三本木(とうてつ駅そば)地元に愛されるお蕎麦屋さん

かつての十和田観光電鉄、十和田駅の「駅そば」は、廃線後、十和田市中央バス停前に移転しましたが、そのとき駅そば「とうてつ駅そば」が現在も営業中です。*1

懐かしさ、温かさを感じる地元に愛されるお蕎麦屋さんです。*2

1日5食限定のチキンかつカレーは、売り切れていました。

お勧めの「スぺシャルそば」(天ぷら、山菜、玉子)を注文。

■カテゴリ 三本木 食文化 駅そば

■参考文献
*1十和田市観光協会: 十和田市観光情報 アーツトワダ ウェブ (十和田市観光協会,)とうてつ駅そば ···外部リンク···

十和田にはかつて十和田観光電鉄という鉄道路線があり、十和田駅という駅も存在しました。

三本木(キャバレー花園)飲み屋街のビックスリー

東三番街のスナック街にあるキャバレー花園。

戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業したのが当たって、昭和38年、東三番街に進出。「サロン花園」と「割烹大坂屋」を新築開店しました。*1

菊地正一氏の「クラブこけし」「割烹こけし」、そしてマダム(田鶴子女史)の「湖畔グループ」と併せ、飲み屋街のビックスリーと呼ばれました。*1

花園の看板。外国人芸能人は公演活動しか行わないので、お客様の応対はできません。

■カテゴリ 三本木 社交場

■参考文献
*1江渡武多朗: *十和田市流通業界今昔物語 (皆さんの新聞社,1976)附・十和田市流通業界のぞきみて歩きの記

 戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業したのが当た …

三本木(東三番街)昭和40年代に発達した呑み屋街

大正初期以降、戦時中を除き昭和三十年代中期まで、花柳街の老舗が繁栄しましたが、昭和40年代になると、キャバレー、スナック、バー等の登場となり、呑み屋街が発達しました。*1
その中で、東三番街は、現在も残る呑み屋街です。写真右側の焼肉の「食堂園」は、1977年の住宅地図*2 にも掲載されている店です。

カラフルなスナックの店舗が建ち並びます。

看板が密集。

反対側の入口。一方通行の出口です。

■カテゴリ 三本木 飲食街·横丁

■参考文献
*1江渡武多朗: *十和田市流通業界今昔物語 (皆さんの新聞社,1976)附・十和田市流通業界のぞきみて歩きの記

 戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業したのが当た …

*2日興出版: 十和田市住宅地図 (日興出版,1977)

P.27 産馬通り。東三番街。

■参考記事

三本木(産馬通り)料亭「一心亭」跡地

三本木町(現在の十和田市)は馬産の町として知られ、に、明治17年(1884)に陸軍省軍馬育成所が設置され、馬せり(馬市)のときは、まるでお祭りのように人が集まり、周辺の旅館・商店は産馬で潤いました。馬主は、料亭に上がり込み、百円の札ビラを切るので料亭の主人は釣り銭に困るほどでした。*1
産場通りは、町の中心街で、代表的なものに、一心亭(産馬通り)、忍亭(五丁目東裏)がありました。*2

当時、本通り現東映付近に料亭「一心亭」がありました。*3
現在、その面影はありません。
「一心亭」は、魚屋の「一心太助」からとって「一心亭」と名付けられました。*4

「産馬通りでサンバを!」というアイディアで、毎年、「十和田サンバカーニバル」が開催されています。

産馬通りから北へ入った通りは、かつての料亭街でした。

■カテゴリ 三本木 産馬通り 花街·花街跡

■参考文献
*1むつ小川原産業活性化センター: むつ小川原ガイド (むつ小川原産業活性化センター,)馬と歩む奥州路 ···外部リンク···

馬市と産馬通り  馬産の町として知られていた十和田市(当時は三本木町)に、陸軍省軍馬育成所が設置されたのは明治 …

*2江渡武多朗: *十和田市流通業界今昔物語 (皆さんの新聞社,1976)附・十和田市流通業界のぞきみて歩きの記

料亭方面を探訪すると、代表的なものに、一心亭(産馬通り)、忍亭(五丁目東裏)があった。

*3日刊東北社: 写真集「なつかしの三本木」 のしおり (日刊東北社,1977)

P.10 ◎料亭一心亭 今は裏手にあるが当時本通り現東映付近にあった一心亭。 ◎島田楼 元新地通り現西十一番町 …

*4新渡戸憲之: 十和田(旧三本木)開拓の秘話 (太素顕彰会,1986)

P.32 「一心亭」は、新潟の方の人で、舟で料理か何かの商売をしていたと言いますが、三本木に来て、その内に商売 …

■この記事を参照している記事

三本木(三本木町遊廓跡地)新地通り

今回は、三本木(青森県十和田市)の町並みを散歩します。
「全国遊廓案内」*1 によると、三本木町遊廓は、三本木町新地(しんち)に、貸座敷が3軒ありました。昭和29年の地形図*2 を見ると、西一番町の理念寺(写真右側)の西側に「新地」の記載があり、昭和9年の警察関連の資料*3 には、三本木町の貸座敷として、金助屋、島田楼、近盛楼の3軒が記載されています。

この付近には、「新地通」と書かれた電柱番号札が広範囲に分布しています。

当時、「新地通り」という通り名が、現在の西十一番町に存在し、そこには島田楼がありました。*4

西十一番町付近。

■カテゴリ 三本木 三本木遊廓 遊廓·遊里跡

■参考文献
*1日本遊覧社: *全国遊廓案内 (日本遊覧社,1930)

P.51  三本木町遊廓は、青森県三本木町新地にあつて、東北線古間木駅で十和田鉄道に乗換へ三本木駅で下車する。

*2地理調査所: 三本木 応急修正版 (五万分一地形圖 ; 八戸 13號) (地理調査所,1954)

理念寺の西側、北園小学校の東側に、「新地」の記載。

*3中村元吉: *警察史余話第一集売春三百年史 (中村元吉,1959)

屋号  氏名   娼妓数 三本木 金助屋 大坂ミヨ 二 島田楼 昆ソメ  二 近盛楼 武部サシ 三 計 三   …

*4日刊東北社: 写真集「なつかしの三本木」 のしおり (日刊東北社,1977)

P.10 ◎料亭一心亭 今は裏手にあるが当時本通り現東映付近にあった一心亭。 ◎島田楼 元新地通り現西十一番町 …

青森(旭町の旅館跡)旭町遊廓跡地

かつて旭町遊廓があった青森市旭町1丁目。
戦後は、遊廓はカフェーや料理屋となり「赤線」地帯として残存しましたが、昭和33年に売春防止法が施行。遊廓は旅館や居酒屋となりました。今は当時の面影もほとんどありません。*1*2「旭旅館」の屋号が残る建物。

現在は、企業の事務所として使われているようです。

元旅館「豊川」。*3

腰廻りには、鮮やかな青色の石材。

■カテゴリ 旭町遊廓 遊廓·遊里跡 青森

■参考文献
*1中園裕: 青森・東津軽今昔写真帖 : 保存版 (郷土出版社,2010)

P.32 明治43年の大火で柳原(現・港町)にあった遊廓は全焼、その後、旭町に復活する。

*2青森市常盤町町会: 常盤町発展史 (青森市常盤町町会,1986)町会創立六十周年記念

P.15-P.17 旭町一帯の発展のきっかけとなったのは、明治43年の青森大火である。当時堤川端柳原にあった遊 …

*3東交出版社: 最新青森市住宅明細図 (東交出版社,1966)

P.59 宝来町。旅館が密集している一画。

青森(煮干しラーメンの店)旭町通り

青森市街を南下する旭町通り。青い森鉄道のガードをくぐって約200m。道路沿いにラーメン店があります。

とにかく大きな文字です。木村屋ラーメン。

外は氷点下ですが、店内はしっかり暖房がきいていてポカポカです。

煮干しのだしがきいたラーメンは350円。大盛りを頼んでも450円です。

青森(中央古川通り沿いの横丁)1階に風俗店

今回は、青森(青森県青森市)の町並みを散歩します。
駅前の商業施設「フェスティバルシティアウガ」の東側の商店街「中央古川通り」沿い。1階に風俗店が入る横丁があります。

建物の右側の路地を進むと、スナックが2軒あります。

左側の通り。

奥まったところにあるスナック。

大鰐(若松会館)公衆浴場

大鰐温泉の入口にあたる相生橋。


橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所は、現在は、大鰐若松会館に建て替わっています。


1階は、公衆浴場「若松会館」になっています。


大人入浴200円です。

■カテゴリ 大鰐 銭湯

大鰐(大鰐見番事務所跡地)昭和40年設立

売春防止法が施行され、置屋は全面廃止となり、芸妓たちは行き場を失いました。そこで、旅館組合の提案で、昭和35年、芸妓、お酌、民謡など約60名の会員で、大鰐温泉風俗営業連合会が設立されました。この会は、昭和40年、発展的に解消され、大鰐温泉見番組合が設立されました。*1


この付近に大鰐見番事務所がありました。


現在は駐車場になっています。


北側を流れる平川。

 

【参考文献】
*1 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(大鰐町,1997)P.770
*2 ゼンリン:南津軽郡大鰐町(ゼンリン,1984)P.7

大鰐(大正5年の「大鰐温泉図」)加賀助旅館の跡地

 今回は、大鰐(おおわに、青森県南津軽郡)の町並みと風俗を散歩します。 大鰐温泉には、明治時代から続く古い旅館(加賀助、後藤、福津(大鰐ホテル)、山二(仙遊館))がりましたが、大正のはじめ頃、「温泉の発展には、料理屋がつきものだ」という持論を持つ外川平八が開拓を進め、大正のはじめ頃に紅灯街「外川町」が形成されました。*1

 

 加賀助旅館の跡地には、大正10年に加賀助旅館に投宿した大町桂月の碑が建てられています。

 

 大正5年の「大鰐温泉図」。翌年の大正6年の大火で相生橋から津軽味噌会社(マルシチ津軽味噌正油)までが全焼しましたが、すぐに復興し、6年後の大正12年には、料理屋は4倍の16軒に大増加しました。*2

 

 特に、福津旅館の後の三階建ての大鰐ホテルや、後藤旅館やいくつかの料亭は、弘前の料亭や旅館を購入し解体して移転し、新式に立派に復興したことが大評判となりました。*2

 「外川町」は、大鰐名物、鴈鍋(がんなべ、売春婦の異名)を抱えるあいまい料理屋の集娼地となりました。*3

 藩政から明治時代にかけて、鰺ヶ沢*4 や深浦の遊女たちは、港に船のいなくなる秋になると4人5人と連れ立って旅立ち、大鰐で稼ぎました。「大鰐のガンナベ」は、渡り鳥のような女たちをもじったものです。ある旅人が「大鰐に行ったらガンナベを食べて来い」といわれ、大鰐駅で「ガンナベはどこで売っているか」と駅員に聞いたという笑い話もあります。*2
【参考文献】
*1 陸奥新報社:わがふるさと第一編(陸奥新報社,1960)P.106-P.107
*2 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(1997,大鰐町)表紙前の見返し図,P.758
*3 陸奥新報社:陸奥新報(1984.5.4)P.6「津軽紅灯譚252 大鰐の料理屋(上)」
【参考記事】
*4 風俗散歩(鰺ヶ沢):新地町(2017.1)