現在はラブホテル街になっていますが、かつては、料理屋街でした。京急線沿いのこのあたりには、料亭の「三平」「鈴木」などがありました。*1

料亭「梅の家」があったあたり。*1

西側には、料亭の「久の家」「福田家」「松川」などがありました。*1

そば屋の「松登久」。この付近が料理屋街だった頃から営業していました。*1

【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)

大森(料亭「梅元」)大森海岸三業地。明治26年開業。

gsi.go.jp/#18/35.585965/139.736657/&ba今回は、大森(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
大森海岸の芸妓屋は、明治26年5月に八幡橋際に開業した料理屋の伊勢原が隆盛し、魚栄、松浅、八幡楼等引き続き開店し、間もなく芸妓屋が開業したのが始まりでした。*1
現在八幡橋は無く、八幡橋があった場所は「八幡橋児童公園」になっています。

八幡橋の東側には、競艇場の「ボートレース平和島」が見えます。

八幡橋近くには、待合だった「梅元」の建物が現在も残っています。*2

現在は、オフィスビルが乱立するエリアになっています。

【参考文献】
*1 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1139
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.220

水郷田名(花街跡)大山詣り繁盛した歓楽街。

今回は、水郷田名(神奈川県相模原市)の町並みと風俗を散歩します。
水郷田名は、相模川に面して発達した地域で、ここに「渡し場」があり、大山詣りの参詣者たちにがこの「渡し」利用しました。その後、もともと盛んだった鮎漁や鵜飼などの観光的要素が加わり、兼業旅館などが建ち並ぶ歓楽街となって繁盛し、「水郷」と呼ばれる所以となりました。*1
JR相模原駅から、バスで約30分。水郷田名に到着です。

昭和4年の田名村の市街図*2 には、割烹旅館の旭屋、川口家、多喜乃家、登喜本、などの芸妓家、三業組合などが記されています。
旭屋旅館は当時の場所で、現在も営業中です。

花街の中心街だったと思われる通り。コンビニがあった場所には、芸妓家の「川口家」がありました。*2

三業組合の事務所があったあたり。*2

【参考情報】
*1 相模川河岸に設置されている「水郷田名の歴史」看板。
【参考文献】
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第261号 東京府 神奈川県

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芸妓屋・料亭・カフェー 水郷田名2丁目

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水郷田名(花街跡)大山詣り繁盛した歓楽街。

池袋(料亭「寿々代」)竹が使われている塀。

三社稲荷前の通りの1本東側の通り。

竹が使われている塀。

料亭「寿々代」の建物です。

東京料亭組合連合会のプレート。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193

池袋(三業通り)昭和3年から始まった花柳界

JR池袋駅西口から北へ向かって進み、トキワ通りを超えて北へ進むと、「三業通り」と呼ばれる北西へ向かう通りがあります。この通りの西側に昭和3年から始まった花柳界がありました。
町会の名前に「三業」の名前が見られます。

三業通りというのは、この通りに面して池袋三業会館(見番)の建物があったからです。(写真のビルが旧池袋三業組合があった場所)

当時の面影を残す割烹料理店の建物。

「三業支」の電柱のプレート。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193

新丸子(料亭「丸子園」跡地)現在はラブホテル。

中原街道の丸子橋近くに大きなラブホテルの看板があります。

Y字路を右に入るとホテルの入口です。

道路に面して、菓子卸の企業の建物があり、ホテルは、その向こう側に建っています。

裏側の入口から。付近は閑静な住宅街です。

この場所には、料亭「丸子園」がありました。「丸子園」は、多摩川を利用した川遊び(たから船)の料亭として、大正13年に開店しました。約三千坪の敷地を持つ「丸子園」の開業は、新丸子三業地のきっかけを作りました。百畳敷の大広間と大浴場があり、広々とした庭には、離れが点々と建っていて、それぞれ風呂がついていて「へちま風呂」という名前で呼ばれていました。しかし、戦争のため、昭和16年に日本電気に買収され「丸子園」は姿を消しました。*1
その後は、日本電気の女子寮「千草寮」として使われました。*2
料亭→女子寮→ラブホテルという変遷をたどったこの土地は、女性に縁の深い土地と言えそうです。
【参考文献】
*1 羽田猛:写真で見る中原街道(羽田猛,2000)P.36-P.39
*2 経済地図社:中原区明細地図(経済地図社,1973)P.76,P.79

新丸子(新丸子三業跡)料亭通り。

今回は、新丸子(神奈川県川崎市中原区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の新丸子東と上丸子八幡町の町界あたる通りは、かつては、新丸子三業として栄えていた「料亭通り」でした。この付近には、「新丸子料亭組合」と書かれたアーチがあり、丸子荘、吉田家、よね家、一直、繁の井、錦水、伏見などの料亭の名が掲げられていました。*1

割烹「錦水」があったあたり。

「花本」の名が刻まれた電柱の標識。

昭和20年4月、5月の大空襲により新丸子三業地一帯は、4~5軒を残すのみで全焼しました。戦後、一時営業を中止していましたが、「花本」は、昭和20年12月に開店しました。許可不明のまま喫茶店として、温泉マークを付けて営業を始めましたが、昭和23年に許可がおり、昭和36年頃まで繁栄しました。しかし、昭和51年(1976年)頃には、「一直」、「丸子荘」、「伏見」等3軒となり、芸妓も10名ほどとなり、次第にさびれ、姿を消していきました。*1丸子芸妓組合の事務所があった場所のあたり。*2

【参考文献】
*1 羽田猛:写真で見る中原街道(羽田猛,2000)P.36-P.39
*2 経済地図社:中原区明細地図(経済地図社,1973)P.76,P.79

綱島(花街跡地)現在は、高層マンション街。

綱島駅の西側は、割烹旅館や温泉施設が密集するエリアでした。工事中のマンションのフェンスに、綱島の由来の説明書きがあります。大正15年に東急東横線の綱島駅が開業し、駅前にラジウム温泉浴場ができたことが書かれています。
現在のニックハイム第一(写真左側の工事中の建物)付近には、温泉施設の「行楽園」がありました。「行楽園」は、旅館の梅島、水明、甲子園、ひさごの4館の共同出資で、ラジオで「百円天国」と宣伝し、大繁盛しました。大浴場、大食堂、屋上の子供天国、ビヤホールを備え、お客は、芸能人の音楽や園芸を楽しめて1日大人100円。今日のヘルスセンターのはしりとなりました。*1

旅館の相川屋本館、梅島館、水明があったあたりは、現在は高層マンションとイトーヨーカ堂を中心としたショッピングロードに変わり、当時の面影はありません。*1

現在のパデュ通りを北側に入ったあたり(写真右側)に、検番がありました。*1

綱島温泉の中で最後まで残った旅館の「浜京」が地図に載っています。

【参考文献】
*1 「とうよこ沿線」編集室:わが町の昔と今1(「とうよこ沿線」編集室,2000)P.36,P.42-P.45

綱島(かつての料亭の遺構)現在は駐車場。