権田原バス停の近く。

権田原のハッテンバの第一エリアだった公衆トイレは、最近リニューアルされたようです。

権田原の地名を冠した公衆便所です。

JR信濃町駅前の歩道橋から、権田原公衆便所方面への遠望。

はってんば
権田原バス停の近く。
権田原のハッテンバの第一エリアだった公衆トイレは、最近リニューアルされたようです。
権田原の地名を冠した公衆便所です。
JR信濃町駅前の歩道橋から、権田原公衆便所方面への遠望。
JR信濃町駅を下車し、外苑東通りを南へ進むと、「権田原(ごんだわら)」の交差点があります。交差点の角には交番があって、交差点の北東側に、明治記念館。南東側に東宮御所、西側に明治神宮外苑が立地しています。
かつて、このエリアは、「権田原」という名のハッテンバでした。ハッテンバとは、ある一定の場とか施設が時間帯によってその機能を変質させられ、男性の同性愛者の性行動をうながす場となっているところを指しています。そこは、公園であり、公衆便所なのですが、夜になるとどこからともなく集まってくる男たちによって、開放的な性行動の場に変質させられました。権田原のハンテンバのエリアは、第一エリアから第三エリアと呼ばれる三ヶ所があって、その最盛期は、1961年から1971年までの10年間でした。第一エリアは、権田原バス停近くの公衆便所、第二エリアは、明治神宮外苑の森の入口の公衆便所で、第三エリアは、第二エリアの南側の前方の小公園でした。*1
1964年、東京オリンピック開催のため、第一エリア周辺が道路整備事業の対象区域となると、人々は向かい側の第二エリアに移動しました。やがて第二エリアも柵がめぐらされ、入口が閉ざされてしまうと、人々は第三エリアに移動しました。
ところが、第三エリアに隣接した都営住宅の住民の騒音拒否運動の抵抗にあい、住民の都への働きかけによって、東京都公園管理事務所は、夜間は閉門の措置をとったため、権田原のハッテンバは消滅しました。*1
現在も、そのためか、夕方16:30以降、公園の門は閉ざされます。
【参考文献】
*1 現代風俗研究会:現代遺跡・現代風俗91(リブロポート,1990)P.168-P.175
「新宿二丁目東」交差点は、ゲイの街「仲通り」の入口にあたる場所です。
その「新宿二丁目東」交差点の南側に、ガラス張りのビルがありますが、この場所には2006年頃まで「ラシントンパレス」という新宿二丁目の特殊性を象徴するようなテナントビルがありました。その最上階をまるまる占めていたのは、「スカイジム」というゲイ専用のサウナで、ハッテンバ(ゲイの性の社交場)でした。*1
ラシントンパレスは、戦後新宿二丁目では一番早く建てられた大きなビルで、羅府飯店が中国名でした。*1*2
ビルの裏の路地。
路地の反対側にはアーチがあって、昔の雰囲気を伝えています。
【参考文献】
*1 竜超:消える「新宿二丁目」(彩流社,2009)P.120,142-P.143
*2 武英雄:内藤新宿昭和史(武英雄,1998)P.108
心霊スポットとして有名な舎人公園は、足立区最大のゲイのハッテン場です。*1
公園内のトイレには、落書き禁止の貼紙が貼られています。
貼紙のすぐ隣に落書きがあります。
落書きは、犯罪です。
アズマヤへ集合。
【参考文献】
*1 鉄人社:東京裏地図(鉄人社,2007)P.57
原宿駅の西側に広大な敷地を持つ代々木公園があります。代々木公園は、敗戦後の1945年にアメリカ軍に接収されたワシントンハイツが、1964年に東京オリンピックの選手村となった後、1967年に都市公園として開園したものです。
広大な敷地の中には、サイクリングコースがあります。
公園の北部にあるサイクリングセンター(通称自転車小屋)で自転車を借りてサイクリングを楽しむことができます。
この自転車小屋の裏手は、都内では有名な野外ハッテンバでした。ネットの掲示板には、「筋肉系」とジャンルを絞って、毎夜書き込みがされていました。*1
幼児車向け自転車乗り場の奥の広場もハッテンバでした。*1
【参考文献】
*1 Badi(2002.8)P.36-P.37「野外ハッテンスポット厳選紹介」
竹ノ塚駅の東側。国道4号線沿いの元渕江公園では、夜な夜な露出狂のカップルが出没するといいます。*1
都心部のハプニングバーの客が店の後に訪れ、公園内の身障者用便所がプレイルームになっていると言われています。*1
トイレのドアの内側の落書き。ハッテンバとしても活用されているのでしょうか。
長文の落書き。
【参考文献】
*1 尾形誠規:東京裏地図 行かなきゃ損する都内B級スポット200選(鉄人社,2007)P.56