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すべてのジャンル > 遊興 > 遊廓・赤線 飯盛旅籠 1旧保土ヶ谷宿 2貸座敷跡地 3川崎宿 私娼街遺構 4怪しげのスナック店 銘酒屋街 5色街だった頃のメインストリート 6赤線時代の建物 7赤い壁の建物 8目抜き通りに面したお宅 9窓枠に装飾のある建物 10戦前の玉の井 11赤線建物 12天神裏 チャブ屋街 13本牧小港のチャブ屋街跡地 14チャブ屋街の名残 15大丸谷のチャブ屋街跡地 米軍キャバレー跡地 16慰安所第一号店跡地 17東京パレス跡 18米軍キャバレー「玉川」跡地 特飲街 19八丁特飲街跡 20羽衣特飲食街跡 21特飲街跡地 吉原遊廓 カフェー街 22カフェー「スエヒロ」跡 23「酒亭かの子」 24路地裏の料理屋街 25カフェー「金鶴」跡 26旧カフェー街らしき場所 27旧カフェー街跡地 28カフェー街跡 29四角形の窓を持つスナック。 30錦町赤線跡 31旧カフェー街 32特殊カフエーの名残 33「新天地」の電柱番号札 34新天地カフエー街跡 35楽天地カフエー 36「お食事処東洋」 私娼街跡地 37遊園地跡 遊廓跡地 38横浜公園 39諏訪町の花街 40遊廓跡 41保土ヶ谷遊廓跡地 42稲荷新地遊廓跡地 43大滝町 44柏木田遊廓跡地 45反町遊廓跡地 遊里(中世) 46元吉原 47京橋柳町遊里跡地 48元吉原以前の傾城屋跡地 49名古屋城展示室 妓楼跡地 50品川遊廓跡 51大文字楼跡地 52板橋遊廓跡地 53稲佐遊廓跡地 54新藤楼跡地 妓楼遺構 55田町遊郭跡 56旧妓楼 57蔦に覆われた建物 58田町遊廓跡 59新藤楼玄関 60住ノ江遊廓 妓楼の建物 61戸町遊廓跡の建物 遊廓遺構 62岩亀石灯籠 63大門 64おはぐろとぶ跡 65おはぐろどぶ跡 66おはぐろどぶ跡 67遊廓時代の石塀 遊廓跡地(区画) 68旧田町遊廓大門通り 69花岡遊廓跡 70新島原遊廓跡地 71稲佐遊廓跡地 72平塚遊廓跡地 73新宿遊廓跡地 74小城遊廓跡 75稲佐遊廓跡地 北側の通り 赤線建物 76赤線跡 77旧「大賀」 78マスミ 79坂井旅館 80赤線跡 81千住柳町赤線跡 82路地裏に残る赤線跡 83親不知通り 84赤線跡 85赤線跡 86商店街裏の路地 87船橋新地跡 88旧赤線街 89旧「金よし」 90京町二丁目と角町の間の通り 91浜町旅館街 92旅館 93伏見通り 94赤線時代の建物 95仲町通り 96旧赤線建物 97鳩の街の赤線建築 98商店街の路地に残る廃屋 99第一京浜裏手の路地 100旧丸健跡 101旧丸健跡 102赤線跡 103旧桜井旅館 104茶色の円柱の建物 105旅館「白菊」跡 106赤線跡 107浅草ホテル跡 108赤線跡 109赤線跡 私娼・青線 110旧カフェー街 111西大久保公園 112ラブホテル街 113岡場所跡 114ちょんの間跡 115天祖神社 116岡場所跡地 117苦竹駅近くのスナック街 118歓楽街の名残 119ガード下 120三ノ輪新開地 121安浦神社 122あずま通り 123旧カフェー街 124「せきとめ神」の祠 125聚楽館通り 126かつての私娼街 127“湯の街”計画跡地 128「たんぼ」跡 風俗店 129元ちょんの間地帯 130ちょんの間跡 131不倫クラブ 132阪東橋付近 133湯房ふじさわ 134東京温泉跡地 135角海老 136柴又キング跡 137トルコ風呂改名の舞台 138首相官邸裏 139トルコ芳泉 140繁華街の無用看板 141トルコ風呂跡地 142湯女風呂跡地 143駅前の歓楽街 144風俗店 145横田トルコ跡地 146駅北口の繁華街 147「浅草ニュートルコ」跡地 148栄町ソープ跡 149仲通り商店会の風俗店 150花街跡地 151明朗会計の店 152かつての旅館街 153駅前の風俗街 154アール形状の庇を持つ建物 155リップスティック

茂原(リップスティック)軽食店併設の風俗(サロン)店。

房総横断道路沿い。

交差点脇に1軒屋の建物。

サロン(風俗店)と軽食が併設された店舗です。

現在は休業している模様です。

伊勢佐木町(アール形状の庇を持つ建物)赤線建築を彷彿させます。

曙町の親不孝通り。

2階部分がレトロな感じです。

赤線建物を思わせるアール形状の庇。

白い円柱。

川崎(川崎宿)飯盛旅籠が散在していました。

今回は、川崎(神奈川県川崎市川崎区)の町並みを散歩します。
川崎市街を東西に横断する旧東海道。江戸時代は宿場町として繁栄しましたが、現在はその面影はありません。

現在の本町一丁目付近には、川崎宿を示す掲示が多く設置されています。

遊女の墓のある宗三寺周辺には、平旅籠の他に、飯盛旅籠も多く散在していました。*1

本陣近く。この付近も飯盛旅籠がありました。*1

参考文献

*1 根本佐智子 川崎宿復元の試み 神奈川県立歴史博物館 神奈川県立博物館研究報告(44) 2017
川崎宿推定復元図 P.35 「文久三年将軍御上洛ニ付宿並図書上」のデータを表にまとめ、さらに一軒ずつを…

常陸多賀(駅前の風俗街)スナックや風俗店が散在するエリア。

常陸多賀駅の駅前の商店街の裏側。この付近はスナックや風俗店が散在するエリアです。

レトロな感じの風俗店ビル。

入口。

道を挟んだ向かい側の店舗。

藤沢(かつての旅館街)現在はマンションが林立。

藤沢のかつての歓楽街は、現在は多数のマンションが林立する町並みに一変しています。

スナック街の「小鳥の街」※1、「湯房ふじさわ」※2などがあった場所は、駐車場になっています。

仙成旅館と和風スナックが建ちならんでいた場所※3 もマンションに建て替わっています。

かつての面影はありません。

長崎丸山(遊廓時代の石塀)寄合町の玉泉神社。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みを散歩します。
かつての遊廓だった丸山。寄合町に玉泉神社があります。

この玉泉神社の南側と東側には、遊廓時代からあった石塀が現在残っています。

南側の石塀。

東側の石塀。

参考文献

*1 長崎国際観光コンベンション協会 長崎さるく
新地・丸山界隈 長崎さるくモデルコース
・遊廓時代の石塀の解説。

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地 北側の通り)現在は名残はありません。

マタロス休息所※1 が発展して出来上がった稲佐遊廓。現在はその名残はありません。

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

旅館松月

逆方向(東側)から。

長崎戸町(戸町遊廓跡の建物)木造三階建て。

戸町一丁目の海岸一帯は昭和初期までここは遊廓地帯で、狭い道を挟んで木造三階建てを主とした大きな家が二十軒ほども競い建っていました。*1
現在もその名残と思われる木造三階建ての建物が残っています。

かつての雰囲気と名残を感じます。

奥行のある建物です。

高台の上る道路の途中から。

参考文献

*1 嘉村國男 長崎町人誌 第6巻(さまざまのくらし編 住の部 2) 長崎文献社
古きよき時代の戸町一丁目
P.296 今はここの海岸一帯は造船関係の工場や駐車場となり、様相を一変しているが、昭和初期までここは遊…

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長崎戸町(2階建ての木造家屋)奥行のある町屋風の建物。

小城(住ノ江遊廓 妓楼の建物)面影を残す門構え。

現在は、住宅街となっている住ノ江遊廓跡に、1軒だけ、当時の三階建ての妓楼の建物が残っています。*1

遊廓の面影を残す塀。*1

玄関付近。

北側に隣接する敷地にも立派な塀が残されています。

参考文献

*1 岡本澄雄 江戸吉原の遊廓と住ノ江遊廓 小城郷土史研究会 小城の歴史 : 第73号 2016
住ノ江は、江戸後期には生活の糧として有明海の魚介類を水揚げしていた漁村であったが、近代化の原動力と…

小城(小城遊廓跡)住ノ江橋の東側。

住ノ江遊廓の開業は大正9年11月3日で、八軒の遊廓が軒を並べてどの遊女屋も5~10人の娼妓を抱えていました。*1*2

メインの通り(北側から)。写真奥は住ノ江橋です。*3

東側に入ったところには、検査所がありました。*3

六角川の堤防から旧遊廓地の遠望。

参考文献

*1 福岡博 佐賀・小城・多久の今昔 : 保存版 郷土出版社 2012.11
*2 岡本澄雄 江戸吉原の遊廓と住ノ江遊廓 小城郷土史研究会 小城の歴史 : 第73号 2016
住ノ江は、江戸後期には生活の糧として有明海の魚介類を水揚げしていた漁村であったが、近代化の原動力と…
地図1 かつての遊廓配置図(住ノ江遊廓)

板橋(新藤楼跡地)遺構は郷土資料館に保存。

今回は、板橋の町並みを散歩します。
旧中山道沿い(現在は商店街)の中程。板橋遊廓最大と言われた新藤楼は、明治16年の開業で昭和10年頃まで営業していました。新藤楼があった場所には、現在はマンションが建っています。
新藤楼の玄関部分の遺構は郷土資料館 ※1 に移築・保存されています。

新藤楼の建物は、昭和47年まで都病院の建物として残っていました。現在のマンションの1階には、同名の屋号の写真館が営業中です。

旧道をさらに西へ進み、王子新道を超えたあたりにも妓楼がありました。

逆方向から見たところ。

成増(新藤楼玄関)玄関部分の遺構が保存されています。

板橋区赤塚5丁目にある板橋区立郷土資料館。入口に旧板橋遊廓「新藤楼」の玄関部分がここに移築、展示されています。

玄関部分のみですが、かなり大きな遺構です。

銅板の説明書き。

唐破風の屋根の中央の意匠。

大宮(明朗会計の店)電飾看板が残るビル。

大宮の南銀座*1 の裏通り(線路沿い)。かつては風俗店だったと思われる電飾看板が残るビルがあります。

その隣にある「明朗会計」の大看板。

ビルの脇の路地。

ビルの表側。このビル全体が明朗会計店です。

町田(「たんぼ」跡)かつての面影はありません。

今回は、町田(東京都町田市)の町並みを散歩します。
通称「たんぼ」と呼ばれるちょんの間があったあたり。※1

ちょんの間の建物が場所は、現在は駐車場になっています。

逆方向から見たところ。

以前は、道路側から建物を見ることができましたが、現在はマンションやビルが建ち並んでいます。往時の面影はありません。

厚木(花街跡地)通りの両側には、料理屋が建ち並んでいました。

昭和30年代まで、厚木は、鮎漁と養蚕という観光・産業に支えられ、多くの料亭に出入りする芸者衆は、最盛期には100人近くを数えました。*1

昭和15年の花柳街の地図によると、この通りの両側には、料理屋が建ち並んでいました。*1

花柳街跡地の飲食店。

家紋が描かれた塀。

参考文献

*1 厚木市の昭和史編集委員会 厚木市の昭和史 : 変わりゆくまち・くらし 写真集 千秋社
P.169 鮎漁と花柳界 昭和30年代まで、鮎漁と養蚕は、厚木の観光・産業を支える大きな柱であった。多くの…

成田(「お食事処東洋」)パブ.スナック。

JR成田駅から、「成田山近道」の坂道を下っていくと、和食店があります。
「赤線跡を歩く」に、「その先がカフェー街があった場所らしい。」と紹介されている「坂道を下ったところにある古風なバー」。

道路に面した側が正面です。入り口があります。「お食事処東洋」と書いてあります。

路地に面した側は、スナックになっています。店の名は「パブ.スナック東洋」となっています。書いて斜め取ってのドアがあり、まるで赤線建築を思わせるようなデザインです。

「パブ.スナック東洋」の看板。

船橋(仲通り商店会の風俗店)中華食材や風俗店の看板が密集。

仲通り商店会の南側と北側を結ぶ通路。

飲食店に混じって風俗店も営業中です。

中華食材や風俗店の看板が密集しています。

短い路地なので、反対側の商店街へ出れます。

千葉(栄町ソープ跡)1階部分に、石垣のデザイン。

今回は、千葉(千葉県千葉市)の町並みを散歩します。
千葉都市モノレール栄町駅(写真左)の階段前に、7階建ての城郭のビル(写真右奥)があります。

1階部分には、石垣のデザイン。

「英国館」は、現在は閉店中です。

玄関付近。

高田馬場(“湯の街”計画跡地)昭和25年、特飲街騒動。

高田馬場駅前。JR山手線(写真左)と西武線(写真右)と神田川に囲まれた一画に、小規模な飲み屋街が形成されています。
昭和30年頃の住宅地図*1 を見ると、この一画は、「のみや」「ぜんぶのみや」などと記されています。
昭和37年の駅前再開発※1 の後、数年間は「のみや」が残っていましたが、その後は、写真のような飲食店街兼高層マンションに建て替わり、立体化が進みました。

かつては、柳小路というしゃれた名前がつけられていたこの一画。1960年代までは、スラム街同様のドブ小路だったそうです。*2

話はさらに遡りますが、この一画に昭和25年(1950年)、特飲街を建設しようという話が持ち上がりました。*3
ちょうど大田区の池上の特飲街騒動*4※2と同じ時期に、高田馬場でも同様の騒動があったわけです。

夜の飲み屋街。

参考文献

ガード下に「のみや」の記述。
*2 富田英三 新東京百景 スポーツニッポン新聞社出版局 1975
P.100-P.101 騒音地なればこそ繁盛する、飲み屋に焼き鳥、ラブホテル 国電山手線と並行して、その内側…
*3 朝日新聞社 高田馬場に“湯の街”・地元や早大は大反対 朝日新聞 1950.10.4
国電高田馬場駅付近に、“湯の街”を作る計画が向島“ハトの街”の経営者らによって進められ、地元の向上や学…
*4 時事通信社 時事通信 (1510) 時事解説版 世論にゆらぐ歓楽街――池上の場合 1950.11
P.2241-P.2242 「池上特飲街付近」に、特飲街の場所の記載。 住宅地域に割り込んできた新しい”湯の街”特…

参考記事

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鳩の街(赤線跡)1階から2階へ突き抜ける円柱。

旧赤線街「鳩の街」*1 の北端あたり。

青の円柱の建物が残っています。

1階から2階へ突き抜ける円柱。

青一色で統一されています。

鳩の街(赤線跡)黄緑色を基調とした窓の廻りの装飾。

数年前までは、いくつか当時の建物*1 が残っていた通り。

多くの建物が消失する中、こちらの建物は当時のままで残っています。

黄緑色を基調とした窓の廻りの装飾。

現在も鮮やかなタイルの装飾。

四谷大木戸(新宿遊廓跡地)街道の両脇には妓楼が建ち並んでいました。

今回は、新宿大木戸の町並みを散歩します。
明治時代、内藤新宿と呼ばれていた頃、現在の新宿一丁目交差点から西側は、新宿遊廓があった場所で、街道の両脇には妓楼が建ち並んでいました。*1

新宿一丁目交差点南側は、新宿御苑大木戸門です。

逆方向から見たところ。ここから約100m先に、史蹟「四谷大木戸跡」があります。

地下鉄新宿御苑駅近く。
この付近にも妓楼が建ち並んでいました。*1(写真右は秋葉神社。)

参考文献

*1 東京都新宿区教育委員会 地図で見る新宿区の移り変わり 1983
貸座敷、引手茶屋、主要な目標についての記載有り。 P.317 現在の新宿一丁目交差点の西側。 新石楼、三…

浅草(かつての私娼街)「猿之助横町」の碑。

言問通りから千束通りに入ったところ。この道をまっすぐいくと旧吉原遊廓です。

左側に、「猿之助横町」としるした碑がたっています。

このあたりは、明治から大正にかけては私娼街でした。*1*2

電柱のプレートにも「猿之助」。

参考文献

*1 市川小太夫 吉原史話 東京書房 1964
P.13-18 昭和36年3月28日に、浅草千束町二丁目の、亡父の旧邸跡の地所の角に、猿之助横丁という碑が…
*2 都筑道夫 妄想名探偵 講談社 1979
P.41-P.42 この横丁の千束通りの角のところに、明治のころ、歌舞伎役者の市川猿之助が住んでいた。段四郎…

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浅草(「浅草ニュートルコ」跡地)現在は、マンション。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みを散歩します。
花街があった浅草三丁目の東側のはずれ。このあたりまでくると、店舗はまばらになります。

昭和26年の火災保険地図*1 によると、この場所に「浅草ニュートルコ」の記載があります。
トルコ風呂と言えば、昭和26年に銀座に開業した「東京温泉」が第1号というのが、定説となっています。※1
これと、時を同じくして、浅草にも開業していたようです。

隣の歯科医院は、当時も同じ場所にありました。*1

現在は、マンションが建っています。

参考文献

*1 佐藤洋一 あの日の浅草 武揚堂 昭和26年から30年代の思い出と出会う : 地図と写真でたどる (地図物語) 2007
・現在の浅草3丁目30−5に「浅草ニュートルコ」の記載。 ・現在の浅草3丁目40−12。ヘルストロン…

参考記事

池上(特飲街跡地)1950年に出現した歓楽街。

昭和25年(1950)に池上本門寺前(現池上四丁目)に11軒の歓楽街が出現したことに対し、地元PTAを中心とした反対運動が起こり、全都的な問題に発展。参議院厚生委員会がこれを正式にとりあげるなどした結果、2ヶ月に及んだ反対運動が結実し、業者側は自主的な建設中止に追い込まれました。*1
特飲街があったあたり*2は、現在は住宅街となっています。

その後、特飲街の建物は東京都教職員互助会の所有となり、教員寮となりました。
現在その場所は駐車場になっています。*3

特飲街の東側のエリア。

かつての特飲街の東南の一画。現在は飲食街になっています。

参考文献

*1 大田区史編さん委員会 大田区史 下巻 東京都大田区 1996
P.700-P.701 池上特飲街建設をめぐって 事件は、昭和25年(1950)に池上本門寺前(現池上四丁目)に1…
*2 時事通信社 時事通信 (1510) 時事解説版 世論にゆらぐ歓楽街――池上の場合 1950.11
P.2241-P.2242 「池上特飲街付近」に、特飲街の場所の記載。 住宅地域に割り込んできた新しい”湯の街”特…
*3 日本住宅地図出版 大田区北部 1973 ゼンリンの住宅地図 1973.5
P.4 「教員住宅」の記載

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吉原(浅草ホテル跡)1993年頃まで営業。

吉原ソープランド街の江戸二通りと角町通りの間の通りに旅館の建物が現在も残っています。

1993年頃までは、「浅草ホテル」として営業していました。*1

2階部分

現在も残る看板。

参考文献

*1 葭之葉会 吉原今昔図 吉原現勢譜 1993

吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差。

かつての吉原遊廓であった吉原ソープ街の外周部分はおはぐろどぶと呼ばれた堀があった部分です。現在もその名残の段差が随所に残っています。※1

北西側の道路は、段差が顕著に残っている場所の一つです。

吉原交番の近く。おはぐろどぶ跡から道路に向かう場所が坂道になっています。

花園通り(南東側)の段差。ソープ街へ通じる細道です。

津田沼(駅北口の繁華街)飲食店と風俗店が混在

今回は、津田沼(千葉県習志野市)の町並みを散歩します。
JR津田沼駅北口の大通りから西へ入ったところに、小規模ながら飲食店や風俗店が連なる繁華街があります。

1階が焼肉店。2階は風俗店。

繁華街の北側の奥まったあたり。

サロンの看板

亀戸(赤線跡)可憐な概観を持つ建物。奥行のあるアパートの建物。

亀戸の旧銘酒屋街。
「赤線跡を歩く」*1 で紹介されている「可憐な概観を持つ建物」が現在も残っています。

当時は、建物の左上部分に「双葉」と書かれていました。*2

タイルの装飾をコンクリートでくりぬいたような窓のデザインは同時のままです。*2

奥行のあるアパートの建物。

参考文献

*1 木村聡 赤線跡を歩く 自由国民社 消えゆく夢の街を訪ねて 1998
P.27 ・可憐な概観を持つ建物。コンクリートをくり抜いたような窓。 ・何気なくのぞいた倉庫の中にタイ…
*2 小沢昭一 珍奇絶倫小沢大写真館 筑摩書房 2006
P.224 亀戸 赤線跡「双葉」の写真。 売春防止法で、一番最初に完全転業した街。外は昔を偲べても内は工…

福生(横田トルコ跡地)東福生駅への五差路。

福生駅から東福生駅へ向かう五差路。

交差点の角には、かつて横田トルコがありました。現在は駐車場になっています。

1970年の住宅地図*1 によると、横田トルコには、「トルコレストラン」が併設されていました。

横田トルコの西隣には、横田ニューゲストホテルがありました。*1

参考文献

*1 公共施設地図航空 福生市 1970年度版 1970
武蔵野台二丁目の交差点(五差路)に、「横田トルコ」「トルコレストラン」「横田ニューゲストホテル」の…

立川(米軍キャバレー「玉川」跡地)黒人専用。

戦後の進駐軍の性処理問題へ対応は、米軍の人種差別のため、白人兵士用の羽衣町特飲街と、富士見町(西立川駅前)の黒人兵士専用のバーに2分されていました。*1
白人用の特飲街と黒人用特飲街が2分されるのは、かつての沖縄でも同様の状況が見られました。※1
立川の場合は、東の方は白人が、西立川寄りは黒人街にと変わりました。そして黒人専用のバーとして西立川駅の入口に「玉川」が誕生しました。*1

1970年の住宅地図*2 を見ると、駅近くに同じ屋号の「ホテル玉川」の記載があります。

「ホテル玉川」があった場所は、現在は、食品スーパーの建物が建っています。

屋上からの遠望。
昭和記念公園(戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川基地跡地)の緑が見えます。

参考文献

*1 三田鶴吉 立川飛行場物語 西武新聞社 1987
P.245 進駐軍の性処理問題については、GHQの要請によって立川パラダイスがあって旧日本陸軍の将校宿舎…
P.7521 羽衣町一丁目に、荻原荘、稲生荘、千秋荘、大橋寮、横田寮、石田寮、羽衣荘、東松寮、栄荘、萬年…

参考記事

立川(羽衣特飲食街跡)格子状の道路の形状。

今回は、立川(東京都立川市)の町並みを散歩します。
立川の赤線は、錦町※1 と羽衣町の2ヶ所にありました。*1*2
戦後は、旧日本陸軍の将校宿舎に立川パラダイスが作られましたが、やがて閉鎖されると、兵隊達は羽衣町の特飲街へと流れ、戦前からの飲食店街までバーへと一変しました。*3
現在も格子状の道路の形状が残っています。

1970年の住宅地図*4 見ると、この付近には、荻原荘、稲生荘、千秋荘などの屋号の記載があります。転業アパートと思われる屋号の記載があります。

錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観でした。*5*6
写真は、旧特飲街の東端。

旧特飲街の南端は、商店街と接しています。

参考文献

*1 渡辺寛 全国女性街・ガイド 季節風書店 1955
P.66 中央線立川駅を降りると、黄色を尻目に米パンがバイキンのように泳いでいる。 その間を…
*2 上村敏彦 花街・色街・艶な街 色街編 街と暮らし社 2008
P.123 昭和23年当時の立川市の地図(観光の日本社発行)。2ヶ所の指定地がわかる。
*3 三田鶴吉 立川飛行場物語 西武新聞社 1987
P.245 進駐軍の性処理問題については、GHQの要請によって立川パラダイスがあって旧日本陸軍の将校宿舎…
P.7521 羽衣町一丁目に、荻原荘、稲生荘、千秋荘、大橋寮、横田寮、石田寮、羽衣荘、東松寮、栄荘、萬年…
*5 木村聡 赤線跡を歩く 自由国民社 消えゆく夢の街を訪ねて 1998
記録映画「赤線」を見ると、錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観…
P.162 羽衣町から、国電立川駅へ行く途中の錦町。羽衣町はうっかりすると住宅街と間違える。

参考記事

三鷹(八丁特飲街跡)中町一丁目。廃娼運動の結果、1957年に廃業。

今回は、三鷹(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。
三鷹駅の北側、現在の横川電機の工場へ向かう途中に、かつて「八丁特飲街」として賑わった飲み屋街があり、「松月」「ぼたん」「ひばり」「花月」「末広」「ふたば」などの店がありました。*1

南側の路地に入ると、現在もその雰囲気が残っています。

昭和39年(1964年)の住宅*2 には、「花月」「ふたば」など、特飲街時代の屋号を引き継いだ店が確認できます。

電柱番号札に残る「八丁」の名。

1956年5月、売春防止法が国会を通過し、全国各地の草の根からの廃娼運動の結果、1957年12月19日、業者側は遂に廃業声明を発表するに至りました。*3

参考文献

*1 上村敏彦 花街・色街・艶な街 色街編 街と暮らし社 2008
P.120-P.121 戦後の混乱期がやや落ち着き始めた昭和24年(1949年)、中町二丁目の一画に八軒の木造の家が…
*2 東都地図社 武蔵野市商工住宅名鑑 1964
P.31 八丁特飲街があった場所(武蔵野市中町1-19-9)に、下記屋号の記載。「扇」「青島」「フ…
*3 竹村民郎 女の戦後史-45-売春防止法--婦人相談員の献身的努力に支えられて 朝日新聞社 朝日ジャーナル 2月10日号 1984.2.10
P.33 1950年秋、東京都武蔵野市八丁(中央線三鷹駅北口)に、8軒の「青線」が出現した。業者たちは、5,28…

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本牧(大丸谷のチャブ屋街跡地)現在のJR石川駅近く。

チャブ屋の語源は、軽飲食店を指す「CHOP HOUSE」とされ、港の人力車夫たちの間で転訛していきました。これが明治初年のことで、大正年間、本牧小港*1 と大丸谷(おおまるだに)の2ヶ所に統合され、震災後は日本人の客も出入りするようになりました。*2

大丸谷のチャブ屋街は、現在のJR石川駅からすぐのところにありました。*2
1956年の住宅地図*3 によると、この付近には「バーオリエンタル」がありました。

「HOTEL第一」「HOTEL横浜」があったあたり。*3

この交差点の角には、「旅館ヒーロー」がありました。*3

淡谷のり子が歌った「別れのブルース」は、作曲家の服部良一が、私娼窟が密集している本牧のバーで洋酒を傾けていたときに思いつき、藤浦洸が作詞しました。「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える....」*4

【参考記事】
*1 風俗散歩(本牧):本牧小港のチャブ屋街跡地(2009.5)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.70-P.71
*3 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
*4 吉武輝子:別れのブルース(小学館,2003)P.205-P.206

本牧(チャブ屋街の名残)屋上に自由の女神像。

戦後営業を再開していた頃の本牧チャブ屋街。本牧町2丁目に名残があります。*1

横浜ロイヤルホテル。(昭和31年の住宅地図*2 では「ロイヤルパーク」)
この付近は、チャブ屋と思われるホテルが密集していました。*2

ホテルの屋上に設置されている自由の女神像。

自由の女神が立つホテルを見ていると、大正時代のチャブ屋が並ぶ町の姿が想像できます。*3

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.70-P.71
*2 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
*3 川本三郎:我もまた渚を枕(筑摩書房,2009)P.64

和田町(楽天地カフエー)町の発展を促進するために建設。

今回は、和田町(神奈川県横浜市保土ヶ谷区)の町並みと風俗を散歩します。
和田町の楽天地は、昭和6年に町の発展を促進するためにできました。はじめはカフェー(現在の喫茶店)として許可を受け、その後風俗営業として、嘆願書が提出され同年夏に許可されました。
楽天地の設立により和田町の名声と繁栄は浅間町の新天地と趣をかえ、田の中の不夜城となりました。一軒あたりの接客婦は4名程度で客室は3室でした。

現在の和田町商店街付近が、楽天地があった場所です。

「楽天地」の電柱番号札。

当時の略図*1 によると、「きらく」「さわ久」「金港」「みかさ」「わか梅」「かとり」「らくゆう」「いろは」「ちどり」等が軒を連ねていました。

【参考文献】
*1 青木正晴:和田町思考(青木正晴,1971)P.42-P.46
*2 経済地図社:保土ヶ谷区明細地図(経済地図社,1960)P.78

天王町(新天地カフエー街跡)稲荷神社近く

稲荷神社*1 の脇の路地にはカフエーが密集していました。左側に「ユカイ」「さつき」「はとば」「三笠」、右側に「ちどり本店」「高砂」「ラッキー」がありました。

現在の岩本ビルの場所には、「岩ふじ」その奥に「いろは」がありました。

北西側の一画。左側に、「第二ちどり」「三好」」「紅梅」、右側に、「岩松」がありました。

「カフエーラッキー」があったあたり。

天王町(「新天地」の電柱番号札)新天地カフエー街の名残。

今回は、天王町(神奈川県横浜市保土ケ谷区)の町並みと風俗を散歩します。 かつての新天地カフエー*1 の西側。

カフエー時代の名残と思われる「新天地」と書かれた電柱番号札があります。

昭和31年の住宅地図*2 によると、この道路の左側に「カフエーささもと」「カフエー㐂久芳」、右側に、「カフエーちどり本店」「カフエーユカイ」がありました。

「チドリ荘」の電柱番号札。電柱番号札の名称に店の屋号が使われるのは珍しいケースです。

【参考文献】
経済地図社:保土ヶ谷区明細地図(経済地図社,1956)P.64

平塚(特殊カフエーの名残)看板、鬼瓦。

旅館「うろこや」があった場所には、特殊カフエーの「金鱗」がありました。*1*2

ウロコ(鱗)駐車場。

特殊カフエー「東」があったあたり。*2

「東」の鬼瓦。

【参考文献】
*1 明細地図社:平塚市明細地図(明細地図社,1967)P.38
*2 今泉義廣:平塚花まち色まち物語(湘泉堂,2007)P. 128-P.129(特殊カフェーの屋号と経営者姓名の並び順の記載)

平塚(平塚遊廓跡地)終戦後は進駐軍の特殊慰安施設が作られました。

今回は、平塚(神奈川県平塚市)の町並みと風俗を散歩します。 平塚遊廓は、現在の大鷲神社(平塚2丁目)の西側に一画にありました。*1 平塚遊廓は、昭和20年の米軍の空襲によって跡形も無くなり、終戦後、旧遊廓には、進駐軍の特殊慰安施設が作られました。昭和21年以降、旧遊廓は赤線区域となりました。*2

平塚の特殊カフェーは、大鷲神社の隣から東から西へ豊香、松葉、松栄、武蔵、喜本、千代本、相模、笹屋(以上、道路の北側)、道路の南側には、東から寿、組合事務所、都、金鱗、東、旭、福岡、村田、と建ち並んでいました。

売春防止法施行後、これらの特殊カフェーの一部は、旅館に転業したと思われ、昭和42年の住宅地図には、カフェーと同名の屋号の旅館も確認できます。写真は、旅館むさしがあったあたり。

この付近には、旅館きみの、旅館ともき、旅館ひさのやの3軒がありました。

遊廓の裏通り。

【参考文献】
*1 平塚市博物館市史編さん担当:平塚市史(平塚市,2011)附図「平塚復興都市計画図」
*2 今泉義廣:平塚花まち色まち物語(湘泉堂,2007)P. 122-P.129
*3 明細地図社:平塚市明細地図(明細地図社,1967)P.38

吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷。

吉原の江戸一通り。

旅館「白菊」の建物が残っています。

窓に残る「白菊」の文字。

「吉原今昔図」*1*2 によると、「白菊」は、昭和33年の公娼廃止時は、貸座敷(赤線)でした。

【参考文献】
*1 荒井一鬼:吉原今昔図 吉原現勢譜(葭之葉会,1993)
【参考記事】
*2 風俗散歩(吉原):吉原神社(2005.9)

吉原(おはぐろどぶ跡)段差が残っています。

とおはぐろどぶ跡(水道尻側)。

おはぐろどぶと旧遊廓域への道が交差する箇所。おはぐろどぶの方が低いので段差になっています。

北西方向へ進むと、おはぐろどぶと旧遊廓域との段差は顕著になります。

駐車場となっている場所。50cmほどの高低差があります。(写真奥はソープランド街)

丸の内(名古屋城展示室)三遊廓。享元絵巻。

尾張徳川家の居城だった名古屋城。天守閣5階の展示室に、徳川宗春が築いた町並みのの様子を描いた資料が展示されています。

享元絵巻。

当時の芝居や遊里の様子が描かれています。

宗春が作った三遊廓。左が葛町遊廓。右上が西小路遊。廓。右下が富士見原遊廓。

府中(貸座敷跡地)府中宿の飯盛旅籠跡地。

府中宿の飯盛旅籠のはじまりは、安永6年(1777年)にできた2軒の飯盛旅籠で、安政6年(1859年)には、東屋、杉島屋、富岡屋、津田屋、金本屋、増田屋、田中屋、冨久本屋の8軒となりました。明治5年の娼妓解放令により、飯盛旅籠は貸座敷に変わり、府中の貸座敷は、飯盛旅籠の面影を残したまま、街道の随所に散在して昭和初期に至りました。*1
甲州街道沿いに、昭和初期まで残っていた貸座敷「新松本楼」の跡地。その後は内田屋家具店となりました。(現在は駐車場になっています。)*2*3

明治末期まで残っていた貸座敷「杉島」があった場所。大正期以降は佐藤医院となりました。*2*3
現在はマンションに建て替わっています。

貸座敷「いろは」跡地。戦前まで残り、その後は東芝の寮になりました。*2*3

貸座敷「田中屋」跡地。戦後は村上医院となり、現在に至っています。*2*3
田中屋の建物は、明治5年に建てられ、昭和47年頃まで現存した堂々たる木造建築でした。*4*5

【参考文献】
*1 比留間一郎:府中市立郷土館紀要 第2号 P.20-P.29「府中宿の飯盛旅籠ノート」
*2 府中市立郷土館:府中市中心部街道ぞい家並変遷図(府中市教育委員会,1983)
*3 府中市史談会,府中市郷土の森:府中の家並地図(府中市教育委員会,1991)P.13-P.15,P.22
*4 府中市企画調整部広報課:むかしの府中(府中市,1980)P.15
*5 府中市史編さん委員会:府中市史 下巻(府中市,1974)P.935-P.936

藤岡(聚楽館通り)かつての歓楽街。乙種料理店。

群馬県は、明治10年頃には私娼群を乙種料理店(俗にだるまや)として公認し、酌婦料という税金も徴収するようになりました。その後、群馬県は、明治26年に公娼を廃止としたため、酌婦(私娼)のみが売春の専門職と認められることになりました。*1
藤岡には、鷹匠町の「聚楽館通り」に歓楽街があって、「小松屋」「朝日屋」などの乙種料理店が10軒ぐらいが並んでいました。*2
地元の方の話によると歓楽街の場所は、現在の黒沢精肉店の前の細い道で、当時はものすごく賑わっていて、置屋や遊廓のようなものもあったそうです。

昭和3年の市街図*3 によると、この道の両側には乙種料理店の「大松楼」「福本楼」「勇楽亭」「㐂楽」「小松屋」「壽」がありました。

通りの中ほどにある料理屋のような建物。「竜」の文字だけが残っています。


古い住宅地図*4 によると、「福竜」という屋号だったようです。

「菊水旅館」*4 と思われる建物の窓には、薄っすらと「旅館」の文字が見えます。

【参考文献】
*1 根岸省三:高崎の女性史(根岸省三,1977)P.143-P.144
*2 藤岡市史編さん委員会:藤岡市史 民俗編 下巻(藤岡市,1995)P.58-P.59
*3 東京交通社:大日本職業別明細図 群馬懸(東京交通社,1937)
*4 日興出版社:藤岡市・併.新町(日興出版社,1971)P.10-P.11

武蔵小山(風俗店)ハートマークがデザインあれています。

武蔵小山飲食街「りゅえる」の飲食街を進むと、ピンクサロンと思われる風俗店の建物があります。

入口の電飾。

水色の風俗看板。

「サロン」のロの字の部分はハートマークがデザインされています。

相模原(駅前の歓楽街)JR相模原駅前。キングコース。

今回は、相模原(神奈川県相模原市)の町並みと風俗を散歩します。
JR相模原駅前には、小規模な歓楽街があります。

風俗店の看板。

レトロな看板もあります。

キングコース、¥10,000.-です。

四ツ谷(「せきとめ神」の祠)鮫が橋地名発祥の地。

JR四ツ谷駅から大通りを迎賓館を左手に見ながら南へ。まもなく赤坂御所の鮫が橋御門があり、その反対側が南元町公園です。公園に沿って右折すると、「せきとめ神」の祠があります。*1

鮫が橋地名発祥の地の碑

玉垣には、料理屋と思われる寄付の痕跡が確認できます。

江戸時代(宝暦以降、寛政改革で取り払いになるまで)鮫が橋は夜鷹の巣窟でした。江戸における出張売春婦としての夜鷹は、本所吉田町から出る女と、この鮫が橋の本拠を置く者に大別され、吉田町の私娼は手拭をかぶり、鮫が橋の女は手拭を用いませんでした。*1

【参考文献】
*1 花咲一男:江戸あらかると(三樹書房,1986)P.99-P.108

四ツ谷(元吉原以前の傾城屋跡地)「異本洞房語園」の記述。

今回は、四ツ谷(東京都千代田区、新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
吉原遊廓の成立を書いた最古の資料「異本洞房語園」には、「慶長の頃迄、御城下定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所、三四ケ所あり、麹町八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に同断、大橋の内柳町に廿余軒...」と書かれています。麹町八丁目とは、現在の麹町四丁目付近です。*1

現在、この付近には、千代田区 町名由来板ガイドがあります。

遊廓は、元和3年に日本橋(元吉原へ)移転しました。*1

名由来板ガイドが設置されているのは、麹町4丁目と五丁目の境界付近です。

【参考文献】
*1 石崎芳男:よしわら「吉原」(早稲田出版,2003)

神田(湯女風呂跡地)井原西鶴が描いた勝山がいた場所。

江戸には、湯女を置いている風呂屋が200軒余あったといわれ、優れた湯女も出ました。代表的なのは、井原西鶴が「好色一代男」の中で描いた勝山でした。勝山がいた湯女風呂は、神田佐柄木町(現在の神田淡路町交差点の近く)にあった旗本堀丹後守の屋敷前にあり、男たちがここに集まり派手な風俗を競いあったので、その風俗を歌舞伎にうつして丹前風と呼ばれました。*1

佐柄木町周辺にあった湯女風呂は俗に「丹前風呂」と呼ばれました。*1
淡路町の町名由来看板に江戸時代の古地図が掲載されています。佐江木町は、淡路町交差点の南側にあったことが解ります。

淡路町の町名由来看板に、丹前風呂のことは書かれていませんでしたが、淡路町からは少し離れた美土代町(みとしろちょう)」の町名由来板に、丹前風呂のことが書かれています。

この付近に丹前風呂がありました。

【参考文献】
*1 神保五弥:浮世風呂(毎日新聞社,1977)P.20-P.25

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)絶好の見晴らし場所。

稲佐遊廓の中でも当時からその後も一番大きくて有名な所が、遊廓の中心の十字路の西北角に存在した吉田屋でした。*1

吉田屋支店があった場所には、旧アパート(稲佐荘)の建物があります。*2

タイルで装飾された玄関。

吉田屋は、別に吉田屋本店、吉田屋支店を持ち、その三楼(写真の道路の左側に建ち並んでいました。)からの眺望は、この界隈で一番高所であるため、長崎の街が北から南まで見える絶好の見晴らし場所でした。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 善隣出版社:長崎市(北部)・浦上・城山・西北・滑石・稲佐・立神・木鉢・神島・福田・式見(善隣出版社,1970)P.124

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)ロシア海軍マタロス休息所から発展。

今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所(マタロス休息所)があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3

東側のメインの通りの南隣の路地。

古いアパートの建物。

外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」

新富町(新島原遊廓跡地)外国人のための遊廓。

今回は、新富町(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新富町の地名の由来は、明治維新後、この地に出来た新島原遊廓が3年後に廃止となった後、西側にあった大富町に対して名付けられました。*1

新島原遊廓は、明治維新後、築地の外国人居留地の中に作られた「外国人のための遊廓」で、3年ほどの短い命でした。「新島原」の名は、京都の島原遊廓に由来しています。*2

新富町にある東京都中央都税事務所は、芝居小屋の新富座があった場所です。新島原遊廓が引き払って、町名が新富町と改められた後も「新島原」の名は後年まで俗称として使われました。新富座の芝居は、島原の芝居と呼ばれ、島原へ行くと言えば新富座へ行くことでした。*3

新富座の全盛時には、五丁目に市川左団次、七丁目に尾上菊五郎、坂東彦三郎、中村芝翫(しかん)が住んでいました。*4

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(東京堂出版,2006)P.204-P.205
*2 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.189
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*4 北村一夫:江戸東京地名辞典(講談社,2008)P.288-P.289

板橋(板橋遊廓跡地)中島楼、川越楼、武蔵楼。

板橋遊廓は、商店街の中に散在していました。現在、その面影を見ることはありません。
現在の板橋三丁目のりそな銀行の東隣あたりには、中島楼がありました。*1

当時のままの建物が残されている岡部医院(板橋三丁目)の対面あたりには、川越楼がありました。*1

王子新道に近いあたりには、武蔵楼がありました。*2

現在の靴屋の「きんぱや」の付近には、宿場一と言われた旅館「伊勢孫」がありました。*3

【参考文献】
*1 上村敏彦:花街・色街・艶な街(街と暮らし社,2008)P.40-P.43
*2 日本文芸社:荷風!Vol25(2010.7) P.48-P.53
*3 日本文芸社:荷風!Vol19(2009.3) P.84-P.86

安浦(旧カフェー街)路地裏に青いタイル。

旧カフェー街の路地裏に青いタイルが残っています。*1

建物の側面のかなり広い面積が全体が鮮やかなタイルで覆われています。

庇部分の下側は色の異なるタイルが使用されています。

こちらの部分は、薄い黄色のタイルです。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2007)P.73

安浦(あずま通り)入口のアーチは無くなっています。

旧カフェー街のメインの通りだったあずま通りの入口。ここには、数年前まで飲み屋街の入口を示すアーチがありました。*1

現在アーチは、撤去されていますが、電柱のすぐ後ろにアーチのものと思われる支柱の跡が残っています。

現在は、住宅街となっていますが、1軒だけ歓楽街の痕跡と思われるスナックがあります。看板には、「AMERICAMS WELCOME」と書かれています。

カフェー街の東端。もう一つのアーチがあったと思われる場所から。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2007)P.73

安浦(安浦神社)玉垣にカフェーの屋号。

今回は、安浦(神奈川県横須賀市安浦町)の町並みと風俗を散歩します。

安浦神社を取り囲む玉垣。この玉垣に、かつての安浦のカフェーの屋号が刻まれています。

「甲子」、「日吉家」、「花の家」、「八千草」は、いずれも「特殊風俗業態(安浦カフェー街)分布図」*1 で確認できる屋号です。

「水明」はカフェー街の中ほどの海寄りの場所に、「蝶々」は北西端にありました。*1

【参考文献】
*1 横須賀警察署史発行委員会:横須賀警察署史(横須賀警察署,1977)P.121-P.150
「特殊風俗業態(安浦カフェー街)分布図」(P.123)をみると、北西側から南東側に向かって、蝶々、朝日、信濃家、久喜、みさき、みそら、田丸家、立花家、初音、浦島、岡本、浜の家、紅葉、みどり、吉野家、水明、甲子、羽衣、小島家、竹吉、千久代、川栄、松竹、花の家、菊の家、岡島家、春の家、八千草、笹本、富久実、清月、新駒、日吉家、双葉、武本、利久、三松、一松、みその、川柳、高砂、三浦家、花月、などの屋号が確認できます。

高山(花岡遊廓跡)旅館や割烹料亭が点在。

今回は、高山(岐阜県高山市)の町並みと風俗を散歩します。
高山の遊廓(大名田町(おおなだちょう)花岡遊廓)は、現在のJR高山線と国分寺の間にありました。
昭和11年発行の市街図*1 でみると、「花岡廓」と記された一画があります。
花岡遊廓の許可地は、3,500坪あって、妓楼は12軒、娼妓は52名いました。*2

遊廓の跡地には、旅館や割烹料亭などが点在しています。

板壁が美しい割烹料亭。

遊廓の北側飲食店街。

【参考文献】
*1 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.121
*2 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.86 「全国遊廓案内」

鳩の街(茶色の円柱の建物)旧赤線街の中心部。

旧赤線街の中心部。

太い円柱を持つ建物があります。

鮮やかな茶色のタイルの壁面。

以前、この場所にあったドアに装飾があった廃屋は、無くなっていました。

鳩の街~京島(旧桜井旅館)近日中に解体予定。

今回は、鳩の街(東京都墨田区)の町並みと風俗を散歩します。

旧「桜井旅館」の建物。「赤線跡を歩く」 にも登場する鳩の街を代表する建物です。*1*2
表通りに面した側は美しい黒板壁で覆われています。

玄関横に「解体工事のお知らせ」と書かれたプレートが取り付けられています。近日中に取り壊されることが決まっている模様です。

「桜井旅館」と小さく書かれた楕円形の表札。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.36-P.39
【参考記事】
*2 風俗散歩(鳩の街):鳩の街の赤線建築(2007.9)

横浜(反町遊廓跡地)現在は反町公園です。

今回は、横浜(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
JR京浜東北線の東神奈川駅から徒歩で10分のところに、反町公園があります。

反町公園があった場所(旧反町駅から現在の第二京浜国道に至る一画)には、戦前まで反町遊廓がありました。*1

反町遊廓は、明治33年に七軒町の遊廓を移転してつくられました。*2*5
昭和7年発行の「大日本職業別明細図 神奈川県」*3 には、現在の反町公園の西側一帯に「反町遊廓」の記述があり、16軒の遊廓が名入りで配置されています。この遊廓は、大正、昭和が全盛でしたが、昭和16年の開戦で、工業地帯の職工や勤労動員者の宿舎に変わり、昭和20年の横浜大空襲で全焼してしまいました。終戦と同時に進駐軍のモータープールになり、さらに、昭和23年、貿易博覧会の会場となった後、分譲されて反町公園や区役所と国鉄他の所有者と変わりました。*4

現在は、遊廓だった頃の面影は残っていません。

【参考文献】
*1 岩田忠利:わが町の昔と今.3(「とうよこ沿線」編集室,2001)P.56
*2 横浜市:横浜市史稿.風俗編(臨川書店,1985)P.482
*3 東京交通社:大日本職業別明細図 神奈川県(東京交通社,1932)
*4 サトウマコト:第二京浜国道と鶴見めがね橋物語(230クラブ,2002)P.93
【参考URL】
*5 長崎大学附属図書館:幕末・明治期日本古写真超高精細画像「神奈川七軒町の神風楼(2)

吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石。

かつての吉原遊廓は「おはぐろどぶ」という掘で囲まれていましたが、現在も周辺の道路にその名残をみることができます。

おはぐろどぶがあった場所は、遊廓があった場所よりも低い位置にあったため、その高低差を埋めるための階段があちこちにあります。

階段の脇の石垣の下の石が、かつてのおはぐろどぶの名残です。*1

よく見ると、下の石は黒ずんでいます。

【参考文献】
*1 町田忍:東京ディープ散歩(アスペクト,2008)P.33

吉原(トルコ風呂跡地)昭和33年、吉原第一号。

吉原の京町一丁目。

 明治時代の錦絵には、吉原のシンボルのように大きな時計台のある欧風の「角海老楼」の建物が描かれていますが、戦後の店も凝った高塀を巡らせた立派な建物でした。角海老は、老舗の風格のあった大籬(おおまがき)=大見世で、明治時代から昭和33年の売春防止法施行までの間、京町一丁目の同じ場所(現在の台東区千束4-29)にありました。売春防止法施行後は、サッポロビールの倉庫となり、現在はマンションに建て替わっています。*1*2

 昭和27年、「ロビン」は「一晩1万円」で名を売ったデラックス・キャバレーの「ロビン」がオープンしました。「ロビン」は、「角海老」、「大華」などの大見世とは異なる意匠のキンキラキンの戦後派の大店でした。1階がダンスフロアで、千属バンドの演奏にのって100人以上の客とダンサーが踊れる広さで、2階がいわゆる”遊興の部屋”になっていました。*1

 昭和33年、吉原にトルコ風呂第一号の「東山」がそして第二号の「山陽」がオープンしました。トルコ風呂の元祖とされる銀座の「東京温泉」は、健全なお風呂でしたが、「東山」や「山陽」では、「オスペ」と呼ばれる特殊マッサージが定着しました。「東山」があった場所は、現在もソープランドが営業中です。*3

【参考文献】
*1 吉村平吉:吉原酔狂ぐらし(筑摩書房,2003)P.17-P.18,P.99-P.100
*2 荒井一鬼:吉原今昔図(葭之葉会,2003)
*3 広岡敬一:戦後性風俗大系(朝日出版社,2000)P.83-P.84,P.146,P.158,P.210

南千住(三ノ輪新開地)武家屋敷跡につくられた私娼街。

ジョイフル三ノ輪(三ノ輪町商店街)の中ほどに、区立瑞光公園があります。

商店街と直行する広い道路のような形状の公園です。公園の片隅に案内板があります。(写真右)

江戸時代、この付近には、伊勢の亀山藩石川家の屋敷がありました。明治政府は、屋敷が取り払われた跡地を鴨取場としましたが、追剥ぎなどの犯罪が頻発する物騒な土地でした。そこで、政府は、大正6年、鴨取場を埋めて、「花柳界指定地」にして銘酒屋の営業を許可しました。銘酒屋とは酒類を売っているように見せかけ、密かに売春をしている店のことで、この銘酒屋街は「新開地」と呼ばれ、約500軒の銘酒屋が建っていました。ところが、この銘酒屋街は、開業数ヶ月後、建物だけを残して1軒残らずどこかへ行ってしまいました。土地の人はこれを「幻の銘酒屋街」と呼びました。*1*2

かつての「新開地通り」は、現在のジョイフル三ノ輪商店街です。*2

【参考文献】
*1 三木克彦:北奇譚幻の銘酒屋街(三木克彦,2004)P.1-P.5
*2 東京都荒川区土木課:荒川区土木誌(荒川区,1955)P.50,「荒川区主要道路一覧図」

歌舞伎町(繁華街の無用看板)ファッションヘルス跡。

新宿駅南口近くの通り。ポルノ映画館や飲食店が建ち並ぶ繁華街です。

ファッションヘルス「クリスタル」の看板があります。

付近を捜してもヘルスらしい店はありません。

閉店後、看板だけが残ったものと思われます。

新宿(トルコ芳泉)日本最初のトルコ風呂。

昭和初期、新宿5丁目交差点の南東側に、「トルコ芳泉」がありました。*1

「トルコ芳泉」は、公衆浴場とサウナ風呂として昭和25年にオープンした日本最初のトルコ風呂でした。サウナ風呂には、一人の個室と三人一部屋の個室があって、それぞれ一人づつサウナ嬢が白いパンツにブラジャー姿で首だけ出るサウナボックスに入れ、汗が出ると冷たいタオルで拭いてくれました。時間がくるとボックスから出てベッドに横たわりマッサージをしてくれる健康的なもので、大体1時間ぐらいでした。初めての人は友人と連れ立って三人部屋を希望しますが、何故か二回目には一人個室を求め常連となる人が多かったそうです。その後トルコ風呂は大流行し、競争が激しくなり、スペシャルサービスを行うようになって、健全なサウナは風俗営業になってしまいました。*2

現在は商業施設のビルに建て替わっています。

当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 住宅協会:新宿区東部(住宅協会,1960)P.35
*2 武英雄:内藤新宿昭和史(武英雄,1998)P.108

京橋(京橋柳町遊里跡地)吉原の元祖。関が原の合戦後。

都営地下鉄浅草線宝町駅の出口前は、昭和通りと鍛冶橋通りが交差する宝町三丁目交差点です。

江戸時代初期、この交差点の角の秋田銀行が入っているビルと昭和通りを挟んだ向かい側のビルの京橋二丁目東南部の地域に、京橋柳町遊里がありました。12

関が原の合戦(1600年)後、徳川家康が江戸開発に着手してすぐの頃に、麹町八丁目、鎌倉河岸、京橋に遊里ができ、その後、京橋の遊里は、人形町に移転し「よし原町」と呼ばれました。つまり、京橋の遊里と人形町の「よし原町」は、同時に存在しなかったことになりますが、一部は京橋に残って酒肴を出しながら売春をかねる家や、柳の下にたたずんで男に声をかける比丘尼もいました。炭町には、なかなか人形町の吉原へ行きたがらないメンバーが寛永3年(1626年)まで残っていました。*3

京橋川(現在の首都高速環状線)の西寄り(現在の首都高速西銀座JCT付近)には、「比丘尼橋」という名前の橋がかかっていて、この一帯は歓楽街でした。*3

【参考文献】
*1 金山正好,金山るみ:中央区史跡散歩(学生社,1993)P.110
*2 新創社:東京時代map.大江戸編(光村推古書院,2005)P.48,P.50
*3 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.27,P.30

有楽町(ガード下)パンパンガール発祥の地。

今回は、有楽町(東京都千代田区)の町並みと風俗を散歩します。
有楽町駅の日比谷口を出て、すぐ左手に折れるとガード下です。頭上をJRの電車が走り抜けます。

敗戦直後、このあたりは、パンパンガール(街娼)のかせぎ場でした。*1
東京に進駐した占領軍は、日比谷の第一生命ビルにGHQを設置し、焼け残った建物は次々と接収されました。有楽町から日劇の周辺には、進駐軍将校や靴みがき少年、浮浪児、パンパンガールなどが街にあふれていました。東京におけるパンパンガールの発祥地はこの有楽町で、「ラク町ガール」とも呼ばれました。*2

パンパンガールは、旧日劇前や数寄屋橋交差点を周辺にも分布していました。

有楽町のガード下は、現在でも、昼なお暗い場所です。

【参考文献】
*1 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.12-P.17
*2 桑原稲敏:戦後史の生き証人たち(伝統と現代社,1982)P.12

赤坂(首相官邸裏)トルコ風呂計画跡地。佐藤栄作首相が激怒。

赤坂の東側。永田町にある首相官邸は、日本の政治の中枢です。
昭和41年、この首相官邸の裏にトルコ風呂の建設が申請されました。当時、トルコ風呂の営業地域は特定されておらず、許可さえ受ければどこでも開業できた時代だったため、トルコ風呂業者が永田町の首相官邸の近くでの営業を申請したわけです。ところが、それを知った佐藤栄作首相が大激怒。関係省庁にハッパをかけ、第15回国会に「風俗営業等取締法の一部改正」を上程して通過させ、開業を阻止しました。風俗ジャーナリストの広岡敬一さんは、どこの誰による開業申請かを探るため、所轄と思われる麹町保健所で申請書を探しましたが、書類は破棄されて不明だったそうです。*1

トルコ風呂の建設が申請された「官邸裏」とはどこだったのか、手がかりが無く不明ですが、この問題を議題としてとりあげた昭和41年6月27日の参議院地方行政委員会*2 で、市川房枝議員は「総理官邸の下」と表現しています。おそらくトルコ風呂は、官邸のある高台よりも地形的に低い場所に計画されていたのでしょう。首相官邸の南東側は崖になっていて、現在、この付近には、東横イン官邸南店などの民間のビルが建ち並んでいます。

また、同委員会で、松澤兼人委員は、「参議院会館の窓からのぞくと、大きなたれビラが、屋上から下に下がっていて、『サウナ・バス、八月一日オープン』と書いてあった。」とこのときの状況を国会で説明しています。*2

さらに、松澤兼人委員は、「きのうヒルトンホテル(現在のキャピトル東急ホテル)に参りましたら、あの角のところに何とかというビルがある。そこにサウナ・バスとかいう大きなたれビラがたれまして、八月一日オープンと、こう書いてある。」と述べています。*2
「大きなたれビラ」があったと思われる場所は、首相官邸からは少し離れていますが、官邸の北西に位置し、地形的にも低い場所にあります。この付近にトルコ風呂が計画されていた可能性もあります。

【参考文献】
*1 広岡敬一:戦後性風俗大系(朝日出版社,2000)P.211-P.212
【参考URL】
*2 国会会議録検索システム:第051回国会地方行政委員会第32号(1966.6.27)

歌舞伎町(トルコ風呂改名の舞台)実在したトルコ風呂「大使館」。

靖国通りから北側に1本入ったソープランド街。数年前と比べるとヘルスに転業している店舗もあって、時代の移り変わりを感じます。

歌舞伎町は、トルコ風呂改名(1984年)にまつわる都市伝説の舞台にもなりました。1975年11月14日の毎日新聞(夕刊)のコラム記事「赤でんわ」によると、当時、歌舞伎町に「大使館」という名のトルコ風呂がオープンしましたが、それ以来、毎夜、大使公邸に「いま、すいてますか。」「Aちゃんいる?」といった調子で、怪しげな電話がかかってくるようになり、職員は夜も眠れないありさまとなりました。104番にトルコ大使館の電話番号を問い合わせたのを交換嬢が「トルコ風呂大使館」としばしば間違え、トルコ大使館の番号を教えたのが真相ですが、たまりかねたトルコ大使館は、1975年6月に外務省を通じ大使名で正式に電話番号の変更を申し入れ、トルコ風呂「大使館」は、「古城」と名を変えることになりました。*1

「わが国にはこの種のトルコ風呂はありません。まぎらわしい名前を使われては国のイメージにかかわるので」と大使館。「外務省から圧力があったから変えたわけではないですよ」とすました顔のトルコ風呂側。まずは、国際問題にもならず、メデタシというお話でした。*1

1975年版(昭和50年版)の電話帳で確認してみると、歌舞伎町に「ルームサウナ『大使館』」の電話番号が掲載されています。場所は、歌舞伎東京第18ビルで、電話番号は、209-1645となっています。それが、1976年版(昭和51年版)の電話帳では、「ルームサウナ『大使館』」の名は無く、「トルコ『古城』」の名前があり、場所は同じ歌舞伎東京第18ビルで、電話番号は、208-9774に変更になっています。*2*3*4
毎日新聞の記事の「トルコの大使館」の舞台は、この場所だったと考えられます。
1984年にトルコ人留学生の働きかけがきっかけとなって、「トルコ風呂」が「ソープランド」に改名*5 されましたが、それより10年も前に、すでに改名の働きかけあったわけです。

【参考文献】
*1 毎日新聞社:毎日新聞夕刊(1975.11.14)P.8「赤でんわ『トルコの大使館』 」
*2 日本電信電話公社:東京23区電話帳 職業別(生活篇 下)昭和49年12月1日現在(1975,東京電気通信局)P.404
*3 日本電信電話公社:東京23区電話帳 職業別(生活篇 下)昭和51年6月1日現在(1976,東京電気通信局)P.429
*4 日本住宅地図出版:ゼンリンの住宅地図 新宿区(1976,日本住宅地図出版)
【参考記事】
*5 風俗散歩(原宿):トルコ共和国大使館(2010.10)

苦竹(苦竹駅近くのスナック街)米兵向けでした。

今回は、苦竹(宮城県仙台市宮城野区)の町並みを散歩します。
R仙石線で仙台駅から4つ目の苦竹(にがたけ)駅で下車します。

「苦竹」の地名は、この地に「真竹」がたくさん生えていて、えぐ味があって湯替えをして炊かないと食べられないほどだったことかが由来だそうです。

すると、国道45号線沿いに近くに、突如、ゴーストタウンのような飲み屋街が現れます。

ここはには、かつて苦竹小路の呼ばれた2本の路地がありました。苦竹は、敗戦後、進駐軍の苦竹キャンプ(キャンプシモフネ)があった場所で、苦竹小路は、米兵たちのために基地の目の前の田んぼを埋めて建設した歓楽街でした。進駐軍向けのスーベニアショップ(外国人向けのみやげもの店)やバー、クラブなどの他に、飲み屋でありながら2階で売春もする、いわゆる曖昧屋と呼ばれる店もありました。*1*2

【参考文献】
*1 藤木TDC:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.124-P.127
*2 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.93

柴又(柴又キング跡)入口に看板がありました。

「男はつらいよ」の撮影にも使われた団子屋の「とらや」に裏手に、数年前までソープランドがありました。音楽家の戸塚省三さんの著書「東京路地裏観光」によると、ここには、「特殊浴場ソープランド『柴又キング』入口」と書かれた看板がありました。*1

ソープランドが普通の住宅の中にポツンと一軒だけ建っていて、田舎の湯治場のような雰囲気の建物でした。*1

「入口を入ると左手に洗濯機が置かれた物置みたいな部屋があって、その脇の通用口のような通路を通り抜けると、昭和三十年代の喫茶店で流行ったようなオレンジ色のアクリル扉が半開きになっていてそこが待合室だった。*1」と戸塚省三さんは当時の様子を語っています。

当時の名残と思われるプレートが残っていました。

【参考文献】
*1 戸塚省三:東京路地裏観光(二玄社,1996)P.235-P.239

音羽(岡場所跡地)江戸時代は有数の盛り場でした。

今回は、音羽(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
護国寺の門前すぐそばの音羽町の大通りは、江戸時代は1丁目から九丁目まであって、特に六丁目から九丁目にかけてが女と遊べる江戸有数の盛り場でした。道の両側には、水茶屋と料理屋が軒をつらね、ひとつ奥に入った路地や裏通りには、局見世や子供屋が並んでいました。女郎のことを「子供」と称するなど遊興は深川を模倣したものでした。*1

天保度には、八・九丁目に料理屋が3軒あって、九丁目の子供屋2軒から女を送りました。*2
3軒の料理屋(吉田屋、紅屋、住吉屋)は、現在の音羽通りと目白通りが交差するあたり(現在は音羽一丁目)にありました。*3*4

旧音羽八丁目の裏通り。

音羽町九丁目の東側の桜木町と呼ばれていた一帯にも岡場所がありました。還国寺近くから北側に見える崖下に私娼宿が並んでいました。*1

【参考文献】
*1 江戸の性を考える会:大江戸岡場所細見(三一書房,1998)P.192-P.194
*2 花咲一男:江戸岡場所遊女百姿(三樹書房,1992)P.83-P.85
*3 岸井良衞:江戸・町づくし稿. 中巻(青蛙房,2003)
*4 児玉幸多:復元・江戸情報地図 14.音羽町・小石川一円(朝日新聞社,1996)

柏木田(柏木田遊廓跡地)小説「血族」の舞台。

今回は、柏木田(神奈川県横須賀市)の町並みと風俗を散歩します。
横須賀市内でもっとも古く、しかも公然と認められた遊廓は柏木田でした。明治21年2月頃、大滝町の豊川稲荷付近に大火があって遊廓が焼失したため、明治22年6月頃、柏木田に移転しました。*1

柏木田遊廓のことは、山口瞳さんの小説「血族」に詳しく書かれています。山口瞳さんの祖母は、「藤松」という屋号の貸座敷の経営者でした。

「血族」には、「大門から数えて、ホンダオートバイ販売店、仕舞屋、江戸屋という染物店、この3軒分が藤松...」と藤松があった場所が説明されています。*1
こちらの住宅地図(の右上部分)には、オートバイ店、染物店の江戸屋が記載されています。染物屋はマンションに建て替わっていますが、オートバイ店は現在も営業中です。

ソープランドがあったあたり。

【参考文献】
*1 横須賀警察署史発行委員会:横須賀警察署史(横須賀警察署,1977)P.123
*2 山口瞳:血族(文芸春秋,1979)P.209

吉原(大文字楼跡地)吊橋があった場所。現在は吉原公園。

吉原の通りに面して、吉原公園がります。ここは、かつての吉原遊廓の大籬(おおまがき=大店のこと)の大文字楼の跡地です。*1

大文字楼は、「角海老楼」「稲森楼」と共に吉原の三大妓楼で、江戸町1丁目の表通りから裏通りまでつつ抜けでした。その裏通りには、鉄漿溝(おはぐろどぶ)がありましたが、大文字楼の楼内から太い鎖で頭上に橋がつなぎとめてありました。度重なる吉原の災害に、非常の場合内側からこの吊橋を下ろし、遊女を廓外へ逃がすようにしたものです。*1

現在の吉原公園からはソープ街が一望できます。

大文字楼の吊橋はこのあたりにありました。*2

【参考文献】
*1 波木井皓三:大正・吉原私記(青蛙房,1978)P.18-P.19
*2 稲垣史生:江戸の再発見(新潮社,1980)P.316-P.317

吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。

江戸町二丁目の大門よりの通りには、赤線から転業したアパートが並びます。*1
隣には、曲面のコーナーを持つ転業アパート、さらにその隣の駐車場には旧「金よし」の建物がありました。*2*3

アパートとして現役の旧「モリヤ」。*1

正面2階の装飾。

郵便受けがたくさん並んでいます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.14-p.16
*2 風俗散歩(吉原):伏見通り(2006.11)
*3 風俗散歩(吉原):旧「金よし」(2006.4)

横須賀(大滝町)さいか屋付近にあった遊廓。

今回は、横須賀(神奈川県横須賀市)の町並みと風俗を散歩します。
京急横須賀中央駅前の大滝町付近は、横須賀市内の一番の繁華街となっています。

徳寿院から見た市街。

大滝町には、明治時代、公認の遊廓がありました。遊廓があった場所は、現在のさいか屋デパートがあるあたりで、昔は、この付近までが海で、つまり横須賀軍港の海岸線上に遊廓がありました。

さいか屋本館付近。

【参考文献】
*1 港町から 第2号 / 「港町から」編集委員会(街から舎,2009.4)P.61

三津浜(稲荷新地遊廓跡地)現在は住宅地や工場用地となっています。

三津浜には、稲荷新地と呼ばれる遊廓がありました。場所は、旧お船場(現、住吉2丁目11)で、現在は住宅地や工場用地となっています。現在は埋め立てられていますが、当時は、この写真の道路部分(写真右側)は運河でした。*1*2
三津浜には、十軒茶屋と称する花街が住吉町にありました。伊予鉄道の三津駅が出来てから住吉町は賑わうようになり、貸座敷も開業されましたが、風紀上の理由から稲荷新地に移転し、三津の遊廓となり、大正から昭和初年が最も盛大でした。*3

こちらの寿司屋の付近までが、遊廓があった場所だったと思われます。*1

遊廓内には、稲荷神社があり、よく信仰されていました。*3
古地図*2 によると、稲荷神社があった場所は、内港へ向かうこの通りの東側(写真右側)です。

旧地名の名残と思われる「稲荷」と書かれた電柱のプレート。同じ場所に、「シンチ」と書かれた電柱もありました。

【参考文献】
*1 しあわせづくり三津浜地区推進委員会:三津浜ふるさと散歩道(しあわせづくり三津浜地区推進委員会,1999)P.6
*2 松山市立中央図書館:御津の歴史移り変わり「三津濱町図」
*3 三津浜郷土史研究会:三津浜誌稿(三津浜郷土史研究会,1960)P.37

本牧(本牧小港のチャブ屋街跡地)イトーヨーカドーがあるあたり。

かつては、本牧の代名詞ともなったチャブ屋(外国人を客とした娼館)ですが、その起源は、江戸時代末期、外国人遊歩新道沿いにできた茶屋にさかのぼると言われています。*1
「横浜チャブ屋物語」*1 には、山手警察署裏手の通りに本牧のチャブ屋街があったと書かれていますが、少し南側に寄りすぎているような気がします。

昭和8年の「本牧・小港方面街並図」*2によると、チャブ屋があったのは、旧東泉橋と旧西泉橋のY字路(写真の奥のあたり。当時の道路の形状が残されている場所)付近で、このY字路から東側に延びる通りがチャブ屋街のメインの通りでした。

イトーヨーカドーがあるこのあたりが、チャブ屋街のメインの通りがあった場所と思われます。

大通り沿いには、モリヤホテル、バイオレットホテルがありました。*2 チャブ屋が密集するメインの通りとは別に少し離れた場所にもチャブ屋は散在していたようです。

【参考文献】
*1 重富昭夫:横浜「チャブ屋」物語(センチュリー,1995)P.11-P.12,P.86
*2 中区制50周年記念事業実行委員会:横浜・中区史(中区制50周年記念事業実行委員会,1985)P.687

武蔵新田(旧カフェー街)現在は閑静な住宅地になっています。

武蔵新田の商店街にある食品スーパーのマルエツ。このマルエツの裏側にカフェー街がありました。*1
終戦直前の昭和20年7月。当時の警視庁、憲兵隊、区長、区議会が中心となって、軍需工場で働く産業戦士相手の慰安所をつくろうと、羽田の穴守で戦災にあった業者たちに呼びかけてつくらせたのがはじまりでした。*2
昭和27年刊行の風俗雑誌*3 には、「ここの特色は、1軒の大きなアパートのような店の中に27軒の店がそれぞれに商売をしている集団的売春の家である。」と、武蔵新田の特徴が述べられています。

北西の方向から見た旧武蔵新田カフェー街全景。*1

腰廻りに石材を配しています。*1
「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されていたお宅は(写真右側)は、建て換わっていました。

現在は閑静な住宅地になっています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.44-P.45
*2 小林大治郎,村瀬明:みんなは知らない(雄山閣出版,1961)P.114
*3 人情講談(睦書房,1952.8)P.164 「東京赤線地帯・現地ルポ」

新小岩(旧丸健跡)赤線時代の建物?が今も残っています。

アーケードをぬけた三叉路付近に、赤線時代の建物が今も残っています。

4軒の店が入っている長屋の建物。この建物は、「国家売春命令物語」の口絵*1 に掲載されている「丸健」の建物」と思われます。口絵の写真には、左から「YANAGIYA」、「カフエーやよい」、「喫茶すずらん」....の屋号の店が写っていて、「カフエーやよい」、「喫茶すずらん」の店の前には女性がそれぞれ二人づつ立っています。
1960年の住宅地図*2 を見ると、「YANAGIYA」は「柳すし」、「カフエーやよい」は「やよい飲屋」となっており、売防法実施後も同じ屋号を引き継いで、飲食店として営業していたようです。
「赤線跡を歩く」*3 に写っている同じ建物の写真を見ると、一番左の店は、「柳鮨」となっていますが、今は、別の店に変わっています。

「赤線跡を歩く」に掲載されていた「柳鮨」の隣の建物は、無くなっていました。

三叉路付近。

【参考文献】
*1 東京都全住宅案内図帳江戸川区西部(1960,住宅協会)P.13
*2 小林大治郎,村瀬明:国家売春命令物語(雄山閣出版,1971) 物語歴史文庫19
*3 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.28