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川崎南町(「新地」の標識)小土呂新地の名残。

かつて川崎宿の一部だった旧東海道沿いの通り(小川町通り)。この付近は、川崎遊廓があった場所です。
この付近は、小土呂新地と呼ばれ、大正11年には南町と呼ばれるようになりました。
江戸時代より飯盛女を抱えた旅籠屋は、風紀上問題が多く、明治35年、この地に移されました。

近くには「新地支」と書かれた電柱標識があります。

旧東海道から南へ入った場所にある南町公園。

ここにも「新地支」のプレートがあります。

参考文献

*1 日本地名研究所 川崎の町名 川崎市 1991
南町
新川堀と旧東海道、それにドブと呼ばれた用水に囲まれた三角形の耕地が大正初期の耕地図で確認されます。…

参考記事

※1 川崎南町(小土呂橋親柱)交差点、バス停に小土呂の名。2020-01-16

川崎南町(小土呂橋親柱)交差点、バス停に小土呂の名。

旧東海道と駅前の大通り(新川通り)が交差する場所に、小土呂(こどろ)橋親柱の史跡があります。*1

親柱。

現在、小土呂の名は、交差点の名前に残っています。

小土呂バス停。

参考文献

*1 日本地名研究所 川崎の町名 川崎市 1991
南町
新川堀と旧東海道、それにドブと呼ばれた用水に囲まれた三角形の耕地が大正初期の耕地図で確認されます。…

この記事を参照している記事

川崎南町(「新地」の標識)小土呂新地の名残。

北千住(遊廓跡地の電柱標識)「廓」「廊」「くるわ」。

かつて千住遊廓があった千住柳町。写真の通りの両脇が遊廓地でした。*1
現在は遊廓時代の面影はありません。

唯一の名残とも言える電柱標識。「廓支」と書かれています。

さて、問題の電柱標識はここからです。古いタイプの標識を見ると「廊支」。これまで幾度となく見てきた※1 廊下の「廊」です。正しい「廓」の表記は、上の写真の1本のみで、他の電柱のほとんどがこの「廊」でした。

1本だけあった、いらがなの「くるわ支」。平仮名表記の廓(くるわ)は、初めて見る事例です。

参考文献

*1 五十嵐典彦 「千住柳町」調査報告書(二) 足立区教育委員会 足立史談 第50号 1972.4
千住遊廓の建物配置図 ・大正8年新開地当時 ・大正12年震災直後

参考記事

※1 清水(清水新地遊廓跡地)「廊」と書かれたプレート2011-11-17
※2 大垣(旭遊廓跡地)電柱に「廊」2012-03-27
※3 唐津(西遊廓跡地)廊内2014-01-06

人形町(思案橋)吉原へ行こうか、芝居に行こうか。

日本橋小網町。現在の首都高速道路の江戸橋JCTの近くには、江戸時代、思案橋がありました。*1
思案橋の近くには、浅草移転前の吉原遊廓(元吉原)があり、この橋の上に立ち、吉原へ行こうか、それとも二丁目の芝居に行こうかと思案したので、思案橋の名がつけられたと云われています。*2

近くには、小網神社があります。

しかし、「思案橋がこの場所にあったというのは誤まりで、正しい思案橋の場所は荒布橋があった場所。」とする論考があります。*3
荒布橋があったのは、現在の小舟町交差点のあたりです。

たしかに、ここからだと現在の人形町交差点までは、一本道です。

参考文献

*1 吉原健一郎 復元・江戸情報地図 朝日新聞社 1996
26 神田川御蔵可・神田一円・日本橋・八丁堀北 台東区/干代田区/墨田区/中央区/江東区
P.59 思案橋、荒布(あらめ)橋の位置の記載。
*2 石本馨 *大江戸橋ものがたり 学研 2008
思案橋
P.108 思案橋の近くには、浅草移転前の吉原遊廓があった。この橋の上に立ち、吉原へ行こうか、それとも二…
*3 秋田書店 江戸名所100選 1973
P.78 思案橋の疑問 思案橋は、一に小網橋ともいう。日本橋から、東堀留川へ分岐する、その分岐点に架け…

吉原(「土手」の屋号)昔の名残が看板に息づいています。

江戸時代、吉原へ通じる道は、土手になっていて、その土手は日本堤と呼ばれていました。*1
現在の「土手通り」沿いには、屋号に「土手」とつく店が多くあり、日本堤の土手はなくなっても、昔の名残が看板に息づいていると言えます。*2
天丼が有名な「土手の伊勢屋」は、行列ができる人気店です。

馬肉の店。

土手の薬屋。

「堤」と書いて「どて」と読みます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(吉原):土手通り(2011.4)
【参考文献】
*2 洋泉社:図説江戸吉原の本(洋泉社,2012)P.99

板橋(板橋)区の名前になっている橋。明治時代と変わらぬ風景。

今回は、板橋(東京都板橋区)の町並みと風俗を散歩します。
板橋旧中山道が下り坂となり、石神井川をまたぐ小橋がありますが、これが区の名前にもなっている「板橋」です。

橋の右端にある日本橋からの距離表示だけが、明治時代と変わらぬ風景です。*1

石神井川の流れ。

現在の橋は、昭和47年に架け替えられたものです。*1

【参考文献】
*1 日本文芸社:荷風!Vol19(2009.3) P.86

浅草(旧紙漉町)浅草紙」の発祥の地。その後、山谷堀の周辺に移転。

浅草の雷門通り。この日は、三社祭の日でした。

雷門通りの南側、国際通りの東側は、旧浅草田原町一、二、三丁目から、雷門通りの北側の旧浅草北田原町の一帯は、紙漉き(かみすき)を業とする人たちが住んでいたことから、紙漉町と呼ばれていました。旧町名の案内板には、このことが記述されています。
トイレットペーパーが普及する以前まで使われていたネズミ色をしたチリ紙(別名、「落とし紙」、「便所紙」)のことを「浅草紙」と呼びますが、紙漉町は、「浅草紙」の発祥の地です。

紙漉町の紙漉場の多くは、その後、山谷堀の周辺に移転しました。浅草紙の漉家にとって山谷堀は、紙漉きのための用水を供給してくれる大切な水資源でした。現在の東浅草一丁目に、”紙洗橋”の欄干が残っていますが、これは、山谷堀の漉家が堀端に水槽を設けて、紙漉きの作業の工程の一つである”冷やかし”(原料を 水につけておく作業)を行っていたことを示すものです。山谷の漉家で働く男たちは、”冷やかし”の間の二時間あまりの時間を利用して山谷堀をわたって新吉原に潜入し、偵察に出かけるのを楽しみにしていました。これが、「買わずに帰る」”冷やかし”の語源となりました。*1

雷門通りを挟んだ北側には、「旧浅草北田原町」の案内板。雷門通りをはさんで南北二町に分けられたため、南側が田原町三丁目、北側が北田原町三丁目(現在の浅草一丁目)になったと説明されています。

【参考文献】
*1 會田隆昭:浅草紙の三〇〇年–江戸=東京北郊に於ける漉返紙業の歴史地理(百万塔/紙の博物館, (113),2002.10)P.79-P.82

洲崎(電柱のプレート)「遊園」の名。大人向け遊園地?。

旧洲崎遊廓の敷地の電柱には、2種類のプレート貼り付けられています。
一つは「南海」、そしてもう一つは「遊園」です。

亀戸の私娼街だった亀戸遊園地(現在は住宅街)の電柱には、「遊園地」と書かれたプレートがありましたが、洲崎の遊園地も亀戸遊園地*1 と同じように、『大人向け遊園地』という意味の名前だったのでしょうか。

手書きの「遊園」のプレート。

「遊園」のプレートがあるのは、戦後復興したと言われる東半分のエリアのみです。西側半分側の電柱のプレートはすべて「仙印」と書かれています。

【参考文献】
*1 風俗散歩(亀戸):「遊園地」と書かれた電柱のプレート

長崎丸山(思案橋)行こうか戻ろうか。円山・旧花街へ通じる石段。

今回は長崎(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
長崎の観光名所「思案橋」は、丸山・旧花街の入口にあります。橋の欄干を型どったモニュメントが交差点の周りに設置されています。このモニュメントは市電の線路と平行になっているので、いかにも電車が「思案橋」をわたっているように見えるのですが、ほんとうは川と平行に電車が走っていて橋はこれとほぼ直角にかかっていました。*1

思案橋があった位置は、思案橋商店街の入口前(写真奥)の西寄りの端です。*1

思案橋があった場所から西に100mほど行くと、円山・旧花街へ通じる石段があります。

石段の登り口に思案橋の由来を説明したプレートがあります。
「長崎名勝図会」によれば、ここに橋がかかったのは1592年(文禄元年)で、そのときの名前は川口橋でした。その後、1642年に遊女屋がいまの丸山にうつってきて、色男たちが「行こうか戻ろうか」と思案するので、いつしか思案橋と呼ばれるようになりました。*1

昭和43年、キャバレー十二番舘千属バンドだった高橋勝とコロラティーノの「思案橋ブルース」がミリオンセラーとなり、追って青江三奈が歌う「長崎ブルース」が大ヒットし、昭和40年代は空前の長崎歌ブ-ムでした。*2
【参考文献】
*1 布袋厚:復元!江戸時代の長崎(長崎文献社,2009)P.114-P.115
*2 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.11

原宿(キャットストリート)元の穏田川。現在は暗渠。

今回は、原宿(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
原宿の繁華街の歴史は、進駐軍時代にさかのぼります。終戦になると、代々木の練兵場に進駐軍将校の宿舎「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園)ができ、この進駐軍将校とその家族が買い物をする店が、原宿の表参道に発生しました。中でも人気を集めたのが、昭和25年に原宿の穏田川のほとりに出てスーペニアショップ(進駐軍相手のみやげ店)の看板をあげた「キディランド」でした。兵士たちは、朝鮮戦争が始まってからは、日本を休息地としていたので、パーティが多く催され、そのときの仮装用品をまかなうキディランドは人気のある店で、帰国するときのみやげものもこの店で調達していました。このように、原宿に英字看板の店ができると、娘たちの人気を集め、たちまちのうちに原宿は新しい街となっていきました。*1

表参道の歩道に、「さんどうばし」と書かれた石柱があります。これは、穏田川が流れていた頃の橋の名残です。

穏田川は、現在は暗渠になって上はコンクリートで固められて、「キャットストリート」と呼ばれています。

部分的に石垣が残っていて、かつては川が流れていたことを伝えています。

【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.121-P.147

駅西(椿神社)古くから椿の森として親しまれてきました。

駅西のビックカメラの脇の通りを行くと、「椿神社前」の交差点があります。この交差点をまっすぐ行くと「駅西銀座」です。

交差点の角には、「椿神社」があります。

駅裏が都市計画の俎上(そじょう)に上がったのは、昭和34年のことでした。もはや駅裏ではなく、新しい駅西が出現しました。*1

駅西のカナメとなって鎮座する椿神明社は、古くから椿の森として親しまれてきましたが、椿の群生は今はありません。境内のわずかな椿の花が、駅西のさまざまな幻想を盛り上げてくれます。*1

【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.268-P.271

皆ヶ作(旧町名「駒寄(こまよせ)名残)「歓迎花屋敷花柳界入口」の大アーチ看板。

現在の船越六丁目は、旧町名で「駒寄(こまよせ)」と呼ばれていました。駒寄、細長い谷戸で、この谷戸の一角の田んぼを埋めてみんなが協力しあって作った町だ、ということから「皆(みな)ヶ作」、それが転じて、「かいがさく」と言うようになりました。ここには、花屋敷(文字通り植物の花を扱っていた屋敷)がありました。昭和初期には、皆ヶ作の入口から奥へ、たくさんの居酒屋やカフェーが軒を連ね、どの店にもきれいな女給さんがいて、愛想よく客を呼び込んでいました。*1


「駒寄会館」に旧地名が残されています。

町内会には、「駒寄」の地名が継承されているようです。

京急田浦駅近くの丘陵から、駒寄(現在の船越町6丁目)方面。周囲を山に囲まれた谷戸であることがわかります。

駒寄の入口には『歓迎花屋敷花柳界入口』」の大アーチの看板がありました(銘酒屋街の入口と思われます。)。
最盛期、銘酒屋は45軒ぐらいあり、娼婦は1軒につき4人ぐらいいました。*2

参考文献

*1 古老が語るふるさとの歴史 北部編 1981
駒寄周辺
P.34 駒寄(船越六丁目)は、細長い谷戸です。ここは「牛谷戸」と呼ばれ、昔はたくさんの牛を飼育してい…
*2 古老が語るふるさとの歴史 北部編 1981
皆ヶ作の銘酒屋
P.140-P.142 大正初めまで、皆ヶ作と呼ばれていた辺りは一面の田んぼでした。大正9年にここを埋め立てま…

西新宿(熊野神社)十二社という地名でした。

新宿中央公園に隣接する場所に熊野神社があります。このあたりは、かつては十二社(じゅうにそう)という地名でした。

境内に案内板があります。これによると、十二社は、池や滝を擁した江戸時代からの景勝地で、明治時代からは遊興地として発展し、第一次大戦後は、約60軒の料亭があったそうです。

案内板に掲載されていた「十二社の池」の写真

「十二社の池」は、十二社通りをへだてて建つ現在はビルが建っているあたりにありました。 *1
現在、「十二社の池」は、バスの停留所の名前に名残を見ることができます。

【参考文献】
*1 熊野神社:「十二社 熊野神社の文化財」案内パンフレット

秋葉原(講武稲荷神社)旧町名の旅籠町の名残です。

秋葉原の石丸電気の隣に講武稲荷神社があります。

講武稲荷神社は、花街の繁栄に貢献顕著だと言われ、近隣の関係者はもちろん、向島からも参詣者があったとされています。(説明文より)

このあたりは、旧町名で、旅籠町と呼ばれていました。旅籠町は、もとは、昌平橋外河岸通りにあって、そこは板橋宿・川口宿への街道筋にあたって旅籠屋が多かったことから旅籠町と名づけられました。その後、移転や合併により、現在の外神田1・3丁目の一部となりました。*1
稲荷神社に旅籠町町会と書かれた街路灯が記念に残されています。

今でも、旅籠町の名残を見ることができます。(古美術茶廊「伊万里」にて)

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(2006,東京堂出版)P.326

入谷~吉原(吉原今昔図)吉原神社。妓楼の配置図。

吉原弁財天のすぐ近くに吉原神社があります。

境内には、「吉原今昔図」が掲示されています。

明治時代から現在に至るまでの、妓楼の配置が描かれています。

吉原遊廓の写真や地図、解説もあります。

入谷~吉原(花吉原名残碑)吉原弁財天。庄司甚右衛門の碑。

途中、吉原弁財天へ立ち寄りました。ここには数多くの見所があります。

「花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)」は、吉原が、江戸唯一の幕府公認の遊郭であり、昭和33年の売春防止法が施行されるまで続いていたことを名残惜しむ碑です。

花吉原名残碑の隣には、幕府の許可を得て元吉原を開業した庄司甚右衛門の碑があります。

案内板があるので、これを読むと吉原の歴史を知ることができます。

----花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)----
吉原は、江戸における唯一の公許の遊廓で、元和三年(1617年)、葺屋町東隣(ふきやちょうひがしどなり、現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭(よし)の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良いう文字に改めたことによるという。
明暦三年(1657年)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され、同年8月、浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び、移転前の遊廓を「元吉原」という。
新吉原は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「買春防止法」の成立によって廃止された。
(後略)