小城の旧遊廓のメインの通り。

通りの奥(北側)に、娼婦達が参ったお稲荷さんがあります。

煉瓦が使われています。

お稲荷さんの周囲は、堀で囲まれています。

いなりしんこう
小城の旧遊廓のメインの通り。
通りの奥(北側)に、娼婦達が参ったお稲荷さんがあります。
煉瓦が使われています。
お稲荷さんの周囲は、堀で囲まれています。
銀座七丁目に130年以上も前の煉瓦街建設のときにできた、最も銀座らしい路地空間がいまも健在です。*1
この路地は、煉瓦街建設のときにつくられたI型路地で、銀座通りや裏通りに面する通用口として機能し続けてきました。Ⅰ型路地を進むと、朱色に塗られビルの壁のところに豊岩稲荷があります。この稲荷は古くから水商売の人たちの信仰されてきました。*1
お稲荷さん。お供え物の油揚げは豊富です。
江戸時代初期からある稲荷神社です。
中野区弥生町(中野新橋を流れる神田川の南側)にある藤神稲荷神社。
石碑には、戦前は、夜店等が出て賑やかだったことが書かれています。
中野新橋三業組合寄進の玉垣。
料亭「とんぼ」、料亭「寿楽」*1 でしょうか。
人形町の南。日本橋箱崎町のビル街の中に高尾稲荷社があります。
吉原の遊女、高尾大夫の霊を祭っている稲荷神社です。*1
石柱は、掘削の際に土中から掘り出された遺物を転用しているそうです。
箱崎北新堀町会が設置した縁起。
八丁通り(武蔵の警察署の前の通り)から三鷹駅北口に至る一画は、スナックや飲食店が集まる八丁商和会*1 のエリアで、かつての特飲街があった場所※1 もこのエリアに含まれます。
周囲は、高層マンションや居酒屋チェーンの本社ビルなどが建ち並びます。
駐車場脇に、ひっそりと佇む八丁稲荷。
八丁の名が残る稲荷神社です。
特飲街の女性たちも信仰したのかもしれません。
新天地カフエー街の中心部にある稲荷神社*1 玉垣は、新天地カフエー組合が寄進したものです。
第二千鳥、二葉、高砂、ハトバの屋号が刻まれいます。
大和、三笠、三ツ和、ラッキー。
若松、笹本、スカイ。
新川二丁目にある「於岩稲荷田宮神社」は、四ツ谷の 「於岩稲荷田宮神社」同様、「東海道四谷怪談」の主人公「お岩」の伝承を持つ神社です。新川二丁目の田宮神社は、歌舞伎俳優の初代市川左団次が明治の中頃、芝居小屋の近くに置きたいと希望して生まれました。*1
花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。
明治座寄進の賽銭箱。
鳥居。この参道の奥にはお百度石と稲荷社があります。
【参考文献】
*1 塩見鮮一郎:四谷怪談地誌(河出書房新社,2008)P.13-P.14
京浜急行の大森海岸駅から第一京浜国道沿いに南下すると、磐井神社があり、社殿の右側に稲荷社があります。玉垣の積石に朱入りで名前が刻まれています。昭和44年に明治百年事業として寄進されたものですが、この地の花柳界を支えてきた料亭や芸妓置屋の名があって、かつての繁栄が偲ばれます。*1
芸妓屋が開業した当時隆盛した伊勢原、魚栄、八幡楼はその後廃業し、松浅がひとり繁栄をつづけました。*2
松浅の主人で、当時大森海岸料理屋組合長であった松木浅次は、花柳界の振興策として「大森海岸小唄」を流行らすことを仕掛け、大森の名は一気に広まりました。*1
日露戦争後の好況に伴って開業したのが、鯉屋、日の出屋、初鯉屋、立花家などであり、鯉屋は、常に芸妓40名を下ることなく、全国各都市を通じ、常に第一流の地位を占めていました。*2
「松登久」は、現在の大森北2丁目14に当時からあった、そば屋の「松登久(まつとく)」*3 でしょうか。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.217,P.219
*2 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1140
*3 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)
浜松町駅の南側にある讃岐稲荷神社。
玉垣に、「新明三業組合」の名があります。
鶴田浩二、伴順三郎、などのスターが寄進した玉垣があります。
「銀座おそめ」は、川端康成、白州次郎、小津安二郎などの有名人らが集まる伝説のバーでした。マダムのおそめ(本名:上羽秀)は、元京都の芸妓で、小説のモデルにもなりました。*1
【参考文献】
*1 石井妙子:おそめ(新潮社,2009)
神楽坂通り(早稲田通り)から見番横丁へ向かう通りの途中に伏見火伏稲荷があります。このあたりは、本多横丁界隈の牛込花柳街とともに、毘沙門天裏の神楽坂花柳街として賑わいを見せていた地域です。
現在も、賽銭と花、そして油揚げが供えられています。
玉垣の料亭や芸者置屋、待合の名前に、当時の栄華が偲ばれます。
田中角栄元首相がいくつかのエピソードを残した料亭「松ヶ枝」の名が彫られた玉垣があります。
尾久から田端駅へ向かう途中(東田端1丁目)に東灌森稲荷神社(とうかんもりいなりじんじゃ)があります。
案内板によると、手水台は、新吉原の関係者が奉納したもので、手水台の裏面に寄進者の名前がきざまれているそうです。
手水台の裏面を見ると、「新吉原仲町…」と書かれているのが、かろうじて判読できます。
鳥居の柱部分には、「新吉原江戸町壹丁目 尾張屋彦太郎」と刻まれています。
玉垣に田端のカフエーの名があります。
岩亀稲荷の入口。美しい石畳の路地が奥へと導いてくれます。
当時、横浜の遊廓の岩亀楼の寮がこの近くにあり、遊女たちが信仰していたお稲荷様が寮内にあったので、岩亀稲荷と呼ばれ、現在でも信仰が続いています。岩亀稲荷を語る上で忘れてならないのが、「喜遊」という遊女の物語です。喜遊は岩亀楼の中でもとりわけ人気のある遊女でした。ペリー艦隊の軍人の一人に、喜遊にどうしても会いたいと思う軍人がいて、軍人は、幕府の役人を通し、岩亀楼の主人に喜遊がその軍人の相手をするよう命じました。しかし喜遊は外国人の相手をすることを拒み、自ら喉を懐剣で突いて自害しました。*1
喜遊の伝承は、染崎延房の「近世紀聞」(1875年~81年)第2編の一節がもとになっています。その中に、「今の開化に比ぶる時は頑癖(ぐわんへき)なるに似たれども此頃は娼妓だも洋夷を悪(にく)む斯(かく)の如し」という記述が示しているように、幕末から明治維新にいたる歴史の転換期においては、攘夷と開国とで日本人の意見が分裂した時期でしたが、この分裂は女性の問題としてもあらわれました。異人を避ける伝統的な美徳が称賛される半面、いわゆる”らしゃめん”と呼ばれた異人の妾が出現し、開国の一面を象徴していました。当時の横浜の遊廓には、岩亀楼など15軒の妓楼に”らしゃめん”が置かれていました。*2
喜遊は、自害するとき、「露をだに厭う倭の女郎花 ふるあめりかに袖は濡らさじ」という辞世を残しました。*1
【参考文献】
*1 岩亀稲荷:「岩亀稲荷と岩亀横丁の由来」案内文
*2 磯田光一:有吉佐和子「ふるあめりかに袖はぬらさじ」(中央公論社,1982)P.223-P.224 解説
赤坂にある豊川稲荷は、商売繁盛・盗難除けの御利益で有名ですが、芸事も上達すると言われ、赤坂芸者の信仰を集めました。*1
青山通りに面した石垣(大正15年建立)には、寄進者の名前が彫られています。
新吉原「大黒」。
洲崎遊廓の楼主たちは、赤坂の豊川稲荷を信仰していました。荒川楼、高橋楼、花井楼、北川楼などが判読できます。*2
【参考文献】
*1 小林奈津子:散歩の達人(1999.6)P.30-P.31「どこか一線を画す大人の赤坂」
*2 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.286
いろは通りに面したスーパ-マーケット。多くの買い物客で賑わっています。
昭和30年代までは、この場所に「玉の井文映」という映画館がありました。現在のスーパーはその建物を利用しています。*1
スーパーの奥に、稲荷神社があります。
病死した玉の井の娼婦や水子の供養をする稲荷神社です。*1
永井荷風の記念碑があり、荷風が描いた地図が掲示されています。
【参考文献】
*1 小針美男,川本三郎:追憶の東京(河出書房新社,2006)P.10
東清寺の入口。玉の井稲荷と書かれています。
お寺の中に稲荷神社があるということでしょうか。
狐の像。
大正道路の記念碑。
小さな稲荷神社があります。
正面の石柱に「新天地カフェー組合」と刻まれたプレートが取り付けられています。
玉垣に寄進者のカフェーの名前が刻まれています。
尾張屋橋の登り坂の途中から見たところ。