牛浜駅の東側にある「福生アメリカンハウス」は、1958年に建てられたアメリカンハウスを使ったコミュニティスペースです。*1

内装も50年代当時の雰囲気が再現されています。*1

当時の珍しい写真も展示されています。

外人バー街には、空地があり、そこにはいつもアメリカ人の車が駐車していた。(解説文より)

せんそう・せんりょう
牛浜駅の東側にある「福生アメリカンハウス」は、1958年に建てられたアメリカンハウスを使ったコミュニティスペースです。*1
内装も50年代当時の雰囲気が再現されています。*1
当時の珍しい写真も展示されています。
外人バー街には、空地があり、そこにはいつもアメリカ人の車が駐車していた。(解説文より)
今回は、福生(東京都福生市)の町並みを散歩します。
朝鮮戦争の頃の米国本土からの米軍人家族移住策により、基地内における米軍人家族用の新規居住が困難となったため、1951年、当時の基地の司令官が、米軍人家族用の一戸建て賃家である「ハウス」の建設を福生市に要請しました。これが、アメリカンハウスです。*1
ハウスは、米軍によって規格化された平屋の一軒家で、全室が洋間であることと、平均10畳のリビングと庭があることを特徴としていました。*1
外壁は、水色やピンク色に塗装されています。
最近は、店舗に転用されている事例もあるようです。
大国魂神社の参道の右側に「ふるさと府中歴史館」があります。建物の2階の公文書史料展示室に、「戦後70 年府中と戦争の記録~戦中・戦後の市民のくらし~」の展示があります。
「進駐軍が来た」の展示。
米軍府中基地正面ゲートの写真。1945年9月、連合国軍が陸軍燃料廠(現在は航空自衛隊府中基地)を接収して設置しました。(説明文より)
連合軍のMPは、民間の住宅までも家宅捜査し、靴をはいた土足のままで畳の室を歩きまわりました。*1
当時の府中警察署が各家庭に配布した「家庭ノ皆様ヘ御注意」のビラ。
婦女はモンペまたはズボンを着用すること、婦女の一人歩きや外出はしないこと、婦女は進駐軍兵士や駐屯地には近寄らないこと、などの注意事項が書かれています。
【参考文献】
*1 黒田要:終戦後の府中町と私(黒田要,1972)P.20
今回は、国立(東京都国立市)の街並みと風俗を散歩します。 国立の学園都市は、神田にあった東京商科大学(現在の一ツ橋大学)の国立への移転を前提に開発が行われました。これに伴い、大正15年(1926年)に国立駅が開業しました。*1 |
国立駅前のロータリーに「国立文教地区」の看板が掲げられています。文教地区とは都条例で指定されるもので、風営法の適用を受ける料亭・キャバレーやホテル・旅館建築、劇場、遊技場や馬券発売所など、風俗を乱す恐れがあるものが規制されます。*1
昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発すると、隣の立川市には米軍基地に多数の米兵が進駐してきました。その影響は国立にも及び、米兵相手の簡易旅館や飲食店などが出現し、いかがわしい商売を始めたため、環境を守ろうとする市民や学生を中心に、浄化運動が始まりました。国立の浄化運動の特徴は、「文教地区指定」をかかげたことでした。昭和25年のに公布された東京都文教地区建築条例に注目して、この指定の実現を運動の柱にすえ、昭和27年(1952年)文教地区の指定を受けました。*1
現在の国立駅前の「大学通り」は、並木道が続く美しい町並みとなっています。
地下鉄有楽町駅を地上に出ると、皇居を望む丸の内です。
ここには、第一生命本館、帝国劇場、明治生命ビルなど、昭和の激動期を見つめてきた近代建築物が多く残っています。
明治生命ビルは、昭和9年(1934年)竣工。ギリシヤ・ローマ建築を思わせる建築形式です。敗戦後、マッカーサーが一部会議室として使用しました。*1
マッカーサーがGHQ(連合軍最高司令部)の本部を置いたのは、明治生命ビルの300m南にある第一生命ビル(現DNタワー21)です。マッカーサーの執務室なども保存されています。*1
東京宝塚劇場は、1934年、東京での宝塚歌劇の拠点となる劇場として誕生。その後、立替工事を行い、2001年、リニューアルオープンしました。3
敗戦後は、アニー・パイル劇場と改名された宝塚劇場は、他の接収施設とは多少事情が異なりました。観客は米軍の将校、兵隊でしたが、舞台上や舞台裏で日本人が活躍し、戦後の日本のエンターテイメントの発祥の地となりました。2
【参考文献】
*1 小林一郎:目利きの東京建築散歩(朝日新聞出版,2010)
*2 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.149-P.153
【参考URL】
*2 宝塚歌劇団:宝塚歌劇ホームページ劇場案内
昭和28年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終わりました。そのわずか13日後の8月27日、進駐軍のための特殊慰安施設の本部として、RAA(レクレーション・アミューズメント・アソシエーション)の設立式が皇居前広場で行われました。*1*4
「新日本の女性に告ぐ!戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍慰安施設の大事業に参加する新日本女性の率先力を求む」こんな看板が銀座の通りなどに掲げられました。
RAA本部は、銀座7丁目の中華料理屋「幸楽」(現在の銀座ライオンの手前のあたり)にありました。*2*3
その後、RAA本部は、銀座8丁目角の博品館ビルに移転しました。*2*3
この博品館ビルには、昭和39年(当時、観光会館)、福富太郎さんが、キャバレーの「銀座ハリウッド」をオープンさせました。RAA本部のあったビルのオーナーの伊藤弘義社長から、「君ならこの大ビル全館を使いこなせる。」と勧められたのがきっかけでした。「銀座ハリウッド」は、延べ1000坪、全館吹き抜けでした。*2
現在の博品館ビルには、りかちゃんクラブが入っています。内容に違いこそあれ、女性に縁の深いビルと言ってよいのではないでしょうか。
【参考文献】
*1 小林大治郎,村瀬明著:みんなは知らない 国家売春命令(雄山閣出版,1961)P.12-P.15
*2 福富太郎:昭和キャバレー秘史(1994,河出書房新社)P.70-P.71,P.170-P.171
*3 武揚堂:地図物語 あの日の銀座(武揚堂,2007)附図
【参考記事】
*4 風俗散歩(大森):慰安所第1号跡地
「赤線」を東へ行くと、JR八高線の踏み切りを越えると、国道16号線に出ます。国道の向こうは米軍横田基地の第二ゲートです。
国道沿いに店が並びます。
店の看板は、すべて英語です。アメリカがそのまま引っ越してきたような雰囲気です。
派手なペンキ絵のなるお店。