入谷~吉原(万治高尾の墓)春慶院

旧吉原遊廓の東側。台東区東浅草2丁目にある春慶院。

ここに、万治高尾の墓があります。

墓には、「万治」の文字が確認できます。

高尾太夫は、吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたともいわれますが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女でした。(案内板より)

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吉原遊廓

入谷~吉原(ホテル跡)吉原ソープランド街

吉原ソープランド街の江戸二通りと角町通りの間の通りに旅館の建物が現在も残っています。

1993年頃までは、「浅草ホテル」として営業していました。*1

2階部分

現在も残る看板。

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赤線·私娼跡 吉原

参考文献

*1 葭之葉会: 吉原今昔図 吉原現勢譜 (葭之葉会,1993)

吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差

かつての吉原遊廓であった吉原ソープ街の外周部分はおはぐろどぶと呼ばれた堀があった部分です。現在もその名残の段差が随所に残っています。※1

北西側の道路は、段差が顕著に残っている場所の一つです。

吉原交番の近く。おはぐろどぶ跡から道路に向かう場所が坂道になっています。

花園通り(南東側)の段差。ソープ街へ通じる細道です。

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遊廓·遊里 吉原

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吉原遊廓

吉原(土手の伊勢屋)明治22年、吉原大門に創業

「土手の伊勢屋」は、明治22年、吉原遊廓の出入口「吉原大門」に創業。当時、店の前に「土手」があったことから「土手の伊勢屋」と呼ばれました。創業より、吉原を訪れるお客様、吉原に努める牛太郎(客引き)などで、吉原遊廓への出前などで、お店は繁盛しました。*1

登録有形文化財にも指定された建物は、東京大空襲で焼け残った木造建築です。*1

天丼(イ)と日本酒を注文。

柱時計。

【参考文献】
*1 土手の伊勢屋:パンフレット

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食文化 吉原

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吉原遊廓 吉原

吉原(「土手」の屋号)昔の名残が看板に息づいています。

江戸時代、吉原へ通じる道は、土手になっていて、その土手は日本堤と呼ばれていました。*1
現在の「土手通り」沿いには、屋号に「土手」とつく店が多くあり、日本堤の土手はなくなっても、昔の名残が看板に息づいていると言えます。*2
天丼が有名な「土手の伊勢屋」は、行列ができる人気店です。

馬肉の店。

土手の薬屋。

「堤」と書いて「どて」と読みます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(吉原):土手通り(2011.4)
【参考文献】
*2 洋泉社:図説江戸吉原の本(洋泉社,2012)P.99

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食文化 吉原

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吉原

吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷

吉原の江戸一通り。

旅館「白菊」の建物が残っています。

窓に残る「白菊」の文字。

「吉原今昔図」*1*2 によると、「白菊」は、昭和33年の公娼廃止時は、貸座敷(赤線)でした。

【参考文献】
*1 荒井一鬼:吉原今昔図 吉原現勢譜(葭之葉会,1993)
【参考記事】
*2 風俗散歩(吉原):吉原神社(2005.9)

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赤線·私娼跡 吉原

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吉原

吉原(おはぐろどぶ跡)段差が残っています。

とおはぐろどぶ跡(水道尻側)。

おはぐろどぶと旧遊廓域への道が交差する箇所。おはぐろどぶの方が低いので段差になっています。

北西方向へ進むと、おはぐろどぶと旧遊廓域との段差は顕著になります。

駐車場となっている場所。50cmほどの高低差があります。(写真奥はソープランド街)

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遊廓·遊里 吉原

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吉原

吉原(鶴の湯)ラドン風呂

今回は、吉原(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
土手通りを紙洗橋交差点から南西方向に折れ、100mほどのところに銭湯の鶴の湯があります。

レトロな雰囲気の残る銭湯です。

入口。

ラドン風呂の装置と傘入れ。

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銭湯 吉原

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吉原

長野(吉原の三浦屋奉納の燈籠)善光寺

今回は、長野(長野県長野市)の町並みと風俗を散歩します。

善光寺本堂の左側を進んだ突当りの位置に、吉原の遊女「高尾太夫」の供養塔があります。

高尾太夫とは、江戸時代、新吉原京町一丁目※1 の遊廓「三浦屋」の名妓につけられた名で、11人ほどが名乗ったことが判明しています。*1
銘文は、「浄誉林清善女 光誉道恵覚位 願主 三浦屋四朗左衛門 武州江戸浅草」。善女(ぜんにょ)とは、遊女だけに付けられた法名で、境内で善女という銘文は、この燈籠だけです。*2

灯籠は、江戸吉原の三浦屋が奉納したものです。*2

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信仰・寄進 吉原 長野

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参考文献

*1 高尾太夫墓: *江戸史跡事典 下巻 (高尾太夫墓,2007)谷根千地区・文京区・台東区・墨田区・江東区・荒川区・葛飾区・江戸川区
P.114 (春慶院 東浅草2-14-1) 高尾太夫とは、江戸時代、新吉原京町一丁目三浦屋の名妓につけら…
*2 江戸から見た信濃: 江戸から見た信濃 (江戸から見た信濃,2005)楽しい歴史旅
P.146-P.154 銘文は、「浄誉林清善女 光誉道恵覚位 願主 三浦屋四朗左衛門 武州江戸浅草」。善女(ぜんに…

参考記事

吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石

かつての吉原遊廓は「おはぐろどぶ」という掘で囲まれていましたが、現在も周辺の道路にその名残をみることができます。

おはぐろどぶがあった場所は、遊廓があった場所よりも低い位置にあったため、その高低差を埋めるための階段があちこちにあります。

階段の脇の石垣の下の石が、かつてのおはぐろどぶの名残です。*1

よく見ると、下の石は黒ずんでいます。

【参考文献】
*1 町田忍:東京ディープ散歩(アスペクト,2008)P.33

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遊廓·遊里 吉原

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吉原遊廓 吉原

吉原(土手通り)吉原遊廓への道

江戸時代、三ノ輪から浅草まで音無川が流れていて、その土手は日本堤と呼ばれていました。現在の浄簡寺の前に三叉路がありますが、そのうちの一番南側の路地が当時の日本堤です。*1

吉原への行き方には、いくつかルートがありましたが、その中の一つが、三ノ輪から日本堤を経由して吉原に至る道で、武士が使用することが多かったルートです。*2

しばらく歩くと公園につきあたり、その向こう側が土手通りです。

現在は道幅の広い平坦な道路となっていて、土手の面影はありませんが、「土手通り」の名前にかつての「吉原土手」の面影を見ることができます。

【参考文献】
*1 吉原健一郎:復元・江戸情報地図 P.65
*2 双葉社:江戸の華吉原遊廓(双葉社,2011)P.73

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吉原(浄閑寺の永井荷風の詩碑)明治の文化また灰となりぬ

今回は、三ノ輪~吉原(台東区)の町並みと風俗を散歩します。
三ノ輪の浄閑寺は、かつての吉原遊廓の近くにあって、遊女の遺体の「投げ込み寺」としても知られる寺です。

ここに永井荷風の詩碑があります。

これは「震災」と題した詩ですが、ここで震災というのは、大正12年9月1日の関東大震災のことです。死者9万9千500人、行方不明4万4千300人、母屋全壊12万8千戸、半壊12万6千500戸。そして消失がなんと44万7千100戸。地震の規模はマグニチュード7.9でした。*1

荷風の詩「震災」に、
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
とあるように、関東大震災で立ち上った火はみごとに江戸の都を焼き尽くしてしまいました。吉原は、すでに明治44年の「吉原大火で」江戸伝来の吉原の文化的残照は消滅していましたが、それでもなお、震災までの大正期は、まだわずかに江戸・明治の名残が漂っていましたが、それさえも無残に震災は奪い去りました。*1

その後、吉原は昭和20年の東京大空襲を経て、新しい「廓」として生まれ変わりました。
------永井荷風「震災」------
今の世の若きひとびと
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を
われは明治の児ならずや
その文化 歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
団菊はしおれて櫻癡は散りにき
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の声も亦耐えたりき
圓朝も去れり 紫朝も去れり
わが感激の泉 とくに枯れたり
われは明治の児なりけり
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ
江戸文化の名残烟となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
今の世のわかき人々
われにな語りそ今の世と
また来む次代の芸術を
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何をか見得べき
われは明治の児ならずや
去りし明治の世の児ならずや
【参考文献】
*1 渡辺英綱:新編・新宿ゴールデン街(ふゅーじょんぷろだくと,2003)P.227-P.232

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山谷~吉原(中江)桜肉料理

吉原土手の通りに面して、桜鍋料理の専門店「中江」があります。

馬肉のスキヤキのことを馬鍋とかサクラ鍋といいます。馬鍋は、明治の文明開化の申し子ともいえる牛鍋に対応したものです。馬肉のことを隠語で「サクラ」ということからサクラ鍋と呼ばれるようになりました。*1

当時、遊廓があり、粋な歓楽街として栄えていた吉原には桜鍋を売る店が二十軒以上も軒を連ね、吉原名物、数少ない東京の郷土料理として、吉原遊廓行き帰りの粋客から朝・夜問わず食されました。「中江」は、その中の一店舗として明治38年に暖簾を掲げました。*2

桜鍋のロース(1700円)とザク(ネギ、しらたき、腑の盛り合わせ、560円)を注文。

【参考文献】
*1 桜肉料理「中江」パンフレット
【参考URL】
*2 桜なべ「中江」:公式ホームページ「中江百年物語」

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山谷~吉原(吉原公園)大文字楼があった場所です。

吉原の通りに面して、吉原公園がります。ここは、かつての吉原遊廓の大籬(おおまがき=大店のこと)の大文字楼の跡地です。*1

大文字楼は、「角海老楼」「稲森楼」と共に吉原の三大妓楼で、江戸町1丁目の表通りから裏通りまでつつ抜けでした。その裏通りには、鉄漿溝(おはぐろどぶ)がありましたが、大文字楼の楼内から太い鎖で頭上に橋がつなぎとめてありました。度重なる吉原の災害に、非常の場合内側からこの吊橋を下ろし、遊女を廓外へ逃がすようにしたものです。*1

現在の吉原公園からはソープ街が一望できます。

大文字楼の吊橋はこのあたりにありました。*2

【参考文献】
*1 波木井皓三:大正・吉原私記(青蛙房,1978)P.18-P.19
*2 稲垣史生:江戸の再発見(新潮社,1980)P.316-P.317

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山谷~吉原(赤線跡)郵便受けがたくさん並んでいます。

江戸町二丁目の大門よりの通りには、赤線から転業したアパートが並びます。*1
隣には、曲面のコーナーを持つ転業アパート、さらにその隣の駐車場には旧「金よし」の建物がありました。*2*3

アパートとして現役の旧「モリヤ」。*1

正面2階の装飾。

郵便受けがたくさん並んでいます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.14-p.16
*2 風俗散歩(吉原):伏見通り(2006.11)
*3 風俗散歩(吉原):旧「金よし」(2006.4)

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