全国 東京都 > 台東区 浅草橋 1エリザベス会館 2おかず横丁 3おかず横丁の理美容室 4すし栄 5料亭 6料亭いな垣 7柳橋 8柳橋の花街跡 9石塚稲荷神社 10篠塚稲荷神社 11美家古寿司本店 12老舗やきとり店 13船宿 14花柳街跡地 15首尾の松 16鶴の湯
asakusabasi

浅草橋(すし栄)かつては銀座で数店舗をれん分け。

浅草橋5丁目にある「すし栄」。

握り寿司とビールを注文。

かつての「すし栄」は銀座数店舗あったそうです。

ピンクの看板が目印です。地元の方の話によると、かつては「ピンク寿司」と呼ばれ親しまれていたそうです。

浅草橋(鶴の湯)料亭のような意匠。鶴が彫りこまれた懸魚。

蔵前橋通りの南側。浅草橋5丁目に、銭湯の鶴の湯があります。塀や建物の壁面は鮮やかな水色に塗られています。

鶴が彫りこまれた懸魚は見事です。

料亭の建物のような意匠。

入口。

浅草橋(おかず横丁の理美容室)バーバー、パーマの看板。

レトロな建物が残っているおかず横丁。

理容室(バーバー)。

レトロなパーマ屋さん。

交差点の角の赤い建物の美容室。

浅草橋(おかず横丁)昔ながらの商店街。重厚な看板建築。

浅草橋の北側。鳥越1丁目のおかず横丁。

看板建築の商店の建物など、昔の商店街の雰囲気が残っています。

銅板が貼れた重厚な感じの看板建築。

裏側からの眺め。

浅草橋(老舗やきとり店)篠塚稲荷神社の隣。

かつての花街があった柳橋一丁目。

篠塚稲荷神社の隣に、老舗やきとり店があります。

釜めしと焼き鳥。

焼き鳥定食と日本酒を注文。

浅草橋(花柳街跡地)墨田川沿い。現在はビル街に。

かつての柳橋の花街は、墨田川沿いにありました。
「昭和37年の柳橋マップ」*1 によると、この通りの東側(写真左側)に、「料亭深川亭」「料亭子安」「料亭卯の木」「料亭はやし」「料亭津久松」「料亭柳水」がありました。

佃煮屋の「小松屋」のマーク

反対側(南側)から。

墨田川からの遠望。現在はビルが建ち並んでいます。

参考文献

*1 西本頑司 柳橋 花柳界盛衰譚 日本文芸社 荷風!vol.12
P.34 昭和37年の柳橋マップ 墨田川沿いに、北から「料亭深川亭」「料亭子安」「料亭卯の木」「料亭は…

浅草橋(美家古寿司本店)創業は文化年間。風情のある路地。

今回は浅草橋(東京都台東区)の町並みを散歩します。
かつての花街だった柳橋の路地に老舗寿司店が営業中です。

建物は道を挟んで、本店は2棟あります。

創業は、文化5年。

風情のある路地。

参考文献

*1 美家古鮨本店 美家古鮨本店公式ホームページ リンク
文化年間(1804~1817)、初代 加藤赤助が始めた屋台が、美家古鮨本店のはじまりです。 慶應2年、二代目…

浅草橋(エリザベス会館)住宅街野中の老舗女装サロン。

浅草橋駅北側の路地。閑静な住宅街です。

老舗の女装サロン「エリザベス」。

ビルの外観。

営業中の看板。

浅草橋(石塚稲荷神社)江戸時代の創建。玉垣に料亭の名。

浅草橋のJR総武線高架の近く。

江戸時代の創建されたとされる石塚稲荷神社があります。

入口の門柱には、柳橋芸妓組合、料亭組合の名が刻まれています。

料亭の名が刻まれた玉垣。

浅草橋(柳橋の花街跡)現在はビル街。当時の料亭と思われる建物。

柳橋の花街跡。現在はビル街になっていて面影はありません。

当時の料亭と思われる建物。

当時の住宅地図には、料亭「宮城」と記されています。

旧料亭の建物は、次々とビルに建て替わっていく中、当時の建物が残っているのは、貴重と言えます。

浅草橋(首尾の松)吉原遊廓に行く通人たちが「首尾」を求め語った。

今回は、浅草橋(東京都台東区)の町並みを散歩します。
隅田川沿い(蔵前橋の西側)に松の木が生えている場所があります。

「首尾の松」の碑。

「首尾の松」の由来については、吉原遊廓に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところから、という説があります。(案内看板より)

隅田川沿いの名所江戸百景のモニュメントで紹介されている「首尾の松」。

浅草橋(篠塚稲荷神社)玉垣に料亭の名前が刻まれています。

神田川から通りを一本入ったところに、篠塚稲荷神社があります。

正面の石柱。東京柳橋組合の名前があります。

側面の玉垣。両国花火組合、料亭の「いな垣」、「田中屋」の名前が刻まれています。

両国花火は江戸の年中行事になり、主催者である柳橋の名前は全国に知れわたりました。両国花火は、柳橋の広告塔のようなものでした。*1

【参考文献】
*1 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.72-P.73

浅草橋(料亭いな垣)1999年に閉店しました。

柳橋から、北へ進み、総武線のガードをくぐると、蔵前高校へつづく一本道の途中に、料亭「いな垣」があります。
「いな垣」は、柳橋のみならず東京を代表する格式の料亭でした。*1

柳橋から、北へ進み、総武線のガードをくぐると、蔵前高校へつづく一本道の途中に、料亭「いな垣」があります。
「いな垣」は、柳橋のみならず東京を代表する格式の料亭でした。*1

昭和20年代から40年代、「いな垣」をはじめとする柳橋の奥座敷で、毎夜、要人たちが日本の将来を話し、戦後の高度経済成長の道筋が決定されました。国賓のお忍びの接待は決まって「いな垣」で、この店の前まで皇族、総理大臣、大使館などの黒塗りの車が並びました。*2

「いな垣」の門前では、人力車から降りる芸者さんの姿を見ることができました。*2

昭和40年頃から柳橋の料亭が次々に廃業しますが、その中で「いな垣」は「お出先」(芸者が入る料亭のこと)を続けました。長いこと横綱審議委員会の会場を努め、平成に入ってからも「いな垣」はテレビの画面に何度も登場しました。*2
しかし、1999年、残念ながら「いな垣」は閉店し、江戸時代から200年間続いた柳橋は事実上廃業しました。柳橋が廃業した理由は、①東京から個人事業者が少なくなったこと、②柳橋が政界との距離を置くようになったこと、などがあげられますが、最大の理由は、③隅田川の汚染、でした。*2

江戸時代、「柳橋新誌」の著者の成島柳北が説いた芸者のあるべき姿とは、「気前好く振るい舞い、自尊の気概を見せ、その場その場に相応しい身の置きかたをしながら、当意即応の応対が出来る」という侠女と才女の理想を合わせたようなもので、惚れた男に尽くし、加えて美貌であることでした。*1
昭和の後期の元「いな垣」の女将で柳橋芸妓組合の組合長を務めた西川春喜久(はるぎく)さんの証言によると、お客様同士(接待する側とされる側)の心が通じあうのを助けるのが芸者の役割で、話の相槌が打てて、必要なときに必要な受け答えができるのが名妓の資格だそうです。*1
時代とともに名妓の資格は、若干の変化があったようですが、成島柳北が示したが精神は、柳橋の場合は平成の時代まで受け継がれていたようです。
【参考文献】
*1 岩下尚史:名妓の資格(雄山閣,2007)P.244-P.245,P.258-P.268
*2 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.70-P.74

浅草橋(料亭)花街時代の料亭が今でも健在です。

現在の柳橋は、昔の花街の面影はほとんど感じられてないほど、町並みの雰囲気は変わってしまいました。数は少ないですが、現在も営業中の料亭が残っています。
亀清楼は、柳橋を渡った角の目印の場所にある由緒ある看板の店です。

黒板壁が美しい料亭「伝丸」。

昼間は、ランチが楽しめます。

とんかつ百万石。

安政6年(1856年)に刊行された成島柳北の「柳橋新誌」は、柳北がこの地に遊び、金と嘘とが支配する中にこそ思わぬ真実と純愛もあることを放蕩を通して知った体験に基づいたもので、刊行当時、大評判となり、明治以降も影響力を持ちました。*1
「柳橋新誌」には、「柳橋の妓は、芸を売る者なり。女郎にあらざるなり。而して往々色を売る者あり。何ぞや。深川の遺風あるを以って然るか。而して深川は即ち公に売り、此は即ち私に売る。」と書かれています。*2
江戸時代、深川には、色と芸をかねる「女郎芸者」がいましたが、柳橋は芸を売る芸者で、女郎ではありませんでした。しかし時々、深川の真似をして色を売る者もいました。*3
深川では芸者の売春が公然化していましたが、柳橋では売春しないという建前が一応あったわけです。*2
【参考文献】
*1 岩下尚史:芸者論(雄山閣,2006)P.96-P.100
*2 佐竹昭広:新日本古典文学大系100(岩波書店,1989)P.350-P.351,注釈8
*3 田中優子:芸者と遊び-日本的サロン文化の盛衰(学習研究社,2007)P.77

浅草橋(船宿)猪牙舟は、この船宿から出ました。

柳橋から見る船宿と神田川の眺め。

柳橋に住む芸者の実態を描いた「柳橋新誌」*1 に「皆ここを過ぎる者なく、五街(吉原のこと)の娼しに遊び、三場(歌舞伎三座のこと)の演劇を観、・・・皆水路を此に取る。故に船宿の戸、舟子(せんどう)の口(人数)、星羅雲屯(ほしのごとくつらなりくものごとくたむろし)、・・・」と書かれているように、この当時の江戸の重要な交通手段であった猪牙(ちょき)と呼ばれた小舟は、この柳橋の船宿から出ました。*2

神田川沿いに、船宿が並びます。

昭和の初期は、この道沿いに料亭があり、芸者さんが歩く風景が見られました。*3

【参考文献】
*1 佐竹昭広:新日本古典文学大系100(岩波書店,1989)P.339
*2 佐藤悟:國文学(1990.08)「柳橋 成島柳北「柳橋新誌」P.93
*3 日本文芸社:荷風(2007.6)P.32

浅草橋(柳橋)墨田川や吉原への好適な足場でした。

今回は、柳橋(東京都墨田区)の町並みと風俗を散歩します。
柳橋は、神田川の出口に位置し、両国橋という大きな橋を近くに控えた江戸時代からの水陸の交通の要衝でした。また、墨田川の船遊びや吉原や深川に遊びに行く人たちにとっては好適な足場でもありました。*1

柳橋の名は、柳原堤(やなぎはらどて)の末端に架設されたことが由来とされています。柳原堤は、江戸城の凶位(きょうい)にあたるため、陰気を防ぐために陽木とされる柳が植えられていました。*2

現在は、鉄橋の橋が架かっています。

花街らしく、橋の欄干にはかんざしがデザインされています。

【参考文献】
*1互笑会:柳橋界隈(互笑会,1953)P.96
*2 加藤藤吉:柳橋沿革史(柳橋開橋祝賀会事務所,1929)P.10