扇田(洋館の妓楼)第二新開地

現在の上扇田にできた2つ目の遊里「第二新開地」。第二新開地には、末廣家、いろはや、カフェー喜楽、山田屋、白川屋、大正亭、一二三亭、吉乃屋、清水亭、昭和館、アカツキ(喜楽跡)、カフェー暁、モダンカフェー朝日亭(山田屋跡)などがありました。*1

料理屋だったと思われる建物。

洋館の妓楼「昭和館」。*2

第二新開地の入口付近にあった料理屋。

扇田 赤線·私娼跡
■参考文献
*1千葉雄: *扇田酒屋物語 (比内町教育委員会,1986)P.17-P.18

P.17-P.18 明治から、大正、昭和(33年頃)の間、扇田にあった料理屋、カフェー、茶屋は次の通りである。

*2小松和彦: 秋田県の遊廓跡を歩く (カストリ出版,2016)P.120-P.155

P.120-P.155 洋館の妓楼「昭和館」など、扇田の遊里についての取材レポート。

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扇田(この付近だけ道路の幅が広くなっています。)第一新開地

扇田には、二つの遊里が存在しました。明治32年以降、裏通り、新丁他に散在していた料理屋を分教上、風紀上の理由から県の指示で移転させた「第一新開地」と昭和4年に第二料理屋指定地問題が起こり、町議会で審議、道路整備のうえ、誕生した二つ目の遊里「第二新開地」です。*1

第一新開地があった曙町。*2
現在も当時のものと思われる建物が残っています。

第一新開地には、竹廻家、琴富貴亭、瓢家、藤家、永平亭(朝鮮料理屋)、ひさご屋(のちの八郷倶楽部)などがありました。*3

他にも、凝った意匠の建物が残っています。

扇田 赤線·私娼跡
■参考文献
*1千葉雄: *扇田酒屋物語 (比内町教育委員会,1986)P.17-P.18

P.17-P.18 元禄宝永の頃といえば今から300年近い以前のころとなる。両鉱山(尾去沢鉱山、大葛金山)が栄 …

*2東京交通社: 大日本職業別明細図.第230号.秋田県 (東京交通社,1926)

第一新開地、第二新開地の記載。

*3千葉雄: *扇田酒屋物語 (比内町教育委員会,1986)P.17-P.18

P.17-P.18 明治から、大正、昭和(33年頃)の間、扇田にあった料理屋、カフェー、茶屋は次の通りである。

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扇田(料亭「菅岩」が寄進)新丁の稲荷神社

扇田新丁の通り沿い。

小さな、稲荷神社があります。

鳥居に、寄進者の名前が刻まれています。

「菅岩」は、かつての扇田で最も古く長い歴史を保持した料理屋です。明治44年「菅岩俱楽部」として創業。のち、昭和5年に創業20年を記念して扇田倶楽部と改称しました。*1

扇田 花街·花街跡
■参考文献
*1千葉雄: *扇田酒屋物語 (比内町教育委員会,1986)P.17-P.18

ここで、扇田の料理屋として、かつて最も古く長い歴史を保持した菅岩(菅岩倶楽部)について触れてみたいと思う。

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扇田(カフェーだった昭和軒)扇田料理屋街

元禄・宝永(1700年)の頃の扇田は、尾去沢鉱山及び大葛金山等が全盛を極め、料理屋、茶屋などの飲食店が軒を並べました。*1

新丁バス亭近くに、「カフェー昭和軒」*2 と思われる建物が残っています。

建物の前面は、ラーメン店(現在も営業中)ですが、その後ろ側に、「昭和軒」の看板が残る建物が現存しています。

地元の方の話によると、昭和軒の経営者は数年前に他界されたとのこと。営業中のラーメン店と「昭和軒」は、関連がないそうです。

扇田 赤線·私娼跡
■参考文献
*1千葉雄: *扇田酒屋物語 (比内町教育委員会,1986)P.17-P.18

P.17-P.18 元禄宝永の頃といえば今から300年近い以前のころとなる。両鉱山(尾去沢鉱山、大葛金山)が栄 …

*2千葉雄: *扇田酒屋物語 (比内町教育委員会,1986)P.17-P.18

P.17-P.18 明治から、大正、昭和(33年頃)の間、扇田にあった料理屋、カフェー、茶屋は次の通りである。

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扇田(300年以上の歴史を持つ朝市)扇田市日

今回は、扇田(おうぎた、秋田県大館市)の町並みを散歩します。
扇田市日は、300年以上の歴史を持つ市日です。*1
扇田市日場は、JR花輪線の扇田駅から中心街へ向かって約300mのところにあります。

多くの出店スペースがあり、広々としています。

旬の野菜・果物、魚介類といった食料品、衣類や金物などが販売されています

地方都市の市場で見られるような観光客の姿はありません。

商店街·市場 扇田
■参考文献

300年以上の歴史を持つとされ、長年にわたって地域の台所を支えてきた市日で、約45年前からJR花輪線の扇田駅近 …

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大館(ハチ公通り商店街)レトロな商業ビル

今回は、大館(秋田県大館市)の町並みを散歩します。
大館の中心街は、十和田八幡平四季彩ライン「東大館」駅(JR奥羽本線大館駅から一駅)の東側にあります。
中心街のハチ公通り商店街は、昭和を感じさせるレトロな商業ビルが多く残っています。

奇抜なデザインの3階建ての商店ビル。

奥行のある共同ビル。

大館のシンボルであった百貨店「正札竹村」。2001年に倒産しました。*1

商店街·市場 大館
■参考文献
*1アートNPOゼロダテ: 正札NO!解体 (アートNPOゼロダテ,) ···外部リンク···

2001年、大館のシンボルであった百貨店「正札竹村」が倒産しました。

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小坂(康楽館)昭和62年修復

小坂町は明治時代すでに水力発電、鉄道、電話、上下水道が揃っていて、当時の最先端をいく町でした。その技術と誇りをかけて建てられたのが康楽館です。*1
戦後のテレビの普及に伴い、昭和45年頃に、康楽館での一般興行は中止されます。老朽化が進み、取り壊しが懸念された康楽館の保存と活用を強く訴えたのが、芸能史研究で著名な俳優・小沢昭一氏でした。昭和62年の修復後は、歌舞伎や大衆演劇が上演されています。*2

二階は吹き抜けとなっていて、舞台を客席がコの字に囲んでいます。*2

楽屋には、役者たちの無数の落書きが残されています。*2

由美かおるさんの落書き。修復以降の2008年6月のもので、水戸黄門のキャラクター”疾風のお娟”のイラスト付きです。*2

【参考文献】
*1 沢美也子:にほん全国芝居小屋巡り(阪急コミュニケーションズ,2005)P.54
*2 康楽館:公式ガイドブック(秋田文化出版,2010)P.7,P.10,P.14-P.15,P.22-P.23

小坂 芸能・音楽
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小坂(花園館)映画館

小坂町の中島橋近くにある花園館。
「小坂町史」*1 によると、大正4年頃には開業していました。

現在は休業中のようです。

建物の側面。

モダンな造りです。

【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560

娯楽文化 小坂
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小坂(永楽町)裏通り

永楽町の東端。裏通りの入口です。

ゆるやかな曲線を描いて通りが続きます。

昭和元年の市街図*1 を見ると、裏通りに面して、料理屋の「二夕五家」「穂月」があります。

飲食店の建物の裏側。

【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)第230號 秋田懸

小坂 花街·花街跡
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小坂(永楽町)鉱山町の花街

小坂の永楽町は、明治16年頃から商家が建ち始め、明治40年代には、料理屋・劇場などがあって、鉱山に稼働する人たちの歓楽街として賑わいを見せ、明治42年刊の「小坂鉱山案内記」*1 によると、11軒の料理屋が「小坂料理屋組合」を作って営業していました。*2
写真手前は、廃線となった小坂鉄道の線路(線路の向こう側が永楽町)です。*3

大正6年刊の「秋田県鹿角郡小坂鉱山明細地図」*4 には、料理屋の「吉本倶楽部」「大亀館」「喜楽」の位置が示されており、「喜楽」は、酌婦の数30名を超え、春夏秋冬を問わず三味線の音が響きました。*2
昭和元年の市街図*5 には、料理屋の「吉本倶楽部」「恵比寿屋」「小原軒」「喜楽」「二夕五家」「穂月」「新藤家」とともに、芸妓家の「吉本」「泉家」の記載があり、永楽町は花街だったようです。

西側から見た永楽町。

永楽町の西側。「吉本倶楽部」は、この脇道の付近*5 にありました。

【参考文献】
*1 岩間淳:小坂鉱山案内記(彩雲堂出版部,1909)P.48-P.50
*2 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
*3 岩崎清三:大館・鹿角・北秋田の今昔(郷土出版社,2011)P.83
*4 田中吉助:秋田県鹿角郡小坂鉱山明細地図(文洋堂,1917)
*5 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)第230號 秋田懸

小坂 永楽町花街 花街·花街跡
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小坂(銀山町)小坂鉱山

今回は、小坂(秋田県鹿角郡小坂町)の町並みと風俗を散歩します。
小坂町は、JR奥羽線の大舘駅の東方(バスで約1時間)にあって、小坂鉱山で栄えた町です。
小坂町の商業集落のはじまりは、明治4,5年頃の銀山町(小坂町の北側)で、次いで尾樽部(小坂町の南側)でした。*1

現在の尾樽部の通り。

銀山町には、現在も精錬所が稼働しています。

字名の「銀山町」は、小坂鉱山が銀山として栄えたことを示しています。*2

【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
*2 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.37

小坂 生業·産業の町
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能代(新柳町遊廓跡地)男鹿街道脇

明治45年7月2日、柳町の稲荷小路から出火した大火により、柳町の遊廓は男鹿街道脇に移転することとなりました。*1
大正15年の市街図*2 に、「男鹿街道」の記載があり、その東隣に「新遊廓」の記載があります。
新柳町遊廓の通りの北側には、東側から、一力楼、桜庭徳次郎(商店)、常盤楼、が並び、南側には、竹の家、清好楼、大丸家、第二常盤楼、割烹あたか、若藤家、第四常盤楼と続いていました。*3

遊廓があった頃から続く、桜庭看板店。

通りの奥にある旅館。

ときわ食堂。

【参考文献】
*1 能代市史編纂委員会:能代市史稿.第7輯(能代市,1964)P.142-P.144
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)秋田懸
*3 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992) 能代港町明細案内図

新柳町遊廓 能代 遊廓·遊里跡
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能代(出戸町本町)かつての歓楽街

能代の西通町。*1
旧町名で出戸町本町というこの通りの両側には、料亭、食堂、カフェー、劇場などが建ち並ぶ歓楽街でした。*2

「能代港町明細案内図」*2 に記載されている割烹「宮茂登」が唯一、現存しています。

出戸町本町の南側の通り。

道の両側にスナックが建ち並んでいます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*2 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992) 能代港町明細案内図

生業·産業の町 能代
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能代(柳町)かつての花街

今回は、能代(秋田県能代市)の町並みと風俗を散歩します。
能代の遊女は、はじめのころは港に近い清助町や新町にありましたが、元禄のころに柳町に移りました。*1
八幡神社の参道をはさんで二軒の料亭が対峙しています。左には「全国花街めぐり」に代表的料亭として紹介されている「金勇」があります。*2

「金勇」の向かい側の料亭「魚松」。

柳町は、明治以降二回の大変革がありました。一回目は、明治45年7月の柳町大火とそれに続く遊廓の新柳町への移転(その後柳町は花街に変貌)。二回目は、平成元年の都市計画事業に伴うイオン(ジャスコ)の進出による町の変貌です。現在のイオン能代店の北側には、かつては、粋な看板が特徴の料亭の「二葉」、湯の色が赤いのが特徴の「アミダ湯」などがありました。*3

かつての善六小路。善六とは、旧羽後銀行(現在の北都銀行)能代支店の西向かいにあった遊女屋の屋号でした。*3

【参考文献】
*1 北羽新報社:能代港物語(北羽新報社,1974)P.67
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*3 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992)P.91-P.96

柳町花街 能代 花街·花街跡
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横手(馬口労町のスナック街)スナックや居酒屋が密集

馬口労町の南西側に、スナックや居酒屋が密集する居酒屋あがあります。

横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*1 によると、この場所に料亭と思われる「花月」がありました。

通りはカーブを描きながら続きます。

脇道のスナック。

【参考文献】
*1 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖

スナック街·店舗 横手 馬口労町
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横手(横手遊廓跡地)馬口労町

横手にいつごろ遊廓ができたのかは不明ですが、明治6年、娼妓の稼業が許可になり、翌7年に娼妓規則が出されました。また、明治40年の「横手案内」に、7軒の貸座敷が載っています。その後、昭和3年に県議会が公娼廃止を決議、貸座敷は廃止、料理屋となりましたが、その料理は娼妓を酌婦としておき、酌婦は酒の酌をするだけで、芸者のような歌ったり踊ったりはできませんでした。これらの料理屋は馬口労町(現在の中央町4~7)にありました。*1

横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*2 によると、「千歳」「水月」「大黒屋」などの料理屋らしき店の屋号が確認できます。

夜の様子。

馬口労町の看板。

【参考文献】
*1 伊沢慶治:横手の歴史(東洋書院,1979)P.190-P.191
*2 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖

横手 横手遊廓 遊廓·遊里跡 馬口労町
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横手(きみまち橋)橋を割ると馬口労町

現在は、暗渠となっている二ノ堰川の上流に、「きみまち橋」の遺構が保存されています。場所は、現在の「横手市ふれあいセンターかまくら館」の建物の脇です。

この橋は、昭和30年に旧農業用水路「二ノ堰」に架けられたコンクリート製の橋でした。(案内板より)

当時は、この橋を割ると両側に遊廓・飲食店が建ち並ぶ横手市唯一の歓楽街(馬口労町)だったため、別名親不孝橋とも言われていました。コンクリート製の橋はまだ珍しく、馬口労町にモダンな橋が架かったという話題性、また、市民公募により命名された粋な橋名から、当時を知る人には忘れられないドラマを持ったロマンチックな橋でした。(案内板より)

「きみまち橋」を渡ると馬口労町(写真左奥)です。

横手 横手遊廓 遊廓·遊里跡
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横手(二ノ堰川に架かる橋)木製の欄干

今回は、横手(秋田県横手市)の町並みと風俗を散歩します。
馬口労町の近く。現在は暗渠となっている二ノ堰川に橋が残されています。「赤線跡を歩く 完結編」*1 に紹介されている「きみまち橋」から約200mほど下流の橋です。

橋の欄干部分は、木製です。

反対側(下流)は、二ノ堰川の痕跡が残されています。

写真奥に見える茶色の建物は、「横手市ふれあいセンターかまくら館」です。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.71

商店街·市場 横手
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角館(藤田ツル寄進の玉垣)神明社

西勝楽町の南側にある神明社は、角館の総鎭守です。

石垣柵全部寄進と彫られた玉垣。

旧遊廓の西勝楽町の中で最も繁盛したのは竹屋で、常光院入口の北隣に建ち、この町で初めての木造三階という高楼でした。竹屋の楼主の藤田ツルは、太っ腹で温情の人でしたが、営業に逆らう行為に対しては厳竣でした。*1

晩年のツルは、因果な商売の罪滅ぼしと考えたのか、神社仏閣その他に多くの寄付を続けています。*1

【参考文献】
*1 小林定静:角館風土記(秋田文化出版社,1986)P.104-P.114

信仰・寄進 角館
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角館(角館遊廓跡)西勝楽町

角館の遊廓があった西勝楽町(通称西街)で、その区域は、北は報身寺(写真右手前のあたり)の前、南は、本明寺の前のあたりでした。*1

割烹「登喜和」。

創業の大正時代は遊廓でした。(案内板より)

現在は料亭として営業中です。

【参考文献】
*1 小林定静:角館風土記(秋田文化出版社,1986)P.101-P.102

角館 角館遊廓 遊廓·遊里跡
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角館(ママ・ジューサー)商店街の電気屋

商店街に面した電器屋さん。

ショーウィンドウに、ペコちゃん人形。その隣に「ママ・ジューサー」の箱が置かれています。

アサヒ玩具の創業は、戦後の昭和23年。昭和44年に業界初の電源を使用し、実際に料理が出来るという「ママレンジ(3900円)」を発売。玩具の歴史に新しいページを加えました。次いで、昭和49年に、押すだけで水の出る「ママポット」、昭和50年に、コックをひねると本当に水が出る「ママナガシ」、続いて、「ママクッキー」「ママウォッシャー」を発売、ママシリーズを確固たるものとし、業界では”リビングトーイ”という新語が生まれました。*1

「ママ・ジューサー」も、そのシリーズの1点です。
本物のジューサーやミキサーのように、野菜や果物を圧搾・粉砕してジュースを作るのではなく、水を混ぜるだけの遊びです。(箱の説明書きより)

【参考文献】
*1 柳谷省吾:実業の世界(1979.4)P.118-P.120 モスクワ五輪のマスコット玩具で国内独占販売の”金メダル”を獲得

娯楽文化 角館
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角館(旅館「やまや」)山谷初男の生家

今回は、角館(秋田県仙北市)の町並みと風俗を散歩します。
角館駅前にある旅館「やまや」は、俳優の山谷初男の生家です。*1

山谷初男さんは、ポルノ界の珍優から「国盗り物語」の赤兵衛役でスターになった俳優です。*2

1階には食堂があって、店内には、山谷初男さんの写真が飾られています。

稲庭うどんと日本酒「出羽鶴」を注文。

【参考文献】
*1 「旅館やまや」カタログ
*2 松島利行:サンデー毎日(1973.2.25)ポルノ界の珍優が「国盗り物語」でスターになった!

角館 食文化
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阿仁(桃洞の滝)森吉山

森吉山野生鳥獣センターから、ブナの原生林をしばらく歩き、桃洞渓谷へ入りします。美しいナメ滝が連続します。

桃洞渓谷のシンボル「桃洞の滝」。別名を「女滝」といいます。その別名が示す通り、女性器の形に似た神秘的な美しい滝です。

一見すれば男子の本懐。*1

5月の桃洞の滝。*2
この時期は水量が多く”桃”はボウボウの状態で輪郭がはっきりしません。”桃”鑑賞は水量が少ない時期がお勧めです。

【参考文献】
*1 吉川栄一:岳人(1997.08)P.56-P.59 私を夢心地にしてくれる沢旅三選 白神山地・赤石川/南焼石連峰・小出川/森吉山・桃洞沢.
*2 森吉山野生鳥獣センター:森吉の自然 紹介ビデオ「ブナの森の楽しい仲間たち」より

性神 阿仁
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阿仁(阿仁前田駅)森吉山

秋田内陸線阿仁合駅から北へ3つ目の駅、阿仁前田駅で下車します。

駅前の商店街にある森吉山自然公園のゲート。

森吉山は阿仁マタギが活躍した山で、現在も日本有数の秘境に数えられます。その森吉山の北面にひっそりと隠れている「桃洞の滝」を目指します。

阿仁前田駅から車で約50分で、森吉山野生鳥獣センターへ到着。目指す「桃洞の滝」は、ここから徒歩で約1時間です。

生業·産業の町 阿仁
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阿仁(料理店跡)上新町

阿仁鉱山の盛んな時は、銀山上新町に料理店兼遊廓のような店が5軒位あり繁昌しました。昭和33年の売春防止法が実施されるまで、上新町には3軒の店が残っていました。*1
地元の方の話によると、写真左奥の食堂のところを入った通りが料理店のあった通りだったそうです。

大正15年の市街図*2 を見ると、この通りには、「芳野家」「柳家」「若松家」の3軒の屋号が確認できます。

地元の方の話によると、現在の寿司店の向かい側に、かつての料理屋だった建物が現存しているとのことです。

料理屋だった建物。

【参考文献】
*1 佐藤清一郎:秋田県遊里史(無明舎出版,1983)P.228
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)秋田県

花街·花街跡 阿仁 阿仁料理屋街
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阿仁(郷土文化保存伝承館)からめ節

今回は、阿仁(あに、秋田県北秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
秋田内陸線阿仁合駅近くには、かつて、阿仁鉱山がありました。藩政時代に大規模に開発され、明治維新後は、従業員3000人の多きに達しましたが、その後は鉱量枯渇となり、昭和54年に閉山しました。

銀山下新町の郷土文化保存伝承館があります。

伝承館前に建てられている阿仁鉱山の碑。

伝承館には、鉱山関係資料や当時の風俗が展示されており、当時の民俗芸能の「阿仁からめ節(あにからめぶし) 」の展示もあります。
「阿仁からめ節」の歌詞のなかには江戸吉原の花魁であった高尾小紫(たかおこむらさき)の名がみえて、阿仁鉱山全盛時代ころの若い娘達が手拭いの頬被りと赤い紐のついた前掛け姿で働く様子が再現されています。*2

【参考文献】
*1 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.39-P.42
【参考URL】
*2 国際教養大学地域環境研究センター:秋田民俗芸能アーカイブス「阿仁からめ節

生業·産業の町 阿仁
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秋田(AKB23)アイドル酒場

川反通りの中心部。夜になると賑わう場所です。

交差点の角にある居酒屋の「AKB23」。アイドルグループの「AKB48」を真似たと思われるネーミングですが、看板に小さく書かれている通り、店名のAKB は Akita(秋田)、Kawabata(川反)、Bijin(美人)の頭文字らしいです。

「AKB48」のような制服で接客してくれるようです。

こんな感じです。

秋田 飲食街·横丁
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秋田(川反の無料案内所)大町五丁目に集中

川反には、たくさんの風俗無料案内所があります。

無料案内所は、大町五丁目に集中しています。

三丁目橋を渡ってすぐのところにあるすずらん通り。
かつては、この場所に秋田市料亭会館の建物があり*1、花街の中心地とも言える場所でしたが、現在は、無料案内所に建て替わっています。料亭での宴席が中心だった時代から、バーやキャバレーなどの飲食店中心の時代へ変わってきたこを物語っています。

横町通りにある無料案内所。写真の右側がソープランド街の入口です。

【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:秋田市(日本住宅地図出版,1980)P.48

売店 秋田
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秋田(川反五丁目小路)昔の面影は無くなりつつあります。

川反(大町)四丁目から五丁目にかけてが川反飲食店の最も賑わう中心地でした。五丁目には、大町側に入る迷路のような行き止まりの路地がいくつもあって、そこにも小さな酒場がすき間なく並んでいました。*1

「川反五丁目小路」は、その名の通り、川反(大町)五丁目にある小路で、「かっぱ小路」の隣にあります。路地の片側一部はビルに建て替わっていて、昔の面影は無くなりつつあります。

「いつもあなたを待ってます。」と書かれた看板。

夜の川反五丁目小路。

【参考文献】
*1 無明舎出版:40年前の秋田市(無明舎出版,2003)P.75

川反五丁目の小路 秋田 飲食街·横丁
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秋田(かっぱ小路)夜の雰囲気も格別です。

昭和30年代の川反は、バーやキャバレーが次々に創業し、夜の雑踏の流れは、すれ違うのにも苦労するほどで、美経小路、かっぱ小路、祇園小路等の穴場を徘徊する若い紳士やギター片手の流し芸人で活気に溢れていました。*1
かっぱ小路の入口は、川反通り沿いにあって、小路の両側の建物は健在で、昔の雰囲気が残っています。

看板が密集する小路。

奥の行き止まりのところに、「かっぱ小路」の看板。

雪国の横丁は、夜の雰囲気も格別です。

【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.10-P.11

かっぱ小路 秋田 飲食街·横丁
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秋田(料亭「濱乃家」)川反通り

現在、秋田市料亭組合に加盟している料亭は、志田屋、濱乃家、あきたくらぶ、川寿、銀なべ、いくよ、東光くらぶ、松下、かめ清、の9店があります。*1
そのうちの1軒「濱乃家」が川反通りにあります。

料亭「濱乃家」。

門柱に「濱乃家」の屋号。

川反の殷賑を支えるエネルギーを感じる空間です。

【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.9

川反花街 秋田 花街·花街跡
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秋田(川反通り入口の行燈)川反芸者と秋田美人

今回は、秋田(秋田県秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
秋田市川反(かわばた)は、古い歴史を持つ市民遊興の地として、全国的に名声が轟いています。*1
川端(川反)は、秋田市内の旭川の岸に芸者屋・料亭等軒を並べた一廓にあって、元は米町にあった遊廓と一緒だったのが、明治20年頃の大火の際、遊廓は市街外れの南鉄砲町に遷され、芸者屋は分離して旭川橋畔川端に移ったものです。*2

二丁目橋交差点を渡った川反通りの入口にあたる歩道脇に、「川反さいぐきたなあ」(=川反へようこそ)」と書かれた大きな行灯(あんどん)が設置されています。

川反芸者は、純粋な秋田っ子でなければならず、それ故、子供の頃から養子入籍をさせて舞妓に、舞妓から芸妓に仕立て上げ、移入はほとんど無かったことから、舞妓が多いのが特色で、特有の「川端情緒」なるものが醸し出される原因の一つはここにありました。*2

「全国花街めぐり」の著者の松川次郎さんは、秋田美人と川反芸者について、「新潟から秋田、津軽に一大美人系があり、色白く皮膚は滑らかで頭髪が美しく、性格はしとやかで東京風のおきゃんな面白い芸者は稀であるが、情合は甚だ濃厚。」*2 と述べています。

【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.8
*2 松川二郎 著:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.708-P.717

川反花街 秋田 花街·花街跡
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土崎(佐原商店の自販機)珍しいハンバーガーの自販機

土崎港にある佐原商店。数種類の自販機が並んでいます。

珍しいハンバーガーの自販機。「チーズ」と「テリヤキ」の2種類があって、いずれも200円です。

電子レンジで温められたホカホカのハンバーガーが食べれます。

ハンバーグを頂いた後は、うどんに挑戦です。
男鹿水産の自販機*1 では残念ながら食べれなかった「天ぷらうどん」を食すことができました。価格は200円です。
雪の降る中、暖かい食べ物をとると元気が出ます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(男鹿):男鹿水産前のうどんの自販機(2012.2)

土崎 自販機
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土崎(塩乃湯)看板建築の銭湯

土崎港近くの県道56号線沿い。

銭湯の「塩乃湯」があります。現在は休業しているようですが、貴重な西洋風の近代建築です。

奥行のある建物です。

銭湯でありながら、見事な看板建築の建物です。

土崎 銭湯
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土崎(土崎遊廓跡地)新柳町

土崎港、新柳町に遊廓が置かれることが許可されたのは、文政4年(1821年)で、文政7年頃には揚屋が12軒もありました。新柳町の最も繁栄したのは明治の中期で、同25年以降になると、港に和船が入らなくなって景気に急速に後退しました。*1

新柳町があったのは、現在の土崎港南二丁目あたりでした。*2

土崎の花街は、いまのスーパーのジャスコのある所にあって、検番、置屋もあって賑やかでした。*3

現在、花街があったあたりは、住宅街となっていて当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 佐藤清一郎:秋田県遊里史(無明舎出版,1983)P.219-P.222
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.69
*3 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.19

土崎 土崎遊廓 遊廓·遊里跡
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土崎(旧稲荷町に残る建物)かつての歓楽街

今回は、土崎(秋田県秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
土崎は、古くから秋田第一の貿易港で、雄物川の河口あたりは、物資の集散地として繁栄しました。藩政期には、稲荷町の裏通りは、多くの揚屋まがいの宿があって、多くの”浜女(私娼)”を抱えて、金遣いの派手な船乗りを相手に束の間の春を売る歓楽街となっていました。*1

文政4年(1821年)、正式な遊廓は新開地の新柳町と定められましたが、その後も稲荷町は公然たる私娼の町として栄え、昭和初期には、8軒の料理屋に40人ほどの酌婦がいました。*2

道路沿いに、妓楼風の建物があります。*2

風情のある2階部部分。

【参考文献】
*1 佐藤清一郎:秋田県遊里史(無明舎出版,1983)P.219-P.222
*2 新人物往来社:歴史の中の遊女・被差別民(新人物往来社,2006)P.286 木村聡「秋田紀行 遊廓後跡を訪ねて」

土崎 遊廓·遊里跡
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男鹿(あけぼの町の飲食店街)山羊買い

船川港のあけぼの町(通称奥町)には、飲食店が道の両側に軒を連ねて立ち並び、その一角に十指に余る二階建て作りの料理屋(割烹といった)がありました。そこで働く女中の中に「女郎」と言われる女が居て、当時入港の多かった貨物船の乗組員や近郊近在の若者達の遊び場所として繁昌を極めました。*1

若者が奥町へ行って遊ぶことを山羊買いと言いました。1
一説には、昔は山羊という動物は珍しく、それが何処かで山羊が飼われていたので、若者達がそれを見に行くと称して、実際は船川のあけぼの町へ遊びに行ったことから「山羊買い」と呼ばれたという説があります。
1*2

根っからの山羊買い好きの人は、二~三日は「いつづけ」たそうです。*1

旧町名の名残でしょうか。「あけぼの」という店名の店がありました。

【参考文献】
*1 佐藤尚太郎:漁村風土誌(秋田文化出版社,1984)P.86-P.88
【参考記事】
*2 風俗散歩(男鹿):船川

男鹿(男鹿水産前のうどんの自販機)七味唐辛子

船川港近くにある男鹿水産の建物の前には、たくさんの自販機が並んでいます。

その中でも、ひときわ目立つ存在が、うどん・そばの自販機です。

自販機の前には、七味唐辛子の瓶が紐でぶら下げられています。

雪のせいでしょうか。残念ながら販売中止でした。

男鹿 自販機
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男鹿(船川)大事件を起こした山羊

今回は、男鹿(秋田県男鹿市)の町並みと風俗を散歩します。

船川は、北西の風をさえびる良港で、十八世紀中期から船宿がありました。*1

船川が大発展するのは、明治以降で、国家事業として船川築港は明治44年に始まり、昭和6年に完了しました。*1

「男」マークのある漁船。

男鹿の船川が港町として発展し始めた頃、その町の物好きな人が山羊を買いました。当時、男鹿では山羊は野生としては見ることができなかったので、ものすごい評判となり、この珍しい山羊を見物するために男鹿の村々から多くの人たちが集まってきました。ところが、この山羊は意外な大事件を起こしました。それはある村の若者たちが、この山羊を見に行くと称して、ちょこちょこ船川に出ていくのでした。その若者たちの親たちが顔を合わせると、「おいのいの(オレの家)わげ者、時々ふなが(船川)さ山羊見にゆぐでば、ふとげれ(一回)みればいいもの、なんして(どうして)なんぼげれ(何回も)行ぐもんだべか」と不思議がりました。すると、異口同音に他の親たちも「んだ、んだでば(そうだ)、なんだがおがしでば」とがてんがゆかなくなり、ある親の一人がその若者の一人を尾行してみたところ、山羊を見に行くというのはまったくの嘘で、実はその山羊と時を同じにしてできた港町の女郎買いが目的だったことが解りました。それからというもの、男鹿地方で女郎のことをヤギ(山羊)と呼ぶようになりました。*2
【参考文献】
*1 加藤貞仁:(無明舎出版,2002)P.182-P.183
*2 吉田三郎:男鹿風土誌(秋田文化出版社,1979)P.145-P.146

男鹿 街道·街路の町
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